以下は、思想塾・日曜会HP上で告知された「竹田青嗣VS小浜逸郎 公開対談」(11月12日実施)https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai の企画書です。もちろん対談のお二方にお送りしたものです。(編集者 記)
***
小浜逸郎様、竹田青嗣様
昨年末のことでした。新宿のとあるジャズ喫茶で、ビンラディン似の年配のマスターと思想的な事柄をめぐって四方山話をしていた私は、やおら思い立ち、小浜さんに電話をかけました。「竹田さんと、昨今の世界情勢をめぐって公開対談をする気はありませんか」と。
私の、いささか唐突な感じを拭えない申し出を、小浜さんは「それは面白い。私は乗り気です。竹田さんに声をかけてみます。ぜひ実現しましょう」と快く受けとめてくれました。すべてはそこから始まったのです。
「言い出しっぺ」を企画者と称することが許されるならば、私は、当対談の企画者ということになりましょう。
私は、これからお二人に、そういう申し出をしたときに閃いたものをなるべく筋道立てて述べようと思います。それがおのずから当対談の企画書になっていれば、幸いに存じます。
まず、昨今の世界情勢について。私たちは真っ先に、イギリス連邦の昨年六月のいわゆるブレクジットと11月のアメリカ合衆国大統領選挙でのトランプ勝利を挙げなければならないでしょう。このふたつの「事件」は、サッチャーリズムとレーガノミクスに象徴される、一九八〇年代以来のグローバリズムの進展に対して、イギリスとアメリカの一般国民が拒否の意思表示をしたものとして受けとめることができましょう。
*これから当企画書で「グローバリズム」という言葉を多用することになるでしょうが、私はそれを「ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に移動することを、歴史的必然あるいは基本的善とする思想傾向」という意味で使います。
むろんアンチ・グローバリズムが一方的に勢いを増しているわけではありません。今年の5月にエマニュエル・マクロン氏が仏国大統領になったことや、続いて6月に英国メイ首相が打って出た解散・総選挙で与党の保守党が敗北を喫したことや、さらには、米国大統領に就任したトランプ氏がたびたび政治的難局に立たされていることに見られるように、グローバリズム勢力は猛烈な勢いで巻き返しを図っています。
しかしながら今後、欧米先進諸国のひとびとが、グローバリズムを基本的善とする旧政治体制に後戻りすることを甘受する事態はありえないと私は考えています。
何故か。それを述べるには、やはりイギリス・ブレクジットとトランプ米大統領の誕生に着目せざるをえません。
イギリスとアメリカは、これまでの三〇数年間、グローバリズム推進のトップ・ランナーであり続けてきました。英米においては、グローバリズムこそが国是だったのです。そういう意味での「先進国」の一般国民がグローバリズムを拒否したことには深甚な意味が存します。そのことには、おそらく、お二人ともに異論がないでしょう(あれば対談でおっしゃってくださいませ)。つまり、この二つの「事件」は、今後の歴史の流れを大きく変えるものである可能性が大きいと思われるのです。フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは、その動因の核心を一般国民におけるグローバリズムの進展に対する「疲れ」と表現しています。また、フランスの経済学者トマ・ピケティは、三〇数年間のグローバリズムの断行によって、英米の昨今の所得格差と資産格差の水準は、20世紀初頭のベル・エポック期のそれに達したことを、膨大な数値の積み重ねによって実証しました。グローバリズムによる格差の拡大と貧困化への、また限度を超えた移民の流入への、英米庶民の鬱積した怒りがこれらの「事件」の背景にあると考えたほうがよいでしょう。
要するに、抜き差しならない素の国民感情が歴史の流れに大きく作用する、ということです。それを低次元のものとして軽視するのは、エスタブリッシュメントの驕り以外のなにものでもない。
歴史の流れが大きく変わる、という大状況には、当然のことながら、パラダイムの変動、すなわち、ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組みが大きく変わるという事態が伴います。その意味で、ブレクジットとトランプ大統領誕生は思想問題でもある、と言えましょう。とりわけ、その思想的哲学的営為において長らく「自由」の問題に深く関わってこられた竹田さんには、ぜひ「自由」をめぐる不易なるものと流行とを腑分けした議論を当対談で展開していただければ、と思っております。
竹田さんの名前が出たところで、ではなぜ小浜・竹田公開対談なのか、という話に移ります。
先ほど述べた歴史の流れの変わり目が、日本の言論状況においては、どういう形で表れているでしょうか。さっくりと言ってしまえば、日本のテレビや新聞が、ブレクジットやトランプ大統領誕生の衝撃をそれとして真正面から受けとめている形跡はまったくと言っていいほどに感じられません。安倍内閣の、周回遅れのグローバリズム推進政策を無批判に垂れ流しているだけ、という印象だけがあります。そうして、ヘルメットを被った重装備のアナウンサーが゛台風が来ました゛だの゛地震は来ましたが津波は襲ってきません゛だのと天変地異だけを大袈裟にアナウンスし続けています。つまり、相変わらず脳天気なほどの無風状態が続いている。私の目に、日本の言論状況は、そのように映ります。
その場合、ブレクジットとトランプ大統領誕生に見られるような、行き過ぎたグローバリズムを是正し、損なわれた国家主権を取り戻そうとする動きは、鈍感な黙殺の対象となるほかはありません。つまり、日本の言論状況のモードは、世界思想が直面しているグローバリズムとナショナリズムの激しいせめぎあいの埒外にある、と言わざるをえません。
私見によれば、この事態を、グローバリズム勢力とアンチ・グローバリズム勢力とがまったく没交渉なまま、それぞれがそれぞれのムラに安住している状況ととらえることも可能です。それは、小浜さんがかつて指摘した「思想の五五年体制」的状況が舞台を変えて再現されたものと言えるでしょう。世界がどう変わろうと、弛緩した精神状況だけは堅持している、というわけです。
思うに、いまの日本の思想界に求められるのは、グローバリズムやナショナリズムをめぐって、いささか立場を異にする思想家たちが、相手の言葉を深く受けとめる真摯さと、安易な妥協に甘んじることのない厳しさとを併せ持つ、真剣勝負の対談を心ある聴衆の面前で繰り広げることです。そういう思想のドラマが演じられることによってはじめて、日本の思想の言葉が、世界思想の熾烈な現場に触れうるのではないでしょうか。
そのような、高いハードルをクリアしうる対話を実現できそうな思想家は、私見によれば、竹田青嗣・小浜逸郎両氏を措いてほかにはいません。そのような真摯な対話は、それぞれが哲学者あるいは思想家として高水準であるということだけでは、実現されえません。お互いの人間性と思想的哲学的営為に対する深い信頼感・尊敬の念があってはじめて実現しうることです。おふたりの間柄には、そういう感情が流れているように感じられます。
昨今の小浜さんが、行き過ぎたグローバリズムに疑問を抱き、ナショナリズムに軸足を置いて、その弊害を是正すべきであるとお考えであること、それゆえ、EUに対してはかなり否定的な見解を有していらっしゃることを私は承知しております。他方では、日本発の普遍思想への眼差しもキープなさっていることも承知しております。
それに対して、竹田さんは、国家権力の必要性を原理的に説きながらも、他方では、自由の相互承認という鍛え上げられた近代思想のエッセンスが有する積極面として、国家の枠を超えることに一定の意義を認め、たとえば、EUの存在意義に関して肯定的な評価をなさっているのではなかろうかと推察します。そう申し上げるのは、竹田さんが、国家間の「普遍闘争状態」を「自由の相互承認」によって乗り越えることなしに、近代国家が有する普遍資産の公平・公正な配分としての一般福祉の実現の可能性が顕在化することはあり得ないとお考えだからです。
つまりグローバリズムとナショナリズムに関して、お二人は、微妙に、そうして決定的に異なる見解・感度をお持ちなのではないかと推察します。普遍思想への眼差しをキープしている点では共通するところもある。しかし、そのニュアンスは、微妙に、かつ決定的に異なる。そういうイメージを、私は、お二人に対して抱いております。
サブタイトルの「哲学者」とはむろん竹田さんのことであり、「思想家」とは小浜さんのことです。「哲学者」と「思想家」とを決定的に分け隔てる契機は、私見によれば、「いまここにある危機」への距離の取り方です。それと誠実に向き合おうとする姿勢は共通しているのですが、その場合の時間的メジャーが「哲学者」の場合数は数百年であるのに対して、「思想家」の場合「いまここ」になるべく実存的に寄り添おうとする。〈「哲学者」と「思想家」の徹底討論〉というサブタイトルには、そういうおふたりの違いを織り込んだつもりです。
そういうおふたりが、相互信頼のもと、心ある聴衆の前で徹底的に語り合ったならば、現下の世界思想が抱える困難さのイメージが鮮やかに浮かびあがってこないはずがない。ぜひ、いまそのことをお二人にお伝えしたい。
私は、そういうことをあれこれと思いながら、小浜さんに電話をかけたのでした。
◇◇◇
さて、対談のおおざっぱな筋立てを思い浮かべてみると、次のようになるでしょうか。
まずは、それぞれの挨拶・自己紹介の後、司会者が、単刀直入にブレクジット・EU・トランプ大統領誕生についてのお二人の基本的見解を訊き出す。
そうすれば、国を開くグローバリズムと国家主権を重んじるナショナリズムについての、両氏の共通点と相違点が事実に即しておのずと明らかになるでしょう。司会者は、それらを聴衆の前できちんと腑分けし確認する必要がありますね。
そのうえで、相違点をめぐっておもむろに対話が始まる。
ここからどう展開するか、予断を許さないところがあるのはもちろんですが、できうることならば、次の三つの論点は、織り込んでいただきたいと思っております。
ひとつめは、ポリティカル・コレクトネス(以下、P・C)について。P・Cとは、公正・公平・中立的で、かつ、差別や偏見のない言葉を使わなければならないという考え方のことです。一見すると非の打ちどころのない理念であるような気もしますが、実は、グローバリズムとの関係で大いに問題があるのです。例えば、ブレクジットが実現する前のイギリスで、移民のイスラム教徒たちがロンドンで力を持ちはじめました。すると彼らの間で「バッキンガム宮殿をモスクにしよう」という機運が盛り上がりました。ついには、「エリザベス女王を含むイギリス王室は、イスラム教に改宗するならばイギリスにいてもいい」と言い出しました。これに異議申し立てをしようとする人々に対して、移民政策を推進し国境を失くしたいと思っている勢力(大手マスコミもここに含まれます)は、「レイシスト」のレッテルを貼ったのです。つまりPCは、グローバリズムの行き過ぎを是正しようとする人々を黙らせる道具として利用されているのです。行き過ぎたグローバリズムを是正しようとする動きを「極右」と指弾するマスコミにもPCの悪用を感じます。少なくともグローバリズムとPCとは、きわめて相性が良く、国家の復権を実現しようとするナショナリズムとは相性が悪い、とはいえそうです。言論の自由との関連で、こういう言説的な現象を、お二人はどうお考えになるのか。ぜひうかがいたいと思っております。
つぎに、グローバリズムが日本に持ち込まれることによって、日本はバブル崩壊以降今日にまで続くデフレ不況に追い込まれていることについて。グローバリズムは、経済に対する国家の関与をミニマムにしようとします。だから、規制緩和・自由貿易・移民の推進が是とされ、公共事業は大幅に削減され、緊縮財政が断行されます。バブル崩壊によって有効需要が縮小したところに、競争激化によるパイの奪い合いが断行されるのですから、一般国民はたまったものではありません。その結果が、GDPの停滞・実質賃金の低下です。これを経済思想的にとらえれば、日本のエリート層が、新古典派経済学の奴隷に成り下がることによってもたらされた事態、となります。このことを、お二人は哲学者あるいは思想家として、どうお考えになるのか。とても興味があります。私見によれば、「デフレ下での消費増税実施の影響は軽微」「デフレは貨幣現象」「公共事業は悪」「プライマリーバランスの黒字化は国際公約」「日本の借金は1000兆円。やがてギリシャのように財政破綻する」といった数々の経済的フェイクの流布に寄与してきた「正統派」経済学の罪は限りなく重い。
最後に、日本の知識人の世界における、総合安全保障という観点の欠如について。安全保障とは、ごく普通の国民が安心して日々の暮らしを営めるよう国家が「万が一」の危機に備えること、と言えるでしょう。それゆえ安全保障は、本質的に「総合」安全保障です。つまり、安心して暮らすには、蛇口をひねったらきれいな水がどんどん出てこなければならないし、スイッチを入れたらちゃんと電気が点かねばならないし、運転しているときに道路が突然陥没したりしてはならないし、領海内で魚獲りをしているときいきなり他国に拉致されたりしてはならないし、病気になったら妥当な値段で医者にかかることができなければならないし、口に入る食べ物は新鮮で安全なモノでなければなりません。つまり安全保障は、普通の人々の普通の暮らし全般に関わる重大事であり、その対象は、軍事のみならず、インフラ、エネルギー、外交、医療、食糧(農業)、環境と多岐にわたるものである、ということです。そうして、これらの安全保障のエレメントは単なるたし算ではなくてかけ算である。つまり、これらのエレメントのひとつでも脅かされるなら、安全保障全般が脅かされることになる、ということです。
喫緊の問題に触れれば、北朝鮮をめぐる情勢はまさしく風雲急を告げております。そこには当然、東アジアをめぐる、覇権国アメリカと覇権の奪取を目論む中国共産党の思惑・利害が渦巻いています。安全保障の観点抜きに、その複雑な諸相を「本質観取」することはかなわないでしょう。
ところが、日本の言論界においては、このような重大事である安全保障の観点がスポッと抜けた形で、憲法九条が論じられ、原発が論じられ、自由貿易が論じられ、農業問題が論じられ、さらにはグローバリズムが論じられ、ナショナリズムが論じられるのです。だから、どの陣営から発せられた言葉であっても、抜き差しならない現実から遊離した空理空論が飛び交うばかりとなります。この、日本特有の言論界の「病気」を、お二人は、どう考えていらっしゃるのか。とても興味があります。
そろそろ終わりにいたします。この、「企画書」と呼べるかどうかよく分からない文書が、お二人の「対談ごころ」をいささかなりとも触発するものであることを願いつつ。
もしも、当企画書をお読みになって公開対談にご興味をお持ちになった方がいらっしゃったなら、
思想塾・日曜会HP https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai をごらんください。