美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「九月入学・始業」は、ショック・ドクトリンである

2020年05月01日 19時46分23秒 | 教育


宮城県の村井知事が、先月の二七日に「九月入学・始業」の私案を提示したのをきっかけに、大阪の吉村知事や東京の小池知事が賛意を表明し、それに便乗して萩生田文科大臣が「それも選択肢のひとつ」と発言し、さらに、安倍晋三首相が二九日の衆院予算委員会で「九月入学・始業」の可能性を探る考えを示しました。あっという間の出来事でした。

当方、この動きに少なからず違和感を覚え、《「九月入学・始業」は、新自由主義お得意のショック・ドクトリンである》という考えを抱くに至りました。

以下、その筋道を説明いたします。

まずは、例によって、言葉の定義から。ショック・ドクトリンとは何でしょうか。

「ショック・ドクトリン」は、ジャーナリストのナオミ・クラインが二〇〇七年に著した『ショック・ドクトリン』から生まれた、新自由主義を批判するキー・ワードです。その意味内容は「一言でいえば、惨事便乗型資本主義である。すなわち、大惨事につけこんで実施される過激で大胆な市場原理主義改革のこと」となるでしょう。

言いかえると、ショック・ドクトリンは、わたしたち一般国民がへこたれそうなときをねらって襲ってくる。そう言えるのではないでしょうか。

今回は、コロナ禍をきっかけに、九月入学・始業という「ショック・ドクトリン」が作動した。それが、当方の見立てです。

当議論が巻き起こる前に当方が考えていたのは、いま、公立学校の休校が長期化するなかで、子ども総体の学力がドラスティックに低下し、また、通塾している子どもとしていない子どもの間や、私学に通っている子どもと公立学校に通っている子どもの間での学力格差の拡大が加速度的に進んでいるのではなかろうか、ということでした。

それを改善するには、教育行政当局が、とにもかくにも学校に通学しなくても受けられるオンライン授業の可及的速やかなる実施を具体的目標にしてその実現を図ることが肝要であると考えていました。実技科目はどうするのか、とか、評価方法は、とか、問題はいろいろあるでしょうが、とりあえずは生徒たち全員が主要五教科のオンライン授業が受けられるようにすることに目標を絞り込むことが大事なのではなかろうかと。これらは、コロナ禍の長期化という厳しい条件下でも進捗可能なことがらですから。

で、目耳に水といおうか、なんといおうか、突然の「九月入学・始業」騒ぎが降って湧いてきて、当方、面喰うやら、違和感半端ないやらで、一瞬頭の中が真っ白になってしまったのでした。

そうして、この感触には既視感があることに思い至りました。郵政民営化問題やTPP参加問題に直面したときの感触に似ている、と。一言でいえば、唐突感、です。

冷静に考えれば、子ども総体の学力低下や子ども間の学力格差の加速度的拡大の改善と「九月入学・始業」とはまったく結びつきません。すぐにでも、具体的措置を大胆に講じなければ、生徒の学力状況は大変なことになっているのです。悠長に九月まで待っているわけにはいかないのです。

また、コロナ禍の長期化が九月には収まっているはず、というのは現状では希望的観測に過ぎません。そういう希望的観測もあって、文科省は安易に当案に飛びついた、という側面もあるのではないでしょうか。

こんなふうにいろいろ考えると、九月案は下策と断じざるをえないのです。喫緊の課題に直面した人間がマトモな頭で思いつくアイデアではないのです。

しかしながら翻って考えるに、新自由主義の旗印は、規制緩和であり、国境のボーダーレス化であり、ワンワールドです。そのことと、当案賛成派が賛成の理由として判で押したように「九月入学・始業はグローバルスタンダードである」ことを挙げていることとは、附合します。すなわち賛成論者は、TPPにおける「非関税障壁の撤廃」を主張していることになります。「非関税障壁の撤廃」とは、要するに、各国の商習慣や慣習を廃止して、主にアメリカのそれに右習えすることなのですから。

恐ろしいのは、地方自治体や文科省や安倍内閣の当案賛成は、別にアメリカの圧力に屈した結果ではなくて、まったく自主的なものである点です。つまり、権力中枢に新自由主義のDNAが深く埋め込まれていて、今回のコロナ禍などのような社会的激震が走ると、そのDNAが自動的に作動してしまう点です。そう考えると、末法の世を眺めているようで、恐ろしくなってきます。

しかし、それに屈するわけにはいきません。社会的激震による国柄の安易な変更・破壊を許すわけにはいかないからです。ブログで発信するよりほかにすべはないので、当方、できうるかぎりそうし続けます。
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公教育は、オンライン授業の徹底化を急げ

2020年04月28日 14時35分31秒 | 教育


宮城県の村井嘉浩知事が、二七日に「九月の入学、始業がよいのでは」という私案を示し、教育界で少なからず議論が巻き起こっているようです。実は当方、コロナ禍における公教育の在り方について近頃いろいろと思いをめぐらしておりました。で、同知事の私案を目にし、少なからず違和感を抱いたのです。以下、私見を述べようと思います。

コロナ禍の長期化を前提とするならば、「いつになったら以前のように生徒を学校に集められるのか」という問題設定そのものが現実的ではない。当方は、そう考えております。というのは、一か所に生徒を集めることそれ自体が3密を生むからです。そうなると学校が3密の新たな発生源になり、社会的に極めて危険な状況がもたらされることになります。せっかく終息しかかったコロナ禍がふたたび襲来する、というわけです。

そう考えると、学校は、生徒ひとりひとりにタブレットを配って、オンライン授業を徹底するよりほかにすべはないものと思われます。部活の復活などもってのほか、となります。オンライン授業で学校が提供できるのは主要5教科の教育サービスのみで、実技4科は基本的に無理だから、美術と体育と技術家庭と音楽は、たとえば二教科選択制とし、指導は民間機関に任せる、とするほかはないでしょう。費用はもちろん地方公共団体が出す。また、生徒の学力評価の仕方や、通知表の内容や取り扱い方も、根本から考え直さなければならなくなってくるでしょう。

こんなふうに、コロナ禍は、学校なるものの抜本的変革をもたらすのではないでしょうか。

こうやって考えを進めると、集団授業の再開時期をいつにするかといった議論は、空想にすぎないと言わざるをえなくなってきます。その意味で「9月の入学始業」もリアルに状況を踏まえたアイデアとは到底思えなくなってきます

「九月入学始業はグローバル・スタンダードであって、留学生を受け入れるのに便利」というニュアンスの肯定論があるのも、気に入りません。コロナ禍は、グローバリズムという名のチャイニーズ・パワーの浸透がもたらしたものという側面を、当方、重く見るからです。そういう軽佻浮薄な言説を目にすると、まだ懲りないのか、という感慨を禁じ得ないのです。

文科省は、既成の枠にとらわれた堂々巡りをいい加減やめにして、公立小中高の生徒たちのオンライン授業の実現に向けて早急に動き出さなければなりません。大人が空しい議論をしている間にも、子ども総体における学力低下や子ども間の学力格差の拡大はすさまじい勢いで進行しているのですから。念のため申しあげておきますが、省益の保護をやぶにらみしてはいけませんよ。
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いまの子どもたちにとってほんとうに必要なことはなんだろう(その2)

2019年10月09日 22時14分25秒 | 教育


前回の終末部で、私は次のように述べました。

人手不足が叫ばれる昨今、今後の10年から20年間にAIが全社会的に急速に広がった場合、私たち大人は、AI「東ロボくん」に負けた80%の受験生に社会人としての明るい未来を提供できるのか、と。また、この問題意識は「教科書が読めない子どもたち」という憂慮すべき現実につながる、とも。

オックスフォード大学の研究チームは、2013年9月に「AI化によって10年から20年後に残る仕事、なくなる仕事」というタイトルの予測を公表しました。それによれば、702種に分類した職業の約半数が消滅し、全雇用者の47%が職を失う恐れがあります。
https://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/downloads/academic/The_Future_of_Employment.pdf#search=%27The+future+of+Employment+How+Susceptible+are+jobs+Computerisation%27

『AI VS 教科書が読めない子どもたち』の著者・新井紀子氏は、上記の予測に関連して以下のような指摘をしています。

・注目すべきは、ホワイトカラーと呼ばれてきた事務系の仕事が多いこと。例えば、消滅度第2位に不動産登記の審査・調査、4位にコンピューターを使ったデータの収集・加工・分析がランクインしている。
・ブルーカラー、ホワイトカラーの仕事のうち消滅度が上位のものに共通しているのは、決められたルールに従って作業すればよい仕事であること。
・各国の企業の経営者は、利益を上げ、国際競争力をアップさせなければならない点で共通している。つまり、アメリカで起こることは当然日本でも起こる。

ちなみに、残る仕事のベスト5は、第一位:レクリエーション療法士、第2位:整備・設置・修理の第一線監督者、第3位:危機管理責任者、第4位:メンタルヘルス・薬物関連ソーシャルワーカー、第5位:作業療法士です。高いコミュニケーション能力や理解力を要する仕事と介護や工事現場での通行人の交通整理のような柔軟な判断力が求められる肉体労働が残るということです。

とすると、AI「東ロボくん」に負けた80%が社会人としての明るい未来をゲットできるかどうかは、「意味がわからない」という欠点を有するAIが不得手な「高いコミュニケーション能力や理解力や柔軟な判断力を要する仕事」に就くことができるかどうかにかかっている、と言っていいでしょう。

学習分野との関連でいえば、「高いコミュニケーション能力や理解力」の基盤となる十分な「読解力」を備えていることがとても重要なポイントになります。端的にいえば「十分な読解力を身につけることが80%の生きる道」となるでしょう。

新井氏は、2011年に、日本数学会の教育委員長として6000人の大学生を対象に実施した「大学生数学基本調査」を分析した結果、「多くの大学生が、数学基本調査の問題が解けるかどうかということ以前に、単に問題文を理解できていない、つまり、ごく当たり前の意味での読解力が不足しているのではないか」という疑問をいだくことになりました。では、高校生や中学生はどうなのか。本書から引きましょう。

中学校の授業は、国語の難解な小説や評論文は別として、生徒は社会や理科の教科書の記述は読めば理解できることを前提として進められています。そうでなければ授業は成り立ちません。そこを疑っている人は、少なくとも教育行政に携わる文科省の官僚の方々や、高等教育の在り方を審議する有名大学の学長や経済界の重鎮といった人にはいませんでした。けれども、私は、それまで誰も疑問を持っていなかった「誰もが教科書の記述は理解できるはず」という前提に疑問を持ったのです。

このような問題意識を持った新井氏は、基礎的読解力を調査するためのリーディングスキルテスト(RST)を開発しました。そうして、2016年までに小学校6年生から社会人までの累計2万5000人のデータを収集することができたそうです。

*その後、RSTは規模を拡大しているようです。
RSTのHPのURL https://www.s4e.jp/merit

RSTで問われる読解力は、「係り受け解析」「照応解決」「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定(辞書)」「具体例同定(数学)」の7つです。

「係り受け解析」とは、主語述語関係や修飾被修飾関係の理解です。「照応解決」とは、指示語が指す内容の理解です。ここまではAIの得意分野です。

次に「同義文判定」は、2つの違った文章を読み比べて意味が同じかどうかを判定することです。AIは、まだ十分にはこの力を獲得できていないそうです。研究中との由。

「推論」「イメージ同定」「具体例同定(辞書)」「具体例同定(数学)」の4つは、新井氏によれば、意味を理解せず、常識のないAIにはできそうにないものです。

「推論」とは、小学校卒業までに学校や日常生活で身につけると期待される常識と論理を用いて正しい推論をする能力です。RSTの出題例は以下の通りです。

〔推論 例題〕次の文を読みなさい。
「エベレストは世界で最も高い山です。」
上記の文に書かれたことが正しいとき、以下の文に書かれたことは正しいか。「ただしい」、「まちがっている」、これだけからは「判断できない」のうちから答えなさい。
「エルブルス山はエベレスト山より低い」
①正しい  ②まちがっている ③判断できない  (正解 ①正しい )

「イメージ同定」は、文章と図形・グラフ・表を比べて、内容が一致しているかどうかを認識する能力です。出題例は以下の通りです。


*クリックすれば拡大されます。以下、同様です。

正解は、② です。

驚いたのは、当問題の正解率の低さです。中1(145名)が9%、中2(199名)が13%、中3(152名)が15%台、高1(181名)が23%、高2(54名)37%、高3(42名)36% です。4択ですから問題を読まずに回答しても正解率25%のはずのところ、実際には上のとおりの結果なのです。新井氏の分析によれば、能力値5段階のうち4を過ぎるところまでの受検者は、正答の②と誤答の④が拮抗しています。その理由は、④を選ぶ受検者が、「以外の」や「のうち」の文言を読み飛ばすか、用法が分からないか、その両方かのいずれか、ということになります。これは、AIに特徴的な誤読の仕方だそうです。新井氏の分析が正しいのだとすれば、中高生の大半は、AIと同じ読み方をしていることになります。

読解力の項目別の説明に戻りましょう。

「具体例同定(辞書)」「具体的同定(数学)」とは、国語辞典的な定義や数学的な定義を読んでそれと合致する具体例を認識する能力です。出題例は以下の通りです。

〔具体的同定(数学) 例題〕次の文を読みなさい。
「2で割り切れる数を偶数という。そうでない数を奇数という。」
偶数をすべて選びなさい。
①65 ②8 ③0 ④110  (正解 ②③④)

では、調査結果はどうだったのでしょうか。

まずは、問題分野別正答率です。


新井氏が言うとおり、重要なのは、AIにはまだ難しい「同義文判定」とAIが到底できそうにない「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の4分野でどれくらいできているか、です。「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の順に数字が激減しているのが分かります。AIが苦手なところは中高生も苦手、という印象です。

この印象をさらに鮮やかなものにするのが、新井氏によれば、「ランダム率」です。サイコロを振ったり当て推量で答えたりしても、正答率は4択なら25%、3択なら33%です。そのことをふまえて「ランダム並みよりもましとは言えない受検者」が何割いるかを計算したものが 「ランダム率」です。端的にいえば、「多少できない」や「できない場合がある」ではなくて「まったくできない」と解すべき数値です。結果は以下のとおりです。



同表のなかの中3生についての新井氏のコメントを3つ引きましょう。

恐ろしいのは、AIと差別化しなければならない「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定」のランダム率です。「推論」は4割、「同義文判定」は7割を超えています。つまり教室で座っている生徒の半分が、サイコロ並みだということです。推論や同義文判定ができなければ、大量のドリルと丸暗記以外、勉強する術がありません。

「エルブルス山はエベレストより低い」かどうかわからない生徒は、「富士山はエベレストより低い」「キリマンジャロはエベレストより低い」「クック山はエベレストより低い」・・・と、あらゆる例を覚えなければならないでしょう。つまり、「一を聞いて十を知る」ために必要な最も基盤となる能力が推論なのです。これが、私たちが「中学生の半数は、中学校の教科書が読めていない状況」と判断するに至った理由です。

数学の定義に従って4つの選択肢のどれがそれにあてはまるかを選ぶ「具体例同定(数学)」のランダム率は、なんと約8割です。「偶数とは何か」「比例とは何か」という定義を読んで、偶数や比例を選ぶだけの、計算も公式も必要ない問題において、中学校3年生の8割がサイコロ並みにしか答えられないのです。こんな状況でプログラミング教育を導入できるでしょうか。プログラミングはまさに数学的な定義のみでできているのですから。


当方が現場で小・中・高の子どもたちを教えていて痛感するのは、いまの子どもたちの多くが文章をきちんと理解して問題に取り組むことができていない、ということです。名詞の拾い読みに近いことをしているとしか思えないような間違い方をするのです。つまり「AI読み」をしているということです。もともとそういう感触はありましたが、新井氏の本書を読んでからは、それが確信に近いものになりました。

「AI読み」は、情報過多社会の病理なのではないでしょうか。いまの子供たちは、心静かに文章と向き合う精神状態をキープするのが困難な社会空間に生きています。それは大人だって痛感していますよね。そこへもってきて、やれアクティブラーニングだ、思考力だ判断力だ表現力だ、プログラミング学習だ、英語4技能だ、グローバルだ、なんだかんだと教育に関係する大人たちが妙にレベルの高そうな要求を次から次に突き付けてくるものだから、ますます、落ち着いて文章を精読する注意力がそがれることになってしまう。いわゆる教育改革なるものをめぐってそんな喜悲劇が繰り広げられているのではないでしょうか。

その喜悲劇の顛末が、AIと不得意分野を共にする「AI読み」の子どもたちの大量発生であるならば、「東ロボくん」に負けた80%の受験生に社会人としての明るい未来を提供できるのかという冒頭の問いに対しては、残念ながら否定的な回答をせざるをえません。子どもたちの危機的な現状に立脚しない、絵にかいた餅のような教育改革は、子どもたちに暗い未来をもたらす百害あって一利なしの愚策であると断じざるをえません。

次世代の子どもたちに幸福な未来をもたらすような、エビデンスに基づく実効性のある公教育を、彼らに提供してあげたいものです。

結論。いまの子どもたちにとってほんとうに必要なのは、神経を過剰に刺激するⅠT化社会の喧騒から精神的に距離を取り、文章とじっくり向き合うことを可能にする静謐な場です。逆説的な物言いになりますが、そういう場こそが、IT化社会にきちんと適応することを可能にする創造的な立脚点になる。そう私は考えます。
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いまの子どもたちにとって、ほんとうに必要なことはなんだろう(SSKレポートVol.156夏号 掲載)美津島明

2019年08月07日 17時54分56秒 | 教育

*20年度から実施される教育改革が、いま鳴り物入りで喧伝されています。いわく、主体的で対話的な深い学びを実現するアクティブラーニングの導入。またいはく、小学校でのプログラミングの必修化。さらにいはく、「覚えること」から「どう使うか」への教育の重心の移動。ついでにいはく、グローバル人材の育成。云々、云々・・・。子どもたちの実態をよく知る者としては、よくぞここまで現実離れした空疎な言葉を連ねることができるものだと、半ばあきれながら感心することしきり、というのが正直なところです。そんな感想を通奏低音としてふまえていただきながら以下をお読みいただくと幸いに存じます。(編集者 記)

***
当方、新井紀子氏の『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)を読んで、子どもを教える現場に身を置く者として、いろいろと思うところがあり、筆をとりました。

新井氏は数学者なので、言っていることが理路整然としています。本書の前半の内容は、以下の通りです。ちなみに氏は、2011年にスタートした「ロボットは東大に入れるか」、略して「東ロボくん」という人口知能プロジェクトの責任者です。ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

① 「真の意味でのAI」とは、「人間の一般的な知能と同等レベルの知能」である。また、厳密な意味での「シンギュラリティ」とは「真の意味でのAIが自分自身よりも能力の高いAIを作り出すようになる地点」である。
② 「真の意味でのAI」には、決して「シンギュラリティ」は来ない。「来る」という主張は、ロマンや空想の類である。
③ なぜなら、AIが人間の一般的な知能と同レベルの知能を実現するには、人間の脳が意識無意識を問わず認識していることをすべて計算可能な数式に置き換える必要があるが、数式に置き換えることができるのは、論理的に言えること、統計的に言えること、確率的に言えることの三つだけであるから。AIはどんなに発達しようともただの計算機に過ぎないのである。端的に言えば、AIは足し算と掛け算に翻訳できないことを処理しえない。

職業柄、「東ロボくん」の成果が気になりますね。

結論からいえば、「東ロボくん」は、いまだに東大に合格できる見通しが立っていません。しかしながらなかなかの善戦ぶりで、最後に受験した「2016年度進研模試 総合学力マーク模試・6月」で5教科8科目の偏差値は57.8。学部にもよりますが、MARCHや関関同立レベルには達しています。

 では、「東ロボくん」は、どうして東大レベルに達することができないのでしょうか。それは、国語・英語が苦手だからだと氏は言います。

 たとえば、東大の2次試験を想定した「2016年度 第1回東大入試プレ」において、数学(理系)は偏差値76.2、世界史で51.8でした。数学は、東大理Ⅲレベルに達しているのです。他方、英語は偏差値50.5、国語は49.7と偏差値50付近で伸び悩んでいます。

 ではなぜ「東ロボくん」は、国語・英語が苦手なのでしょうか。氏によれば、それはAIが「常識の壁」を乗り越えることができないからです。本書から引用しましょう。

私たち人間が「単純だ」と思っている行動は、ロボットにとっては単純どころか、非常に複雑なのです。冷蔵庫から缶ジュースを取り出すという単純な作業を行うとき、人間はとてつもない量の常識を働かしています。缶。ジュースはどこにあるのか。押し入れや靴箱には入っていない。冷蔵庫にあるはずだ。冷蔵庫はどこにあるか。玄関ではない。台所だ。どのドアはどうすれば開くか。そもそも缶ジュースはどのような物か。冷蔵庫のどこを探せば見つかるか。ジュースを取り出すとき、邪魔になるものはどうするか。冷蔵庫にジュースがなかったらどうするか・・・・・、こんな複雑なことを一瞬のうちに判断しているのです。

氏によれば、上記のような、中学生が身につけている程度のごく普通の「常識」は、AIにとって、気が遠くなるほどの膨大な量であり、AIにそれを教えるのは、とてつもなく難しいことなのです。

要するに、AIには「意味」が理解できない、ということです。

AIの本質を成す数学は、論理的に言えること、確率的に言えること、統計的に言えることは、実に美しく表現できる。

しかし、人間なら簡単に理解できる、「私はあなたが好きだ」と「私はカレーライスが好きだ」との本質的な意味の違いを数学で表現することには非常に高いハードルがある。これが、「東ロボくん」の国語・英語の伸び悩みの根本原因である。氏は、そう述べています。それゆえAIは、せいぜい偏差値60あたりが限界だろう、東大合格は無理だろう、と。

数学の限界がすなわちAIの限界。要するに、そういうことですね。

以上をふまえたうえで、次に問題になるのは、ただの計算機に過ぎないAIに代替「されない」人間が、いまの社会の何割を占めているか、です。

というのは、「東ロボくん」は、東大に合格することはできませんでしたが、ホワイトカラーを目指す若者の上位20%に入ることができたからです。

逆に言えば、子どもたちの80%は、「東ロボくん」すなわちAIに負けたのです。人手不足が叫ばれる昨今、今後の10年から20年間、AIが全社会的に急速に広がった場合(当然そうなるでしょう)、私たち大人は、この負けた80%に明るい未来を提供することができるのでしょうか。

この問題意識は、「教科書が読めない子どもたち」という現実の恐ろしいお話につながってゆくのですが、どうやら紙面が尽きたようです。

大急ぎで、新井氏が「中3までの子どもたちが、教科書の内容をきちんと理解できる読解力を身につけることが何より大切であり、あるべき教育改革の核心はそれに尽きる」と主張していることを付け加えておきますが、その詳細については、またの機会に。 
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見田宗介氏のひどい文章を見つけました (美津島明)

2015年10月06日 23時18分40秒 | 教育
見田宗介氏のひどい文章を見つけました (美津島明)



今日は、中三生に国語を教えました。生徒二人を相手に、長文問題と取り組みました。長文問題の題材は、見田宗介氏の文章でした。で、これがひどい文章だったのですね。

ひどいというのは、その内容を指しているのではありません(ちなみに内容は、リベラルを称する戦後知識人の定番である、経済成長否定論です。そういう論調に対して、私はかなり厳しい見方をしていますけれど、いまはその当否を問わないでおきます)。

私が「ひどい」と思うのは、氏が、論理的に筋の通らぬ文章を書いている点です。次にその文章を引きます。そのほぼ冒頭に「このこと」とあるのは、前段落の「貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、『所得』が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる」事態を指しています。言いかえれば、貨幣経済が、自然と豊かな交流をしていた伝統的共同体を取り込んでそれらを解体してしまい、貨幣が唯一の価値の尺度になってしまうことを指しています。

人はこのことを一般論としてはただちに認めるだけでなく、「あたりまえ」のことだとさえいうかもしれない。けれども、「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、この「あたりまえのこと」を理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。(「現代社会の理論――情報化・消費文化社会の現在と未来――」より)

上の赤色が、論理的に筋みちが通っていないうえに、「てにおは」の使い方が間違っているし、言いたいことを性急に詰め込もうとするがゆえに意味が通らなくなるという、目の当てられないことになっている箇所です。

ここは、

「に立脚し、それを理論の基礎としているので」

と記されるのが正しいのです。当論考を読む限り、氏は、お金がたくさんあること=豊かさとするのが「あたりまえのこと」であるという考え方に異を唱えたがっているわけですから、もしも、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」が「あたりまえのこと」に立脚していないのならば、それは、氏にとって、とても喜ばしいことであるはずですね。でも氏は、どうやら、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」に文句をつけたがっているようですから、そんなことは考えにくい。

私は、氏の揚げ足をとって、喜んでいるわけではありません。

生徒の能力を育成するうえで、国語という教科に課せられていることの核心は、「論理的思考力を育むこと」である、と私は考えています。国語教師のなかには、「いや、それは数学が受け持つべきことであって、豊かな情操を育むことのほうが国語の場合重要である」という意見があることでしょう。

私は「豊かな情操を育む」ことの重要性を軽視するわけではありませんが、それを妙に重視することは、ややもすると、教師が独りよがりや自己満足に陥りがちになることにつながりやすいと思っています。「論理的思考力と豊かな情操とは、相補的・相乗的な関係にあるものであって、敵対的な関係にあるものでは決してない」という確固とした学力観に立脚するならば、「豊かな情操は、論理的思考力という太い幹から枝分かれし開花した鮮やかな花々である」という見解に落ち着くのではないかと思われます。

まあ、込み入った話はそれくらいにします。論説文は、話の筋みちをきちんとたどれば、筆者の言いたいことにちゃんと到達できるものでなければならない、という点には、ご賛同いただけるのではないでしょうか。また、そういう良質の文章を丁寧に読ませることの効用が決して小さくないことにも、ご賛同いただけるのではないでしょうか。

逆に、そうではない文章で、生徒の頭を悩ませることが、おそらくマイナスの効用をもたらすことも論を俟たないでしょう。そういう文章ばかり読ませていたら、頭の悪い生徒に仕上がっちゃうかもしれませんね。

だから、見田氏の当論考をテキストに載せるのは、極めて不適切なことであった。そう言いたいわけです。むろん、私は授業のなかで、以上の話を生徒たちに噛みくだいて言ってきかせました。

ここで、小中学校の国語の批判をしたくなってきましたが、それはまたの機会に、ということで、とりあえず筆を置きます。
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