『古事記』に登場する神々について(その6)スサノオ・アマテラス神話②
先日(三月二三日・日曜日)の読書会で、福永武彦現代語訳『古事記』を扱いました。その際、当論考の(その1)から(その5)までをレジュメとして使いました。参加者のみなさまから、当論考のさまざまな論点についていろいろと貴重なご意見をいただきました。また、それらの論点からからさまざまな方向に話が発展することもたびたびありました。有益で楽しいことときを過ごせたことを、参加者のみなさまに感謝します。『古事記』には、なにやら不思議なパワーもしくは魔力が秘められているようです。私の思い込みでなければ、私のみならず参加者のみなさまもそれぞれにそれを感じ取っていらっしゃったようです。
この論考は、古事記上巻までを扱おうかと思っています。余力があれば、所収の歌謡をいくつか扱いたいとも思っていますし、歌物語としてのヤマトタケル神話を扱いたいとも思っています。最初は、なんの気なしに書き始めただけなのですが、いまでは、せめてそこまで書き進めてみたいものだと思うまでになりました。
では、スサノオ・アマテラス神話の続きに入りましょう。イザナキが禊をして、三貴子を生みました。そこでイザナキは、とても喜んでこう言います。「私は、子どもを次々に生んで、最後に三柱の貴い子を生んだ」。それから、首にかけていたネックレスの玉をゆらゆらと触れ合わせてアマテラスに授けながらいいました。「お前は、高天原を『知らせ』」。そのネックレスは、御倉板挙神(みくらたなのかみ)と言います。次にツクヨミには、「お前は、夜之食国(よるのおすくに)を『知らせ』」と申し渡しました。次にスサノオには、「お前は海原を『知らせ』」と言いました。
ここで注目したいのは、『知らす』です。
八木秀次氏の『明治憲法の思想』(PHP新書)によれば、伊藤博文や金子堅太郎とともに明治憲法を制定するうえで中心的な役割を果たした井上毅(こわし)は、日本古典の研究に没頭し、『古事記』に「うしはく」と「知らす」という二つの対照的な統治理念があることに着目しました。井上が注目したのは、上記に引いたところではなくて、オオクニヌシの国譲り神話の次の箇所でした。
汝(な・オオクニヌシのことを指している)がうしはける葦原中国(はしからなかつくに)は、我(あ・アマテラスのこと)が御子(みこ)の知らす国と言依(ことよ)さし賜へり。
井上は、「ウシハク」と「シラス」の違いに注目したのです。では、両者はどう違いのか。先ず「ウシハク」について、井上は次のように言っています(『明治憲法の思想』からの孫引きです)。
ウシハクという詞は本居(宣長)氏の解釈に従えば、すなわち領すということにして欧羅巴人の『オキュパイド』と称え、支那人の富有庵有と称えたる意義と全く同じ。こは一(ひとつ)の土豪の所作にして土地人民を我が私産として取入れたる大国主のしわざを画いたるあるべし。
(「古言」『井上毅伝・史料編第五』より)
それに対して、「シラス」についてはどう言っているのか。観念的で晦渋な井上の説明を、八木氏はかみくだいて次のように説明しています。
「ウシハク」の方が支配者が公私を混同して、国土国民を自分の私有財産と考えるというタイプの統治理念であるのに対して、「シラス」のほうは支配者が公私を混同せず、国と家とを明確に区別し、さらに支配者自らの利益のために統治するのではなく、むしろ支配者の方が国民の心を汲み取り、国民の利益を図るべくして行うという統治理念だと言っているのである。
私はここで、井上の字義解釈の是非を問おうとか、あるいは、井上が日本独特の統治概念を打ち出したとナショナリスティックに拳を突き上げようとかしているわけではありません(井上は当時のヨーロッパ事情に精通する西洋型知識人です)。そうではなくて、立憲主義に基づく近代憲法を立ち上げようとするときに、ただひたすらに、欧米列強の憲法をお手本にするだけではなくて、一度は、民族精神の深みに降りて、そこから汲み取れるものは汲み取って、近代憲法に歴史的無意識に裏付けられた精神的な息吹を吹き込もうとする彼の姿勢に、いまの私たちが学ぶべき多くのものがいまにおいてもなお含まれていると申し上げたいだけです。端的に言ってしまうと、いまの私は、そういう姿勢を持とうとしない、あるいは、それを軽んじようとする知識人などは、少なくとも加地伸行氏が言う意味での「君子」=教養人ではありえず、たかだか、彼によって「小人」と読み替えられた知識人にしかすぎない、と思っています。
本文に戻りましょう。アマテラスとツクヨミは、イザナキの言葉に素直に従うのですが、スサノオだけは、そうしようとしません。治めるように言われた夜之食国をほったらかして、泣きわめいてばかりいます。ヒゲもじゃの大男がおいおいと泣き続けている様は、どこかしらユーモラスなところがありますね。スサノオが泣き続けたせいで、青山は枯れ山となり、川や海の水がなくなり、森羅万象がことごとく妖気を発したというのですから、すさまじいばかりです。
そこで、イザナキが問います、「お前はなぜ私が頼んだ国を収めようとせずに、哭いてばかりいるのだ」と。すると、スサノオが答えます、「私は、妣(はは・亡くなった母にこの字を当てる)の国根之堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと思い、それで哭いているのです」と。すると、イザナキは大いに怒って「そうならば、お前はこの国に住んではいけない」と申し渡して、スサノオを放逐してしまいました。
ここで気になるのは、根之堅州国はどこにあるのか、ということです。一般的な注釈書には、「根は地下のイメージ。堅洲は東北方の地=死者世界。黄泉の国」とか「根の国は『底の国』の国ともいうとおり、地の底にあるとされた下界」とか、あるいは「地底の片隅の地の意か」といった記載が見られます。つまり、黄泉の国=死後の世界=根の国=根の堅洲国、という解釈がどうやら一般的なようです。そうして、それが編者・執筆者である太安万侶の意図した解釈でもあるのでしょう。
しかし私は、当論考(その4)で、そういった一般論や安万侶の意図に反して、黄泉の国=死後の世界は山にあるとしたほうが、『古事記』のそのほかの記載内容との矛盾のない解釈である、という意味のことを申し上げました。これを是とするならば、原文のなかで妣の国根之堅州国と併記されていて、「妣」が死んだ母を意味するのですから、根之堅州国=死後の世界とするほかありません。つまり、根之堅州国もまた地下などにはなくて、日本人の伝統的な死生観を踏まえるならば、山にあるとする方が妥当である、となるでしょう。しかし、山にこだわりすぎることにも注意する必要があるようです。ここで、たびたびご登場願っている西條勉氏にふたたびご登場願いましょう。
根の国はもともと、海上彼方の理想郷を指した。沖縄には「ニライカナイ」ということばが今でもあり、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指す。「根」は、沖縄のことばで「ニール」とか「ニーラ」という。ものごとの根源という意味である。それがスサノオのいう亡母の国だった。ところが、古事記では「根の堅洲国」となっている。「堅洲国」が文字通りに、堅い中洲と見るのは形容矛盾だ。川の中洲はほどよく柔らかい。ここは、あえてイメージを結ばない文字遣いを選んで、根の国が、片隅の国であることを隠そうとしたふしがある。根の国は、もともと、根源の国として世界の中心を占めていた。それが、本来のかたちがそこなわれ、隅っこに追いやられた片隅の国になっている。
(『「古事記」神話の謎を解く』中公新書)
つまり、根の国は、死後の世界ではなくて、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指しているというのです。その場合は、妣の国=死んだ母の国=死後の世界、と狭く解釈するのではなくて、妣を母霊とすると、ユングの太母(グレート・マザー)のイメージが浮びあがってきて、西條説がけっこうすんなりと入ってくることになります。太母の坐す根の国が根源の国であるというのは、理解のし易いイメージですからね。
いずれにしても、『古事記』の世界を、高天の原‐地上の葦原の中つ国‐地下の黄泉の国という垂直構造として構築しようとした太安万侶の目論見は、伝統的な死生観によって強度の歪みを蒙っているというよりほかはありません。
故西郷信綱氏は、『古事記』の世界観を壮大なコスモロジーとしてとらえ、次のように述べています。
中心としての聖所は、大和王権の政治的発展、天たかき高天の原の形成とともに分化し、さらに東に進み、日出ずる海にじかに接した伊勢の地にあらたな定着をとげるに至るわけで、伊勢神宮の位置が香具山のほぼま東にあたるのは、この宇宙軸の意味するところを考えにいれなければ解けないだろう。(中略)出雲が雲にとざされた、日の没する西の果てなる国であるのにたいし、伊勢は東の海からじきじきに日ののぼるウマシ国であった。前者が暗の死者の国に接しているとすれば、後者の接するのは陽としての高天の原であった。 (『古事記の世界』岩波新書)
柳田国男などのように、日本人の伝統的死生観という観点からではありませんが、『古事記』の生死をめぐっての世界観が、垂直的なイメージというよりも、むしろ、壮大なコスモロジーとして、東‐西という太陽の出没を中心とする方向感覚に、生死の観念を重ね合わせた水平方向のイメージの色濃いものであったことが語られているのではないでしょうか。
スサノオを葦原の中つ国から放逐したイザナキは、「淡海の多賀に坐(いま)す」という記載があります。「淡海の多賀」は、滋賀県犬上郡多賀町の多賀神社の地とされているようです。多賀神社では、イザナキ・イザナミの二柱の神を祀っているとの由です。
先日(三月二三日・日曜日)の読書会で、福永武彦現代語訳『古事記』を扱いました。その際、当論考の(その1)から(その5)までをレジュメとして使いました。参加者のみなさまから、当論考のさまざまな論点についていろいろと貴重なご意見をいただきました。また、それらの論点からからさまざまな方向に話が発展することもたびたびありました。有益で楽しいことときを過ごせたことを、参加者のみなさまに感謝します。『古事記』には、なにやら不思議なパワーもしくは魔力が秘められているようです。私の思い込みでなければ、私のみならず参加者のみなさまもそれぞれにそれを感じ取っていらっしゃったようです。
この論考は、古事記上巻までを扱おうかと思っています。余力があれば、所収の歌謡をいくつか扱いたいとも思っていますし、歌物語としてのヤマトタケル神話を扱いたいとも思っています。最初は、なんの気なしに書き始めただけなのですが、いまでは、せめてそこまで書き進めてみたいものだと思うまでになりました。
では、スサノオ・アマテラス神話の続きに入りましょう。イザナキが禊をして、三貴子を生みました。そこでイザナキは、とても喜んでこう言います。「私は、子どもを次々に生んで、最後に三柱の貴い子を生んだ」。それから、首にかけていたネックレスの玉をゆらゆらと触れ合わせてアマテラスに授けながらいいました。「お前は、高天原を『知らせ』」。そのネックレスは、御倉板挙神(みくらたなのかみ)と言います。次にツクヨミには、「お前は、夜之食国(よるのおすくに)を『知らせ』」と申し渡しました。次にスサノオには、「お前は海原を『知らせ』」と言いました。
ここで注目したいのは、『知らす』です。
八木秀次氏の『明治憲法の思想』(PHP新書)によれば、伊藤博文や金子堅太郎とともに明治憲法を制定するうえで中心的な役割を果たした井上毅(こわし)は、日本古典の研究に没頭し、『古事記』に「うしはく」と「知らす」という二つの対照的な統治理念があることに着目しました。井上が注目したのは、上記に引いたところではなくて、オオクニヌシの国譲り神話の次の箇所でした。
汝(な・オオクニヌシのことを指している)がうしはける葦原中国(はしからなかつくに)は、我(あ・アマテラスのこと)が御子(みこ)の知らす国と言依(ことよ)さし賜へり。
井上は、「ウシハク」と「シラス」の違いに注目したのです。では、両者はどう違いのか。先ず「ウシハク」について、井上は次のように言っています(『明治憲法の思想』からの孫引きです)。
ウシハクという詞は本居(宣長)氏の解釈に従えば、すなわち領すということにして欧羅巴人の『オキュパイド』と称え、支那人の富有庵有と称えたる意義と全く同じ。こは一(ひとつ)の土豪の所作にして土地人民を我が私産として取入れたる大国主のしわざを画いたるあるべし。
(「古言」『井上毅伝・史料編第五』より)
それに対して、「シラス」についてはどう言っているのか。観念的で晦渋な井上の説明を、八木氏はかみくだいて次のように説明しています。
「ウシハク」の方が支配者が公私を混同して、国土国民を自分の私有財産と考えるというタイプの統治理念であるのに対して、「シラス」のほうは支配者が公私を混同せず、国と家とを明確に区別し、さらに支配者自らの利益のために統治するのではなく、むしろ支配者の方が国民の心を汲み取り、国民の利益を図るべくして行うという統治理念だと言っているのである。
私はここで、井上の字義解釈の是非を問おうとか、あるいは、井上が日本独特の統治概念を打ち出したとナショナリスティックに拳を突き上げようとかしているわけではありません(井上は当時のヨーロッパ事情に精通する西洋型知識人です)。そうではなくて、立憲主義に基づく近代憲法を立ち上げようとするときに、ただひたすらに、欧米列強の憲法をお手本にするだけではなくて、一度は、民族精神の深みに降りて、そこから汲み取れるものは汲み取って、近代憲法に歴史的無意識に裏付けられた精神的な息吹を吹き込もうとする彼の姿勢に、いまの私たちが学ぶべき多くのものがいまにおいてもなお含まれていると申し上げたいだけです。端的に言ってしまうと、いまの私は、そういう姿勢を持とうとしない、あるいは、それを軽んじようとする知識人などは、少なくとも加地伸行氏が言う意味での「君子」=教養人ではありえず、たかだか、彼によって「小人」と読み替えられた知識人にしかすぎない、と思っています。
本文に戻りましょう。アマテラスとツクヨミは、イザナキの言葉に素直に従うのですが、スサノオだけは、そうしようとしません。治めるように言われた夜之食国をほったらかして、泣きわめいてばかりいます。ヒゲもじゃの大男がおいおいと泣き続けている様は、どこかしらユーモラスなところがありますね。スサノオが泣き続けたせいで、青山は枯れ山となり、川や海の水がなくなり、森羅万象がことごとく妖気を発したというのですから、すさまじいばかりです。
そこで、イザナキが問います、「お前はなぜ私が頼んだ国を収めようとせずに、哭いてばかりいるのだ」と。すると、スサノオが答えます、「私は、妣(はは・亡くなった母にこの字を当てる)の国根之堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと思い、それで哭いているのです」と。すると、イザナキは大いに怒って「そうならば、お前はこの国に住んではいけない」と申し渡して、スサノオを放逐してしまいました。
ここで気になるのは、根之堅州国はどこにあるのか、ということです。一般的な注釈書には、「根は地下のイメージ。堅洲は東北方の地=死者世界。黄泉の国」とか「根の国は『底の国』の国ともいうとおり、地の底にあるとされた下界」とか、あるいは「地底の片隅の地の意か」といった記載が見られます。つまり、黄泉の国=死後の世界=根の国=根の堅洲国、という解釈がどうやら一般的なようです。そうして、それが編者・執筆者である太安万侶の意図した解釈でもあるのでしょう。
しかし私は、当論考(その4)で、そういった一般論や安万侶の意図に反して、黄泉の国=死後の世界は山にあるとしたほうが、『古事記』のそのほかの記載内容との矛盾のない解釈である、という意味のことを申し上げました。これを是とするならば、原文のなかで妣の国根之堅州国と併記されていて、「妣」が死んだ母を意味するのですから、根之堅州国=死後の世界とするほかありません。つまり、根之堅州国もまた地下などにはなくて、日本人の伝統的な死生観を踏まえるならば、山にあるとする方が妥当である、となるでしょう。しかし、山にこだわりすぎることにも注意する必要があるようです。ここで、たびたびご登場願っている西條勉氏にふたたびご登場願いましょう。
根の国はもともと、海上彼方の理想郷を指した。沖縄には「ニライカナイ」ということばが今でもあり、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指す。「根」は、沖縄のことばで「ニール」とか「ニーラ」という。ものごとの根源という意味である。それがスサノオのいう亡母の国だった。ところが、古事記では「根の堅洲国」となっている。「堅洲国」が文字通りに、堅い中洲と見るのは形容矛盾だ。川の中洲はほどよく柔らかい。ここは、あえてイメージを結ばない文字遣いを選んで、根の国が、片隅の国であることを隠そうとしたふしがある。根の国は、もともと、根源の国として世界の中心を占めていた。それが、本来のかたちがそこなわれ、隅っこに追いやられた片隅の国になっている。
(『「古事記」神話の謎を解く』中公新書)
つまり、根の国は、死後の世界ではなくて、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指しているというのです。その場合は、妣の国=死んだ母の国=死後の世界、と狭く解釈するのではなくて、妣を母霊とすると、ユングの太母(グレート・マザー)のイメージが浮びあがってきて、西條説がけっこうすんなりと入ってくることになります。太母の坐す根の国が根源の国であるというのは、理解のし易いイメージですからね。
いずれにしても、『古事記』の世界を、高天の原‐地上の葦原の中つ国‐地下の黄泉の国という垂直構造として構築しようとした太安万侶の目論見は、伝統的な死生観によって強度の歪みを蒙っているというよりほかはありません。
故西郷信綱氏は、『古事記』の世界観を壮大なコスモロジーとしてとらえ、次のように述べています。
中心としての聖所は、大和王権の政治的発展、天たかき高天の原の形成とともに分化し、さらに東に進み、日出ずる海にじかに接した伊勢の地にあらたな定着をとげるに至るわけで、伊勢神宮の位置が香具山のほぼま東にあたるのは、この宇宙軸の意味するところを考えにいれなければ解けないだろう。(中略)出雲が雲にとざされた、日の没する西の果てなる国であるのにたいし、伊勢は東の海からじきじきに日ののぼるウマシ国であった。前者が暗の死者の国に接しているとすれば、後者の接するのは陽としての高天の原であった。 (『古事記の世界』岩波新書)
柳田国男などのように、日本人の伝統的死生観という観点からではありませんが、『古事記』の生死をめぐっての世界観が、垂直的なイメージというよりも、むしろ、壮大なコスモロジーとして、東‐西という太陽の出没を中心とする方向感覚に、生死の観念を重ね合わせた水平方向のイメージの色濃いものであったことが語られているのではないでしょうか。
スサノオを葦原の中つ国から放逐したイザナキは、「淡海の多賀に坐(いま)す」という記載があります。「淡海の多賀」は、滋賀県犬上郡多賀町の多賀神社の地とされているようです。多賀神社では、イザナキ・イザナミの二柱の神を祀っているとの由です。