美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ベビー・フェイス (美津島明)

2014年12月25日 00時08分28秒 | 文学
ベビー・フェイス



新宿から小田急線の急行に乗って小一時間、C駅に着く。かつてその界隈に古久屋という中華料理屋があった。メニューはいたってシンプルで、しょう油ラーメン、チャーシューメン、タンメン、餃子、チャーハンほかはなし、といった塩梅で、エビチリソースなんてしゃれたものはなかった。それらが例外なく美味しくて量もたっぷり、ときたものだから、古久屋はいつも千客万来の大賑わいだった。私もまたそんな客のひとりとして、しばしばその店に出入りした。餃子とチャーハン、それが私のお気に入りだった。タンメンも捨てがたい味わい深さであった。
 えび茶色ののれんをくぐると、向かって右手に、調理場を囲む紅色のカウンター席が手前から細長い逆L字型に伸びていた。左手から奥にかけては、四人がけの白っぽいテーブル席が三つ四つあっただろうか。また、テーブル席に沿ってガラス窓が続いていたようにも記憶している。だから、昼間なら自然光だけでも十分に店内が明るく感じられるほどだった。三十人の客が収容できるくらいの広さだったのではなかろうか。
 調理場にはいつも(そう、私の記憶においては、いつも)ベビー・フェイスに満面の笑顔を浮かべた六十歳手前くらいのころんとした小太りのご主人が、右手に中華鍋を左手にお玉をかちっと握って、こちらが見とれるほどのリズミカルな早業で客の矢継ぎ早の注文に応じ続けていた。調理場にはいつもほかほかの湯煙が立ち昇っていたような印象が残っている。
 客のまばらな昼下がりにお店に入ったときのことである。出来上がったチャーハンと餃子を、それらを注文した私の目の前のカウンターに置きながら、ご主人が初めて話しかけてきたのである。
―学生さん?
 えびす様のような目を心持ち見開いて、ご主人は少しだけ語尾を上げながら私にそう尋ねた。世慣れぬぎこちなさを多分に抱え、常連としてのそつのない振る舞いをすることなどは考えてみただけで気が遠くなってしまう私は、せめてそっけない返事だけはするまいと心がけて、こっくりとうなずきながら答えたのだった。
―はい、そうです。
 ご主人は、さすがにどこの大学だとまでは重ねて尋ねようとせず、会話はそれで終わった。また、私たちが言葉を交わしたのは後にも先にもそのときが最初で最後だった。思えば、そのときまでに、私が注文してカウンターに置かれるチャーハンの量は以前よりもけっこう多くなっていたのだった。つまり、ご主人は私に対してなぜかしら好感のようなものを抱くようになった。そうして、客のまばらなときに、ふと声をかけてみた。そういうことだったのだろうと思う。そんな事情をうすうす察しながら、気の利いた文句のひとつもひねり出せなかった当時のにきび面の自分をいまさらながらにじれったく思う。

 妻と二人で江ノ島まで遠出したときの新宿方面への帰りの小田急電車のなかで、そうしたことが、疲れでいささかぼおっとした頭に古びた絵のように浮かんできた。つい昨日のことのようにも感じられるが、思い出すまでに実は三十年あまりの歳月が流れたことになる。《古久屋はいったいどうなっているのだろう》。私は、そういう疑問から逃れられなくなってしまった。いささかうろたえながら、横で船を漕いでいる妻を肘で小突いて起こし、手短に事情を話した。私たちはC駅で途中下車をした。

 夕暮れのC駅界隈は、すっかり様変わりしていた。路地のあちらこちらに漂っていた昭和のころのうら悲しさや貧乏臭さを拭い去って、それなりの小ぎれいな小都会に姿を変えていたのである。それは、いまの日本のどこにでもころがっている、ありふれた退屈なドラマである。私は悪い予感を抱いた。そうして、その予感は的中した。古久屋があるはずの場所には、今風の洒落た洋食料理屋があり、瀟洒な作りの窓から若い女性たちの華やいだ顔がいくつか見えたのである。
 「まさか」という思いと「やはり」という判断が整理のつかないまま水と油のように混在する。私はどうにもあきらめ切れずに、ぶつぶつとこぼす妻をなだめすかしながら、駅界隈をなおも主人を見失った飼い犬のようにうろついた。目がどうしても「古久屋」の看板を探してしまうのである。むろん、あるはずがないことは頭では分かっているのである、と思いかけたそのとき、「古久屋」の白地に赤文字の看板が目に飛び込んできたのだった。しかも、駅出口正面の、この辺りでは選りすぐりの一等地という立地条件なのであった。私は、《あのじいさんはいないはずなのだから、糠喜びをするには及ばないぞ》と自分に言い聞かせ、それでも足取りだけは(おそらく)軽ろやかに二階に上がっていった。
 店内はかなり広かった。五・六十人くらいを余裕で収容できそうだった。洗練されたデザインの室内に老舗を感じさせるものは何もなかった。ベビー・フェイスのご主人はもちろんいなかった。存命ならば九十歳くらいになっているから、楽隠居の身に落ち着いているはずである。エビチリソースなど、品数はいろいろと増えているのだが、私はかつてと同じようにチャーハンと餃子を注文した。食事どきであるのにもかかわらず、店内に客はまばらだった。しばらくして、茶髪のどこかしら不機嫌そうなウェイトレスが注文の品を運んできた。清潔な白いテーブルに置かれた注文の品を目にしただけで、私の期待はなぜか半分しぼんだ。次に、口にしてみて、それはシャボン玉のように消え果てた。かつて私にこの店に通い続けさせた美味さのかけらさえもそこには感じられなかった。チャーハンの、味の沁みこんだ温かいご飯ひと粒ひと粒の、それを含んだ口中に広がるほっこほっこした感じ。餃子の肉汁たっぷりの具を包んだ半透明な薄皮が舌を楽しませてくれるビロビロした感じ。それらの感触がまるで感じられなかったのだ。私の舌は、この新店舗にご主人の味が伝授されなかったことを告げていた。事実かどうかは定かでないけれど、私の脳裏におのずと「冷凍食品」の文字が浮かんだのは確かなことだ。妻が味の感想を言うように私に催促するのだけれど、私はあいまいに押し黙るよりほかはなかった。先代はどうしているのかと店に尋ねる気など、当然のことながら失せてしまった。悪い予感はやはり当たったのだ。

 ここからは私の妄想である。賢明な読者には、苦笑しながら見逃していただきたいと思う。
 八〇年代後半のバブル経済の最中に、この繁盛している店をめぐって、大きな金が動いたような気がするのである。古久屋という中華料理屋のなんたるかを本当のところはよく分からないおっちょこちょいな連中が、その中で浮かれ騒ぎ小踊りした。あるいは、金融機関から踊らされた。そんな、足が地につかないような状態で、彼らは入れ知恵されたチェーン店のノウハウを頼りに、駅の真正面に規模を拡大して移転した。
 そうやって調子づいているうちに、彼らはかけがえのないものを台無しにしてしまったのである。

 先代は無心の人だったのだ。その不思議な笑顔は、中華鍋を回し続けるうちに培われた心根からおのずと浮かんできたものであることを、いまさらながらに理解できるのである。料理に込められた先代の、あえて言葉にすればまごごろとでも称するよりほかにないものが古久屋に私たちを導いていたのだった。
 店員たちの、マニュアル臭のする「ありがとうございました」のかけ声を背に受けながら店を出た。晩秋の夜のとばりが降りてからの薄ら寒い外気が身に沁みた。私はジャンパーの襟を立てて、駅のやや急な階段をえいっと腹の底にかすかな怒気を込めながら昇り始めた。妻は、私の歩き方が早すぎると文句を言った。


(『ひつじ通信』掲載 掲載年月未詳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分かりやすく言い換えることについて (古松待男)

2014年12月22日 12時29分13秒 | 古松待男
分かりやすく言い換えることについて

古松待男(こまつまつお)



最近の新聞にこんな記事が載っていた。

 ポケモン人気は国境も越える。最新作は日本語だけでなく英語、スペイン語など計7言語に対応。ほぼ同時に世界各地で発売する。ネット普及で世界中の子どもたちが時間差なく最新情報を手に入れている。人気ゲームを外国語対応させて海外展開するのは日本企業の常とう手段だが、数カ月の遅れが新作の熱気を冷やしてしまっていた。(『日本経済新聞』2014年11月22日付 朝刊)

 内容そのものにはあんまり関心がなかったので特になんの感想も持たなかったが、ただ、「常とう手段」という表記はなんだかマヌケだな、とだけ思った。

 テレビや新聞を見ていると、こういう例がしばしば見つかる。例えば、「ら致」だったり「終えん」だったり「じん大な被害」だったり「精ちな表現」だったり「標ぼうする」だったり「肺がんのり患率」だったり「現実と理想とのかい離」だったり・・・、まぁ、このほかにもいろいろある。前々から思っていたが、このように熟語の一部分を平仮名に置き換える表記法はなんだかマヌケだし、マヌケなだけじゃなくて読みにくく分かりにくい。


1 漢字使用制限
 この種のマヌケな表記の源流は1946年の当用漢字表導入による漢字使用制限に遡れる。当用漢字表とは日常のなかで使用する漢字の範囲とその読み方、標準となる字体を定めたリストである。
種類が多く難解で煩雑な漢字表記を改めるべきだという声はかなり前から既にあった。かなり前、というと・・・我が国の郵便制度の礎を築いた前島密は維新前夜の1866年の段階で将軍慶喜に漢字を廃止し仮名表記に統一すべきであると提案していた、という例が挙げられるだろう。また、日本が近代化を果たしてからも議論は絶えず、いずれも実施こそされなかったが1922年には「常用漢字表」、1942年には「標準漢字表」という名で漢字制限の具体的なリストが作成されていたらしい。ずいぶんと昔からあちらこちらで唱えられていた漢字表記への異議は戦後間もない時期に大いに高まった。さらに、一部では漢字の使用そのものを廃止してローマ字を導入するべきだという声も上がった。「大衆的ローマ字運動へ」と題された1946年4月11日付『讀賣報知』社説は次のように始まる。

 日本の民主化については、漢字の廃止とローマ字採用の必要であることを、いままで二回ほどわれらは本欄において主張したが、米国教育使節団の報告においてローマ字採用の必要が指摘されてゐるのをみてまことに喜ばしく感ぜられた。この報告が實行に移されるとすれば、國語のローマ字書きは遠からず實現されるわけで日本民族と文化との發展のうへに革命的な影響を與えるにちがひない。

 いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だ。日本の「民主化」を実現するためには漢字を廃止してローマ字表記に改めた方がよい、ローマ字採用は日本民族と文化の発展に革命的な影響を与える、との内容を「米国教育使節団の報告」という外圧を用いて主張している。この引用の後には、ローマ字反対論が極めて根強いということを指摘しながらも、大衆運動を起こせば三年か五年の内に日本語はローマ字表記になる、ローマ字を習った子どもたちはすぐに不便な漢字仮名交じり文を嫌いになる、漢字とともにそれに付随する封建的観念は日本人の頭から一掃される・・・・などという楽観的な見通しが続く。
 いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だが、そのように感じてしまうのは私が当時の日本国内の空気に肌で触れていないからなのかもしれない。この社説の書かれた敗戦後間もない時代は、戦中戦前の「軍国主義」を猛省し、日本をいかにして「民主化」するのかという課題を前に皆が必死になっていたのだろう。国が亡びるかどうかというぎりぎりの状況の中で、難解で複雑な漢字が「ファシズム」を導き、「民主化」を阻む「封建主義時代」の遺物としてやり玉に挙げられるのも分からなくはない。きっとみんな必死だったのだろう。どうにかしようと懸命になっていたのだろう。敗戦に打ちのめされた先人たちの苦悩とそこから這い上がろうとする努力に敬意を払いつつ、ローマ字採用なんて愚かな策を採らないでよかったとホッとする。もしも朝、起床して一番につけたテレビにローマ字のテロップが映り、ひらいた新聞にローマ字がびっしり並んでいたら一日の始まりの気分は台無しになるだろう。

明治維新以来官民問わず様々なところで検討されてきた漢字制限は、一連の昭和の御一新の動きの中、「当用漢字表」という形で実現された。
漢字を制限することの目的は二つある。一つは教育上の配慮であり、もう一つは円滑な意思疎通のためである。たくさんの漢字を覚えるのは大変だし、覚えるのが大変な漢字で情報のやり取りをするのは困難である。だから制限するべきだという人たち(これを「表音派」と呼ぶ)と、そんなに急速に制限したら社会は混乱するし伝統文化が壊れかねないから慎重になるべきだという人たち(これを「表意派」と呼ぶ)とが長いこと相争ってきた。それが敗戦となり、「民主化」というイデオロギッシュな色彩をまとうことによって時代の空気とマッチした「表音派」がついに一定の勝利を収めた、ということになるだろう。
 しかしこの勝利は飽くまで一定のものに過ぎない。当用漢字表導入当初から漢字制限の問題点を指摘する声は上がっていた。出来上がった表を見てみると、ごく普通に使いそうな漢字でも見当たらないものがあった。当用漢字表の中には例えば、「犬」はあるが「猫」はない。「松」はあるが「杉」はない。「杯」はあるが「皿」はない。なにゆえあれはあるのにこれはないのか。どうしてあれじゃなくてそれにしたのか。・・・それなりに頭のいい人たちがいろいろ考えて作ったリストなんだろうが、なんであれ甲を選び乙を捨てる作業を誰もが納得する形で行なうのは難しいことだ。ましてやそれが、これから毎日使っていく漢字の選択ともなれば完璧なものとすることは限りなく不可能に近い。
 そういうわけで、急速な変革であった1946年の当用漢字表導入から現代にいたるまで二回の見直しがあった。一回目が1981年の「常用漢字表」で、二回目が割と最近のこと、2010年の「改訂常用漢字表」である。
「表音派」の中には当用漢字表以後もどんどん使用できる漢字の数を減らしていくべきだと考えていた人もいたらしいが、現実はそのようにはならなかった。使える漢字の数は「当用漢字表」では1850字、「常用漢字表」では1945字、「改訂常用漢字表」では(196字増5字減の)2136字、と、漢字表の改定ごとに使える数は増えていった。ほんの一例を挙げれば、1981年には(念願だった?)「猫」「杉」「皿」などが追加されている。また、2010年には拉致の「拉」や精緻の「緻」などが新しく表に加わった。つまり、二回の改定を経て制限は緩くなっていっているのである。
 
 学びやすさや分かりやすさを求めて漢字の使用範囲を制限する試みは、しばしば反対に遭う。同じ意味を持つ単語ならば、字画の多い字よりは少ない字を選んだ方が効率的である。同じ内容を表わせるのならば、数限りなく存在する漢字を覚えるよりも、よく使うものに限定して覚えた方が経済的である。もっと言えば、漢字なんか使うよりも、全部で30字に満たないローマ字を使うことにする方が賢い。しかし、このような意見に賛成する者は少ない。
 或る表現を別の表現に言い換える際、時として私たちはためらうことがある。このとき二つの表現の間には、言い換えても言い換えきれないものがあるのだということになるだろう。


2 言い換えても言い換えきれないもの
 
「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる。」しかし、実際に私たちが普段使う具体的な言葉を挙げてこのことを確認してみようとすると、あんまりうまくいかない。「恍惚」と「うっとり」はおんなじ意味のように思えるけど、だからと言ってこの世の中のありとあらゆる文章の中に登場する「恍惚」という言葉をひとつ残らず「うっとり」に言い換えるのは気が引ける。気が引けるぐらいで諦めたりせずに勇気を振り絞って言い換えればよいではないかと言われるかもしれないが、気が引ける時点で二つの言葉が同値でないことを私たちの繊細な精神は感じ取ってしまっているのである。「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる」というのが正しいかどうかはひとまず置いといて、とにかく、私たちが普段使う言語や記号には厳密な意味で同値のペアは存在しないので、日常語を用いてこのテーゼを確かめることできない。「恍惚」と「うっとり」は同じ意味の言葉として言い換えることができるだろうが、言い換えきれない要素がそれぞれに備わっているのである。
 言い換えても言い換えきれないものは、大雑把に言って、二種類に分けられる。ひとつが記号そのものの特徴に関わるもので、もうひとつが記号の来歴に関わるものである。順に見ていこう。

2-1 記号そのものの特徴
 「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? 明白な違いは記号そのものの特徴の違いである。つまり、声に出したときには音の響きが違い、書いたときには字の形が違う。音の響きと字の形は、「恍惚」と「うっとり」を言い換えるときに言い換えきれないものである。言葉は意味を持つから意味にばかり目が行ってしまうが、記号としての物理的な特徴を持っていることを忘れてはならない。
 言葉の物理的な特徴は意味と必然的な結びつきをもっているわけではない、というのはきっとそうなんだろうけれど、なんとなく、「うっとり」という響きはうっとりとした様子をうまく表わしているような気がする。あしたから「うっとり」という言葉の代わりに「しっかり」という言葉を使用するように取り決めたとする。この取り決めに従って「太郎はしっかりした」と言ってみても、太郎が恍惚とした様子とうまくマッチしていない。うまくマッチしていないと感じるのは、これまでにうっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきたからだ、と言われてしまえばこちらは何も言い返せない。その場合、しばらくのあいだ違和感に耐えればやがて「しっかり」が恍惚とした様子をうまく表わしているような気がしてくることになる。まぁでも、うっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきた人間の感覚からすると、「うっとり」はやっぱりうっとりしているし、「しっかり」はやっぱりうっとりしていない。うっとりとした様子は「うっとり」という響きや形において表現されている、という気がする。
 この種の記号そのものの特徴は、とりわけ文学や演説や言葉遊びなどの場合に重要な要素として現れてくることが多い。これらの局面での言葉の使用は、リズミカルで心地よい響きそれ自体への愛好をうまく利用してそれぞれの目的を果たしていると言える。それゆえ、(同じ言語内であれ異なる言語間であれ)別の表現に言い換えることによって、一定の名文句はもともとの良さが半減してしまう(し、ダジャレならば良さが半減するどころかその生命が完全に失われてしまう)。例えば、ピュタゴラス一派の言葉とされている「肉体は魂の墓である」という言葉は、その意味内容だけではなく、ギリシア語の「肉体(sōma)」と「墓(sēma)」が似た響きと字面を持っていることによって名文句たり得ている。だから、当時のギリシア人がこれを聞いたら「ソーマとセーマか・・・、なるほど、こいつ上手いこと言ってるなー」と感動できるのだろうけど、ギリシア語の分からない私は残念ながら同じ感動を味わうことができない。
 言葉そのものの特徴は他の言葉に言い換えた瞬間に不可避的に消えてしまう。しかしながら翻訳者は、意味だけじゃなく原文の持っている彩りをも出来るかぎり訳文に反映させたいと願うものだろう。オーソドックスな手としては、意味内容を言い換えたのちにルビで音を振るという方法が挙げられる。「肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)である」とすれば、読み手は「ああ、ギリシア語では韻を踏んでるんだろうなー」という見当をつけられる。私はこのような翻訳法で十分だと思う。芸がないとは思うが仕方ない。
 芸があると思ったのは、『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」のところに出てくる«сосну, как со сна»という台詞を「まつがまつわりつく」(原卓也訳)あるいは「うめをゆめのように」(米川正夫訳)と言い換えた日本語訳である。この翻訳は原文の意味を(まぁ、それなりに)保存しつつロシア語の言葉遊びを見事に日本語に移し替えている。ルビを振って「松の木(サスナー)を夢(サスナー)で」(亀山郁夫訳)としてる訳もあったが、おそらくこれが意味的には原文に忠実である・・・のではないかと私は踏んでいる。踏んでいる・・・というのも、私はロシア語をなにひとつ知らないので、正直なところよく分からない。のだが、きっとそんなとこだろうと思う。違っていたらごめんなさい。
 他に芸があると思ったのは、ジョルジュ・ペレックの小説『煙滅』の邦訳である。この小説は特定の文字(アルファベットのe)を使わないで書かれているリポグラム(文字落とし)という技法が用いられているが、これを日本語にする際に訳者の塩塚秀一郎氏は「い」段(い、き、し、ち、に、ひ、み、り、ゐ)の文字を使わないで訳出した。これも原文の意味だけではなく言葉そのものの特徴を踏まえた置き換えである。訳者あとがきを読むと、これがいかに骨の折れる作業だったかが感じとれる。
 もちろんこうした芸のある言い換えといえども、原語のもつ記号そのものの特徴を保存しているわけではない。ただ、言い換える際に意味にばかり囚われず、記号そのものの特徴に注目していることがよく分かる例だと思う。
 
 記号そのものの特徴を言い換えることができないということは、この議論を非言語記号にまで拡張させれば、より一層明らかとなる。「花」を詠んだ詩と「花」を描いた絵は、仮に同じ場面を表わしていたとしても、異なる情感を帯びている。リヒャルト・シュトラウスによる同名の交響詩が世に出たからといってニーチェの『ツァラトゥストラ』がそれに取って代わられることなどありえない。なぜなら、仮に同じ意味であったとしても、記号そのものの特徴が、あまりにも異なっているからである。
 言語記号であれ非言語記号であれ、同じ意味を持つものとして言い換えたとしても言い換えきれないものがどうしても残るのだが、その一つが記号そのものの特徴に関わる要素であることが分かった。次は、もう一つの要素である記号の来歴に関わるものについて考えてみよう。

2-2 記号の来歴
 「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? それはこの二つの言葉が辿ってきた歴史である。「恍惚」はどちらかと言えば日常であんまり使われないのに対して、「うっとり」は普段の会話の中でも出てくる。「恍惚」という言葉をどこかで小学生が口にしたら変な感じがするが、「うっとり」という言葉ならば別に違和感はない。「恍惚」という字は、二つとも立心偏が付いているから何かこころと関連するものとしてイメージされてきただろうし、「惚」の右側には「忽」という字があるから何かこころ(心)がうつろ(勿)な様子と関係づけられてきただろう。しかし、「うっとり」に同じような連想は生まれない。このように、同じ意味の言葉であってもそれまでに違う歴史を歩んで来れば、どのような場面や文脈において使用されて来たのか、どのような人たちによって使用されて来たのか、他のどのような言葉や事物と関係づけられてきたのか、という点において異なってくる。
 こうした言葉の来歴については人によって捉え方が異なる。「恍惚」という言葉を「うっとり」よりもよく使うという人も居るかもしれないし、「恍惚」という言葉を頻繁に使う小学生が近所にたくさん住んでいるという人も居るかもしれない。また、「恍惚」という言葉をわざわざ分解して「心」という言葉と連想させたことなどないという人も居るだろう。一つの言葉の来歴は、百人いれば百通りに語られうる。
 百通りに語られる一つの言葉の歴史の中には、偶然的なものもあるだろうし、間違っているものもあるだろう。「歯」という字に「米」が含まれていることを見て、歯で米を噛むからこんな字になった、という連想を膨らませる人も居るかもしれない。しかし、「歯」と「米」はなんら関係ない。「歯」という字は略字であり、この字体が導入されるまでに使われていた「齒」の字の中に「米」は見当たらない。それならば、「米」の代わりに「人」があるから、歯はもともと「人」と関連付けられていた、というのもまた違う。漢和辞典をひらいてみると、「齒」の下の部分は歯の見た目をそのまんま象ったものである、というようなことが書かれてある。辞典に書いてあるんだから、これが差し当たり正しい起源ということになるのだろう。このように言葉は日々誰かによって使われているものだから、誤った連想がなされる場合もある。
 人によってさまざまで、かつ、間違えることもある言葉の歴史もまた、私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素である。言葉は対象や概念への純粋な指示作用をもつだけでなく、使われていくごとに様々な印象、種々の観念、雑多な想念と結びついたり離れたりしながら歴史を蓄積させていく。学術用語として漢語やラテン語が用いられたり、完全に新しい術語が考案されたりするのは、日常語のもつ歴史性を断ち切り純粋な指示作用を出来る限り担保するためである。また、差別的な意味合いをもつ単語が使用禁止になり他の単語に言い換えられるのも同じ事情による。いつだったか、人種問題を扱ったテレビの一場面で「彼らは決して口にしてはいけない単語を叫んでいた。nから始まる単語をね。」とアメリカ人が言っていた。“negro”という単語は、語源に当たるラテン語のnigerまで遡れば純粋に「黒い」または「暗い」という意味を表わす言葉だったようだが、長い歴史を経て黒人に対する侮蔑的な意味合いを獲得していき、今や単なる引用として口にすることすら憚られる言葉になってしまったのである。本当は侮蔑的な意味合いなんてなかったのに・・・、と嘆いたところで今さらもう遅い。

1946年に使える漢字の範囲が定められて以来用いられるようになった代用字という表記法は、ある時点において言葉の持っている歴史を無視した上に成り立ったものと言えるだろう。代用字とは漢字表に載っていない漢字を表わすために、音が同じ漢字を同値のものとして置き換えることである。たとえば、当用漢字表に「苛」という漢字が載っていなかったので困ったことに「苛酷」という熟語を作ることができなくなるが、「苛」の代わりに「過」を用いて「過酷」とすれば、これは使っても許される漢字なので難を逃れることができる。他には、「理窟」と「理屈」、「禁錮」と「禁固」、「藝術」と「芸術」の例がある。前の方が元々の綴りで、後ろの方が代用表記である。
「過酷」も「理屈」も「禁固」も「芸術」も、当用漢字表が世に出てから半世紀のちに国語教育を受けた私からすれば、なんら変な感じはしない。マヌケな印象も受けない。しかし人によってはこうした表記に違和感を持つこともあるかもしれない。今道友信氏の本(『美について』、講談社現代新書、1973年、75頁あたり)を読んだときに知ったのだが、「芸」は「藝」の単なる略字ではなく、まったく別の歴史を歩んできた字であるということらしい。しかも、「藝」がもともと「ものを種える」という意味であったのに対して、「芸」は「草を刈りとる」という、言ってみれば反対の意味を持つ字であるそうだ。このことを踏まえ、芸術というのは「人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技」であるから「藝」の字を用いた方が適切である、と今道氏は述べている。
 私はこのことを知り、自分自身の漢字に対する知識、教養、感性の欠如を深く恥じ、これからは「藝術」と書くようにしようと自らに固く誓ったつもりだったが、ひと月と持たずにふたたび「芸術」と書くようになってしまった。いまでは何も見ずにこれを書けるかどうかも怪しい。こうなってしまったのは、たんに画数が多くて面倒だというよりは、その面倒臭さを厭わずに書こうとするだけの動機がなかったからである。確かに、「芸」と「藝」に違いがあるという知識は得ることができたし、「藝術」というのが適切な表記だという考えには納得したのだが、両者の違いを感覚として捉えられているとは言えず、また、「芸術」と書いても別にさしたる違和感が生じない以上、難しい字をわざわざ書く理由はない。

 私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素、記号の来歴はなにも正史だけに限定されるわけではなく、野史も外史も含まれる。米を噛むから「歯」だといった民間伝承も、「恍惚」が口癖の小学生が居たといった思い出も、記号の来歴と呼ぶに十分な資格を持っているのである。


3 分かりやすさについて
 誰かと意見を交換したり、大勢の人に向けて情報を発信したりする際には、出来る限り分かりやすく表現することが求められる。もちろん、聞き手や読み手が理解できないように敢えて難解な言葉を弄することがプラスに働く局面もあるだろう。厳粛な儀式で使われる呪文やお経なんかはどんな意味だか分からない方が有り難みがあるし、学術論文で使われる言葉なんかは耳に馴染みのない専門用語を多用する方が著者は自分を頭よさそうに見せることができる。しかし、大体の場合において分かりにくい言葉遣いを分かりやすい言葉遣いに言い換え、難しい言い回しを簡単な言い回しに言い直すことが要請される。
 漢字制限は、普段使う文章を分かりやすい表記にすることを目的の一つにしている。しかし、何が分かりやすい表現で何が分かりにくい表現なのかは、場面によって変わってくる。平仮名ならば分かりやすくて、漢字ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。大和言葉ならば分かりやすくて、漢語ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。専門用語を日常の中で多用することが円滑なコミュニケーションを阻害するのと同じように、専門家集団を相手にしてその中で既に通用している専門用語を日常語に言い直したら混乱するだろう。一様に分かりやすさの規準を与えることは困難である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元朝日新聞記者・植村隆氏の処遇について (小浜逸郎)

2014年12月18日 21時09分41秒 | 小浜逸郎
*編集者から:以下は、小浜逸郎氏ブログ「言葉の闘い」から転載した論考です。相変わらずの舌鋒鋭い知識人批判・マスコミ批判です。知識人村の文化力の低下はとどまるところを知りません。

元朝日新聞記者・植村隆氏の処遇について



 2014年12月18日付の朝日新聞によりますと、北星学園大学は、いわゆる従軍慰安婦問題に大きな「功績」があった同大学非常勤講師の植村隆氏との雇用契約を来年度も更新することを発表しました。その記事の重要部分を以下に抜粋します。

 北星学園大には3月以降、植村氏が朝日新聞記者時代に書いた慰安婦問題をめぐる記事は捏造(ねつぞう)などとする電話やメールが相次いだ。5月と7月には植村氏の退職を要求し、応じなければ学生を傷つけるとする脅迫文も届いた。10月には、大学に脅迫電話をかけたとして60代の男が威力業務妨害容疑で逮捕された。

 田村学長は10月末、学生の安全確保のための警備強化で財政負担が増えることや、抗議電話などの対応で教職員が疲弊していることなどを理由に、個人的な考えとして、植村氏との契約を更新しない意向を示していた。しかし、その後の学内での議論では学長の方針に反対する意見が相次いだ。中島岳志・北海道大准教授や、作家の池澤夏樹さんら千人以上が呼びかけ人や賛同者に名を連ねた「負けるな北星!の会」が発足するなど、学外でも大学や植村氏を支援する輪が広がりをみせた。

 大山理事長は「脅しに屈すれば良心に反するし、社会の信託を裏切ることになると思った」と述べ、植村氏との契約更新に賛成の立場だったことを明かした。

 契約が継続されることになった植村氏は「これからも学生たちと授業ができることを何よりもうれしく感じています。大学も被害者で学長はじめ関係の方々は心身ともに疲弊しました。つらい状況を乗り越えて脅迫に屈せず、今回の決断をされたことに心から敬意と感謝を表します」とのコメントを出した。(関根和弘)


 ■支援者スクラム、よい先例に

 「負けるな北星!の会」の呼びかけ人で精神科医の香山リカさんの話 「学問の自由」は憲法にもうたわれ、長い歴史を持つ重要な問題です。この間、事件そのものより元記者や朝日新聞社の責任を問い、間接的に脅迫を肯定するかのような議論が、ネットを中心に一部で見られたのは大変残念だった。万一、また学問の自由や大学の自治を侵害する卑劣な行為が起きた場合、大学内部で対処せず、今回のように情報公開し、外部の支援者がスクラムを組んで大学を守る方法が有効ではないか。その意味でよい先例になったと思う。


 一読してなんてひでえ話だと思いました。あきれてものが言えないとはこのことです。でもあえてものを言います。
 ひでえ話というのは、北星学園大学が植村氏との雇用契約を継続することに決めた事実そのものにあるのではありません。そんなことは勝手にやればよい。ここには、それとは別に何重にもからまった「ひどさ」が見られます。それを解きほぐしてみましょう。

 まず第一に、この記事が当の捏造を行った朝日新聞によって書かれているという事実。
 この記事では、形ばかりの謝罪と社長辞任でお茶を濁した朝日が、捏造の張本人である植村氏に対してどういう見解を持っているのかが一行も書かれていません。その代わりに「負けるな北星!の会」とやらから有名知識人三人を担ぎ出して、自分たちおよび植村氏があたかも世の不正に対して雄々しく闘っているかのごとき論調を、恥ずかしげもなく示しています。不正を犯し、国益を著しく毀損したのはいったい誰なのか。そういう反省の意識が、朝日にはまったく見られないことがこれでよくわかります。
 もちろん、植村氏を辞めさせないと学生を傷つけるとの脅迫文を大学に送りつけるなどの行為は、卑劣そのものです。植村氏の慰安婦問題にかかわる言動自体は、大学当局には直接関係がありませんから、社会的制裁は植村氏自身に向けられるべきです。そしてその方法も、本人の記者会見による釈明を求めるとか、捏造記事を書いた人間が大学で教える資格があるかどうかを言論機関を用いて問題化するといった形を取るべきでしょう。
 しかし朝日のこのたびの不祥事に対する世の大方の心情が、きわめてネガティヴなものに傾いていることも事実であって(じっさい朝日はそれに値することをし続けてきたのですから)、脅迫などの感情的行動もその過激な一面としてとらえることができます。朝日はそういう非難攻撃の刃を、まず自分自身の問題として真摯に受け止めるべきなのに、その形跡が微塵も見られません。こんな新聞に何を期待しても無駄でしょう。

 第二に、当事者である植村氏が、救ってもらってうれしいというだけの、何とも情けないコメントを出していること。
 一応、一流紙を気取ってきた新聞のジャーナリストなら、それなりの誇りというものがあるでしょう。記者会見にも応じずこそこそ陰に隠れて、脅迫に対して自ら立ち向かう姿勢も見せず、ひたすら大学当局や行政府やバカ知識人の援助とガードに依存して、「心から敬意と感謝を表します」とは何事か。言論人として闇の権力を握ってきたのだから、自分の不始末は自分でつけたらどうでしょう。あるいは、自分のしたことを悪いと思っていないなら、その信念を堂々と開陳したらよろしい。まったく言論人の風上にも置けない人とはこれを言います。
 たかだか非常勤講師職程度のものをさっさと捨てることもできずに汲々としているこんな臆病者に教わりたいと思う人がいますかね。学生諸君、北星学園大学に入学しても、植村氏の講義だけはボイコットしましょうね。ちょっと万引きしても盗撮しても、見つかれば犯罪者扱いです。植村氏は「情報犯罪人」なのだから、最低限それくらいの社会的制裁は受けるべきでしょう。

 第三に、大学の態度ですが、これまた事なかれ主義でうろうろ彷徨うへっぴり腰も甚だしい。仮に植村氏の所業が当大学の教員としてふさわしくないと考えたのなら、さっさと辞めさせればよい。というのも、彼は別にお料理を教えているのではなく、まさに新聞を使って世界情勢を解説する講義を行っているのだから、前歴からしてその講義内容に疑問符が付くのは当然です。泥棒の前科がある人が講師として迎えられて、学生に盗みの手口を教えるようなものでしょう。
 またもし植村氏のこれまでの言動を正しいか、または、これくらいなら大学で教鞭をとるのに差し支えない許容範囲だと思うなら、大学当局の名でその根拠をきちんと説明した上で、よって雇用を継続すると言明すればよい。とにかく、「学問の自由」を標榜するなら、植村氏の雇用継続の是非にかかわって、大学として朝日新聞のこのたびの不祥事についてどう考えるのか、具体的な内容に踏み込んだ声明くらいは出すべきではないでしょうか。それくらいの主体的な判断ができないとは、学問の府としての名が泣きます

 第四に、中島岳志氏、池澤夏樹氏、香山リカ氏の三人の知識人ですが(ほかにもたくさんいるのでしょう)、この人たちは、知識人としての役割をなんら果たさないままに、「負けるな北星!の会」とやらに参画して、自分の名前の力と群れの力を利用して、ひたすら知識人村の防衛に走っているようです。一人で闘わずに、こういう「集団的自衛権」を平然と行使するインテリたちは、大江健三郎氏、柄谷行人氏、坂本龍一氏、内田樹氏など、これまで腐るほど見てきましたが、不思議なことに、この人たちの口から、なぜそういう運動集団を作るのか、個々の問題に即した説得力ある言論を聞いたためしがありません。つまり彼らは、知識人としての役割をなんら果たしていないのです。
 今度の場合も同じで、いやしくも言論を物する人士なら、少なくとも朝日新聞が自ら「誤報」(じっさいは意図的な捏造)と認めている従軍慰安婦問題について、自分はどう考えるのかをはっきり言明してから、集団参加を決めるべきではないでしょうか。精神科医を自称する香山氏の口から「学問の自由は憲法にもうたわれ」などと陳腐なセリフを聞きたくありません。朝日新聞が歴史の捏造に一役も二役も買っていたことが明るみに出たのは、秦郁彦氏をはじめとした学者に「学問の自由」が保障されていたからこそではありませんか。
「この間、事件そのものより元記者や朝日新聞社の責任を問い、間接的に脅迫を肯定するかのような議論が、ネットを中心に一部で見られたのは大変残念だった」とは恐れ入り谷の鬼子母神。元記者や朝日新聞社の責任を問う議論がどうして「大変残念だった」のか、自ら言論の自由を否定している、そのあっと驚く言い分を前にしては、香山氏自身の精神状態を疑わざるを得ません。医者の不養生とやら。お気を付けあそばせ。
「外部の支援者がスクラムを組んで大学を守る方法が有効ではないか」というのも、神経を疑います。守られたのは大学ではなく、植村氏自身ですよ。大学はむしろこのたびの決定によって、さらなる脅迫にさらされないとも限らない。しかしその場合でも、知識人村防衛軍のスクラムなどは必要なく、大学が独自の判断で警察に届けたり、植村氏の処遇について改めて考えれば済む話です。それくらいの自立性と責任を担わずに、何が大学の自治でしょうか。
 香山氏はじめここに登場した知識人の方々は、世に理不尽な目に遭っている人がごまんといるのに、その人たちを個別に「守る」スクラム行動に出たことがあるのですか。私もないので、口幅ったいことは言えませんが、少なくとも、学問、言論の自由を悪用した「情報犯罪人」を守るような振る舞いだけはやめた方が身のためですよ。

 朝日新聞という捏造メディアから甘い蜜をもらって群がる知識人村の人々よ。自分たちがどれほどこういうインチキなマスコミの薄汚いプロパガンダに利用されているのか、まずはその自覚を骨身に叩き込み、そこから自分の言説を立て直すことをお勧めいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

2014年12月18日 01時49分32秒 | 後藤隆浩・上田仁志

屋久島の森と小川 http://www.pakutaso.com/userpolicy.htmlより転載させていただきました。

「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

後藤さん、こんにちは。

「偏愛的文学談義」という題名でやりとりをすることに決めてからだいぶ日にちがたちましたが、このたびようやく開始の運びとなりました。〈こだわりのテーマ〉や、〈とっておきの題材〉ばかりでなく、そのときどきの興味ある話題をざっくばらんに語り合えればよいと思います。

さて、最初にとりあげるのが、今年惜しくも亡くなった哲学者・木田元さんというわけですが、なかなか重厚感のあるスタートです。木田さんは、後藤さんが長年にわたって親しんできた著述家のひとりであり、直接その人柄にふれる機会もあったとも聞いていますので、話題は多岐にわたることでしょう。

一方、私にとっての木田さんは、とどのつまり、現象学やハイデガー哲学のすぐれた解説者といったところかもしれません。「解説者」というと、なんとなく独自性がとぼしいように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。すぐれた解説者の条件とは、「わかりやすい」、「面白い」、「ふところが深い」の3つであろうと思いますが、これらをすべてかねそなえた哲学の専門家はそうめったにいません。哲学のよき解説者たるには、研究者として優秀なだけでは不十分なので、徹底した自前の思索が不可欠です。まして相手が『存在と時間』のような錯綜した思想書であればなおさらでしょう。

木田さんの『ハイデガーの思想』(岩波新書)は、三拍子そろった哲学解説書の名著です。平易かつ明快な言葉で、「存在了解」から「存在の生起」へというハイデガー思想の核心にある〈転回〉を解き明かしているばかりではありません。個別に見ていたのではつながりがよくわからなかった概念同士が、深いところで有機的につながって、西洋形而上学を貫く広大な流れ(ハイデガーの言葉でいえば、「存在史」)が姿を現わしてくるのです。そうしたスケールの大きな思考はもちろんハイデガーの中にあるものですが、木田さんの解説は、それを熟練の腕さばきで、一般読者に伝わるように再構成してくれるのです。

目からうろこの落ちる場面は随所にありますが、〈現前性〉という概念の説明はその一つです。昔流行したジャック・デリダの「現前の形而上学批判」では、〈現前性〉はもっぱら敵役とされていて、そうした観念がハイデガーに由来することも知られていましたが、〈現前性〉のどこがいけないのか正直いってピンときませんでした。木田さんによれば、ハイデガーは、〈現前性〉という概念に、〈制作され終わって、それ自体で自立して存在し、いつでも使用されうる状態で眼前に現前している〉という意味合いをもたせているというのです。ハイデガーは、「古代ギリシアの存在論の了解地平として働いているのが、人間の制作行為だということ」を明らかにしました。〈存在=現前性〉とは、〈存在=被制作性(作られて在るもの)〉にほかならなかったのです。このようにハイデガーは、(ニーチェにならって)プラトン=アリストテレス以来の存在論を相対化し、「ソクラテス以前の哲学者」には、それとは異なる〈存在=生成〉という存在了解が見られることを論じました。

木田さんのハイデガー解説を読むたびに強く感じることは、木田さんはハイデガーという人物の著作に心底付き合ってきた人だなということです。『ハイデガーの思想』が出たのは1993年ですが、そのだいぶ前から木田さんはハイデガーを相対化してとらえるようになっています。「今世紀最大の哲学者」としての圧倒的・持続的影響力は認めざるをえないとしながらも、ハイデガーのナチス加担には根の深い問題があることを認めてもいます。しかし、そんなことは他の誰でもいいそうなことに思えます。

『存在と時間』を読みたい一心で哲学科に入った木田さんですが、はじめの20年間はハイデガーについて1行も書けず、ハイデガーに対するアンビバレントな気持ちを自覚するようになってからようやく適当な距離がとれて論じられるようになったそうです。

木田さんのハイデガー論の妙味は、主著とされる『存在と時間』が実のところ「未完成の失敗作」にすぎないと喝破したところにあります。そういう事実もまた専門家の間では知られていたのかもしれませんが、なにしろ本のオーラが強すぎました。あれだけ強い影響力をもった本が「未完成の失敗作」ではいかにも都合がわるいのでした。

木田さんは、『存在と時間』の初期草稿にあたる「ナトルプ報告」や講義録「現象学の根本問題」をはじめとするさまざまな資料をたんねんに読みぬき、ありうべき『存在と時間』を再構成するという芸当までやってみせています。ハイデガー関連の一連の仕事を通じて実感されることは、賞賛するにせよ、批判するにせよ、木田さんは決して観念的にものをいってはいないということです。ハイデガーを問題とする人たちは往々にして観念的、イデオロギー的です。そして学者たちは新しい解釈を求めることに汲々としています。木田さんのハイデガー論は、そうした思想や学問の流行に関係なく、今後も一般読者に読みつがれていくでしょう。

 後藤さんは、木田さん(ならびに彼の盟友だった生松敬三氏)の著作を昭和精神史としてとらえるべき必要性を示唆していますが、次はそのあたりをぜひ聞きたく思います。私の方は、昭和精神史ということでいえば、木田さんの小林秀雄への関心と、木田さんが考える小林とハイデガーとの類似点についてみていきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「偏愛的文学談義」(その1)後藤→上田 (後藤隆浩・上田仁志)

2014年12月16日 19時12分19秒 | 後藤隆浩・上田仁志

池永康晟(いけながやすなり)*本文とは直接のつながりはありません。

編集担当より:新企画です。後藤隆浩氏と上田仁志氏による文学談義を無期限連載いたします。おふたりの、文学をめぐるやりとりを身近に見ながら、よくぞ話題が尽きないものだと感心したのは一度や二度ではありません。物静かな雰囲気なのではありますが、そこには文学への尽きることのない情熱と、これまで幾度も議論を重ねてきたことによる言葉の層の厚みのようなものとが感じられるのです。そのライヴ感がうまく出れば、魅力的な読み物になること請け合いです

「偏愛的文学談義」(その1)後藤→上田
上田仁志様

この度、往復書簡形式による「偏愛的文学談義」を始めることになりました。文学を中心に様々な話題を取り上げて、論じ合っていこうという企画です。どうぞよろしくお願いいたします。この企画の原案が固まったのが八月上旬のことでした。その後、具体的な内容についていろいろと案を考えていたところへ、木田元氏の訃報が伝えられました。木田氏の文筆活動は、我々も含めて広範囲の多くの読者に、様々なレベルで影響を与え続けてきたものと思われます。木田氏追悼の意を込めて、最初のテーマは木田元論ということで始めたいと思います。

木田氏は1990年代に入ると、広く一般的な読者を対象とした文筆活動を展開し始めました。初エッセイ集『哲学以外』が出版されたのは、1997年。翌1998年には、1994年からの連載をまとめた『わたしの哲学入門』が出版されています。以後、エッセイ集、対談、新書、自伝の出版が続きます。このような一般読者向けの著作は、多くの読者の関心を、木田氏の哲学的著作へと導いたものと思われます。ここ20年程の間、日本の読書界は、静かなそして確かな読者の意識に支えられた「木田元ブーム」とでも言うべき活況を呈していたような気がいたします。

自伝的作品『闇屋になりそこねた哲学者』は、いわゆる木田哲学入門とでも言うべき一冊ではないでしょうか。この作品においては、回想的語りにより、木田氏がどのような経験、思考を積み重ねて哲学の道を歩むようになったのか、その精神過程が読者に提示されています。もちろんそこで語られている内容は、木田氏個人の経験、生活、思考でありますが、現代の読者にとっては、その内容が単なる一個人の回想というレベルを越えて、昭和精神史というレベルの普遍性に到達しているように思われます。この作品には、木田氏の視点から語られた木田氏の経験と思考を素材としたところの昭和精神史といった趣があるのではないでしょうか。キーワードをいくつか拾ってみましょう。満州、海軍兵学校、原子爆弾、敗戦、引き揚げ、闇米。戦前、戦中、戦後と大きな変化を伴う昭和期を理解するための数々の言葉。これらを木田氏は実際に経験してきました。そして哲学者としての思考訓練を積み重ねてきた現在、木田氏は哲学者の眼でこれらの経験を語り直しているのです。この作品を読み込んでいきますと、昭和の精神史が読者の心の中で生き生きと動き始める思いがいたします。生松敬三、小野二郎といった木田氏の友人達も生き生きと語り始める気がいたします。

このような木田氏の自伝的語りのスタイルの原点は、盟友生松敬三氏との対談に見いだされます。1979年9月臨時増刊『現代思想 総特集ハイデガー』誌上において、二人は「ハイデガーと現代思想」という対談を行っております。この対談において木田氏は、親友の生松氏にも初めて話すこととして、戦後の再出発、ハイデガー『存在と時間』との出会いといった内容から語り始めています。そして『存在と時間』に関する木田氏の見解も、生松氏に詳しく説明しております。残念ながら生松氏は、この対談から五年程後に他界してしまいます。現時点から見てみますと、木田氏はこの対談において、親友の生松氏にその後の文筆活動のプランの原型とでも言うべきものを語っていたように思われます。今後の課題として私達は、木田元氏、生松敬三氏両者の対話的思考線を念頭に置きながら、両氏の著作を追思考していく必要があると考えております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする