美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

あっと驚く日経新聞!日銀白川総裁ヨイショ記事 (イザ!ブログ 2012・4・15 掲載分)

2013年11月11日 12時32分54秒 | 経済

〔コアコアCPI(食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合物価指数(対前年比%)〕
(三橋貴明氏『新世紀のビッグ・ブラザーへ』より・情報ソースは総務省)

まずは、上の図を見ていただきたい。これは、1985年から2011年の半ばまでのコアコア消費者物価指数(CPI)の推移です。

財務省(とその御用学者たち)は、どうしても認めようとしませんが、1997年4月に橋本龍太郎内閣が消費税の税率を3%から5%にアップしたことが、デフレの沼に日本が沈みこんでいくきっかけになっていることが、グラフからよく分かりますね。実は、1986年の12月から91年の2月まで続いた平成景気(いわゆるバブル景気)が終わった一年数か月後から、デフレ傾向は現われていたのですが、橋本内閣の増税断行が、それを決定的にしてしまったのです。それに加えて、橋本内閣は、徹底的な行財政改革を断行して、中央省庁改革関連法を成立させ(いわゆる省庁のスリム化)、健康保険の自己負担率を1割から2割に引き上げました。それらは、致命的なことに、すべてインフレ時のインフレ対策として実施されるべきものだったのです。ですから、当然デフレ圧力となります。行財政改革の問題点については、小泉改革のところでもう一度触れましょう。

ちなみに、1996年から1997年の半ばまで数字が上がっているのは、1995年2月の阪神淡路大震災の復旧・復興景気が起こりかけていたことによります。橋本内閣は、それに冷水をぶっかけた形です。

また、2002年の2月から07年の10月までの69か月間続いた戦後最長の景気回復期(いわゆる「実感なき景気回復」)においても、ついにデフレから脱却できなかったこともお分かりいただけるでしょう。2008年の半ば、福田内閣の頃に一瞬0%の水面に顔を出そうとしたときがありましたが、不運にも9月のリーマン・ショックに遭遇し、再び坂を転げ落ちるようにして、デフレの泥沼に呑みこまれてしまったのです。

*コアコア消費者物価指数とは、価格が乱高下しやすい食料品(酒類を除く)と原油などのエネルギー資源の価格を除いたもの。見かけの物価の上下を排除して、精度の高い金融政策を実現するために考案されました。先進国の中央銀行では、これが主流のようです。日銀が今年の2月に打ち出した、「1%インフレ・ターゲットもどき」の数値は単なるCPIなのかそれともコアコアCPIなのか、確か明言されていないと記憶しています。なんとでも言い逃れができるように、との作為を感じます。

景気回復期にデフレから脱却できなかった主たる原因は、私見によれば次の二つです。

① 小泉内閣(2001年4月~06年9月)が「財政再建の道筋なくして株価・景気の回復なし」のスローガンで敢行した「聖域なき構造改革」は、本質的にインフレ時に実行されるべきインフレ政策であること。

その端的な例が、公共投資の大幅な削減です。2000年に約34兆円だったのが、2007年には20兆円にまで削減されました。最も金額が大きかった1996年の42兆円と比べると半分以下に減っています。その差額の総和は全額GDPを構成し、その上、乗数効果でさらにGDPをアップさせる「打ち出の小槌」なのです。それらすべてをバッサリとと切り捨ててしまったわけです。(国民はそれに喝采を送りました。そうして、かつての私も)これは、景気が過熱気味のインフレ時にやるべきことですね。そういう途方もない経済音痴的で馬鹿なことをしでかしたので、せっかくアメリカのブッシュが日本に対して円安を容認していたのにもかかわらず、そのチャンスを生かし切って、デフレを克服することのできる力強い経済成長を実現できなかったのです。

その馬鹿な政策を一時的に断ち切ったのは、麻生内閣でした。彼は、その馬鹿さ加減をよく知っていたのです。彼は、積極的な財政出動によって、リーマン・ショックによる大打撃を受けた日本経済が恐慌状態に陥ることを阻止しました。彼は、狡知に長けた財務官僚どもと格闘した末に憤死した中川元財務大臣とともに、いつしかその名誉を十二分に回復されるべき政治家です。当時の私は、マスコミといっしょになって、彼の漢字の読み間違えを嘲笑ったものでした。

② 日銀が護教的に「日銀券ルール」を墨守していること。

当時のブッシュの円安容認に歩調を合わせて、2001年3月に量的金融緩和を導入した日銀は、2006年3月に4か月連続で物価の上昇率が0%台(コアコアCPIではなくただのCPI)になったところで、すかさず量的緩和政策を解除しました。後にアメリカFRB(アメリカの中央銀行)議長になる当時のバーナンキ氏は、力強くデフレ脱却を実現できない日銀の中途半端な量的金融緩和政策を厳しく批判しつづけました。結果は、グラフにあるとおり、バーナンキに軍配が上がります。

この日銀の煮え切らない態度の根底にあるのが、「日銀券ルール」です。これは、長期国債保有額を日銀券発行額の限度内に収めるという内規で、故速水優総裁が、2001年3月の量的緩和政策を実施するときに導入しました。田村秀男氏によれば、こんなヘンテコリンなルールで金融政策を縛る中央銀行は先進国で日本だけだそうです。学術的な根拠にも乏しいそうです。これが、力強いデフレ脱却を阻んでいるのですね。ちなみに、リーマン・ショックまでの戦後の先進諸国において、デフレに陥ったのは日本だけです。1930年代のデフレ大不況に懲りた経験を持つ先進諸外国は、デフレだけはなんとしても避けようとしてきたわけですね。日本がこの20年間、いかに馬鹿げた財政政策と金融政策を実施してきたのか、よく分かるエピソードですね。

では、私があっと驚いた4月13日の日経新聞(電子版)の記事を掲げましょう。

日銀総裁「強力な金融緩和行っている」デフレ脱却会議で

日銀の白川方明総裁は13日午後、政府のデフレ脱却に向けた関係閣僚会議にオブザーバーとして出席し、日銀は「デフレ脱却に向けて強力な金融緩和を行っている」と改めて語った。そのうえで「こうした金融面の努力と同時に、成長力の強化ということも極めて大事だ」と強調した。デフレの背景には「デフレ予想が根の深い難しい問題である」と指摘し、「企業が値上げをしにくい状況が、デフレ予想が続いていることで定着しているのではないか」との分析を示した。また、経済構造を転換するために「成長力の強化は日銀としても最大限努力したい」と語った。会議後に内閣府幹部が明らかにした。


私は、日銀白川総裁が「日銀はデフレ脱却に向けて強力な金融緩和を行っている」と語ったことにも呆気にとられましたが、それにも増して、その言葉を伝える内閣府幹部の口ぶりを鵜呑みにしたものを紙面にそのまま載せる記者の無知ぶりに驚きました。

マスコミの使命は、事実を正確に読み手に伝えることです。だから、マスコミは、誰かが何かを言った場合、その当人が言っている内容が事実かどうかを吟味したうえでなければ、基本的には受け手に伝えてはいけません。なぜなら、発言をそのまま伝えることは、メッセージの受け手をミス・リードする危険を払拭できないからです。

ある芸能人が、だれそれとだれそれが恋仲ではないかと言っているという内容ならば、あるいはそのまま伝えてもかまわない場合もあるでしょう。なぜなら、その報道姿勢は、芸能人の色恋がらみのゴシップを楽しみたいという受け手のニーズにかなっているかもしれないからです。そのあたりは、芸能記者のプロとしての勘の働かせどころですね。

しかし、金融政策についての日銀総裁の言葉とその影響は国民の暮らしにとって抜き差しならない重大事です。そこに看過できないウソがあって、善意の一般国民がそれを真に受けることで、現に実行されている金融政策について間違った印象をいだくことがあるならば、その仲立ちをしたマスコミは、報道によって国益を損うという重い罪を犯したことになるでしょう。

国民をミス・リードすることが国益を損なうなんてちょっと大げさなのでは、と思ったあなた。思い起こしてください、あなたには主権が存するのですよ。国の政治の重要事項に関する最終的な意思決定権は、あなたにあるのですよ。とするならば、歪んだ情報によって主権者が誤った意思決定をしてしまう危険が生じることは、国益の毀損の最たるものである、となりますね。

この記事を読み、その内容をなんとなく真に受けた一般国民は、日銀の金融政策をおおむね是とすることになるでしょう。実はその内容と正反対の事態が現に進行している場合、国民は、日銀の金融政策に関して当然持つべき否定的見解を持つ機会を奪われることになりますね。それは、金融政策についての妥当な世論が形成されることなく終わってしまうことを意味します。

上に掲げた記事について、日経新聞は、そういう万死に値するミス・リードをしてしまったと私は断じてしまいましょう。記事がごく短くても、関係ありません。

一般国民は、まさか信用第一の天下の日銀総裁が平然とウソをつくとは思わないでしょうし、「経済の日経」が、金融政策についての日銀総裁の事実無根の発言をそのまま紙面に載せるとは普通信じないでしょう。

ところが、上の記事に関して、日銀総裁の発言内容は真っ赤なウソであり、日経はそれをそのまま伝えたというのが、残念ながら事実なのですね。本来ならば、日銀総裁は少なくとも釈明会見か謝罪会見を開かなければならないし、日経は、それを知らずに載せたとすれば、「経済の日経」の看板を下ろさなければならないでしょうし、それと知りつつ載せたのであれば、自分たちが、マスコミとしての使命感の希薄な軽々しいヘリウムのような存在であることを認めるほかはありませんね。

では、白川総裁の「日銀はデフレ脱却に向けて強力な金融緩和を行っている」という発言が真っ赤なウソであるという説明に移ります。

実は、前回の投稿でふれた、ここ20年間の日銀のデフレ許容の金融政策そのものがそれを証明している、と言ってしまえばそれで終了、とできなくもないのではありますが、それではあっさりしすぎていて、私の毒舌を期待(?)したブログの数少ない読み手の皆さまに申し訳がないので、もう少し論じる対象としての期間を絞ってそれを説明します。白川総裁が、「オレの前任者の尻拭いまではできないよ。オレは頑張っていると言っているだけだよ」と言い逃れができないようにね。国会での答弁を聞く限り、白川総裁は、さすがは経済学の元優等生だけあって頭脳明晰、国会議員の厳しい追及に遭っても、のらりくらりとうなぎのようにその舌鋒を見事にかわします。「うなぎ総裁」とニック・ネームをつけたいくらいです、本当に。


あらかじめ、話の見通しがきくようにします。話したいのは、

① 白川総裁が、2月14日に表明した「当面のインフレ1%目途」発言をめぐるいかがわしさ

② その発言をめぐる市場の期待と株価・為替の動き

③ 「1%目途」発言と市場の期待とを裏切る日銀のその後の振る舞い

の3つです。

まず①の、白川総裁が、2月14日に表明した「当面のインフレ1%めど」発言をめぐるいかがわしさについて。

日銀は、2月14日に政策委員会・金融政策決定会合での決定事項として、「わが国経済のデフレ脱却と物価安定のもとでの持続的な成長の実現に向けた日本銀行の姿勢をさらに明確化する一環として」次のような具体的数値を盛り込んだ「中長期的な物価安定の目途(めど)」を公表しました。

この「中長期的な物価安定の目途」について、日本銀行は、消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域にあると判断しており、当面は1%を目途とすることとした。従来は、「中長期的な物価安定の理解」として、中長期的にみて物価が安定していると各政策委員が理解する物価上昇率の範囲を示していた。

これを受けて、ちびっこギャングの安住財務大臣は、早速テレビのインタビューに応えて「日銀がインフレ・ターゲットの実施を表明したものと受け止める」と表明しました。私はたまたまそれを観たのですね。さすがは安住さん、軽いフット・ワークですね。素早い、素早い。しかし、これ、本当にインフレ・ターゲットなのでしょうか。

「目途」を日銀は外国向けにgoalと訳したそうです。これって、「目標」という意味ですよね。ところが、「目途」っていうのは、辞書には「目指すところ。目当て。また、物事の見通し。」とあるだけで、「目標」なんて意味はどこにもない。そのニュアンスさえない。つまり、外国向けには「日銀だってインフレ・ターゲットをやるぜ」と格好をつけておいて、国内向けには「日銀がやるのは、数値を挙げたもののあくまでも一応の目安にすぎないよ」とインフレ・ターゲットと見なされることを拒否しているわけです。つまり、日銀は、国内向けと外国向けとが異なる、ダブル・スタンダードの使い分けをしているのです。平たくいえば、二枚舌ってやつですね。

次に、1%とは、あまりに低すぎませんか。欧米諸国はおおむね2%の設定とのこと。とするならば、それは円高容認ととられてもしかたがない。というのは、こういうわけです。名目金利が同じくらいならば、インフレ率が高いほど実質金利は低くなる。つまり、投機家は実質金利の高い円を欲しがることになる。デフレ脱却の目的の主たる目的は、円高という、輸出の劣悪な条件を払拭することです。だから、日銀はやはり円高を容認していると市場が判断したら、日銀のデフレ脱却の本気度が疑われることになりかねません。だから、設定は2%とすべきでしょう。

また、消費者物価指数といっても、ごく普通の消費者物価指数と、生鮮食糧品などを除いたコア消費者物価指数と、さらに原油価格などを除いたコアコア消費者物価指数との三種類があります。一時的な物価の乱高下をなるべく除外したコアコア消費者物価指数が、指標としてもっとも好ましいのですが、それらのうちのどれを使用するのか明言されていません。金融政策をどのようにでもできるようにするために、あえて明言していないとかんぐりたくなります。

さらに、いつまでにそれを実現するのかという期限が明記されていません。政策を実行するのに、そんな馬鹿な話があるでしょうか。

最後に、いままで述べてきたすべてのことに関わるのですが、目標ではなく目途であり、円高を解消するところまでも政策目標とされるのかが不明で、使用する指標の具体的な種類が不明で、さらにいつまでに実現するのかが明記されていないのであるとすれば、日銀は、数値達成の結果責任も、達成できなかった場合の説明責任もまったく負わないことになってしまいます。

これでは、日銀のインフレを極度に嫌う「デフレ容認体質」が継続されてしまう危険がそのまま温存されていると判断されてもしかたがないというよりほかはありません。

次に、②のその発言をめぐる市場の期待と株価・為替の動きについて。

こんな中途半端な「インフレ・ターゲットもどき」のようなものに対してさえも、市場は期待をこめて敏感に反応しました。

株価について言えば、発表の翌日の2月15日に日経平均終値が前日より208.27円高の9260.34円となったのを皮切りに株価高基調はずっと続き3月14日にはついに10,000円を突破しました。

では、為替相場はどうなったでしょう。発表後の2月の第3週目に1ドル76円だったのが、一ヶ月後の3月第3週には84円にまで下がったのです。

「もどき」ではあっても、日銀が積極的な金融緩和に転じたと市場が判断した場合、経済状況がどれほど好転するか、国民は目の当たりにしましたね。とするならば、日銀は手応えを感じてせっせとお金を刷続け、市中に出回る有価証券をせっせと買い続けるはずですよね。

ところが、です。4月に入って株価は低調に転じました。また、為替も円高基調に戻りました。

なぜでしょう。

(ここからが、③ の「1%目途」発言と市場の期待とを裏切る日銀のその後の振る舞いについてです。)

それは、4月3日に発表された日銀のマネタリー・ベースの3月の平均残高前年比伸び率がマイナス0.2%だったことに、市場が失望感を抱いたからです。「二月の日銀発表はやっぱりポーズだったのか」というわけです。もし日銀が、1%であっても本気でインフレ・ターゲットを実行する腹づもりであるのならば、発表の翌月にマネタリー・ベースを減らすはずがありませんね。一生懸命増やすのが普通です。

4月4日の日経平均終値は、マイナス230.40円の9,819円と1万円台を割りました。文字通り、落胆ムードを反映したわけです。

*マネタリー・ベースというのは、一言でいえば、日本銀行が供給する通貨のことです。具体的には、市中に出回っている流通現金(「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」)と市中銀行が日銀に預ける「日銀当座預金」との合計額です。経済学では、ハイ・パワード・マネーとよばれ、これが世の中に出回り、人々によって市中銀行間をぐるぐる回されると、その何倍もの額に膨らむわけです。それが、マネー・サプライです。例えば、市中銀行に預けられるお金のうち10%が準備金として銀行に残されるとすれば、元のハイ・パワード・マネー10円は、銀行間をぐるぐる回るうちに理屈上10%=0.1の逆数倍分に化ける(この逆数倍の10を信用乗数といいます)ので、マネー・サプライは10円×10=100円になります。金は天下を回るうち、世の中をずいぶん豊かにするのですねぇ。これが、お金の魔術です。「金は天下の回りもの」とはよく言ったものです。

株高・円安基調から株安・円高基調への逆戻りを懸念して、東京新聞は4月10日の朝刊で「日本銀行が10日の金融政策決定会合で追加の金融緩和を見送れば、円高・株安がさらに進む可能性もある。」と報じました。

では、日銀は10日の会合でいかなる意思決定をしたか。FNNニュースは報じています。

日銀は金融政策会議で、景気現状について、「持ち直しに向かう動きが見られる」として、金融政策の現状維持を決めた。(中略)白川総裁は、デフレ脱却に向けて導入した、物価上昇率を当面1%とする事実上のインフレ目標については、「できるだけ早く実現したい」と述べるにとどまり、具体的な達成時期などについての明言は避けた。白川総裁は「欧州債務危機問題については、緊縮財政の影響も含め、今後、どのように展開していくかは大きなリスク要因と考えられる。原油価格上昇の影響も懸念される。」と述べた。

つまり、株安だろうが円高だろうが何もしないというわけです。ザ・無策。さらに、原油価格が上昇して消費者物価指数が上昇したならば、金融の引き締めもありうることをほのめかしてもいます。ということは、コアコアCPIを使う気はどうやらないらしい。いかにも、金融引き締めとデフレが大好きでインフレと名のつくものを毛嫌いする日銀らしい選択です。白川総裁の「インフレ目標をできるだけ早く実現したい」という言葉が、それだけほかから浮いています。これ、本心とは思えないですよね。彼は、本当に二枚舌なんですね。

日銀の「無策」ぶりは徹底しています。やや遡りますが、世界を揺るがした2008年9月のリーマン・ショックのときのこと。世界各国がデフレに陥る危機意識から、大胆な金融緩和を進めたのに対し、日銀は金融政策をほとんど変化させませんでした。その結果、円高を招いて、デフレはより深刻化し、自動車などの輸出産業だけでなく、輸入品価格の下落で繊維などの産業でも日本製品は価格競争力を失い、失業や新卒者の就職難を生んだのです。

4月10日に話を戻しましょう。ここまであからさまに金融政策の担当者が現状維持を好む姿を見せつけられてしまうと、市場としては、株安・円高傾向を維持するよりほかに選択のしようがありません。事実、そういう流れになっています。翌11日の日経平均株価終値は79.28円安の9458.7円です。為替も1ドル80円の円高基調に戻っています。

さて、冒頭の日経新聞の記事に戻りましょう。

ここまでお付き合いいただいた方には、私が、白川総裁の「日銀はデフレ脱却に向けて強力な金融緩和を行っている」という発言は真っ赤なウソである、と主張するのはもっともであると、十分に納得していただけるのではないでしょうか。また、「経済の日経」が本当に馬鹿げた記事の書き方をしていることも合わせてお分かりいただけるでしょう。

まだ言いたいことがあります。

記事のなかの白川総裁の「成長力の強化ということも極めて大事だ」というのは、彼が折に触れ語っていることで、どうやら経済成長のことではなく、労働生産性の向上のことを指しているらしいのです。とすれば、それは間抜けな寝言であるし、間違ってもいる。なぜなら、デフレとは、供給能力と現実の需要量(リフレ派はこれを貨幣量とする)のギャップのことをいうのだから、労働生産性が高まって供給能力が伸びるのは、デフレ・ギャップを広げる圧力となる可能性が高いのです。つまり、彼のいう「成長力の強化」はデフレ対策としては下策である、となります。つまり、デフレ脱却とのつじつまが合いません。

さらに、白川総裁は「デフレ予想が根の深い問題」といいますが、いまや市場は端的に日銀の金融緩和に対する積極度を見てデフレ予想をしているのです。それは、2月14日の声明をめぐる株価と為替の一連の動きを見れば明らかではないでしょうか。なにを他人事みたいに、評論家面をして寝言を言っているのでしょう。「問題は、お前ら日銀なんだよ、事情をよく知る者は、もう誰もお前の御託など聞きたくないんだよ、黙ってせっせとお金を刷り続けなよ、しまいにゃ、はったおすぜ」と毒づきたくなってくるのは、お行儀の悪い私だけでしょうか。

それらすべてを等閑に付して、ひたすら馬鹿な記事を垂れ流す「経済の日経」は、日銀総裁に媚びるを売るために、主権の存する国民を徹底的に侮辱する国家的大罪を犯していることに対する怖れの念を抱かなければなりません。江戸時代なら、間違いなく市中引き回しの上、磔刑(はりつけ)、獄門、さらし首の極刑ですなあ。

最後に、白川総裁の学生時代の恩師であり、リフレ派の重鎮でもある浜田宏一教授の白川総裁に対する有名な公開書簡の一部分を掲げたい。恩師の意を尽くした言葉が届かないほどに、白川総裁の心は日銀という官僚的閉鎖空間によって変質されてしまったのでしょうか。書簡中の本書とは、対談本の『伝説の教授に学べ! 本当の経済学がわかる本』 (2010年7月刊行 東洋経済新報社)のことです。

日本銀行総裁
白川 方明  閣下

米コネティカット州ニューヘイブン・イェール大学経済学部
浜田 宏一

拝啓
 金融界の頂上に立つ白川総裁にこのような率直なお手紙を書くのは、礼に反することではないかと恐れます。
 しかし、総裁の政策決定の与える日本経済への影響の大きさ、しかも、それによって国民がこうむる失業等の苦しみなどを考えると、いま申し上げておくことが経済学者としての責務と考えましたので、あえて筆をとった次第です。

 貴兄に初めてお会いしたのは、1970年初、貴兄が東京大学経済学部の学生の頃でした。私は貴兄の聡明ぶり、分析力の鋭さに感銘を受けました。館龍一郎先生と私の共著の教科書には、校正、コメント等ご助力いただき、ありがとうございました。


 大学院に進んで学者になってはと勧めた学生は、私の東京大学勤務の間ほんの一握りに限られましたが、貴兄はその1人でした。日本銀行に入行されてから貴兄はシカゴ大学に留学されましたが、1985年厳冬に私がシカゴ大学に1学期(クォーター)だけ客員教授として訪れたとき、大学院生としての貴兄の秀才振りには伝説さえあるようでした。シカゴ大学でジェーコブ・フレンケル教授(後にイスラエル銀行総裁)が、「シラカワはよくできた。学問を続けてほしかった」と残念そうに言っていたのが印象的でした。貴兄は職業選択にも先見の明があり、中央銀行員としての成果も上げられて、総裁に就任されたこと、心からお慶び申し上げます。

 次にお会いしたのは、2001年、私が内閣府経済社会総合研究所所長の立場で、経済財政諮問会議に陪席していたときのことです。速水優・日本銀行総裁(当時)の補佐役として出席していたのが当時、日本銀行審議役であった貴兄でした。陪席者としては例外的に与えられた諮問会議での発言の機会に、私は当時の速水総裁の政策にチャレンジを試みました。

 私は、いくら何でも貴兄が速水総裁の無謀(いまでもそう思います)と言うべきゼロ金利解除等の政策に、本音で賛成しているとは思いませんでした。そこで、2人で議論すれば相互理解が深まると思い、個人的にお会いしました。しかし、そのときすでに貴兄は、(世界では孤高の)「日銀流理論」を信奉するようになっていたらしく、議論はかみ合わないどころか、真っ向から対立しました。私の当時の秘書は、所長室を出て行く貴兄の顔面が蒼白であったことに驚いたと言っています。

 私はいままで、貴兄の個人的な聡明さ、誠実さ、謙虚さなどをいっさい疑ったことがありません。しかし、いま重要なのは、いかに論理的に明晰な貴兄が誠実に信じて実行されている政策でも、それが国民生活のためになっていないのではないかということです。

 さて、そのように意見が分かれた後でも、貴兄は、私に日本の金融の現状を説明するため、日本銀行の優れたスタッフとの昼食研究会を(後で問題がないよう割り勘で)開いてくださり、そこで私は日本銀行の政策の背景についていろいろ学びました。その紳士的態度には、いまでも感謝しております。

 最後に貴兄とお会いしたのは2009年6月、その前月に亡くなられた速水総裁の「お別れの会」が経団連会館で催されたときです。ちょうど帰国中だったので、速水総裁のご霊前にお参りすることができ、「お別れの会」実行委員代表である貴兄ともごく短時間お会いしました。貴兄は「よく来てくださった」とおっしゃったと思いますが、場所がら、政策問題はいっさい話題にのぼりませんでした。

 もちろん速水総裁の政策観、政策運営については、私も諮問会議の場や、メディア等で強く批判を述べさせていただきました。しかし内閣府勤務の2年の間、私にとって清涼剤と感じられたのは、個人としてお会いするとき、批判者である私に対して、速水総裁はいつもじつに丁重、誠意にあふれた態度をおとりくださったことです。元IMF専務理事・イスラエル中央銀行総裁のスタンレー・フィッシャーも、同じ理由から「議論内容が何であれ、折り目正しい速水総裁と話すのは楽しい」とうれしそうに話していました。

 研究所長の任期を終えて帰米に際して、日本銀行へ挨拶にうかがったときも、(貴兄は海外出張中でしたが)硬い表情に見えた役員もいたなかで、速水総裁だけは本当に親身になって話していただきました。決して、論敵がいなくなってうれしいという表情ではありませんでした。

 そのときに湧いた疑問は、「なぜ、このようなすばらしいお人柄と、『ゼロ金利解除』を強引に行うような円高志向の政策観が共存できるのか」ということでした。いま起こっている疑問は、「貴兄のように明晰きわまりない頭脳が、どうして『日銀流理論』と呼ばれる理論に帰依してしまったのだろう」ということです。

 私の意見は本書の各章で述べています。本書のように日本の金融政策の責任者の頂上にある貴兄の批判をするのは、普段なら恐れ多いことで慎むべきことかもしれません。尊敬する日米の経済学者のなかにも、それはまず、日本銀行総裁に直接意見を申し上げて、その上で公に批判しなさいと忠告してくださった方もいます。

 それに従わなかった理由は次のとおりです。いわゆる「日銀流理論」と、世界に通用する本書に書いたような一般的な金融論、マクロ経済政策の理論との間には、依然として大きな溝があります。講演等では、貴兄は前者を繰り返しておられ、議論の相互理解が得られる可能性は少ないと思ったからです。

「日銀の独立性」というかりそめの塹壕に引きこもり、主権の存する国民から、国運を左右する金融政策の舵取りを付託されているという厳粛な責任意識もなく、つまのまの特権意識に溺れている今の日銀には、遅からず、民主主義の本道に基づく鉄槌が下されると、私は信じています
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朝日よ、笑わしてくれるじゃないか 「日銀の独立性」について (イザ!ブログ 2012・4・13 掲載分)

2013年11月11日 11時56分24秒 | 経済
今日は、けっこうゴリゴリと理屈っぽい書き方になっています。論じる相手をとっちめてやりたいときの私のどうしようもないクセなので、笑ってお見逃しを。また、一部分レイアウト上お見苦しい箇所があることをお詫びいたします。

4月5日(木)に、当ブログで、日銀審議委員の欠員の後任にBNPパリバ証券経済調査本部長の河野龍太郎(47)を充てる政府の人事案が、参議院本会議で否決されたことを肯定的に扱う投稿をアップしました。ゴリゴリの新自由主義者で、野田政権の増税路線の賛同者で、日銀の事実上のデフレ・ターゲット路線を容認する人材の登用が阻まれたことは、デフレ不況という国難に直面した日本国民にとって、国民の意思の所在を示す朗報であると論じました。もし、すべてを知ったならば、この人事に賛成する一般国民はまずいないでしょう。その意味で、今回の参議院の意思表示は、国民の一般意思に即した妥当なものであると評するべきです。

そんな受け止め方をしていた私の目に、次の社説が飛び込んできました。

朝日(2012年)4月11日社説「日銀人事否決―国会同意のはき違えだ」

まずは、その見出しの意味をとらえかねて、私は一瞬目をシロクロさせてしまいました。どうやら、この記事を書いた朝日新聞の論説委員は、参議院が今回の人事案を否決したことをけしからんと怒っていて、参議院の野党議員たちの「国会同意のはき違え」を厳しく糾弾しようと意気込んで腕まくりをしているらしい。でも、「国会同意のはき違え」って?と思いつつも、まあ先に進んでみました。

日本銀行の政策決定に携わる審議委員の人事案が、国会で否決された。日銀人事の国会同意は、日銀の独立性を尊重しつつ、金融政策に貢献できる能力や識見がある人物かどうかをチェックするのが役割だ。

「日銀の独立性」をどうとらえるかは大きな問題ですが、それはそれとして、ここで言っていることは一般論としてその通りです。問題は次です。

ところが、国会は「自分たちが求める政策と合わない」という理由で人事案を蹴った。国会同意の意味をはき違えた愚挙というほかない。

参議院が「自分たちが求める政策と合わない」という理由で人事案を否決したこと=「国会同意の意味のはき違え」というのは、文脈からすれば、参議院の①否決の理由付けが日銀の独立性を尊重していない、あるいは、②否決の理由付けが、当人物に金融政策に貢献できる能力や識見があるかどうかをチェックしていない、という意味になります。

①の意味で言っているとすれば、政府案の審議員の金融政策についての考え方がどのようなものであろうと、それが国会議員のよしとする政策と合わないという理由で反対することは日銀の独立性を尊重していないことになるわけですから、金融政策の中身を決めるのは日銀である、言いかえれば、論説委員が、日銀の独立性に金融政策の目標・内容が含まれると考えていることになります。それは、論説委員が、金融政策に関して、日銀にフリーハンドを与える、言いかえれば、日銀の金融政策に関する責任の所在を不問に付すことを意味します。

また、②の意味ならば、参議院議員が「自分たちが求める政策と合わない」という理由で人事案に反対することは、政府案の審議員に「金融政策に貢献できる能力や識見があるかどうかをチェック」していないことであると論説委員が主張していることになります。

ここは重要な論点です。議会制民主主義において、国会議員とは主権の存する国民が選挙で選んだ代表者です。つまり、国会議員は、国民主権の代行者なのです。だから、「自分たちが求める政策」とは、「国民主権の代行者が求める政策」を意味します。とすると、国会議員にとって重要なのは「いかなる」金融政策が国民のためになるのかですね。つまり、議員にとっては、政府案の審議官に、国民のためになる金融政策に「貢献できる能力や識見があるかどうかをチェックすること」が同意のポイントになりますよね。そういう能力や識見がないと判断したならば、議員は同意してはならない。そうなりますね。これは、国民主権を尊重する立場から当然に出てくる結論です。金融政策は、国民の暮らしに直結する最重要事項のひとつなのですから、それを担当する責任者の金融政策観について、国権の最高機関としての国会による厳しいチェックを受けるのは当たり前のことです。

だから、論説委員が、「金融政策に貢献できる能力や識見があるかどうかをチェックすること」という文言の中の「金融政策」の前に「国民のためになる」という限定条件をつけない場合にのみ、彼の批判は成り立つことになります。それは論説委員が「どういう金融政策を遂行するのかは日銀が決める」という立場に立っていることになりますね。そこは①の結論とおなじです。とするならば、それは、日銀の独立性に金融政策の目的・内容の決定権を含むという極端に日銀の寄りの立場を意味する、と同時に、議会制民主主義の否定をも意味します。国権の最高機関としての国会による厳しいチェックを否定するのですから、当然そうなります。

なぜ国会が国権の最高機関なのか。念のために言っておけば、国会が国民の代表者で構成され、憲法が国の政治の最終意思決定権(主権)は国民に存すると規定しているからです。

「民主主義の砦」を標榜してきた朝日が、ついに議会制民主主義を否定するようになったのですね。そんなつもりはない、というのならば、もう少し高校生レベルのものでいいから民主主義のお勉強をしてください。けっこう恥ずかしいことですよ、言論にたずさわる者が民主主義の初歩も知らないなんて。それがわからないうちは、決して「民主主義」といつもの癖で口走らないようにしようね。

もちろん政治家が金融政策を議論するのは結構だ。しかし、「政策が合わない」というだけで人事を葬るのでは、政治による日銀への脅しである。

これは、まさしく「面白うてやがて哀しき鵜飼かな」の世界です。これでは、まるであの日銀の白川総裁の魂が憑依して書いているとしか思えません。けっこうオカルトじみていますよ。言論人としてのバランス感覚を完全に失ってしまったうわ言と断じざるをえません。ブラック・ギャグとしては笑えますが、言論人としては、やはりうら悲しい姿というほかはありません。国会による国民主権の代行的遂行が、「政治による日銀への脅し」を意味するのならば、「日銀の独立性」のために日本は民主主義をやめなければならなくなります。天下の朝日の論説委員が口走るべき言葉ではありません。それとも、手を抜いた馬鹿なことを言っても、一般国民はわからないとても思っているのでしょうかね。やはり、ちょっと頭を冷やして勉強したほうがよいようです。お国のために筆を折ってしまうほうが手っ取り早いとは思いますが。

以下は、ねつ造記事のオンパレードで、目も当てられません。

何より重要なのは全体のバランスだ。金融政策が一方に偏って、バブルを引き起こしたり、過度な引き締めで経済を失速させたりしないための知恵だ。 現状では、金融緩和に積極的なメンバーはいるが、一貫した慎重派は昨春に須田美矢子・元学習院大教授が退任してからは見当たらない。多様性という点で今回は妥当な人選だった。

これについて、宮崎岳志民主党衆議院議員が次のようにツイートしています。

現実は「積極=不在、中立=宮尾、過激な慎重派=白川総裁、白川派=その他大勢」

そういうメンバー構成だからこそ、日銀は、長年にわたって日本国民を苦しめつづけているデフレを克服するための積極的な金融政策に踏み出せないでいるのですね。だから、今回の人事案否決はとても重要な出来事だったのです。うっかりすると、つい記事を見過ごして間違った事実を刷りこまれて、問題の本質を見失ってしまいますね。そこが、どうも狙いのようですが。「妥当な人事」とは恐れ入りました。

衆参ねじれ国会では、参院で多数を持つ野党が拒否権を持つに等しい。これを人事でも振り回すなら、金融政策の中身に野党が介入することになる。これは明らかな越権だ。日銀の独立性と相いれない。

ここでは、次の事実がなかったことにされてしまっています。

民主党の財金部門会議が全会一致で「反対」を決めた人事案に、野党も反対し可決が絶望的となり、案を取り下げるほかはないところまで民主党執行部は実のところ追い込まれていたのです。が、当日、参院で採決すること、また、党としては「賛成」の意向であることが突然民主党員に知らされました。民主党執行部の異様な意思決定と振る舞いですね。「ねじれ国会」以前のところで、この人事案は事実上破たんしていたのです。党利党略の野党に責任を問う前に、問題のある人選と異様な振る舞いをした民主党執行部の責任をこそ問うべきなのです。朝日は、そこをごまかしてはいけません。

長らく見ない間に、朝日新聞は、すっかり権力側にべったりと寄り添うどころかへばりつきさえする絵に描いたような御用新聞に成り下がっていたのですね。民主党が政権を取った段階で予想していたこととはいえ、いやあ、すさまじい。いっそのこと、これからは、社説の執筆陣に、財政政策については財務省の勝栄二郎事務次官を、金融政策については白川方明日銀総裁を、それぞれ主筆としてお招きして、思うところを存分に論じていただいてはどうでしょうか。その方が、あなたたちも余計な仕事が減るし、国民にとっても朝日新聞の意向がよく分かるし、万々歳なのではありませんか?なに、それでは無辜の国民を騙せなくなくなって、ご主人さまにアピールできなくなるって?そんな贅沢を言ってはいけません。

最後に、社説中で論説委員がやたらと振り回した「日銀の独立性」についての私見を述べておきます。

憲法が国民主権を規定し、議会制民主主義と議院内閣制とを採ること、および金融政策が国民生活に重大な影響を及ぼすことから、日銀の独立性は、国民生活の向上のために、政府が定めた金融政策の目標・内容を達成するための「手段を選ぶうえでの独立性」に限定すべきである、と私は考えます。また、その目標を達成することができない場合、および、達成のための努力を怠っていると客観的に判断される場合は、内閣に日銀総裁を罷免する権限を与えることが、その限定された独立性の実効性を保つために必要であると考えます。以上を明記した日銀法改正を早急に超党派で決議し間を置かずに実施すべきである、とする立場です。

事情をよく知る国民で、今私が述べた考え方に反対する人はそう多くないと思われます。だから、行政府と立法府の日銀法をめぐる、そういったスピーディな措置は、国民の政治に対する信頼を高める良い機会になるでしょう。これは、解散・総選挙がいつになるのかという政局とは別に、すぐに着手できることですし、着手しなければならないことです。それは、被災地の復旧・復興を加速するためにも重要なことです。増税などと寝言を言っている場合ではありません。日銀法改正をマニフェストに盛り込んで票をかせぐことばかりに腐心している場合でもありません。なにを置いても真っ先に着手しなければならないことです。また、そういうすばやい動きをする政治家に国民は次の清き一票を投じるはずです。そうは思われませんか。心ある政治家たちよ、決断を!
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エクソシスト・宍戸のお話 (イザ!ブログ 2012・4・12 掲載分)

2013年11月11日 11時50分30秒 | 経済
『救国のレジリエンス』の藤井聡氏が、4月6日の「さくらじ」(キャスターは古谷経衡と歌手のSaya)に出演しているのを、昨日ニコニコ動画で観ました。約100分間の出演枠でしたが、文字通りあっという間に終わった感じでした。とにかくその関西なまりの語りがめっぽうに面白いのです。この方は、書かれたモノより、生の語りの方が芸として格段に優れています。現有のいわゆる知識人のなかで、中身のある話をおもしろおかしく語る才能はおそらく彼がダントツで一番でしょう。京都大学の名物教授として学生の間で人気が高いのではないでしょうか。あの「明治顔」がアナクロニスティックな魅力を発散するのですから、不思議なものです。

それはともかくとして、そのトークの中で彼が、一番怖い映画は『エクソシスト』であると語っています。なぜなら、この世に悪魔が実在することが実感できてしまうから、と。先生は、悪魔の実在を信じているようなのですね。例えば、電車に乗っていて、「このおっさん、悪魔が憑いとる。やばいわ。」と自分はなぜか分かってしまう。それと同じ感覚で、精神の腐ったヤツの書いたモノは、なぜかそれと分かってしまうし、その直感的な判断を誤ったことはない、と藤井先生は言います。人間には、そういう美醜とつながった真偽を見抜く力がおのずと備わっている、と。

それを聞いていて、私はふと思いました。優れた言論人とは、悪魔祓いのエクソシストのようなものではないのか、と。そういえば、これまで自分が信を置いた書き手には、皆どこかしらエクソシストの面影がありました。つまり、エクソシスト度の高い書き手を私はこれまでレスペクトしてきたように感じるのです。

今から紹介しようとする宍戸駿太郎という、もうすぐ90歳になる経済学者の風貌にもエクソシストの面影があります。彼がエクソシストとして祓おうとしている悪魔とは、一言でいえば、新自由主義です。これが日本に災いをもたらしている悪魔であると、エクソシスト宍戸は見定めているように私は感じます。

悪魔と対峙するエクソシストは、相手の執拗な抵抗に直面しても揺るがない確固とした平常心を持っています。新自由主義的な政策を批判する宍戸先生は、驚くほどに淡々としています。否定すべき対象を論理の力で淡々と木端微塵にしてしまうのです。

宍戸先生と言っても、一般人向けの著作がないのでご存じのない方が多いと思います。ご自身のツイッターのプロフィール欄には、「元経済企画庁審議官。元国際大学学長。元筑波大学副学長。国際大学・筑波大学名誉教授。2006年 国際レオンチェフ賞受賞。日本経済復活の会顧問。」と簡略にあるだけです。国際レオンチェフ賞は、産業連関表を創始したアメリカの経済学者でノーベル経済学賞を受けたワシリー・レオンチェフの業績を記念して設けられたものです。宍戸氏が受賞した年の受賞者には、ノーベル賞受賞者のローレンス・クライン、同じくロバート・ソローらがいました。つまり、宍戸先生は、世界的な経済学者なのです。

宍戸先生は、2012年2月23日に「日本経済復活の会」の定例勉強会で『消費税10%の経済効果』という講演をしています。財務省が予定している通りに、消費税の税率が2014年の4月に8%に、2015年の10月に10%にアップされたら日本経済にいかなる影響を及ぼすのかについての計量経済学的な分析をしているのですね。いわゆる軽減税率の適用はなし、輸出税還付あり、定額給付なし、の前提です。

さて、結論は恐るべきものです。1997年の4月に橋本内閣が3%から5%に消費税税率を上げたことが、今日にまで続くデフレ不況のマイナスの起爆剤になってしまったことは(財務省と財務省御用経済学者以外には)周知の事実です。「橋本デフレ」という固有名詞ができあがっているくらいですからね。それを上回る規模の今回の増税は、さらに大きなマイナスの影響を日本経済に与えることになるというのです。

日本経済のデフレ傾向は一段と高まり、GDPと可処分所得の減少傾向は、2018年ごろから顕著となるそうです。2020年には、消費税を増税しなかった場合と比べると、GDPはマイナス60兆円前後、可処分所得はマイナス24兆円前後となります。

税収は、2017年までは高まるが、それ以降は坂道を転げ落ちるように下がり、2020年には現状の3分の1程度にまで低下するとのことです。特に、法人税・所得税・社会保険料の低下が目立つことになります。

次に、政府の債務の純額は、当初の数年は減少しても、その後は、政府の本来の狙いとは逆に、悪化するデフレの影響で2018年から増加の一途をたどることになるそうです。

また、家計消費・設備投資・財政支出ともにデフレの悪化の影響を受けて減少傾向が続き、それが生産の減少、失業率の増加をもたらします。

さらに、輸出は消費税の還付を受けて実質無税となるから、消費税の影響がないかのようですが、デフレ悪化による内需の減少で円高圧力が生じ、そのため結局は減少することになります。つまり、内需減少→円高→輸出減少→再度内需減・・・という悪循環に陥るのです。

消費税増税実施とデフレ効果の本格的な発現との3年ほどの「時間的ずれ」が重要である、と宍戸先生は強調します。消費税増税の当初はややインフレ気味でデフレ効果は軽いのですが、そのマイナスの影響は2~3年後からボディーブローのようにじっくりと効いてくるのです。その苦しさに気づいたときはもう遅い。その後深まるデフレの泥沼のなかで喘ぎ続けることになるのです。デフレは、人を欺く悪質な現象であると言えるでしょう。藤井聡先生は、それを「3年殺し」という『空手バカ一代』に出てくる必殺技で鮮やかにたとえています。三橋貴明氏は「デフレは底なしです」「真綿で首を絞められる苦しさ」とその恐ろしさを表現しています。

私たちは、これまで「失われた20年」を経験してきました。消費税増税が予定通り実施され、新自由主義的な政策がこれまでのように継続された場合、それが「失われた50年」になるのは、宍戸先生の分析の結果によれば、必定となります。そのときの日本のGDPが世界で第何位なのか、道路や橋や港湾設備はどうなっているのか、工場はどれだけ残っているのか、社会保障制度はどうなっているのか、子どもはどれぐらいいるのか、安全保障体制はどう維持されているのか、国は原形をとどめているのか、すべては私の想像の埒外にあります。

前回、「消費税増税が現状のデフレ下で実施されてしまったら、日本に未来はない、と私は断言します」と大見得を切りました。その根拠は、宍戸先生の分析にあったのです。また、それをよく読んでいると思われる知識人の良質な言論にあったのです。

宍戸先生は、新自由主義的政策のやみくもな実施は国を滅ぼす、という危惧をこれまでたびたび表明してこられました。デフレ下での財政規律至上主義、財政再建原理主義の愚直な立ち上げも新自由主義的な発想から生まれてきたものとしてとらえることができるでしょう。なぜなら、新自由主義には根本的にデフレ対策がないからです。欧米では、新自由主義はインフレ対策として政策に取り入れられたという経緯があるのです。

経済状況にかかわらず、新自由主義政策を絶対善と考える人々にとって、デフレはそれほど恐ろしいものではないのです。彼らは、基本的には、それを均衡へ向かう単なる価格調整期間としてとらえます。だから、デフレの現状から、それを克服することなくストレートに財政再建に向かおうとするのです。で、増税と。しかし、それは「デフレ島」から「財政再建島」にまっすぐにつながっている、水に浮かぶ丸木橋を愚直に渡ろうとするきわめて危険な行為なのです。(宍戸先生はそんなふうに述べています。)そうすることで、どれほどの経済的悪影響が出ることになるのか、どれほど国民が苦しむことになるのか、新自由主義政教の信者たちは、あまり想像をたくましくしようとない。というか実はできないのです。

それに対して、デフレ期のオーソドックスな政策としての、大胆な金融緩和と大規模な財政出動との併用によって完全雇用成長を促すケインズ政策を果敢に実施することによってデフレを克服し、完全雇用成長を実現・継続すれば、自然増収によって財政再建はおのずと実現する。そう、宍戸先生は、穏やかながらも力説します。

この、緻密な分析に裏付けられた叡智の声が、心あるパワー・エリートの耳に届き、彼らに知的勇気を与えることを祈ります。三橋貴明氏の「デフレにはデフレ対策を、インフレにはインフレ対策を」は、宍戸先生の考え方をずばり言い当てた至言です。

政府・日銀は、デフレ期に、増税をしたり、公共事業を半分に削ったり、公務員を減らしたり、金融緩和に消極的であったり、規制緩和を進めて価格競争を惹起したり、構造改革を推進したり、とデフレ・ギャップを広げる愚行を繰り返してきました。つまり一言でいえば、デフレ期にインフレ政策をいい気になって脳天気に実行しつづけてきた「経済音痴」こそが、この10数年間にわたってデフレ脱却を不可能にしてきた「悪魔」なのです。マルクスが言ったとおり、「無知が栄えたためしはない」のです。大手マスコミ、および世論が当時ボロクソに叩いた、小渕さんと麻生さんこそがほかの時期に比べれば実はずっとマトモな経済政策を実行していたのです。彼らの名誉はいずれきっちりと回復されなければなりません。

あの、念のために言っておきますが、私には、宍戸先生の計量経済学的分析を読み解く力はありません。単に「この人は本物だ。エクソシストだ」という直観を根拠に、いろいろと言っているのです。私はそれでかまわないと思っています。私の言っていることが、読んでくれた人の腑にストンと落ちてくれれば、それでいいのです。そこのところは、私は藤井主義者です。

「いいや、私の腑にはストンと落ちなかった」って?それは、私があなたにとり憑いた悪魔を払えるほどの優秀なエクソシストでないからか、それとも、私に悪魔がとり憑いているからか、いずれかでしょう。

もし、前者が正解であるのならば、私が思考力と筆力とをもっと鍛え上げるよりほかはないですね。

もし、後者が残念にも正しいのならば、そうですねぇ、親分肌の藤井先生に相談して、悪魔祓いの儀式でもしていただきましょうかね。
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オオカミ少年ではなく、田村秀男氏のコメントが来た!(イザ!ブログ 2012・4・11 掲載分)

2013年11月11日 11時40分26秒 | 経済
田村秀男氏の『財務省「オオカミ少年」論』をテキストに4月8日に実施した読書会の報告を昨日(4月9日)に自身のブログにアップした旨を、氏のブログのコメント欄を通じてお伝えしたところ、早速ご返事をいただきました。下にそれを掲げます。

興味深く拝読いたしました。

小生は特に官僚とか、特定の階層に幻想を抱かないのですが、それにしても、国家のGDPの過半を牛耳る官僚が自身の既得権益や利権拡張動機で政策を弄するとは、共産党支配の中国を笑えませんね。かの国は、共産党独裁で利権が当たり前、露骨で目立つので時折権力闘争の過程で一部が露にされメディアに報道される。日本では、顔の見えない官僚がメディアをマインドコントロールし、呪縛している。民主主義を逆手にとった官僚主導システムができ上がってしまった。

デフレで経済は成長できない、だから限られたパイをどう頂くか、というのが今の日本の官僚社会の最大関心事であり、自分たちのパイを小さくするような改革をすべてつぶし、増税しかないと言い張る。それが今回の消費増税騒ぎの真相なのです。

これは明らかに「亡国の道」あるいは国家の「死に至る病」とも言えましょう。成長に向け、指導層が全身全霊で奮闘する主要な国なら当たり前の行動が排除される。

すると、官僚に呪縛されない政治をどう構築するかが課題になりますね。有権者の多くがその点に気付き始めたと思います。


私は、これまでの短くはない人生において、一度としてサヨク的な考え方に染まった 経験がないので、田村氏と同様に「官僚とか、特定の階層に幻想を抱」いていません。陰謀史観的な発想もなるべく排除してきたつもりです。国家を、特権階級が自分たちの既得権益を守るための「暴力装置」である、などと考えたこともありません。レーニンの『国家と革命』を読んだときに、私は拭いがたい違和感を抱いたものです。国家の本質を支配階級が被支配階級を抑圧するためのものとし、そのことを警察、監獄、軍隊などの暴力装置の存在が証し立てていると主張されても、ちょっと困ってしまったわけですね。そうかもしれないが、どうもぴんとこないよ、と。

だから、政府の頂点を占める人々に対して根深い猜疑心を持ったこともありませんでした。まあ、彼らも私と同じ人間だから、スキあらば小ズルいことをして甘い汁を吸おうとするだろうから(そういうポジションにいて放っておけば私だってそうするでしょう)、それを防ぐなにかしらの制度的歯止めは必要だろうし、彼らの振る舞いは一般国民に大きな影響を及ぼすので、彼らにはいわゆるノーブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの責任)の自覚を持ってもらわないと困るよな、というくらいの感覚だったのです。「どうせいい思いをしていやがるんだ、ちきしょう」といったずぶずぶの無自覚なルサンチマン(うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ)に突き動かされて彼らの批判をするのは嫌だしあまり意味のあることではない、という思いもありました。それを回避し切れるほどに自分は立派な人間でもないしな、と。つまり、パワー・エリート批判にあまり乗り気ではなかったわけです。

菅直人前総理が2010年の10月に突然TPP参加問題をぶち上げました。それに対して、私は、大手マスコミが一斉にそれを支持する論調を展開したことに対する違和感をぼんやりとですが抱きました。マスコミはTPPがなんだかとてもいいもののように思っているらしいけれど、その根拠がないではないか、これはおかしい、と。

その前に、関岡英之氏の『拒否できない日本』を読んでいたことが大きかったと思います。本書は、アメリカが日本に年次改革要望書を毎年定期的に突き付けて自分たちの国益に適うように日本の制度・慣習つまり「非関税障壁」という名の国柄そのものを改造しようと堂々と迫っているのに対して、小泉内閣がその事情をひたすら隠ぺいしつつその要求に唯々諾々と従っていることを危機感をもって訴えていました。それが小泉郵政改革の正体なのだと、私はすっかり説得されてしまいました。ショックも受けました。だって、それまでの私は、あまり考えもせずに小泉首相の威勢のいい「抵抗勢力」批判に心のなかで拍手を送っていたのですから。もっとも、その辞め方にはどこかキツネにつままれたような感触が残ったので、小首をかしげていたのは確かですけれど。

だから、そのこととTPPとがどこかで波長が合って、TPPは年次改革要望書の延長であって、日本政府はそれにまたぞろ唯々諾々と応じようとしているのではないかと疑ったのでした。

それからは、折に触れTPP関連の本を読み、同じような感触を持っている知人と打ち合わせをしたり情報交換をしたりして自分なりの見解を固めていきました。TPP関連では、ベスト・セラーになった中野剛志氏の『TPP亡国論』(集英社新書)が一番インパクトがありましたね。

で、自分の勘は当たっていたと確信を持つに至ったのです。TPPは年次改革要望書の最終兵器である可能性が高い、ということです。そういう危険性が排除できない以上、それへの参加に賛成できるはずがない。私は、日本のお国柄を格別に素晴らしいものだとは思っていませんが、慣れ親しんでいるものをよそさまの都合で勝手にブルドーザーで根こそぎにされるいわれはさすがにないと思うわけです。馴れ親しんだ奥さんがそれなりの顔だからといって、お隣の旦那の好みに合うように好き勝手に整形されてしまって、ああ妻が美しくなったと喜ぶ夫はまずいないでしょう?

それやこれやで、政府と経済産業省と大手マスコミが寄ってたかって強引に問答無用の形でTPPを推し進めようとする姿がまぶたに焼き付いてしまったのです。いわゆる言論人でまともなことを言っているのは多くて10人にひとりくらいだとも思いました。

その次が、昨年来の消費税増税問題です。それについては、このブログでさんざん言ってきましたから、詳細については一切省きます。いまでは、私は田村さんと同じく「国家のGDPの過半を牛耳る官僚が自身の既得権益や利権拡張動機で政策を弄する」姿に呆れ返り、あるいは「顔の見えない官僚がメディアをマインドコントロールし、呪縛している。民主主義を逆手にとった官僚主導システムができ上がってしまった」日本の現実に、おおげさではなく鳥肌の立つような危機感を抱いています。

前回のブログで詳しく申し上げましたが、経済を巡る膨大なウソが、財務省→大手マスコミ(五大新聞・テレビ)→一般国民という一定のルートで日々運ばれてくる様は異様です。20年続いているデフレ不況のなかでの、パワー・エリートたちの、少しずつ縮小していく自分たちの既得権益を守ろうとする矮小で姑息な姿は、閉鎖社会に特有の病理現象としてとらえるのが妥当のように思われます。田村氏が「デフレで経済は成長できない、だから限られたパイをどう頂くか、というのが今の日本の官僚社会の最大関心事であり、自分たちのパイを小さくするような改革をすべてつぶし、増税しかないと言い張る。それが今回の消費増税騒ぎの真相なのです」と喝破するのはもっともなことです。エリートとして、なんとみじめな姿でしょう。

97年以降はデフレ不況の影響で自殺者が約1万人ほど急に増え、それが今日にいたるまで続いています。高止まりしているわけです。つまり、政府の誤った政策が続いているせいで、死ななくてもいい人が10数万人死んだ勘定になります。それぞれの家庭の事情で、統計に表れない自殺者も相当数いるとも言われています。この数字は、パワー・エリートによる人災ととらえるのが妥当でしょう。痛ましいというよりほかありません。

それを背景に置いてみたとき、いまのパワー・エリートの姿の卑しさは、芥川龍之介の『羅生門』で描かれた、死体から金目のものを盗もうと暗闇で蠢いている老婆の姿のそれとオーバーラップしてきます。末期症状ですね。

先ほど申し上げたように、パワー・エリートに対してこれまで根深い猜疑心を持ったことのない私が、今彼らに対してそういうイメージを抱いているのですから、状況はよっぽど酷いのだと思うほかないでしょう。消費税増税が現状のデフレ下で実施されてしまったら、日本に未来はない、と私は断言します。(これについてはちょっと調べたことがあるので、近日中にお知らせします)彼らは、自分たちのためだけに本気で国を潰そうとしているのです。国民の生命・財産を守ることに全身全霊を傾けるべきパワー・エリートたちが、いまや、国民の生命・財産を木端微塵にすることに血道をあげているのです。これを狂気と呼ばずになんと呼べばいいのでしょう。

ポイントは、一般国民が、いまの日本のエリートたちのそのような惨状を、憤りと悲しみとをもって直視することであると私は思います。それが、彼らから邪悪な力を奪う特効薬になるでしょう。

その上で、心あるパワー・エリートが実は少なからずいるのですから、われわれ一般国民は彼らを孤立させず、しっかりとサポートすることが肝要です。実際のところ、今の政治をかろうじて支えているのは、そういう人々であるはずです。私は、そう考えますし、それよりほかにいったい何ができましょう。「国民の直接蜂起」的なサヨクの夢は、威勢が良くてなんとなくガス抜きとして気分がいいようですが、おそらく殺伐とした結果しかもたらさないものと思われるので、私はそういう動きには組しません。だから、サヨクはやっぱり苦手です。これ、もちろん、維新の会のことですよ。ベルリンの壁の崩壊後、サヨクは新自由主義の姿をとって現われるのですから。もっとも、そんなことなどご当人たちのあずかりしらぬことではありますが。
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