美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

9.21日銀の総括的な検証とそのNHK報道について (小浜逸郎)

2016年09月25日 19時55分15秒 | 小浜逸郎


小浜逸郎氏ブログ「言葉の闘い」http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/arcv からの転載記事です。21日の総括的検証をめぐる、大手マスコミの日銀ヨイショぶりはひどいものです。管見の限りでは、「量から金利へ 苦肉の策」という小見出しを掲載した産経新聞がややまし、という印象を受けました。では、ごらんください。

  9月21日、日銀は政策決定会合で、「金融緩和強化のための新しい枠組み」と称して、量的・質的金融緩和導入以降の経済動向と政策効果についての「総括的な検証」を行い、その見解を発表しました。
 その要旨を見ますと(産経新聞2016年9月22日付)、例によって、事実と異なることが平然と書かれていたり、物価上昇が目標どおりにいかなかったことを「外的な要因」のせいにしています。
 たとえば――
 まず、「大規模な金融緩和の結果、物価の持続的な下落という意味でのデフレはなくなった」と書かれています。「物価の持続的な下落という意味での」と但し書きをつけているところがいかにも苦しいですが、事実は、4~6月の消費者物価指数はすでに発表されているとおり、0.5%下がっています。2%目標には程遠いのに、これを「デフレはなくなった」とは何事でしょうか。
 次にこの目標達成ができなかった原因を、原油価格の下落、消費増税後の需要の弱さ、新興国経済の減速といった「外的な要因」に帰しています。しかし、日銀は、そうした金融政策以外の要因とかかわりなく、リフレ派理論に従って、金融緩和だけで目標を達成できるとコミットメント(責任履行を伴う約束)したのですから、こういう言い訳は通用しないはずです。さまざまな外的要因をいつでも考慮のうちに入れておかなければ、そもそも目標設定の意味がありません。
 さらに、マネタリーベース(法定準備預金+現金通貨)の拡大が「予想物価上昇率の押し上げに寄与した」と書かれていますが、「予想」(=期待)と付け加えているところがミソで(誰が予想しているのか?)、現実の物価上昇率とのかかわりについては何も言及されていません。手の込んだ言い逃れです。当局が勝手に2%と予想すれば、それで「寄与」したことになるというわけです。予想して量的緩和を行い、その予想が全然当たらなくても、予想自体はもとのままなのだからその予想に「寄与」したのだ、というめちゃくちゃな論理です
 最後に、マイナス金利の導入が長期金利の低下までもたらしたので、国債の買い入れとマイナス金利との組み合わせが有効であることが明らかとなったと書かれています。マイナス金利の導入は、市中銀行の経営を圧迫するという大きな副作用をもたらしていますが、それについては何も触れられていません。おまけに、長期金利まで低下したからといって、融資は一向に促進されず、投資も消費もほとんど伸びず、実体経済には何の有効な結果ももたらしていません
 要するに今回の「総括的な検証」なるものは、全編、この間の日銀の政策が(2013年当初を除き)効果がなかった事実をあったかのようにごまかして正当化するための「検証」だったということになります。
 経済評論家の島倉原(はじめ)氏は、日銀が「これまでのコミットメントに加え、安定的に2%を『超える(オーバーシュート)』ことを現行のマネタリーベース拡大政策の新たなターゲットとする」と述べているのに対して、次のように書かれています。まったくこの通りというほかはありません。

しかしながら、もともと効果が乏しいと自らが認めている(この認識自体は正しい!)中央銀行の目標設定を、言葉遊びのレベルで「2%を実現する」から「2%を超える」に強めたところで、どれほどの上乗せ効果が見込めるというのでしょうか。
こうした政策を「新しい枠組み」として掲げていることが、むしろ現行の金融政策の迷走ぶりを示していると言えるでしょう。
(「金融政策の迷走」三橋経済新聞9月22日付)
https://mail.google.com/mail/u/0/#inbox/1574f72adf60f6a9

 もっとも島倉氏も私も、黒田バズーカが無意味だったと言っているのではありません。それはそれで一時的に円安、株高を導き輸出産業はいっとき息を吹き返しました。しかし3年にわたる「大胆な金融緩和」は、デフレ脱却にとって一番必要な内需の拡大にはまったく結びつきませんでした。これは金融政策だけではデフレ脱却には限界があるということを図らずも証明しているわけです。日銀としては、デフレ脱却のための政府の無策ぶりを公然と批判するわけにもいかず、苦し紛れの弁解に終始したということなのでしょう。
 このブログでも繰り返してきましたが、消費や投資が冷え込んでいるときに政府は消費増税という最愚策を断行して、日本経済にさらに致命的な打撃を与えました。また内需拡大のためには緊縮財政路線を即刻改めて、本来アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」を継続し続けなければならなかったのに、それも1年だけしかやりませんでした(ようやくその方向に舵を切ろうとはしていますが、財務省のプライマリーバランス回復論がいまだに大きく壁として立ちはだかっています)。
 
 さて9月21日の18時、NHKラジオ夕方ニュースでこの日銀の「新しい枠組み」問題を取り上げていました。ここに解説者の一人として登場した第一生命チーフエコノミストの熊野英生氏は、この件に関して、日銀の政策には限界があるので政府の財政運営に期待するという趣旨のことを語っていました。ここまでは一応同意できます。もっともこれは今回の日銀のペーパーにもすでに書かれていることですが。
 熊野氏はもともと日銀出身のエコノミストなので、日銀の政策に異を唱えないのはわからないではありません。問題なのは、彼が、この「新しい枠組み」によってデフレ脱却が可能なのかという最も聴取者の関心を呼ぶ疑問に対して、政府の財政運営への期待に言及しながら、脱却を困難にしてしまった2014年の消費増税の失敗や、いまようやくシフトしつつある積極的な財政出動政策についてまったく触れようとしなかったことです。
 熊野氏が、期待されるべき政府の財政運営として言及したのは、規制緩和による成長戦略(つまりアベノミクス第三の矢)であって、これは小泉改革以来の構造改革路線なので、百害あって一利なしです(拙著『デタラメが世界を動かしている』第三章参照)。
 熊野氏ばかりではありません。同席していたNHK解説委員の関口博之氏の解説や、アナウンサーのかなりしつこい質問の中にも、消費増税の「しょ」の字も財政出動の「ざ」の字も出てきませんでした。
 今日の番組のテーマは日銀の「新しい枠組み」と「総括的な検証」についてなので、それはまた別問題だ、という弁解があるかもしれません。しかし、すでに番組中で政府の財政運営について触れているのですから、デフレ脱却を遅れさせた過去の致命的な失敗事例に一言も触れないというのはおかしいですし、これから進むべき積極的な財政政策の前に財務省の緊縮財政路線が大きな壁として立ちはだかっている事情について何も語らないというのもはなはだ客観性に欠ける。マクロ経済問題を語るには、常に総合的な視野を手放さないようにしなければなりません。
 私の印象を付け加えるなら、ここにはそこに話をもっていかないような何らかの圧力がはたらいているか、そうでなければ、NHK番組構成陣の狭量な頭がそこまで及ばないかのどちらかとしか考えられません。一般の聴取者にとってただでさえ難しい経済問題です。公共放送NHKがこういう偏頗なレポートを続けているようでは、デフレ脱却へ向かっての国民の気運は、いつまでたっても高まらないでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「君の名は。」あるいは「シン・ゴジラ」についてのノート(岡部凜太郎)

2016年09月06日 16時41分23秒 | 岡部凜太郎


今年の夏に公開された「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の二作品は、既に社会現象と言える盛り上がりを見せている。

「シン・ゴジラ」は公開から一ヶ月ほどで興行収入は50億円を突破し、「君の名は。」も既に初動の興行収入だけで、12億円を超えている。

インターネットでは、多くの人間が、それら二作品について、この場面はこうではないか、あの結末はこういう意味があるのではないか、と言った具合で、考察し、議論を重ねている。

私は1999年生まれなので、「新世紀エヴァンゲリオン」放送当時、オタク達が行っていた、よく言えば真剣な、悪く言えば大袈裟な議論、考察についてはよく知らないが、当時もこういった雰囲気だったのだろうか。

「シン・ゴジラ」について言えば、東浩紀氏や石破茂氏、あるいは田原総一郎氏などが、その作品の持つ構造や、テーマ性に言及し、その議論の広がりは、いよいよ大規模なものになりつつある。

私自身、「シン・ゴジラ」については、その物語や、描写の数々に不思議な感動を覚え、興奮して鑑賞した。

既に多くの人々が指摘しているように「シン・ゴジラ」は、災害映画だと言える。自衛隊、官邸、米国、これらの組織、団体がいかに動き、そして、いかなる相関関係にあるのかを、ゴジラという究極のフィクションを用いて、鮮やかに描いている。「シン・ゴジラ」を観て、我々日本人はその内面に持ち合わせている生々しい恐怖の感情を想起させられる。

だからこそ、あれだけインターネット上で、熱い議論が行われているだと言っても過言ではないだろう。

一方で、 「君の名は。」は、「シン・ゴジラ」の対極に位置する作品だと言える。そもそも「君の名は。」では、「シン・ゴジラ」において、排除された恋愛というモチーフが、物語の主題となっているし、劇中で物語の軸となる隕石の衝突から人々を守ろうとするのは、政治家や官僚といった大人ではなく、あくまで幼さが残る思春期の高校生たちである。「君の名は。」はどこまでも非治者的、非統治者的な作品だと言える。

上記の点などで「君の名は。」と「シン・ゴジラ」は、その物語の構造やモチーフにおいて対極に位置している。しかし、自然災害を執拗と言っても過言ではないほど丁寧に描写しているという点で、両者は共通している

東京の都会の少年、瀧と、同い年である岐阜の田舎の少女、三葉が、夢の中で、身体が 入れ替わり、入れ替わりを繰り返すうちに、両者に恋愛感情が生まれてくる、というのが、「君の名は。」における序盤までのストーリーである。

上記の、まるでラブコメの王道をいくかのようなストーリーは、彗星が地球に最接近するという事態を前に、変化していく。

それは、なぜかと言えば、瀧が追い求め、探していた少女、三葉が、彗星の破片である隕石の衝突によって三年前に亡くなっていたからだ。

夢の中で入れ替わっていた、そして、繰り返される入れ替わりの中で愛しく思うようになっていた三葉が、隕石の衝突によって既に死亡していたという事態に、瀧は動揺を隠せず、もがくように三葉を追い求める。それより先の詳しいストーリー展開については、是非、劇場で確かめてもらいたいが、最終的に瀧は、三葉を救うことに成功する。

この「君の名は。」の後半において示されているこの三葉の救済という展開は、ある意味で「慰霊」だと言える。

一度死んだ人間は当然、生き返ることはないし、人間は時間を遡ることは不可能である。だからこそ、死という事態、状態はその重みを増し、我々の精神、あるいは社会に大きな影響を与えている。多くの人々が死ねば、いくら赤の他人だとしても、良い気分はしないし、まして、愛しい人間の死は、時として生きている人間の精神を破壊させる。死は突然であれば、あるほど、重大で残酷なものになる。

そして、その死の重大性、残酷性が一気に生きてる我々に襲いかかってくるのは、現代日本においては、その多くが自然災害である。

五年前の東日本大震災の際は、一万人を超える人々が一瞬にして、命を奪われた。未だに遺体すら見つかっていない死者は少なくない。仮に遺体が見つかっても、原型を留めていることは稀だと云う。

そんな自然災害の後、遺された生者は、死者の霊、あるいは魂、精神といったものを慰霊し、慰める。なぜ慰霊をするのか-慰霊という営為の意味については、個々人に思うところがあるだろうし、一概にこうである、といった具合に断定するのは乱暴だが、多くの場合、非業の死を迎えた死者を、少しでも救済したいという気持ちがあるということは、否定し難いのではないか。事実、種々の慰霊式や追悼式で述べられ、あるいは慰霊塔などの碑文には、「安らかにお眠り下さい」といった趣旨の文言が挿入されていることが多い。私は民俗学や宗教学に詳しくないが、これらの文言に、死者の魂がせめてあの世では幸福であってもらいたい、という魂の彼岸での救済を希望する意味合いが含まれていることは、明らかだろう。

そして、その魂の救済という、「慰霊」をフィクションの中で行っているのが、「君の名は。」だと言えるのではないだろうか。

非業の死を遂げた三葉をどうにかして、救済したい。瀧の純粋な想いに、観客は次第に自身の感情を同化させていく。そして、途中で、入れ替わりが戻った後は、三葉に感情を同化させる。

これほどまでに、「君の名は。」が感動的であるのは、RADWIMPSの美しい音楽や、美しい背景がその一因だと、もちろん言えるだろうが、我々が果たすことができない、死者を復活させるという究極の「慰霊」、魂の救済の理想形を、「君の名は。」に見いだしているのではないか。

「もし、私があの時、ああしていたらあの人は救うことができたかもしれない」「もしあの時ああしていたら彼女は幸せな最期を迎えたのかもしれない」。我々が何処かの地点で経験する、肉感的な死、愛しい人の死を前にして、我々がとっさに考える、夢想、妄想。それを叶えた物語、それが「君の名は。」という作品ではないだろうか。

夢想、妄想を叶えた物語と言えば、悪いイメージを抱く方も居るかもしれない。確かに、観客の願望を叶えるというあり方は、観客に甘えていると言えるかもしれない。しかし、「君の名は。」において、絶対に不可能な死者の救済の理想形を提示することで、監督の新海誠氏は、観客を救済しようとしたのではないか。いや、それは生き方と言っていいかもしれない。死者に相対した後の生者の生き方。そういった我々生者の生き方に、希望を与えようとしたのかもしれない。実際、最期の、二十代になった瀧と三葉が出会うシーンは、それまでの新海誠氏の「秒速5センチメートル」といった作品とは明確に異なった、いわゆる「運命的な出会い」と呼ぶに相応しい明るい最期を迎えている。

この最期は、我々に希望を与える。そして、その希望は死者の過去ではなく、生者の未来に向いている

死者を救済し、尚且つ生者を救済する-新海誠氏の才能に驚くばかりだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする