美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

近況報告

2019年11月22日 19時41分34秒 | ブログ主人より
永らく、アップしておりません。

以前にも申し上げましたが、当方、目下、理工学部志望の大学受験生を指導しております。卒業生なので、困ったことにはできうるかぎり対応してあげようと思っております。7月から入塾してきたので、志望校の入試問題に取り組む時間的余裕を作るためには、基礎の総復習をなるべく早期に終える必要があります。

で、当方、文系出身なので、物理と数Ⅲに取り組むのは、今回がはじめてなのです。だから、いま、寸暇を惜しんで猛勉強中なのですね。

それで、当ブログにアップする時間的精神的余裕がない、という状態なのです。

MMTの英訳や交観会Bunsoのご報告などのアップ、気にはかかっているのですが、どうにも身動きができない状態なのです。

PS 上記とは関係ないのですが、この半年ほど、知人からもらい受けた犬を飼っておりました。飼い主を噛む癖がしだいにはなはだしくなり、ついに親指の先の肉を喰いちぎられてしまいました。これ以上の飼育は無理と判断し、先日、知人に犬を戻しました。残念なことでした。
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ザ・ロネッツ——大瀧詠一の一側面(増補版)

2019年11月04日 00時32分09秒 | 音楽


大瀧詠一の元ネタ集「その2」の材料をあれこれと探していました。

あれかな、これかな、という目星は、それなりについたのではありますが、そのプロセスで、なぜか、ロネッツが俄然、マイハートのなかで浮上してきてしまい、今日などは、頭の中で、ロネッツの曲のあれこれが、リフレインして、それなりに困ったりしたのです。

で、ここは、とりあえず、ロネッツの楽曲をいくつか紹介して、「リフレイン地獄」から自分を解放したいと思ったのです。

そう、ロネッツといえば、フィル・スペクターです。それでもって、フィル・スペクターといえば、とりあえす「エコー」で、「エコー」といえば、大瀧詠一であったりします。

まあ、世間ではそういうつながり具合になっていまして、それに当方が異を唱える気などさらさらないわけではあります。

あらかじめお断りしておきますが、ロネッツの場合、この曲は大瀧さんのアレの元ネタ、という特定をする能力は、当方にございません。

しかしながら、全体の印象としては、ロネッツ・サウンド≒スペクター・サウンドは、大瀧サウンドに大きな影を落としている、というのは間違いがないと思われます。

でなければ、リフレイン地獄に陥ったりはしませんって。

まずは、これから。

*以下、「この動画はごらんいただけません。Youtubeでごらんください」という表示が出ますが、アンダーラインがついた「Youtubeでごらんください」をクリックしていただければお聴きいただけます。悪しからず。

「 私のベイビー  Be My Baby」2020 ザ・ロネッツ Ronettes


「ビー・マイ・ベイビー」は、1963年8月に発表された楽曲です。同年10月に全米2位を記録しました。プロデューサーのフィル・スペクターによるウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、後の音楽シーンに多大な影響を与えました。ちなみに、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは当楽曲に感銘を受け、翌年に「Don't Worry Baby」を発表し、ロネッツとフィル・スペクターに捧げています。

ロネッツは、シングル8枚とアルバム一枚を残して66年に解散をしたそうですから、以下に掲げる楽曲もおそらく同じ時期に作られたものなのでしょう。名曲ぞろいですよ。

それにしても、ヴェロニカの突出した存在感のあるヴォーカルはすごいですね。

The Ronettes - You Baby (HQ)


BABY I LOVE YOU (ORIGINAL SINGLE VERSION) - THE RONETTES


The Ronettes - When I Saw You (Official Audio)


次の「Walking In The Rain」ですが、大雨の効果音は、もっと大袈裟な形で、シリア・ポールの『夢で逢えたら』収録の「こんな時」で使われています。

Walking In The Rain [日本語訳付き] ザ・ロネッツ


次は「So Young」です。当楽曲については、大瀧さんがDJを務める伝説の趣味趣味音楽番組「Go Go Niagara」でたまたま聴いていて、思わず涙がちょちょびれたことを白状しておきます。YouTubeで大瀧さんの声を聴きながら寝付くのがここ数年の習慣になっておりますもので。

So Young


*その後、結局、といいましょうか、ザ・ロネッツの唯一のオリジナルアルバム『・・・presenting the fabulous RONETTES featuring VERONICA』を購入しました。ご紹介した上記の5曲を含む全12曲が収録されています。私が言うのもなんですが、名曲ぞろいでとても良いアルバムですよ。ちなみに当方が購入したのは、CD版で1000円+税です。オリジナルLPは、プレミアム価格10000円以上で、とても手がでません。

当CDに添付されている、土屋一夫氏の解説文のなかに、つぎのようなくだりがありました。参考までに掲げておきます。


全体的には、第二期ウォール・オブ・サウンドの完成形とも言える、エコーが少し深くなり始め、ストリングスやパーカッションを多用し、ハル・ブレインのドラムスが派手にフィーチャーされた濃密なサウンドと、バリー・マン&シンシア・ワイル、エリー・グリニッチ&ジェフ・バリー、それに元々はフィルの門下生だったピート・アンダース&ヴィニ・ポンシアといったブリル・ビルディング系を中心とした優れた作家のナンバーを起用し、そこにジャック・ニッチェ独特のアレンジ手法と、ラリー・レヴィンによるエンジニアリングが加わった、フィレスの最高傑作LPに位置付けることができよう。ハル・ブレインらレッキング・クルーと呼ばれることになるメンバーによる演奏も素晴らしく、その後の音楽シーンに大きな影響を与えたエヴァー・グリーンな一枚である。

あまり馴染みのない名前が列挙されていますが、「新春放談」での大瀧詠一と山下達郎のやり取りのなかで、頻出していたような気もします。

コメント (3)
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MMTの変わり種・モスラーの『経済政策をめぐる7つの嘘っぱち』を訳してみました(その40)

2019年11月01日 17時41分00秒 | 経済


*モスラ―は、ドル・ショックがあった1971年という激変期に大学を卒業しています。

パートⅡ 発見の時代

私は、1949年9月18日にマンチェスター記念病院で生まれました。両親は、ダニエル・モスラーとムリエル・モスラーです。私は、その三人の子どもの年長者でした。弟のセスは1951年に、妹のスーザンは1955年にそれぞれ生まれました。1960年に47マリオン・ドライヴの三つの寝室がある家に引っ越すまで、ウエスト・ミドル・ターンパイクのアパートに住んでいました。その家を売るまで約三年間そこに住んでいました。そうして、経済的な理由で、近くの借家に引っ越しました。私は、ワデル学校に通っていて、引っ越した後はバクレー小学校に通いました。その後、イリング中学校、マンチェスター高校に通いました。当高校は、父が1937年に卒業しました。

我が家は、マンチェスターの典型的な中産階級の家族だったように思われます。父は、経理担当者として働き、酒屋の管理を担当し、生命保険を売り、納税書類の作成を担当していました。母は、登録看護師で、マンチェスター記念病院で夜勤をしていました。

たぶん八歳のころだったと思うのですが、自分の車の具合がよくないのをなんとかしようと思い立ちました。古い芝刈り機を分解してバイクとゴー・カートを作るのにその部品をいろいろと利用しました。溶接されたものなら何でもゲットするのは、とてもぜいたくなことだと思われました。たぶんいまでも、一九五五年から七五年に作られたアメリカ製の車なら一目見ただけでその名前を言い当てることができると思います。歩道に座り込んで、弟と、走っている車の名前の言い当てっこをしたものです。

高校時代、いろいろなバイトをしました。一日キャンプをしている子どもたちに泳ぎを教えたり、地方のデパートで働いたり、芝刈りをしたり、隣の雪かきをしたり、いろいろです。

高校時代は中くらいの成績でした。しかし教師たちから、一生懸命に頑張ればぐんと成績が上がる“ポテンシャル”がある、と言われました。アメリカの多くの高校生は、そういうふうに言われますけどね。で、SAT(大学進学適性検査)は、数学700点、口頭試験600点でした。自分としては、まあまあという感触でしたが。

1967年に高校を卒業した後、コネチカット大学という公立大学に入学しました。というのは、そこは地元の住人なら年間たったの300ドルの学費で済んだからです。私は、地方の組織からエンジニアリングを勉強するための1000ドルの奨学金と計算尺とを受け取っていたので、最初の二年をエンジニアリングを学ぶ者として過ごしました。その後、専攻を経済学に変え、1971年にBA(文科系学士号)を取得しました。1971年といえば、たまたま悪い年で、当時のニクソン大統領は、価格と賃金の抑制を実行し、金とドルとの交換を停止しました。

*1971年8月の、アメリカ経済立て直しのためのいわゆるニクソン・ショック(ドル・ショック)です。これをきっかけにドルの価値が急落し、ドルを基軸とする、1ドル=360円の固定相場の国際通貨制度(ブレトン=ウッズ体制)が崩壊しました。71年12月、スミソニアン協定により、ドル切り下げと円切り上げによる多国間通貨調整が行われ、1ドル=308円という新レートでの固定相場制復帰が図られました。しかし、アメリカの国際収支赤字は改善されず、73年に各国は変動相場制に移行し、76年のキングストン協定で追認されました。それをキングストン体制と呼びます。私見によれば、ニクソン・ショックは、それによって貿易立国という国家の経綸がきわめてリスキーなものになったので、国内経済の充実に大きく舵を切るべききっかけととらえるべきでした。日本政府は、その視座からブレてはならなかったのです。

ドル・ショックをきっかけに、アメリカは不況になり、インフレは3%になり、フランスは、フォート・ノックス(米国金塊貯蔵所の所在地)から金の拠点を撤収しようとしたのです。
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