美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ブリティッシュ・フォークの名曲「MATTY GROVES」

2014年07月31日 20時20分33秒 | 音楽


ブリティッシュ・フォークの名曲をひとつだけちょっと詳しくご紹介します。

それは、フェアポート・コンベンション『Liege and Lief』(1969年)のなかの「MATTY GROVES」です。『Liege and Lief』は、ブリティッシュ・トラッドの最高峰に位置する一枚とされています。個人的にも、若いころに深く心をゆさぶられたアルバムです。同曲は、そのなかの代表曲です。同曲は、サウンドだけでも、その魅力が十分に聞き手に伝わります。しかし歌詞の意味が分かると、その魅力が倍増すること請け合いです。というわけで以下に、それを掲げます。できうることならば、歌詞を追いかけながら、お聴きになることをおすすめいたします。主要メンバーは、ヴォーカルがサンディ・デニー、エレクトリックギターがリチャード・トンプソン、ベースがアシュレイ・ハッチングスです。その歌詞のなかで展開される、下層階級の若い男Matty Grovesと上流階級婦人とその夫Lord Darnellとのドロドロの血腥い愛憎劇は、イギリスに古くから伝わるもので、フェアポート・コンベンションは、斬新でダイナミックなアップテンポの演奏によって、そのリアリティや切迫感を現代に蘇らせることに成功しています。なお歌詞の訳は、最小限に絞り込みました。というのは、歌詞なるものは、メロディとリズムに乗って、半ば音として聞き手に到来するものであるからです。

Fairport Convention - Matty Groves


MATTY GROVES

Oh a holiday, a holiday
And the first one of the year
(一年間ではじめての祝日だった)
Lord Darnell’s wife came into the church
The gospel for to hear
(福音を聞きに)

And when the meeting it was done
She cast her eyes about
(彼女は、周りを見渡した)
And there she saw little Matty Groves
(そうして、マティ・グローブを見初めた)
Walking in the crowd

“Come home with me,little Matty Groves
Come home with me tonight
Come home with me,little Matty Groves
And sleep with me till light.”
(夜明けまで私と一緒に過ごしなさい)

“Oh I can’t come home, I won’t come home
And sleep with you tonight
By the rings of your fingers
(あなたの指の指輪を見れば)
I can tell you are Lord Darnell’s wife.”

“What if I am Lord Darnell’s wife
(私がダーネル卿の妻だとして、それがどうしたというのでしょう)
Lord Darnell is not at home
For he is out in the far cornfields
Bringing  the yealings.”
(一年の収穫を持って帰るため)

And a servant who was standing by
And hearing what was said
He swore lord Darnell he would know
(彼は彼が知ってしまったことをダーネル卿に伝えることを誓った)
Before the sun would set

And in his hurry to carry the news
He bent his breast and ran
(彼は体を折って駆け出した)
And he came to the broad millstream
(水車のある広い川まで来ると)
He took off his shoes and he swam

Little Matty Groves he lay down
And took a little sleep
When he woke, Lord Darnell
He was standing at his feet
(ダーネル卿が足元に立っていた)

Saying,“How do you like my feather bed, and
How do you like my sheets?
How do you like my lady
Who lies in your arms asleep?”

“Oh well like your feather bed, and
Well I like your sheets
But better I like your lady gay
(でもあなたの浮気な奥様の方がずっと良い)
Who lies in my arms asleep.”

“Well get up! Get up!” Lord Darnell cried
“Get up as quick as you can
Let it never be said in fair England
I slew a naked man!”
(麗しきイングランドで、私が裸の男を殺したとは言わせぬぞ)

“Oh I can’t get up,I won’t get up
I can’t get up for my life
For you have two long beaten swords
(あなたは鍛えられた剣を二本お持ちだが)
And I not a pocket knife.”

“Well it’s true I have two beaten swords
And they cost me deep in the purse
(しかもたいそうなお金を支払わされた)
But you will have the better of them
And I will have the worse.”

“And you will strike the very first blow
(おまけに最初の一撃をお前に撃たせてやる)
And strike it like a man
(一人前の男のように打つが良い)
I will strike the very next blow
And I’ll kill you if I can.”

So Matty struck the very first blow
And he hurt Lord Darnell sore
(ダーネル卿に重傷を負わせた)
Lord Darnell struck the very next blow
And Matty struck no more

And then Lord Darnell he took his wife
And sat her on his knee
(妻を膝の上に座らせた)
Saying,“Who do you love the best of us
Your Matty Groves or me?”

And then spoke up his own dear wife
(彼の愛しい妻は口を開き)
Never heard to speak so free
(彼の前ではじめて、胸の内を正直に言い放った)
“I’d rather a kiss from dead Matty’s lips
Than you or your finery.”
(あなたの立派な服にキスするくらいなら)

Lord Darnell he jumped up
And loudly he did bawl
(大声で猛り立つ)
He struck his wife right through the heart
And pinned her against the wall
(彼女を壁に串刺しにした)

“A grave, a grave” Lord Darnell crid
(「墓だ、墓を掘れ」とダーネル卿は叫んだ)   
“To put these lovers in
But bury my lady at the top
(しかし、わが妻を彼より上に葬れ)
For she was of noble kin.”
(彼女は貴族の生まれであるからだ)

最後の二行が、二の句を継げぬほどにすごいですね。
コメント

高橋洋一VS三橋貴明 (小浜逸郎)

2014年07月28日 18時35分37秒 | 小浜逸郎
*以下は、小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」からの転載です。(ブログ管理人)

高橋洋一VS三橋貴明




 去る7月18日、産経新聞の「金曜討論」欄に、元大蔵(財務)官僚でリフレ派経済学者の高橋洋一氏と、中小企業診断士で経済評論家の三橋貴明氏との「討論」が掲載されました。
 この欄は、論者が直接対面するのではなく、担当記者がそれぞれに同一テーマについてインタビューし、両者同じ字数でその見解を載せる形をとっています。このスタイルのほうが論点が冗漫に流れず、よく論理的に整理されるので、読者にとっては相違点が明瞭にわかるという利点があります。
 さてテーマは、今年1月に施行された「タクシー減車法」の評価をめぐってです。これは2002年の参入規制緩和を見直し、価格競争激化によって生じる格安タクシー料金に規制をかけるもので、すでに国土交通省による格安タクシー業者への値上げ勧告が始まっています。また、格安業者が裁判所に強制値上げの差し止めを求める動きも出てきているそうです。
 この問題は、いまの日本の経済状況を具体的にどう見るかという点でとてもわかりやすく、またこの問題にどう答えるかで、論者の経済思想(人間観と言ってもいいでしょう)が端的に表現されます。かたやリフレ派の大物・高橋洋一氏、こなたケインズ派の活躍者・三橋貴明氏。めったに見られない横綱相撲と言っても過言ではありません。はばかりながら私は、この横綱相撲の行司役を買って出たいと思いました。
 それではここに両者の見解を全文転載することにします。各行頭の――線部分はインタビュアーの質問です。

≪高橋洋一氏≫

 ――今回の規制強化をどう評価する

 「まったく評価できない。本来は価格規制をなくすことが必要なのに反対のことをしている。国交省が少しでも安い運賃の業者を指導しているため訴訟も起こされているが、安いタクシーはほんの一部であり、市場経済において目くじらを立てる話ではない」

 ――大阪、福岡地裁では国による強制値上げの差し止めが認められた

 「国側が負けて当たり前で、司法から『法律がひどいですよ』といわれているようなものだ。価格規制を緩和すれば、自然と業者も利用者も納得できる状況に落ち着いていくはずだった。しかし古い官僚主導型の規制に自公民各党が乗って、今回の規制強化策が導入されてしまった。経済学が分かっていないという点で国会議員の無知をさらけ出す結果となっている」

 ――格安タクシー業者は「営業の自由を侵害し憲法違反」と訴えた

 「憲法違反とまでは言えないにしてもそれなりの説得力があるといえる。なぜ国が強制的に値上げするのか。タクシーの公共性といってもバスなどと違って根拠は弱く、だからこそ参入が自由化されてきた歴史がある」

 ――需要と供給の関係を無視した高い料金設定が問題ということか

 「その通りで、結果的に誰も満足できない状況になっている。料金が高くて食べていけると思うから多くの運転手が参入してきて、共倒れになるという悪い循環に陥っている。しかし価格規制を緩和して料金が下がれば、食べていけないと分かるから自然に参入は減ることになる。そうした市場メカニズムを活用すべきだ」

 ――業界への新規参入をうながした平成14年の規制緩和をどう評価する

 「評価できるが、料金規制を残したのはまずかった。結果として新規参入が殺到することになってしまった。そもそも日本のタクシー料金は世界的にみても高すぎる。米国なら初乗りが日本円で250円くらいだ。運転手は特別な職業ではなく、誰にでも務まる仕事なので料金は安いのが当然だろう」

 ――厚生労働省によると、タクシー運転手の賃金は労働者平均の半分強だ

 「運転手の賃金をどうするかは最低賃金法などで対応すべきであり、それは国交省ではなく厚労省の仕事だ。経済合理的に考えれば、特別な資格がなくてもできる仕事の対価として、低賃金はやむを得ないだろう。福岡では初乗り300円のタクシーがあるそうだが、それで事業が成立するのなら結構なことだ。安さに文句をつける必要はなく、無理に料金を統一しようとすれば、料金以外での競争が始まる。大阪の一部タクシーのように乗客に粗品を渡すなど、かつて問題になった“居酒屋タクシー”のような不健全なサービスが横行しかねない」


≪三橋貴明氏≫

 ――平成14年の参入緩和について

 「経済状況によって規制緩和が正しいか正しくないかが決まるが、14年当時はデフレ下で需要不足であり、供給過剰状態のときにタクシーの参入規制を緩和したのはまずかった。結果的に料金は下がったが、競争が異様に激化してタクシー運転手の貧困化を招いてしまった。消費者としてはいい話かもしれないが、事業者側からの目線も必要だ。その点で今回、規制のあり方を見直すのは当然だといえる」

 ――今回の規制強化は評価できると

 「働く人たちの所得が増えていくのが正しい政策のあり方で、そのためにある程度、料金が上がるのはやむを得ないだろう。デフレが長く続いた結果、日本人は『価格は下がるもの』と思っている人が多いが、基本的に価格は上がるもの。ここ20年、タクシー料金がほとんど変わっていないのは異常なことで、何でも『安ければいい』との考えはやめるべきだ」

 ――タクシーの公共性をどう考える

 「ある程度は公共交通機関としての役割があり、国民の足を維持するという視点は必要だ。利益だけを考えればタクシーは東京に集中するだろう。地域住民の足を確保するために、場合によっては助成金のような仕組みも必要かもしれない。今回の規制強化で都市部の供給過剰な台数を削減するという点は評価できるが、供給不足の地方のことまで考えてほしかったと思う」

 ――大阪、福岡地裁では強制値上げの差し止めが認められ、初乗り500円といった格安タクシーが健在だ

 「あまりに激しい価格競争は排除されるべきで、差し止めは支持できない。大阪市なら初乗り660円といった、国交省が定めた下限料金まで上げるべきだ。タクシー運転手が自分の労働できちんと家族を養えることが重要で、14年の規制緩和以降、運転手の所得が下がっていることは大問題だ。働く人の所得が上がらなければデフレ脱却はできない。タクシー料金が上がるということは消費者目線で『物価上昇は困る』と捉えられがちだが、働く運転手の所得を増やすことが消費増につながり国民生活全体としてプラスになると考える必要がある」

 ――米国などと比べて日本のタクシー運賃は高いとされるが

 「むしろいいことではないか。なぜ米国のタクシー運賃が安いかといえば、移民も含めた労働者を酷使しているからだ。工業製品と違って、サービス料金は国境を越えて同じ水準である必要はない。先日、視察に行ったスウェーデンでは初乗りが2千円程度だったが、それがむしろ正常といえるし、その運賃に文句をいうつもりもない。事業者側の視点を持つことが重要で、外国と比べたいのならスウェーデンと比較すべきだろう」


 ご覧のように二人の主張は、真っ向から対立しています。
 ところで金融緩和促進に賛成のリフレ派と、それを受けての積極的財政出動派とは、それぞれデフレ脱却をめざすアベノミクスの第一の矢と第二の矢とを代表しています。この両者はパッケージとして機能して初めて投資や雇用や所得の改善に寄与するので、本来対立すべきではないのです。ところが、おかしなことに、この両者はしばしば不毛な理論闘争を繰り返しており、学問レベルで、せっかくのアベノミクスの意義を減殺する効果を生んでいます。
 この論争もその一変種とみなすことができるでしょう。では、ここでの二人の言い分は両方とも間違っているのか。そうではありません。
 初めに軍配を上げてしまいましょう。私の審判では、これは立ち合い低く当たって、素早く右前褌をつかみ両差し、一気に寄り切った三橋氏の圧勝です。高橋氏は終始腰高で、顎が上がり、頭で相撲を取っているだけです。分析の適否においてだけではなく、公共精神の有無、どれだけ国民のことを真剣に考えているかという点においても、両者には雲泥の差があります。
 以下取り口を、少し細かく分析してみましょう。
 高橋氏は、まずこう言っています。

 価格規制を緩和すれば、自然と業者も利用者も納得できる状況に落ち着いていくはずだった。

 これは、政府が介入せずに自由市場に任せさえすれば需要と供給は均衡するという教科書通りの古典派経済学原則をそのまま述べたものですが、ここには、需要が不足しているデフレ期に供給ばかり増やしても需要が追いつくはずがないという現実が完全に見落とされています。さんざん批判されている「セーの法則」を何の疑いもなく前提としているのですね。

 次に高橋氏はこう言っています。

 安いタクシーはほんの一部であり、市場経済において目くじらを立てる話ではない

 これは彼が市場の現実、というよりも市井の一般人の生活感覚というものに関心がないことを象徴する言葉です。たまたま格安タクシーが話題になっているから、それが「ほんの一部」であるのをいいことに、「市場経済全体」には関係ないかのようにうそぶいていますが、デフレ状況下で価格競争を刺激するような規制緩和をすれば、あらゆる中小産業に悪影響を及ぼすことは眼に見えています。現に今回の法的措置は、規制緩和をしたために過当競争が起こり、ブラック企業の従業員と同じように、低賃金と過重労働に甘んじざるを得ない運転手さんが続出したのです。「料金規制を残したのはまずかった。結果として新規参入が殺到することになってしまった」のではなく、規制(この場合は台数制限や参入条件j)が緩和されたからこそ他業界で行き悩んでいた人たちが新規参入し、結果として供給過剰となり、価格競争が激化して格安タクシーが横行するという悪循環を招いたのです。
 高橋氏はまた、次のようなふざけたことも言っています。

 価格規制を緩和して料金が下がれば、食べていけないと分かるから自然に参入は減ることになる。そうした市場メカニズムを活用すべきだ

 この発言が、社会的弱者を無視した、いかに無慈悲でふざけた発言か。
 何よりも、規制緩和によって(価格競争が起こり)料金が下がるというメカニズムは、すぐ前の「料金規制を残したから新規参入が殺到した」という自説と論理的に矛盾しています。もちろん、前者のメカニズムこそ、市場メカニズムとして自然なものです。それで食べていけないからといって、ただちにやめるわけにはいかないから、低賃金と過重労働に甘んじる労働者がが続出し、さらに価格競争の悪循環が起きるのです。
 次に、小学生でもわかる道理ですが、仮にある業界で食べていけなくなったとして、その業界から敗者が撤退すれば、その業界内では「市場メカニズム」がはたらくかもしれませんが、では撤退した敗者はどこに働き口を求めたらよいというのでしょうか。世はいたるところ不況で、投資は冷え込み、雇用や賃金はほとんど少しも改善していないというのに!

 さらに高橋氏は続けます。

 米国なら初乗りが日本円で250円くらいだ。運転手は特別な職業ではなく、誰にでも務まる仕事なので料金は安いのが当然だろう

 経済合理的に考えれば、特別な資格がなくてもできる仕事の対価として、低賃金はやむを得ないだろう。


 ここに高橋氏の、庶民をバカにした傲慢な経済思想がいかんなく発揮されています。タクシー運転手が「誰にでも務まる」「特別な資格がなくてもできる仕事」でしょうか? 高橋さんはタクシーを運転できますか? 何よりもあの仕事は、行く先までお客の命をあずかるため、交通安全に対する極度の熟練感覚を必要としますし、またさまざまなお客の要求に応じるためのデリケートで適切なサービス心を持つことが不可欠です。
 他の多くの仕事もその点においては同じですが、そもそもこういう大切な「実業」に従事する人々の低賃金を「やむを得ない」と断ずるその冷ややかな「経済合理主義」が問題です。この「経済合理主義」がどこから来たかといえば、資本主義の最も過酷な面を代表する市場原理主義からです。
 市場原理主義は、それぞれの働き手たちの具体的な生活心情を切り捨て、経済の動きを計量化・数値化できる抽象的なレベルでだけとらえます。そのため、経済活動においてはすべての個人・集団が自分の利益追求だけを目的とし、その目的に沿った「合理的」な行動しかとらないという、あのとっくに古びた経済学的前提が必要となるのです。高橋氏は、この机上で考え出された人間把握のスタイルに完全にハマっています。
 次です。

――厚生労働省によると、タクシー運転手の賃金は労働者平均の半分強だ

 「運転手の賃金をどうするかは最低賃金法などで対応すべきであり、それは国交省ではなく厚労省の仕事だ。


 これは完全にごまかしとすりかえですね。ある仕事が労働者平均の半分しかもらえてないという現実をどうするかは、担当省庁の領分の適合性の問題ではなく、日本経済全体をデフレ不況から恢復させて、低所得者層を少しでも裕福にし、いかにして分厚い中間層を作り出すかという政策レベルの問題です。
 高橋氏は、規制緩和さえ徹底させればよく、競争の敗者などは自然淘汰されればよいといった、新自由主義思想の申し子です。彼には、格差拡大による社会不安をどうするかとか、不況下であえぐ国民各層の生活苦をどうするかといった経世済民の発想がかけらもないことがこれでよくわかります。リフレ派というのは、金融緩和だけが政府・日銀のやるべきことで、そのあとの動きについてはレッセ・フェールよ、という狭い狭い学者頭の集まりなのですね。

 一方、三橋氏の主張については、すでに多言を要しないと思われます。「働く人たちの所得が増えていくのが正しい政策のあり方」だというのはまったくその通りですし、個別の消費者にとって物価が安くなることが、マクロ経済的な視野からは投資や雇用の悪化を引き起こし、結果的に消費を冷え込ませるという循環の論理がきちんと押さえられています。
 また、次のように述べて、都市と地方との著しい格差の問題にも正確な目を注いでいます。

 地域住民の足を確保するために、場合によっては助成金のような仕組みも必要かもしれない。今回の規制強化で都市部の供給過剰な台数を削減するという点は評価できるが、供給不足の地方のことまで考えてほしかったと思う

 以下の記述もまったくその通りで、つけ加えるべきことはありません。

 タクシー料金が上がるということは消費者目線で「物価上昇は困る」と捉えられがちだが、働く運転手の所得を増やすことが消費増につながり国民生活全体としてプラスになると考える必要がある

 またタクシー料金の国際比較で、高橋氏がアメリカと比べて日本が高いと言っているだけで、何らその苦しい社会背景に言及できていないのに対して、三橋氏は、アメリカが安いのは移民労働者などを酷使しているからで、サービス料金は国境を超えて同じ水準である必要はないと喝破しています。極め付きは、スウェーデンの2000円という例を出して、高橋氏の論拠を顔色なからしめている点ですね。ここにて勝負あり! というところです。
 どちらが本当に国民生活のことを考えているか、もはや明らかでしょう。
 規制はすべて固守すればよいというのではありませんが、低所得者層が増え格差が拡大しているときに、それにかかわる規制をただ撤廃すればうまく行くなどと考えるのは大きな間違いです。国家の適切な関与・介入が必要なのです。安倍総理は、岩盤規制をドリルで砕く(つまり第三の矢)などと、すっかり新自由主義にやられた発言をしていますが、この点では、彼はとんでもなく間違った経済思想に毒されています。格安タクシーに対する強制的な値上げと供給過剰な台数を削減する方針は、デフレ脱却の方向性として正しいのです。
 ちなみに、日本経済の現状は、デフレ脱却からは程遠い状態です。アベノミクス発動以後も、物価は上がりましたが、その結果、実質賃金(名目賃金から物価上昇分を差し引いた値)は下がり続けています。また次のような指摘もあります。

 銀行などの預金取扱機関の預金は3月末までの1年間で31兆円増えたが、貸し出しは11兆円増で、差し引き20兆円分のお金が滞留した計算だ。
 ニッセイ基礎研究所の上野剛志シニアエコノミストは「日銀が川上から水(お金)を流しても、いったん金融機関というダムにせき止められて、川下の民間にまで流れていかない状態だ」と解説する
。(産経新聞7月10日付)

 つまりはいわゆる「ブタ積み状態」なので、これをどう有効に流すかこそが、政府の経済政策の課題であり、それは、金融緩和だけで何とかなると考えているリフレ派の出る幕ではありません。この経済政策には、公共投資などの積極的な財政出動だけではなく、今回のタクシー問題のように、過剰な価格競争を抑制する政策(規制緩和見直し)も含まれます。高橋氏には、「経済学が分かっていないという点で国会議員の無知をさらけ出す結果となっている」などと経済学者のおごりをさらけ出さずに、黙っていてほしいものです。
コメント

桶谷秀昭『昭和精神史』に対して異論あり

2014年07月22日 05時40分51秒 | 戦後思想


桶谷秀昭氏の『昭和精神史』は、戦後編を含めると、文庫版で一三〇〇ページほどの大著です。そうして、その多岐にわたる叙述は、大東亜戦争の敗戦までにいたる精神史の流れとその敗戦を背負っての戦後の精神史の流れをめぐるものである、とまとめることが許されるでしょう。だからこそ、長谷川三千子氏が『神やぶれたまはず』で鋭く指摘しているように、桶谷氏は、昭和二十年八月十五日に、心ある日本国民が、玉音放送を聴きながら、呆然自失の状態で聴き取った「天籟」(てんらい)に執拗にこだわるのです。言いかえれば桶谷氏は、大東亜戦争という完膚なきまでの敗北に終わった「いくさ」が民族精神の流れに刻み込んだものを何とか言い当てようとして筆を進めているうちに、いつの間にか一三〇〇ページの書物が出来上がってしまったのです。本書が生まれるまでの経緯は、おそらくそういうことなのではないかと思われます。

フロイトが言うように、自覚することは超えることです。つまり桶谷氏は、敗戦コンプレクスを乗り超えるために、本書を書いたのです。そうして、それを乗り超える主体が、桶谷氏個人であるのみならず、心ある日本国民でもあることにおいて、本書は、民族精神史上の「事件」である、と言いうるのではないかと思われます。本書は、心ある日本国民が戦後レジームからの脱却を果たすうえでの精神的な意味における出発点である、というのが、私の本書に対する評価の核心です。

以上を踏まえたうえで、『昭和精神史』に対して異論がある、というお話しをこれからしようと思います。まずは結論を先に申し上げます。私たち日本人が敗戦コンプレクスを内在的に乗り超えるうえで、沖縄戦における県民の戦いぶりをどう認識するかは、決定的な意味を有します。しかるに本書において、沖縄戦における県民の戦いぶりについての精神史的な考察はたったの一行もなされていません。私見によれば、そうである以上、敗戦コンプレクスの乗り超えは、はじめから不可能の刻印を押されているというよりほかはない、という結論に至ります。

本書が沖縄戦について触れているのは、次の箇所だけです。文庫本で、わずか七行の分量です。

沖縄守備軍約九万名が、八十三日にわたる死闘ののちに玉砕したのは六月二十一日であつた。このなかには沖縄一中をはじめ中学一、二年生までを動員した鉄血勤皇隊やひめゆり隊の女学生も含まれる。
 さらに非戦闘員の島民十万人が犠牲になつた。
 米軍は上陸総兵力十八万三千名のうち、約五万名の戦死傷者を出した。
 「秋をまたで枯れていく島の青草は皇国(みくに)の春に蘇へらなむ」といふ辞世をのこして、牛島軍司令官は切腹して果てた。


以上です。読み手からすれば、さらっと読み流して、はい次、という扱いになってしまいますね。その後、「戦われざる本土決戦」についての精神史的考察が五ページほど続いているのと比べるとき、沖縄戦についての淡々とした事実の叙述の素っ気なさには異様なほどのアンバランスを感じてしまいます。私はなにかむずかしいことを言おうとしているわけではありません。大田実海・軍司令隊隊長が「沖縄県民かく戦えり」で訴えたように、沖縄県民は、人口の三分の一を失うほどの本土決戦をあの狭い島で戦い抜いたのです。彼らは、単なる戦争の犠牲者ではないのです。繰り返します。彼らの心根に即するならば、彼らは間違いなく本土決戦を最終過程まで戦ったのです。そのことが、「昭和精神史」の名を冠する本のなかで、まったく精神史的考察の対象となされていないのは、異様と形容するよりほかはありません。

私は、最近アップした文章のなかで、次のように申し上げました。

本土の人々は、精神的な空白状態と戦後のどさくさによって我を忘れ、沖縄の存在をすっかり忘れてしまったのです。それと同時に、沖縄県民が、あの小さな島で民族精神としての本土決戦を戦い抜くことによって、図らずも思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜くことになったこともすっかり忘れてしまったのです。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/4d30316038c1eaa14c211029694604f5

私見によれば、これは、昭和精神史上における重大な事実です。端的に言えば、この事実が、われわれをして敗戦コンプレクスからの脱却を不可能ならしめているのです。そうして、いま私が申し上げた一切が、本書にはっきりと刻印されているという不幸な事実そのものが、逆に、敗戦コンプレクスからの脱却という課題の大きさを証明していると私は考えます。
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『Fragments~特攻隊戦死者の手記による~ (信長貴富・作) 』は、傑作である

2014年07月19日 18時28分30秒 | 音楽
かなり前にアップした「究極の文章――特攻隊員の遺書」(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/9f86f93ac0892fe252d704e892189b6b)に、最近桃太郎さんという方からコメントをいただきました。そのなかで、「Fragments~特攻隊戦死者の手記による~」という信長高富氏の合唱曲のおすすめがあったので、早速聴いてみました。はじめは、ちょっとピンと来ないところがあり、その旨桃太郎さんにコメント欄でお伝えしたところ、次のような丁寧なコメントをいただきました。

***

美津島様

返信ありがとうございます。そして、私がお奨めした曲を
聴いてくださったことにも、御礼申し上げます。

私自身、音楽の専門的な事に関してはよくわかりません。
ただこの曲を聴いて感じたままを、僭越ながら述べさせて
いただきたく存じます。

正直申しまして、最初にこの曲を聴いたときは、初めの
部分の勇ましい軍歌調の旋律にかなり引いて
しまいました。

しかし聴き続けるうちに、言葉の抑揚に自然に音が
乗っていて、ストレートに心情が伝わってくると
思えるようになっていきました。
例えば中盤のたたみかけるようなリズムは、目前に
突きつけられた理不尽な死に対し、抑えても抑えても
湧き上がって溢れ出す激しい感情をよく表して
いると思いますし、母親への手紙の部分は美しい
バラードになっていて、素直にその気持ちに寄り添える
ように感じます。またこのパートのソロの学生の歌の
朴訥さが絶妙です。

そしてクライマックスのパートですが、人声による
零戦のプロペラ音のうねりで大規模な飛行隊が
飛んでくる情景が目の前にパーッと広がり、
その中で隊員ひとりひとりの叫びが聞こえてくるようで
息が止まりました。
最後のピアノソロはおそらく乱れ舞う零戦を表現
しているのでしょう。消えていく歌声・・・

この曲はいくつかの手記の断片(Fragments)を取り上げて、
その間をその枝幹二大尉の手記が繋ぐ形で
構成されています。私は、これは何故かなあとずっと
疑問に思っていたのですが、美津島様の本記事を
読み、合点がいった気がしたのです。
この作曲者もおそらく美津島様同様、この詩の中の、
さまざまな自分の感情を超えてただただ祖国の
美しさを愛おしむ気持ちに深く心を動かされたのだ
ろう、だから激しい感情の狭間にこの詩を置いた
のだろう、リセット、というと身もふたもありませんが
ニュートラルな、静かな何かをも聴き手に伝えた
かったのではないか、と思いました。

以上はもちろん私の独断と偏見に過ぎません。
しかし実は私が何よりもこの歌に感動した部分は、
学生たちが上手に歌おう、など微塵も思っていない
ように聞こえたことです。そういう作為的な意図なく、
ただただ、特攻隊員たちの胸の内をできるだけ
そのままに伝えようとしたように、私には思われ
ました。

彼らはもちろん戦争を知らず、同世代だった特攻隊員
の本当の気持ちなど知ることはかなわなかったと
思います。それでも、多分一生懸命に考えたことで
しょう。もし自分だったら、と。
そしてそれがきっかけとなり、過去の戦争やこの国の
現状、行く末にまで思いを馳せることになれば、
将来を担う若者たちにとってこの歌に出会った
一番の成果となったのではないでしょうか。
それにしてもすでに薹が立って久しい私が今頃に
なってこうしたことを考えるようになったのは、
まことに恥ずかしい限りです。

長文駄文、大変失礼致しました。
これからも、こちらのブログ愛読させて頂きたく
存じます。

***

これらの言葉を導きの糸にして、あらためて聴いてみたところ、当曲のハートが直に伝わってきたのです。端的にいえば、聴いているうちに、涙がどっと溢れてきたのですね。漠然とですが、そうならないことにはこの曲を分かったことにならないだろうと思っていたので、分かりやすいといえば分かりやすい目印です。

枝幹二大尉の遺書をモチーフにした「あんまり緑が美しい。ゆく春の知覧は、もう夏を思わせる」のリフレインがとても効果的で、終末部の四度目の登場のとき、私は完全にノックアウトを喰らってしまいました。これは、由紀草一氏がご自身のブログで欧米人の文章を引用して言っていたことですが、特攻隊員の不思議な透明性の魅力は否定しようにも否定し難い。その魅力を、このリフレインのニュアンスの変化によって、信長氏は、見事に表現していることが、今回分かりました。が、その直後に、ピアノの鋭い不協和音の一音を置くことで、当曲は終わっています。特攻作戦が、軍首脳の戦術としてはあくまでも外道であることを、特攻隊員の圧倒的な美しさをいかに感じ取ろうとも、絶対に忘れないし、許容しない、という作曲者の意思表明として、私は受け取りました。特攻隊の崇高美は、抗し難いものとしてある。しかし、だからといって、いわゆる右翼的情念に同一化することは、信長氏の鋭敏な倫理的感性が許さないのです。彼は、その両方の思いを、危ういバランスにおいて表現しようとし、それに成功した。その場合信長氏は、特攻隊員たちの内面的な葛藤の襞に、想像力の触手を能う限り伸ばそうとしたはずです。そう考えると、これは、大変な作品です。

自分の感性だけを頼りにしていると、名曲のハートに迫れない場合がある。そのことを再認識した次第です。その場合、心ある知人の真摯なアドバイスを素直に受け入れることが大切であると思います。

信長貴富 Fragments ー特攻隊戦死者の手記によるー  


参考までに、別の合唱団による同曲を掲げておきます。

Fragments~特攻隊戦死者の手記による~ (信長貴富) 【男声合唱団FREIE KUNST】
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「滅相」って、なんだろう?

2014年07月16日 07時15分09秒 | 教育
時代劇なんかで、ときおり「そんな滅相な」というセリフが出てきますね。あれってなんだろうと不思議になったので、ちょっと調べてみました。案の定、「滅相」は仏教用語でした。世間はいいかげんなもんで、尊いお釈迦様でさえ、平気で「おシャカになる」なんて使われ方がされてしまうくらいですから、「滅相」の原義を調べてみても、世間のいいかげんさを思い知るのが関の山(関の山、も不思議ですね)かもしれませんが、まあそれはそれです。

「滅相」は、四相(しそう)のひとつだそうで、衆生相(しゅじょうそう)、有為法(作られた物)はすべて、次の四相を取るとされています。
(1)生相(しょうそう):事物が生起すること。
(2)住相(じゅうそう):事物が安住すること。
(3)異相(いそう):事物が衰退すること。
(4)滅相(めっそう):事物が崩壊すること。

(以上、「仏教大辞典」より。http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm

これは、けっこう実感にフィットする理論ですね。たとえば、花が芽を出すのが「生相」。成長して美しく咲き誇る時期が「住相」。しぼんでゆくのが「異相」。やがて散ってしまうのが「滅相」。そう理解すれば、この世の目に触れる生き物すべてが(例外はあるのでしょうが)そのプロセスを踏んでいることが分かります。おそらく、そう気づかせることで、仏教を説く側としては、生に執着することの空しさに話をもっていくのでしょう。諸行無常、と。

この世のすべては、やがて必然的に「滅相」に至る、という峻厳で身も蓋もない真実を突きつけられる側は、「いやぁ、それはそうだろうが、ちょっとかなわんなぁ、キツイなぁ」という素朴な感慨を抱きます。おそらく、その素朴な感慨が、「そんな滅相な」という嘆きの表現を生んだのではないでしょうか。それで、「今日中に、借金を耳を揃えて返してくださいな。それが無理なら、あなたの土地家屋をいただきます」「そんな滅相な」というやりとりが成り立つことにもなるわけです。そう考えれば、「そんな滅相な」には、単純に「とんでもないことだ」という意味があるだけではなくて、「あなたのおっしゃることは、理にかなってはいます。その点、文句は言えません。しかしながら、あまりにも身も蓋もなさすぎて、到底素直に受け入れることができない」というニュアンスがこめられているような気がしてきました。

「滅相もない」は、おそらく「そんな滅相な」の派生表現でしょう。というのは、「そんな滅相な」には、滅相の原義がまだ残っていますが、「滅相もない」には、それが残っているようにはあまり思えないからです。「こんな高価なものをいただきましてありがとうございます」「滅相もございません。ほんのつまらないものです」。こんなふうに、儀礼的な場面や、年長者の営業トークなどで、過剰なへりくだりの演出をするときに使われるのがほとんどではないでしょうか。この言い方を聞いて、心がこもっていると感じる人はあまりいないものと思われます。だから、「そんな滅相な」はおもに時代劇のなかで生き残りましたが、「滅相もない」は、庶民の世界で、ほとんど死語になってしまったのではないかと思います。

*その後友人から、高知県では、いまでも日常会話で、「そんな滅相な」という言い方をすると聞きました。ただし、「滅相もない」はやはり使わないそうで、私は自分の、「『そんな滅相な』は庶民生活にそれなりに残っているが、それから派生した『滅相もない』は、「滅相」の原義が失われていて、死語化している」という「仮説」への自信をいささかながら深めることになりました(*゜▽゜*)

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