美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

天道公平 「竹田青嗣・小浜逸郎公開対談―グローバリズムとナショナリズムの狭間で」に参加して

2018年07月15日 16時12分05秒 | 天道公平


「竹田青嗣・小浜逸郎公開対談―グローバリズムとナショナリズムの狭間で」に参加して
(2017年12月27日 掲載)

〔編集者 記〕本来なら、当イベントの仕掛け人である不詳美津島がすべきことを、奇特にも、参加者がなさっていたことを、不覚ながら、私はいままで知りませんでした。天道公平氏のブログhttps://blog.goo.ne.jp/koheitendo550815からの転載です。もちろんご本人の承諾を得ております。真摯な思いを抱いて参加なさったことがリアルに伝わってくる文章です。この手の議論があまり得意ではない方にも広く読んでいただきたいという趣旨から、原文を適宜改行・加筆訂正していることをお断りしておきます。

去る、11月12日、新宿ルノワールでおこなわれた、標記のイベントに参加した者として、感想を述べさせていただきます。この会合には、数多くの参加者があり、私より適切な報告、概要等の説明はあるかも知れませんが、そこはそれで、楽しみにしていた私としては、怖じず、つたないながら私なりの記録・所感を申し述べさせていただきたいと思います。

私の大学生時代(1974年から1978年まで)は、学生の政治運動において、団塊世代はすでに撤退し、収束しつつも、まだ、政治の時代の名残があり、学園紛争も続いていました。学校当局は「世間」に恥かしかったためか(?) 、当時学校内に警察の導入まではしておりませんでした。入学時、いなかの親は、「政治運動だけはしてくれるな」といっていましたが、新しく興味深いものに若者(馬鹿者)が夢中にならない訳はなく、実際のところ、後年竹田氏に教わった、ヘーゲルによる人間の観念運動で言えば「胸の法則(むねののり)(わたしがすべての真理を握っているなど)」、あるいは「徳の騎士」(私だけが正義の代行者として、この世に党派性のない世界を実現する)程度の段階の認識でしかなかったものです。

しかしながら、現実にいつも見る「政治党派」を組んだ学生たちは、その徒党性というか、感覚的にどうしても好きになれず、したがって彼らの間違っている根拠を懸命に探していたところです。

そんなときに、サークルの先輩など人づてなどで、少し上の世代の、小浜氏、竹田氏、橋爪大三郎氏、瀬尾育生氏、村瀬学氏などの著作やその取り組みに巡り合いました。彼らの名は、大看板・吉本隆明や埴谷雄高氏などの著書を読んでいると、先駆者や先達としてどうしても繫がっていかざるを得ないところがあって、それは政治・経済・文学などを超えた広範な、興味深い活動でありました。

その後も、個人的に決して好きでなかった80年代のポストモダン全盛期などを経て、それぞれの分野で活躍される彼らの著書をあれこれと購入してきました(全部を読めなかったことは悲しいことだが)。

また私は、そのようにして、その後に生じた、私自身のまさに実生活、そして文学・社会・政治領域での問題意識や疑問に対処しようとしてきました。就職した友人たちにそのような余裕があったかいざ知らず、皆が出来なくなったら仕方がない、私はいけるところまで(私の人性が許すところまで)行こうとひそかに思っていましたし、いまでもそうです。

いずれにせよ、優れた著書には迫真力というか、こちらを動かそうとする駆動力のようなものがあり、読後に心躍る思いがあったのをよく覚えています。

ということで、このたびの試みは私にとっての二枚看板の討議に臨める会合ということで、大変楽しみにしておりました。

当該会合は、参加者が50名弱ということであり、竹田氏のいうところのギリシャ時代の「哲学のテーブル」の趣があり(かといって中途で口がはさめるような状況ではなかったわけですが)、お互いに、論敵かつ友人同士の真摯な議論を、ということで緊張感のある中での、大変興味深いものでした。両氏とも、かつては共著もあり、相互の意見の対立は、事前に十分に認識されているところでした。

今回は、せっかくよい機会を得ましたので、その「如是我聞」(にょぜがもん:このように私は聴いた。)というべきものを以下のとおり記してゆきたいと思っています(以下、小浜氏の発言は、K氏、竹田氏の発言は、T氏と記します。また、(・・?)は、私見です。また私は、当該内容の正確さについては誠に自信がない(ことには確信があります)ので、時宜に合わずに恐縮ですが、今後、当日の出席者たちによるそれぞれの議論を誘発し・思惟の深化を求めます。)

以下に、討論の内容で印象に残ったところを記します。

◎新著「欲望論」について
竹田氏は、近著「欲望論」二冊を著わされている。その著書について説明があった。

当該著書は、三部作になる予定で、意味の「原理論」(真)、「価値論」(美)をこのたび先に出版し、近年中に、第三部を著わす予定である。

①哲学原理の総転換を図り、おしなべて哲学の(普遍的な?)方法原理を打ち立てたい。
②哲学とは何であるのか、現代哲学は自己自由の確保と、多様性の肯定をすべきである。
③(西欧に根ざす)言語テーブルの機能不全はなぜなのか。現代哲学は相対主義(分析哲学など)や物語主義(レビナスなど)しかなく、健全なプランの説明や検証(かつてニー  チェ、フッサールなどによって担われたもの)が欠落している。
④現在までは、欲望論について「真・善・美」が成り立つ根拠と、この著書では現在は「真・美」のみしか扱われていないという質疑に対し、次冊で「善・・人の生きる意欲(原理学と社会関係論)」を扱うとの竹田氏の回答があった。

◎プラトン主義に対する疑義
T氏:第3巻目で、人の生きる意欲(原理学と社会関係論)を扱いたい。
K氏:「真・善・美」の提唱者はプラトンだが、彼は自然科学を否定し、手に触れられないものが尊いという発想であり、イデアは、感覚より常に上位におくという詐術を行なっている(K氏は近著「13人の誤解された思想家」で、プラトン批判を行なっており、「感覚で捉えられないものに価値をおき、感覚世界を貶める。この図式はキリスト教的禁欲道徳にほぼそのまま受け継がれ、普通の人々の生活感覚にちょっかいを出してきた」と述べているP33 )。

T氏:プラトンのイデア論は「本体論」を前提としているが、そのうえで「善・美」を追求している(プラトン主義)。代表作「饗宴」、「パイドン」は小説のように読めばいいと思う。彼には、「本質看取」としての「本体実在論」があり、それを感性的なものから、精神的なものに進化すべきものと主張していると読める。
K氏:異質なものが同一視されてはいないか。それこそ、「本体論」から出発するということが必要である。議論のテーブルの上での普遍性に至ることが必要である。「眼前にあるもの」という思想のスタイルが、(抽象度の高い?)「イデア」として成り立っているということが納得できない(前述の「13人の誤解された思想家」中、「プラトンは何かを求める気持ちのすべてを〈恋〉という言葉でいい括ることによって、知識への愛や美のイデアそのものへの愛が、あたかも形式的には恋愛感情と同じであるかのように説いています。しかしその一方で、両者の間に価値の序列を置き、前者と後者との間に明確な優劣関係を認めさせようとしています。結局は『人間の肉や色など、いずれは死滅すべき数々のつまらぬものにまみれた 姿をでなく』と言っているところにそれがよく現れています。」P28)。
T氏:究極的なものがある、と考えられる。私の文芸批評感度からいえば正しい。プラトンでもっとも優れたものは、「価値論」と「恋愛論」である。
K氏:ヨーロッパの哲学がプラトンのイデア論に呪縛されている。それが問題である。
T氏:それはそれで理解できる。ハイデカーにも同様な発言がある。プラトンの本体論は世界文化の水準が上がらないと解体できない(解体者の代表としてニーチェ)。究極は相対主義しかない。
K氏:日本でいえば、伊藤仁斎などが、(中国儒教の哲学体系である朱子学の?)本体論の解体をしている。
T氏:それは正しい。プラトンの対話論をどのように読むのか、という話になる。それだけが、われわれ二人の差異だと思う。


◎哲学は資本主義を変えられるのか
T氏:単独の国民国家では、「自由の相互承認」もありうる。しかし、対国家間であれば、オオカミと羊(国力が拮抗した対等な国家というものはありえない?)という関係もでてくる。それの改善はどうなのか。時事的な関心と哲学のスタンスは異なるかもしれないが。
K氏:先に、偶然(物故された菅野仁氏の葬儀への会葬で)であったときは、両者で議論になった。
T氏:私見によれば、EUの理念は正しい。(この議論で)あなたに対して違和があった。
   1945年、大戦後、武力による経済統制をやめ、協議による競争となった。戦争より、経済紛争の方がまだ善だと思う。グローバリゼーション    からは撤退できない。市民社会では、自由の相互承認が出来る。国家間ではそれが出来ない(出来にくい?)。協議して、衝突がないようにやる   しかない。市民国家(近代を経由した国民国家ということなのか?)間の連合は時間をかけてやるしかない。
K氏:EUは、主権をトータルに国民国家へ差し戻し、国境を超えた金融資本の逸脱を排除できないか?
T氏:それは不可能である。貧困な国民国家が、競争に入っていけるような経路が要る。
   フェアな競争の参加の承認の後押しが出来ないか。(現実的には?)格差の拡大は 不可避である。フェアな経済の導入、(多くの?)複数の先    進国の共存時にはフェアな競争が出来た。80年代から経済構造が変わっていった。金融資本の突出が、格差を拡大した。


◎自由という概念について
T氏:K氏は保守化しているのではないか。アリストクラシー(貴族制)に信を置くなら、保守という言葉に置き換えられる。「自由」を中心にすえていいのかというのは問題がある(自己欲望の無限肯定というところでしょうか?)が、人間には「良いこと、美しいもの」を志向する傾向がある、ということはいえるのではないかと思う。
K氏:アリストクラシーとかメリットクラシーといっても良い。(現行の制度の中で)無考えの者と思考力のある者が同一権利である。優れた者が政治の代表者になるための選別が必要である。それを自分は「アリストデモクラシー」と仮に呼んでいる。(ヘーゲルが)自由を、意識化する歴史過程にあるというのは確かである。人が現実生活を送る中で、制約の中で感じるのが自由、「自由は不自由の中にあり」(福沢諭吉)と考えている。「・・・からの自由」と「・・・への自由」は分けて考えたほうが良い、というところに納得する。
T氏:歴史は局面を見れば矛盾のかたまりである(哲学は何百年単位で見る。)。排除性や、排他性がないのか、成長があるのかということが問題になる。これからは、経済学を5年間やって行きたいと思う。グローバリゼーションは押し戻せないが、それに抗する経済学はちゃんとある筈である。それは若い世代に期待したい。
K氏:現在の経済学は、個人と団体の利害を目指す。それが本来となっている。すべて、証明、説明可能というスタンスで動いている。それ以外のデフレ解消という喫緊の問題となっているものに対応していない。
T氏:(経済学の目的は?)①失業を減らす、②(悪い?)景気循環は避ける、それしかないのではないか。
K氏:経済学は、(理論として?)普遍的に成り立つものと考えている。ケインズの「合成の誤謬(びゅう)」(ミクロ経済学では正しいことでも、合成されたマクロの世界では必ずしも意図しない結果が出る。?)(不況時に、景気創出のため市場の需要が必要なのに大多数はお金を蓄えるなど)というものがあり、整合的な議論というものがない。
T氏:経済成長がないときに競争すると、ゼロサム(勝者は少数、敗者は多数の、市場の食い合いの状況?)という悲惨な状況になる。
K氏:理論が先ではなく、経済は社会事象でどうにでも動く、という認識を要する。グローバリズムという(イデオロギーで?)経済的な自由を無条件で認めると、「責任」の問題が生じない。グローバリズムと、ナショナリズムが明確に対立する。グローバリズムには、いわゆる、「倫理性の担保」がない。
T氏:経済的な放埓な自由が、国家を追い越してしまった。金融資本の暴走である。1980年代以降、経済的な構成は、実体が1、金融部門が9となったと心得ている。国民国家を超える、資本の制御には賛成である。国連は(実態が?)権利団体であり、NPOはどうだろうかという話になる。「民主的な」国家がそれを作っていけるかどうか、金融資本がよき自由を蚕食している。
K氏:国家の枠組みを認めたうえで、どのような対応をするのか、という問題になる。今後列国の国家連合が成り立つのかどうか、ということになる。国際連合ではだめだが。
T氏:中共が、アジアで経済的に強くなれば、結果として中共政治権力を解体することになるかもしれない。
K氏:(資料の提示あり。)世界人口の推移をみれば、中国・インドが膨大になる。中共に対抗するのは困難ではないかと思われる。近代化の恩恵で人口が増えたわけでなく、貧困、最貧国での人口増加が大問題となる。「自由の相互承認」がそれに耐え切れるのかと、思われる。
T氏:人口増加は押しとどめられない。世代を改め、生活水準が変われば「自由」の基準は変わる、それは理想とかそのような問題ではない、そうなってしまう。
K氏:それは政治の問題である。
T氏:近代も、グローバリゼーションもその流れをおし戻すことは出来ない、それは確かだ。
K氏:その様な問題ではなく、政治政策が必要である。「法的」自由、「○○的」(聞き取れず?)自由は認める、しかし、恣意的な「経済的」自由を認めれば、収拾がつかなくなる。先進国では、「シャルリ事件」のような、反動的な排除行為を現に行っている。右とか左とかではなく、グローバリズムか、反グローバリズムかという対立軸というべきではないか、と思っている。
T氏:サンダース(先のアメリカ大統領選挙において民主党の予備選の大統領候補、その政策や主張から「社会民主党」であるかの様に評された。当時、持てるものの代表者共和党トランプ氏と真逆の候補とみなされた。?)トランプとの意見の一致は当然である(まず、両氏にとって国民国家アメリカの大多数に対する経済的安定がファーストであるということでしょうか。?)。私には、「自由の相互承認」としか認められないが、(K氏は?)国家というものに違う認識をもっているのではないか、それぞれの国家内での「相互承認」が必要である。それ(その国家を?)を超えれば、それは別の問題である。国家選挙の話とすれば、私は一人一票を支持する。K氏はそれを承認していないのではないか(アリストクラティックデモクラシー(貴族的民主主義)?)。優れた人が選ばれていないという認識があり、私もそれに同意するが、選ばれるべき人に最初に選抜テストを課する、というのは必要であると思う。
K氏:私は、(著書・ブログ等で?)現状に対する批判の表明をしている。公共精神をもっている人をどうやって選ぶのかということになる。
T氏:(代表者の選抜方法を?)選択すると収拾がつかないことになる。100の内、51対49ででも、どちらかに決めなくてはならない。


◎会場での参加者とのやりとり(質疑応答)
Q:日本国における民主制度の定着はどうなのだろうか、もし問題があるとすれば、メディアと教育に大きな責任があると思えるが。
A:(T氏)国民に判断の材料(正しい知識)を与える必要がある。何にでも、成熟の過程が必要と思う。今後、すこしづつ成熟していくと思う。
(K氏)現在のマスジャーナリズムの問題点と、グローバリズムの害悪がある。現在のマスコミは、ジャーナリズムの良い点を喪失している。

Q:フランスのパリには、魔の三角地帯というところがあって、外国人・不法滞在者・犯罪者が寄り集まり、警察も手を出せない無法地帯があると聞いた、グローバリズムの害悪についてどのように考えられるのだろうか。
A:(K氏)(当該秩序維持に責任のある政府において?)当該秩序維持の危機の問題がある。この状態は今後も続いていくだろう。
  (T氏)ひとたび住み着いた人間は排除できない。国民国家は、国民の安心安全の確保について責任があり、難民の流入を無条件に認めることは認められない(市民社会の理念として)。

Q:一国内の「自由の相互承認」は現存の国家の枠の元で可能かも知れない、しかし、国家間の「自由の相互承認」とはどのようなこととなるのか。
A:(T氏)国家間の相互承認は、(強国も弱国もあるので?)市民間の相互承認のルールの転用がなければ悲惨な状況になる。

Q:金融資本主義といえば、インターネットの膾炙が前提であると思えるところだが、その点は如何であるか?
A:(K氏)技術的なものであり、為政者が作ったもの(金融革命など)と考えている。

Q:ネット(SNS)と既存の権力やメディアとの関係はどのように捉えるべきなのか?
A:(K氏)ネットでは、メディアが相対化されることもありうる。健全性があるとも思える。
  (T氏)(他の社会権力による働きかけなどもあるので?)政策決定などいろいろあるので、ガラッと変わることはないと思える。

Q:日本に脅威のある民主化されていない国家(中共、北鮮)の今後はどうなっていくのだろうか?
A (T氏)中共の覇権行為は、核戦争となるので、下手をすると危ない。19世紀、20世紀のようなことはないだろう、と希望する。
  (K氏)中共はしたたか、である。完全覇権はたぶん、ない。日本国の併合はありうる。局地戦はありうる。

Q:将来のAI(人工知能)の開発は、またそれによる影響は?
A:(T氏)ネットとほぼ一緒、技術革新を経れば可能である。
(K氏)中共に対して負けてしまうのではないか、と思う。それが、世界を変えるとまではいえない。

Q:人口の急激な増加(人口爆発)により生じる危機について
A:(T氏)先に、「炭素会計入門」を著わした際に、炭酸ガス増加問題に危機感を感じ、先進国の協定(京都議定書?)を認めていたが、本当はよくわからないところがある。それは、西欧的見地を無条件で信じているところがあるが、現在危機となるのはほとんど、後進国からの排出量である。


〔感想〕
竹田氏は、主著「人間的自由の条件」(講談社2005年)を踏まえ、「人間の未来――ヘーゲル哲学と現代資本主義」(2009年ちくま新書)を出版し、その中で、ヘーゲル後継者としてのマルクス流の政治革命による国家、資本主義の揚棄に疑問を示し、「長く人々の一縷の希望となっていた国家や資本主義の廃絶という展望が、そもそも不可能なこと、あるいはもっと悲惨な結果しかもたらさないようなことであるなら、われわれは出来るだけ早く、この希望を断念したほうがよい。その絶望が深いほど新しい可能性を探す力が表れるからである。」(P306)と語っている。そして、それに対抗する手段としては、「人間的『自由』の唯一の原理は、国家=権力の廃絶でなく、むしろ、人民権力=市民国家の設立ということだけである。」(p307)と語り、国民国家内における大多数の市民を主体にした「自由の相互承認」を前提にした、まず、健全な国民国家の確立と繁栄、当該国家の本来の役割りの遂行(国土の防衛、国民の経済的、生活安全の確保)するしかない、ということを示唆している。これは、全くごもっともなところである。

しかしながら、私たちが世界を見渡しても、わが極東のみを考えても、どうも、近代すら経由していない国家がいくらもあり、現実的には、21世紀の現在でも、やくざ者同士のような力による支配が横行し(極東の中共・北鮮)、とても、米欧と同一の土俵で、国家枠を超えた「自由の相互承認」などありえないような状況である。

そうであればわれわれは、国民国家日本国が、愚かしくも影響力だけは多大なグローバリズムに振り回され進路を誤ったり、無考えで愚かな政治的指導者のもとで、国益や大多数の国民の利害に反する政治施策に惑わされたり、だまされたりしないように、よく監視し、どうにかして、愚か者たちに冷水をかけるような努力を重ねていくしかないのかもしれない。

私たちは、哲学者としての、竹田氏の営為に今後とも期待するにしても、どうも、「こうすればこうなる、こうできる」という特効薬のようなものは全くないことがこのたびよく理解できた。

先に、NHKBSの歴史教養番組「英雄たちの選択」を見ていると、末尾で、脳科学者の中野信子氏が、「大衆はとにかく分かりやすい理念で動く」、「正しい側の理念に立つ少数者(優越者)は、必ず敗北する」と明言され、同席者が皆、それに同調され、大変ショックだった(最近、MCの磯田道史氏など、すでに近いところまでは言っているので、いつか「“グローバリズム”という虚妄」と一度言明して欲しいのであるが、NHKの方針とは反するだろう)。

そこはそれで、今に始まったことでもないので、「大衆の原像を繰り込む」ではないが、大衆の弱点や負性を十分知悉しながら、維新後、静岡に蟄居し、新政府を批判しつつ、旧幕臣の支援に心を砕き、ついに西南戦争に旧幕臣を決して走らせなかった、勝海舟のような、有能な官僚・国士もあり、竹田氏がいうように、若い人に期待(無論年寄りでもかまわないが)することとし、天下国家の立場で考え振る舞える、政府政治家・官僚にそのような人物が出てこないかと、ひそかに、思うところです(ファシストは望まないが)。

 いずれにせよ、今後とも、両者の思想的営為に、引き続き注視していきたいと思うところです。

 また、難問の解決、は決して人任せには出来ないことをも思い至りました。
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山村明義氏の松本智津夫論

2018年07月12日 18時21分19秒 | 戦後思想


〔編集者より〕数日前、読書会仲間のM氏から、次のようなメールをいただきました。オウム真理教教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の死刑報道にちなんでの山村明義氏のFBコメントの紹介です。山村氏は、松本智津夫の実家を一年間取材しています。それに基づく見識にはおのずからなる説得力があります。なお、読みやすさを考慮して、適宜行替え、文言の補足などをしたことをお断りしておきます。

***

M氏:昨晩のフジテレビの報道番組では、まるで松本智津夫の追悼番組の様相で、怒りがこみ上げできて、チャンネルを切り替えました。こうした番組を制作する思想の根底にあるのが、山村明義さんが指摘する、「左翼リベラル思想」だと思いました。以下、紹介します。


〈松本死刑囚の死刑が執行されたことから述懐されること〉
――山村明義(作家)さんのfacebook投稿より
○その1〔7月5日(木)〕  
本日発動される米国の対中経済制裁と中国の報復制裁といういま喫緊の課題である国際情勢の内幕を記そうと思っていたが、同日、麻原彰晃こと、松本智津夫の死刑が執行されたというニュースが入ったので、二回に分けてそのことについて書くことにしたい。

 時は村山富市政権下の96年3月、私は米中が対立していた「台湾危機」の取材で、中国のミサイルが上空を飛び交う台湾の金門島から帰国し、以前から熊本県の波野村や松本サリン事件など数多くの事件で注目していたオウム真理教事件の取材に本格的に入った。私自身、ジャーナリストとしてまだ30代半ばの油が乗り切っていた頃で、「自分はどんな取材でも誰よりも早く、正確に本質を突く記事が書ける」と自負していたからである。

だが、このオウム真理教事件だけは勝手が違った。地下鉄サリン事件から警察庁長官狙撃事件と続いた凄まじい凶悪犯罪というだけでなく、戦後GHQが特権を与えた新興宗教が絡んだテロ事件であり、かつマスコミや警察、自衛隊ですら内側から食い込まれた日本国家権力の中枢をまさに破壊しようとした大事件だったからだ。

 オウム真理教事件の本質を突くためには、まず麻原の人間性を知る必要があると考えた私は、警視庁が強制捜査に入る前の山梨県上九一色村と、教団の資金源となった熊本県波野村に入り、その後同県八代市の松本智津夫の両親、兄弟ら家族たちに会うことにした。

父親の本籍を遡ると、原籍には現在の北朝鮮の記載があり、背景と素性に謎が多いのにかかわらず、リベラルメディアは誰もその取材を行っていなかったからだ。運良くあるルートから実家で家族会議が行われるという情報が入り、私ともう一人が同席できた。

その家族会議の席で飛び交っていたのは、「智津夫は死刑にした方がいい」という言葉であった。すぐ上の三男などは、「死刑にしてもらうように家族が当局(法務省)に頼みに行くべきだ」とまで語っていた。家族でさえ「死刑にした方がいい」と断言した理由は、彼ら自身が松本智津夫自身の行ってきた「業と罪の深さ」を熟知していたからである。

その後ジャーナリストとして一人だけ家族に食い込んだ私は、1年近くにわたり彼らを取材した。そのなかで、とりわけ家族内で「松本智津夫に酷似し、最も強い影響を与えた」とされる長男は、話を聞いているうちによく突如として怒り出し、「自民党政権が悪い」「大企業が悪い」などと、日本の政治や社会批判をぶちまけ、その怒りの矛先は日本の国家・社会やメディアにも向けられた。

事件の数年後に亡くなった父親や長男、三男と交わしたやり取りの記憶は、いまでも私の脳裏や身体にこびりついて離れない。彼らによれば、松本智津夫の政治思想は、完全に「左翼リベラル」で、朝鮮半島に強い愛着を持っていたという。

その一方で彼は、「親父は北朝鮮で誇りある警察官だったから(息子の松本智津夫がオウム真理教事件を起こした)」などと、どう考えても矛盾し、論理が倒錯した内容を説明していた。そのため、その裏を取ろうと、当時の警察官名簿を懸命に調べたが、父親の名前は一切出てこなかった。(以下次号)

○その2〔7月6日(金)〕
 オウム真理教事件の首謀者・松本智津夫の父親は、果たして本当に北朝鮮の警察官だったのか?もともとオウム真理教と北朝鮮とは、サリンの原料輸入を担当していた村井秀夫刺殺事件を始めとして、当時から北朝鮮の関与説が濃厚だった。

 松本家の教育思想にも取材を行った。彼らの教育方針は、あくまで「男尊女卑」や「年功序列」という当時の九州に残っていた儒教的なもので、家族で末っ子だった智津夫は、その方針に激しい憎悪とコンプレックスを併せ持っていたという。

 それでも、「麻原彰晃」の思想は、実は兄弟ではなく、父親に影響があるのではないかと疑っていた私は、松本家に何度か出入りするうちに、一度だけ家族が居なくなった隙に父親の部屋に行き、「戦時中、北朝鮮にいて何をやっていたのか?」「北朝鮮をどう思うか?」と尋ねて見たことがあった。父親は不自然な笑いを浮かべ、何も答えようとしなかった。

 私は仕方なく「智津夫を何度も殴って教育した」という教育係の長男に取材先を切り替えたが、長男は「日本は朝鮮に悪いことをした。日本人全員が土下座して謝罪すべきだ」などと、まるで朝日新聞のようなことを言い出した。私は「その考えは智津夫に教えたのか?」と聞くと、「そうだ。日本という国家は今も昔も完全に悪い。日本が悪かったことをこの俺が智津夫にも何度も教えた」と、戦後日本人の自虐史観と日本国家への批判思想を徹底的に伝授した、と語っていた。

しかし、彼らはあくまで共産主義革命思想を学習していたわけではない。どちらかというと、「反体制」「反権力」という戦後日本に跋扈した「左翼リベラル思想」であり、彼らは日本を守るのではなく、「日本を悪く言うことが正しい」と思い込んでいたのだった。「麻原彰晃」を育てた思想。それは間違いなく、「宗教」でなく、「左翼リベラル思想」であった。

1年間、松本智津夫の家族に潜入して取材した結果、私はこれから日本は、いよいよ新興宗教という戦後日本の自由主義と、個人の権利や外国の思想を極限大にまで高める「平等主義」を混ぜ合わせた「左翼リベラル思想」に悩まされることになるだろうと予測し、その思想に自ら見切りを付けた。

それから23年が経過したが、現在も日本のマスメディアはその思想背景や真相を国民に明らかにするための取材もせず、言及もしない。マスメディア自身が戦後日本の左翼リベラル思想を無批判に受け入れ、その恩恵を感じたまま、それから抜けきれないからだ。

とりわけ朝日新聞や東京新聞、TBSなどの左翼リベラルメディアは、オウム真理教事件の背景にある思想が、自らの思想と瓜二つであることがまるでわかっていない。彼らはあくまでその思想性について見て見ぬ振りをしているのだ。

すべての取材を終えたとき、私は身体も心も疲弊し切っていた。その最大の理由は、戦後日本のマスメディアには、この「戦後最大の凶悪犯罪」と呼ばれるオウム真理教事件で最も重要な鍵を握っている「思想的真相」を解き明かすのは絶対に無理だ と確信してしまったことである。
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