美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

訪蜀記(その2) 李家のひとびと・前半 (美津島明)

2015年03月29日 22時49分26秒 | 報告
訪蜀記(その2) 李家のひとびと・前半 (美津島明)

妻の旧姓は、李です。今回は、李家のひとびとについて触れようと思います。

とはいうものの、身内のことについて人様にどこからどう語ればいいのやら、正直に言って、少なからず戸惑うところがあります。まあ、変に構えずに、あれを語りたい、そういえばこれも、と湧いてくるがままに語りましょうか。

ではまず、お墓参りのことから話しましょう。成都空港に到着した翌日の午後、私たちは妻の両親が住んでいる資中県の中心地に到着しました。二十年前には乗合バスで向かったのに対して、今回は、妻の妹の旦那さんの車で向かいました。二〇年前の、混雑した乗り合いバスの中では、殴り合いの派手な喧嘩があり、最後は包丁まで飛び出す始末でした。少なからずカルチャー・ショックを受けて、これからの旅がどうなることやらと案じたのを、生々しく覚えています。今回は、旅の始まりから終わりまで、そういう殺伐とした光景に遭遇することはまったくありませんでした。やはり、それなりに豊かになると人情も穏やかになるのでしょうかね。

両親がいま住んでいるのは、市街地のほぼど真ん中と言っていいところで、妻が、確か10万元(約200万円)で買った物件です。妻の妹、つまり義妹の群英が、ディスカウントショップのようなこと(普通の日本人からすれば、ゴミ屋さんとしか見えません。中国では、中古品の幅が恐ろしく広いようです)をやっていて、いろいろな品物を所狭しと積み上げるようにして置いているので、まるでゴミのなかで暮らしているかのような状態です。

話がずれてしまったようです。墓参りの話でした。陽はすでに傾いていたのですが、どうやらいまから墓参りに行こう、ということになったようです。メンバーは、妻の両親、義弟の千とその奥さんと子どもふたり、義妹の群英とその旦那と子どもふたり、妻と私の総勢十二名です。千と群英の旦那の車に分乗して、墓所に向かいます。

二十年前、妻の先祖の墓所のある村へ行くのには、とても苦労をしたものです。当時の私たちは、そこへ向かう小型のダンプカーの荷台に乗せてもらって資中県の中心街から一時間あまりで村に着きました。途中は、曲がりくねった未舗装のガタガタ道がずっと続いていて、嫌になるほど身体が上下左右に振動しました。

今回は、そんなことはありませんでした。近道ができたらしくて、狭いけれど完全に舗装された道路を二十分ほど走ったところで、村に着きました。

実は、墓所のある村というのは、李一家が永らく住んでいた家の在所です。この場合、李一家というのは、妻と妻の両親と義妹と義弟の五人です。妻は、そこで生まれ育ち、高校卒業後、北京に行き、伯父の家に居候しながら働き始めました。二〇年前に妻とそこを訪ねたときは、両親と義弟の千の三人が住んでいました。義妹の群英は、中学卒業後、広東の工場に働きに出た後だったので、いませんでした。そのときも、墓参りをしました。私を含めても四人での墓参りでしたから、そのときと比べれば、今回は人数が三倍に増えたことになります。人数だけで言うのは早計かもしれませんが、いまの李家はなかなか勢いがあるようです。

村に到着して、まずは父方の墓所に行きました。つまり、妻の父方の祖父が眠る墓があるところです。中国は典型的な父系社会ですから、祖父母の墓はそれぞれ別の所に建てられることになっているようです。そこに着いて、まずは、紙銭(しせん)を一枚一枚剥いでばらばらにします。手分けしてそうしながら、別の人が赤いろうそくを墓前に二本立てます。さらに別の人が、墓のそばの木に爆竹を飾りかけます。準備ができたら、墓の周りに置いた大量の紙銭を焼きながら、ひとりひとり墓前で額づきます。子どもたちも神妙な表情で大人がするように額づきます。私は、合掌するにとどめました。

実は、父方の祖父の向かって左隣りにもうひとつ墓があります。それは、妻の姉・彬玉の墓です。その墓前に座り込んだ義父の姿に、私は少なからず衝撃を受けました。というのは、死んだ娘の墓前で、義父が深々と額づいて、慟哭のおらび声をあげたからです。義父のそんな激しい姿を見るのははじめてのことです。妻に義父が何を言っているのか訊いたところ、死んだ長女に対して、「申し訳ない。俺がお前を死なせてしまった」と詫びているとの由。私を含めたほかの十一人は、義父の姿をだまって見守るほかはありません。

ここで私は、およそ四半世紀前に李家を襲った悲劇に触れなければなりません。

話は、四十年ほど昔にさかのぼります。当時の義父は、村の組織の会計係を担当していました。とても真面目な会計係だったようで、よく言えば几帳面な、悪く言えば融通のきかない、そういう仕事ぶりだったそうです。そういう人柄だからこそ、会計係に抜擢されたのでしょう。当時の村は、今で言えば郷鎮企業として組織されていたようで、おそらく当時はいわゆる人民公社だったものと思われます。人民公社が郷鎮企業と呼び変えられるようになったのは一九八〇年代の半ばです。農作業に費やした時間は自己申告制で、義父はそれを集計し、労働の成果としての村の収益は、労働時間の多寡で村のひとびとに配分されたようです。義父は、労働時間の集計や、村の収益の計算やらの経理業務を、きっちりと丁寧に遂行したようです。

その几帳面な仕事ぶりが、図らずもSの不正を暴くことになってしまった。村の寄り合いで、義父は、会計上のつじつまの合わないところを一から十まできちんと説明することによって、集まったひとびとの面前で、Sの公金横領を白日の下に晒したのです。それは、(私も詳しいことはわかりませんが)Sに対する個人攻撃というよりも、帳票類を付き合わせていくうちにそれが自ずと明らかになった、ということだったそうです。まあ、明らかにSが悪いのです。

しかし、Sはそれを逆恨みした。実は、Sが義父を逆恨みした理由はそれだけではありませんでした。義父は身体を惜しまずよく働く人なので、李家は、貧乏な村のなかでそれなりに裕福なのでした。また長女は、村で評判の美人で、頭も良くて将来は小学校の先生になるのが夢、という女性でした。過酷な農作業を難なくこなせる強靭な肉体の持ち主でもあったようです。村のスターですね。ついでながら、次女(つまり妻)も三女(つまり群英)もそれなりに田舎では綺麗だと思われていたようです。美人三姉妹というわけです。で、Sはそれらのことを羨望していた。勝手な話ではありますが、それも、逆恨みの原因になったようなのです。

そのほかにも色々とこまかい事情があるようですが、それは省きます。いずれにしても、義父とSとは、犬猿の仲になってしまった。しばしば小競り合いがあったようですが、そういうことの繰り返しのなかで、Sの李一家に対する憎悪がついに沸点に達するときがやってきました。それが、先ほど触れた、四半世紀前の悲劇をもたらすことになりました。

その日の昼、Sは二人の屈強な息子を含む一家総出で、李家を襲撃したのです。姉の彬玉はSの長男から鋭利な農機具で頭を一撃され、義父は包丁で肩や背中を傷つけられ、義母も同じく肩や背中を傷つけられました。妻が襲われなかったのは、S一家が襲撃してくるという知らせを村人から受けて、恐ろしさのあまり、一目散に逃げられるところまで死力を尽くして逃げたからです。年長の三人は、襲撃の知らせを受けても、おそらく家を守ろうとして踏みとどまったのではないかと思われます。まさかS一家が自分たちを殺そうとしているとは思わなかったのでしょう。また、義弟・千と義妹・群英は学校に行っていたので、襲われませんでした。S一家は、切りつけただけではあきたらず、グロッキー状態の三人を、肥溜めに投げ込んだそうです。

しばらくして気を取り戻した三人は、血みどろになりながら身を寄せ合うようにして、二〇km先にある病院まで歩いて行ったそうです。入院してから四日後、彬玉は、錯乱状態に陥り、それ以降、どこか気が触れたような風情になり、別人のようになってしまった。美しくて強かったかつての面影がまったくなくなってしまったのです。自分を襲ったS一家と妙な具合に親しくなったり、目を剥いて意味もなく父母を罵倒したり、ときおり何かのきかっけで錯乱して家族を困らせたり、とにかく大変だったそうです。

そういう、目を覆いたくなるような状態が三年間続いた果てに、ある朝、彬玉の死体が家の前の沼に浮いていたそうです。入水自殺を敢行したのです。なぜか、彼女の写真がすべて破かれていた。享年二三歳。これは想像でしかないのですが、彼女は、死の直前に突然正気に帰ったのではないでしょうか。我が身を襲っている状況、家族の心痛、これからの自分の人生。そうしたもろもろがはっきりと我が目に映り、自死よりほかに道がないことを悟った。その、自己抹殺という結論に向けて、決然と身を踊らせた。そういう印象が消えないのです。

私は、妻に訊ねました。事件を官憲の手に委ね、法によってS一家を裁くことはできなかったのか、と。彼女の話には、正直に言えば、いささか要領を得ないところがあるのですが、話を総合すると、当時の中国の法制度には、金も権力もない市井人の権利を守る余地はまったくなかった、となります。妻の両親は、Sが法の裁きを受けるよういろいろと方策を立ててはみたのですが、要するに、法権力からまったく相手にされなかったようなのです。警察は動かなかったのか、と訊いたところ、吐き捨てるように、「あいつらは、金でしか動かない」と言うばかりなのです。「中国は、法治国家ではない」とよく言われますが、私は、それが具体的にはどういうことを意味するのか、ようやく分かったのでした。

そこで気になるのが、Sをめぐる村長の言動です。三人に対して、人間の所業とは思えないような非道いことをしてもなお、Sの憎悪はおさまるところを知らず、犯行現場に居合わせなかった義弟の千を殺そうと思いめぐらしたそうです。Sは、義父が家長としてその将来を最も嘱望している長男と長女の命脈を断つことで、義父に致命的なダメージを与えようとしたのでしょう。で、村長がSを掻き口説いて思いとどまらせた、というのです。以下は、私なりの下司のかんぐりです。村長としては、そうなると事態が自分の手にあまるようになり、事件を官憲の手に委ねるよりほかはなくなる。そうなると、彼は、上から見れば、〈村長は不祥事を起こした管理失格者〉という扱いになる。それは困る、得策ではない、と判断したのではないかと思うのです。つまり村長こそが、官憲の介入を排除した張本人なのではないかと思うのです。

話がだいぶ遠くまで行ってしまいました。李家は、四半世紀前にそのような深いダメージを受けたのです。そうして義父は、そのことでずっと自分を責めつづけてきた。墓参りでの彼の姿は、この四半世紀の間彼が何を心のなかで感じ続けてきたのかをはっきりと物語っていました。

「李家のひとびと」の前半を終えるに当たって、生前の写真がないという彬玉によく似た肖像を掲げておきます。それは、韓国映画『風の丘を越えて』のヒロイン、オ・ジョンへのものです。私がレンタルショップで借りてきた同映画を妻と家で観ていたとき、彼女が、「この女優さん、お姉さんによく似ている」と言って、落涙したといういきさつがあります。ささやかながらの鎮魂のふるまいとして掲げておきます。


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特別シンポジウム開催のお知らせ

2015年03月25日 21時56分43秒 | ブログ主人より
*小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」より、シンポジウムのお知らせを転載いたしました。言論最前線で活躍中の論客三人が、一堂に会する興味深いシンポジウムです。みなさま、奮ってご参加ください。  

特別シンポジウム開催のお知らせ



『繁栄の絶対法則』(3月7日[土]発売/本体価格1500円[税別])の発刊を記念して、シンポジウムを開催!
『Voice』特別シンポジウム『日本の資本主義は大丈夫か――グローバリズムと格差社会化に抗して――』


 国際社会はいま、どこを向いても新自由主義とグローバリズムの席捲と、その爪痕が残した惨状に新たにどう立ち向かうかに苦慮しています。これは金融資本主義が行き着く末路を象徴しているのかもしれません。EU域内のテロ問題や移民問題、ウクライナ問題、ISIL問題、アメリカの格差問題、東アジアにおける中国の侵略圧力など、一見単発的に見える多くの政治的危機が、すべて金融資本主義が過度に進行した流れの必然という同じ根に発するように思えてなりません。
 もし日本がこの資本主義の危機を克服しうる独自のモデルを少しでも示せるなら、それは世界の金融資本主義の暴走を食い止めるヒントを提供することができるでしょう。
 本シンポジウムでは、このような問題意識に基づき、小浜逸郎氏(批評家)、『繁栄の絶対法則』著者の三橋貴明氏(経済評論家)、中野剛志氏(評論家)の三人で、資本主義の未来について議論いたします。

【日時2015年5月15日(金)19:30~21:30 (19:00開場)
【場所】PHP研究所 2階ホール
      住所:東京都千代田区一番町21東急一番町ビル ※地図
      地下鉄半蔵門線「半蔵門駅」5番出口すぐ上
【参加費】2,000円
【定員】先着150名 ※席に限りがございますので、お早めにお申し込みください。
★お申し込みフォーム;http://peatix.com/event/79834
★キャッシュバック特典★
三橋貴明先生の『繁栄の絶対法則』(弊社刊)を当日会場にご持参いただくと、その場で500円をキャッシュバックいたします。

【登壇者プロフィール】
小浜逸郎(こはま・いつお)批評家
1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。
三橋貴明(みつはし・たかあき)経済評論家
1969年、熊本県生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)経済学部卒業。外資系IT企業、NEC、日本IBMなどに勤務ののち、2008年、中小企業診断士として独立。株式会社経世論研究所所長。近著に、『2015年暴走する世界経済と日本の命運』(徳間書店)、『繁栄の絶対法則』(PHP研究所)などがある。
■ブログ「新世紀のビッグブラザーへ」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/
中野剛志(なかの・たけし)評論家
1971年、神奈川県生まれ。東京大学教養学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。2000年より3年間、英エディンバラ大学大学院に留学し政治思想を専攻。11~12年春まで京都大学大学員工学研究科准教授。イギリス民族学会Nations and Nationalism Prizeを受賞。著書に、『資本主義の預言者たち』(角川新書)、『世界を戦争に導くグローバリズム』 (集英社新書)などがある。
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たぶん日本で一番長い「ケインズ 年譜」  (美津島明)

2015年03月25日 03時17分36秒 | 歴史
たぶん日本で一番長い「ケインズ 年譜」  (美津島明)
――偏見との闘い、ノーブレス・オブリージュ、美なるものへの愛



妻のリディア・ロポコヴァと踊るケインズ
ロポコヴァは元バレリーナ


以下は、三月二二日(日)の経済問題研究会で使ったケインズの年譜に加筆・訂正したものです。元ネタは、中央公論社『世界の名著 ケインズ ハロッド』巻末の「ケインズ年譜」です。おそらく日本で一番長い「ケインズ年譜」になったのではないでしょうか。別に、自慢するほどのことではありませんけれど。


ケインズの生家

一八八三年(明治一六年) 六月五日、ジョン・メイナード・ケインズは、大学都市ケンブリッジのハーヴェイ・ロード六番地で、ジョン・ネヴィル・ケインズの長男として生まれる。母はフローレンス・エイダで、ケンブリッジのニューナム・カレッジの出(後に、ケンブリッジ市長となる)。母エイダは、典型的なヴィクトリア時代の伝道的哲学者シジウィックの指導を受けた。生家は、芝生で囲まれたかなり広いヴィクトリア調の家。ケインズと対照的な経済学者J・A・シュンペーターは、同年二月八日に生まれ、カール・マルクスは、同年三月一四日、ロンドンで死去した。父ネヴィルの『形式論理学』出版。ケンブリッジの経済学を築いたアルフレッド・マーシャルは、父ネヴィルの親しい同僚であり、先輩であった。日本では、鹿鳴館落成。
一八八四年(明治一七年)一歳 フェビアン協会設立。
一八八五年(明治一八年)二歳 妹マーガレットが生まれる。後に、A.V.ヒル(生物学者。一九二二年ノーベル賞授賞)と結婚した。
一八八七年(明治二〇年)四歳 弟ジェフリーが生まれる。後に、外科医となる。
一八九〇年(明治二三年)七歳 パース・スクール幼稚園に入る。この年、王立経済学会が創設される。アルフレッド・マーシャル『経済学原理』出版。
一八九一年(明治二四年)八歳 父、『経済学の領域及方法』を出版。
一八九二年(明治二五年)九歳 セント・フェイス予備校に入る。
一八九七年(明治三〇年)一四歳 イートン・スクールに入学。在学中、イートン・スクールが与える数学の賞をすべて獲得し、数学と古典に興味を集中する。
一八九九年(明治三二年)一六歳(~一九〇二年)南アフリカ(ブール)戦争勃発。南アフリカ南端のケープ地域のオランダ人子孫のブール人は、ケープ植民地がイギリス領になると、北に逃れてトランスヴァール共和国・オレンジ自由国を建国。この地からダイヤや金鉱が発見されると、イギリス人が続々と入り込んだ。ケープ植民地の首相セシル・ローズは両国の併合を企てたが失敗。本国の植民地相ジョゼフ・チェンバレンが両国に侵略し、南アフリカ戦争が勃発した。同戦争に勝利したイギリスはブール人に自治を認め、白人のアフリカ人に対する共同支配体制を確立した。第一次世界大戦を境に、覇権国家の地位をアメリカに譲る直前における、イギリスの典型的な帝国主義的手法の最後の実例といえよう。
一九〇二年(明治三五年)一九歳 ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学。クライスト・カレッジのフェローで、後に数学の教授になったホブソンの指導をケインズとW.M.ペイジが週に三回受ける。当時のフェローには、年長のオスカー・ブラウニング、モンターギュ・ローズ=ジェイムズ、カレッジのチューターには、W.H.マコーレー、W.E.ジョンソン、若年のローズ・ディキンソン、A.C.ピグーらがいた。ケインズの最良の友はロビン・ファーネスであり、フェローではディキンソンと親しくなり、一生を通じて彼から大きな影響を受けた。ケインズが、バートランド・ラッセルやG.E.ムーアと出会ったのも、ディキンソンが主催する討論会Discussion Society に参加したことによってであった。ディキンソンは、フェビアン協会の人たちとの交流があり、進歩的雰囲気と優しさとをただよわせ、また、マーシャルとともに、経済学優等試験の創設にも関与した。
一九〇三年(明治三六年)二〇歳 トリニティ・カレッジのリットン・ストレチー(後の伝記作家)とレオナード・ウルフ(後にヴァージニア・ウルフの夫となる)のすすめにより、「ザ・ソサエティ」の会員になる。この二人は、一八九九年にトリニティ・カレッジに入学し、同期生のクライヴ・ベル(後にヴァネッサ・ウルフの夫となる)、トビー・スティヴンらと、土曜日の真夜中の一二時に集まって、戯曲を朗読するなど芸術を語る「真夜中の会」をつくっていた。他方、「ザ・ソサエティ」は、一九世紀の初めから続く、伝統ある哲学の会で、当時の中心はG.E.ムーアだった。若きケインズは、彼の哲学の影響を強く受け、その倫理学の講義に出席するようになり、数学の指導を、ホブソンに加えて、リッチモンドからも受けるようになる。同年、ムーア『倫理学原理』出版。チェンバレン、関税改革運動を推進(国論を二分)。ケンブリッジ大学に経済学優等試験が創設される。
一九〇四年(明治三七年)二一歳 「ユニオン」の会長となる。「ユニオン」は、政治問題を討論する学生団体で、その会長は、イギリスにおける将来のエリートにとってのファースト・ステップとされていた。政治への関心が強くて、大学自治自由党クラブの会長にもなる。文学者であり、思想史研究家でもあったレズリー・スティヴンが、四人の子ども、すなわち、トビー、エイドリアン、ヴァネッサ、ヴァージニアを残して死去。彼らの母はすでになく、四人はゴードン・スクウェア四六番地に移る。やがて、ヴァネッサ、ヴァージニアの姉妹を中心に、トビーとエイドリアンの友人、すなわち、ケンブリッジ大学の友人たちが集まるようになる。そのなかのひとりがケインズだった。同年、日露戦争勃発。
一九〇五年(明治三八年) 二二歳 数学優等試験に合格。ただし成績は振るわず(24人中12位)、第二部の受験を放棄して文官(公務員)試験を受ける用意をする。マーシャルは、ケインズに経済学者になることをすすめる。同年、ケンブリッジ大学は、経済学(第一部)の第一回を実施。
一九〇六年(明治三九年)二三歳 文官試験に合格、第二位。インド省勤務(第一位は大蔵省勤務)と決まるが、その仕事のかたわら、ケンブリッジ大学褒賞フェロー(Prize Fellow-ship)の資格をとるための論文執筆の用意として確率論を研究。同年、トビー・スティブン(「ザ・ソサイエティ」の仲間)死去。イギリス労働党成立。
一九〇七年(明治四〇年)二四歳 トビーのトリニティ・カレッジの友人、ベルがヴァネッサと結婚し、ゴードン・スクウェア四六番地(ロンドンのブルームズベリ地区北部)に住み、エイドリアン、ヴァージニアはフィツロイ・スクウェア二九番地(ブルームズベリ地区の西どなり)へ移る。この二軒に、ケインズを含むケンブリッジ大学の友人たちを中心とした集まりができ、「ブルームズベリ・グループ」が形成される。
一九〇八年(明治四一年)二五歳 褒賞フェローのための論文を提出したが、選外だった。

私は、ムーアの『倫理学原理』と、ラッセルの『数学の原理』とから同時に影響を受けながら、(『確率論』を)執筆したのである。       『若き日の肖像』(一九三八年)より

失意のケインズはディキンソンに相談し、ケンブリッジ大学に帰り、翌年に備える決意をする。この間にマーシャルが退官し、その教授職をピグーが継ぐ。ピグーは、教授としての収入のうち二〇〇ポンドを若い研究者ふたりのために提供することにし、そのひとりにケインズを選ぶ。ケインズは、六月にインド省を退官し、九月にケンブリッジ大学に帰り、確率論の研究を続け、ラッセル、ムーア、ホワイトヘッドと討論する。シュンペーター『理論経済学の本質と主要内容』出版。
一九〇九年(明治四二年)二六歳 三月、フェローに選ばれる。『エコノミック・ジャーナル』に「インドにおける最近の経済事情」を書く。「指数論」でアダム・スミス賞を授賞。
一九一一年(明治四四年)二八歳 マーシャルの推薦で当時の世界最高水準の経済学界誌『エコノミック・ジャーナル』の編集長になる。当時の編集委員は、アシュレー、キャナン、エッジワース等の有名な経済学者たちで、ケインズの若さが際立っていた。一九一九年からは共同編集者を得、三三年間この地位を続け、以後愛弟子のハロッドに引き継ぐ。
一九一二年(明治四五年・大正元年)二九歳 シュンペーター『経済発展の理論』出版。
一九一三年(大正二年)三〇歳 『インドの通貨と金融』出版。大学で週二回、経済理論の学生指導と、同じく週二回の金融論の講義を担当。王立経済学会の書記となる。また、インドの金融と通貨を研究する王立委員会委員となるが、この委員会の委員長はオースティン・チェンバレン(その父が、上記のジョゼフ・チェンバレン)。この委員会が縁で、ケインズは大蔵省に関係するようになる。レナード・ウルフがヴァージニアと結婚。
一九一四年(大正三年)三一歳 七月に第一次世界大戦が勃発すると、急遽「戦争と財政制度」を書き、『エコノミック・ジャーナル』九月号に発表する。以後、つぎつぎに時論を中心とする論文を発表。
一九一五年(大正四年)三二歳 大蔵省に勤務(一九一九年まで)。第一課に所属し、国際金融、とくに同盟諸国間の戦時借款制度構築を担当する。また、首相や大蔵大臣あるいはイングランド銀行総裁につきそって国際会議に出席した。戦時中のめざましい活躍の結果、大蔵省でのケインズの地位は著しく上がり、一九一八年には、二人の次官につぐ次官補となった。

〈ケインズの人材登用観、資本主義観〉
「私の信ずるところによると、〈個人主義的資本主義〉を知的衰退に陥らせた根源は、少なくとも資本主義そのものに特有の制度にはなくて、資本主義に先行する〈封建制〉という社会組織から継承した一制度、すなわち、世襲原則のなかに見いだされるべきである。富の譲渡および企業支配にみられる世襲原則こそ、なぜ、〈資本主義運動〉の首脳部が弱体で、愚かであるかの理由である。そのあまりに多くが、三代目の支配するところなのである。世襲原則の墨守ほど社会制度の衰退を確実にもたらすものは、ほかにないであろう」                          「私は自由党員か」(一九二五年)

プライベートでは、三月のD.H.ロレンスとの出会いが興味深い。バードランド・ラッセルの部屋で、ケインズはロレンスと出会った。『若き日の信条』によれば、「私の記憶では、彼は初めからむっつりして、午前中ずっと、とげとげしい不同意の漠然たる表明のほかは、ほとんど何も言わなかった」そうである。実は、そのときのロレンスの内面に起こっていたことは、ケインズの想像を超えるものだった。

「あの朝、ケンブリッジでケインズに会った時、それは私にとって、人生の一大危機だった。彼に会って、私は精神的苦痛と敵意と激怒で気が狂いそうだった」 

D.H.ロレンス

これは、ケインズの親友のデビッド・ガーネット(文学者)に宛てたロレンスの手紙の一節である。この手紙でロレンスは、自分を選ぶかケインズを選ぶかのどちらかひとつであると、ガーネットに詰め寄っている。ガーネットは、結局ケインズを選んだ。ロレンスは、ケインズのみならず「ブルームズベリ・グループ」をひどく嫌いゴキブリ呼ばわりをしている。
一九一六年(大正五年)三三歳 イギリスで徴兵制を採用。ブルームズベリ・グループの多くは良心的徴兵拒否者となる。ケインズは、大蔵省勤務のため、徴兵を免除される。
一九一七年(大正六年)三四歳 大蔵省でのケインズの仕事は第1課から分離されてA課となる。この課の人々は、ケインズとその後も長く親密な協力者となる。ロシアに二月革命が起こり(メンシェビキがヘゲモニーを握る)、ケインズはうれしがり興奮する。さらに一〇月革命、ボルシェビキ政府誕生。
一九一八年(大正七年)三五歳 ロシア・ベルギーからの勲章を拒絶。砲撃下のパリに、大蔵省の公務出張として二万ポンドを持ってドーバー海峡を渡り、国立美術館のために数多くの名画を買う。これが、彼の近代絵画収集歴のはじまりになる。秋、戦下のロンドンにディアギレフ・バレエ団が来演、リディア・ロポコヴァもその一員として参加。大蔵省A課は、戦争終結に伴う戦債問題に取組み、ドイツの賠償支払い能力を二〇~三〇億ポンドと見込む(実際には、1320億マルク。ちなみに、第一次世界大戦直前の為替レート1ポンド=20マルクで換算すると、66億ポンドとなり、合理的な金額の2.2倍~3.3倍になる)十一月、ドイツが休戦し、第一次世界大戦が終わる。
一九一九年(大正八年)三六歳 一月、対ドイツ講和会議のイギリス大蔵省首席代表としてパリに出発。以後、現実的な対ドイツ賠償案のために努力するが失敗。六月、ヴェルサイユ講和条約調印直後に大蔵省代表を辞任。八~九月を費やして対ドイツ講和条約を批判する書物の執筆にいそしむ。この間に、国民相互保険会社の取締役に招聘される。秋、ケンブリッジ大学で「講和の経済的側面」と題する講義を行う。以後、ケインズのケンブリッジ大学での講義は著しく軽減され年数回の担当となる。ただし、キングズ・カレッジの第二会計員となり、さらに、一九二四年以後死ぬまで会計の責任者として、その財政的基礎固めに努力する。十二月、さきの講義を『平和の経済的帰結』として出版し、ベストセラーになる。ケインズがそこで強調したのは、ドイツに対する賠償要求額が実行不可能なほどに多額であり、それは理不尽な復讐感情の産物であり、ウィルソンの宣言に反するものである、こうした過大の要求は、ヨーロッパを破壊せずにはおれないものとなるだろう、ということだった(ケインズの予言は不幸なことに当たった)。この年、中国で五四運動、朝鮮で万歳事件。
一九二〇年(大正九年)三七歳 『平和の経済的帰結』のアメリカ版が出る。このころより、ケインズは投機で財産をつくりはじめる(大蔵省を去るときの貯蓄は約六千ポンドだったが、一九三七年に彼の資産は最高に達し、五〇万ポンド余となる)。『確率論』の原稿完成。ピグー『厚生経済学』を出版。イギリス共産党結成、国際連盟発足。
一九二一年(大正十年)三八歳 『確率論』を出版。国民相互保険会社の会長となる(~一九三八年)。かつての大蔵省A課の人々と投資会社「A.D」を設立。これ以後、主として『マンチェスター・ガーディアン』に主張を発表する。ディアギレフ・バレエ団がロンドンで講演、ロボコヴァも参加。ケインズは足しげく公演に通い、ロポコヴァと親しくなり、彼女の私生活上の問題(夫との離婚問題など)で種々の助言をする。
一九二二年(大正十一年)三九歳 ドイツ賠償問題についての第二の書物『条約の改訂』を出版。『マンチェスター・ガーディアン』の付録に、ケインズの編集になる「ヨーロッパの再建」が四月二〇日から翌年一月四日まで掲載され、産業・金融などの各分野の専門家、政治家、エコノミストの論文が収録される。また、ジェノア会議(四月~五月)に関する論文を同じ『マンチェスター・ガーディアン』に発表。この会議では、三四カ国の代表者が集まって第一次世界大戦後の貨幣経済について話し合った。会議の目的は、中央ヨーロッパと東ヨーロッパを再建する戦略をまとめ、ヨーロッパの資本主義経済と新ロシアの共産主義経済との間の調整を行うことであった。また、参加国の中央銀行が部分的には金本位制に復帰するという提案も決議された。同会議とは別に、マルク安定の討議のため、ベルリンに招かれた。イギリスでは十~十一月の議会解散・総選挙の結果、保守党ボナ=ロー内閣が成立、失業者が増加。
一九二三年(大正十二年)四十歳 一九〇七年に創刊された、自由党系の週刊誌『ネーション』が経営不振で所有者が変わり、ケインズが会長に、ヒューバート・ヘンダーソンが編集長になる(~一九二九年)。この結果、ケインズの主張の多くは、『ネーション』に発表されるようになる。七月七日、イギリスで利子率引き上げ。ケインズの関心は、ドイツ賠償問題から国内金融問題に移る。十一月、『貨幣改革論』を出版。デフレーション批判、ついで金本位制復帰論の批判から、保守党批判を強める。この年、イギリスで十二月に総選挙。保守党が第一党になるが、第二党の労働党が自由党の支持を得て過半数を占める。このころケインズは、自由市場の擁護者から、批判者に変わる。同年、関東大震災。
一九二四年(大正十三年)四一歳 一月に初の労働党第一次マクドナルド内閣成立。福祉政策で成功するが、自由党と意見不統一。秋の総選挙で、ジノヴィエフ書簡が発表されて保守党が大勝、自由党は小選挙区制のため激減して、保守党第二次ボールドウィン内閣成立、チャーチルが大蔵大臣になる。ジノヴィエフ書簡は、イギリスの新聞で公表された文書。ソビエト連邦の政治家グリゴリー・ジノヴィエフが書きモスクワのコミンテルンからイギリス共産党へ宛てた書簡とされ、イギリスにおける社会扇動を強化するようにとの指示が書かれていた。この書簡の公表によりイギリス国民の間では左派に対する警戒心が高まった。書簡は後に偽書であると判明した。この間、ケインズは自由党の候補者の応援演説をするなど、自由党との直接的関係を強める。チャーチルが金本位制への復帰を表明。ケインズは、こうした政治の動きのなかで金本位制復帰批判を続ける(その論の趣旨は、金本位制に復帰してもデフレ圧力を強化するだけのことに終わるということ)。また、七月に死去した師マーシャルの追悼論文を『エコノミック・ジャーナル』九月号に執筆。オクスフォード大学で、「自由放任の終焉」を講義。
一九二五年(大正一四年)四二歳 四月、イギリスが金本位制に復帰。ケインズは『イヴニング・スタンダードに発表した三つの論文を集め、『チャーチル氏の経済的帰結』として発表。自由党夏期大学で「私は自由党員か」を講演。八月四日、ケインズはリディア・ロポコヴァとセント・パンクラス中央登記所で結婚。結婚式には、ケインズの父母、妹マーガレット、ダンカン・グラント、ハロルド・ボウエン夫人が出席した。ケインズ夫妻はロシアに出発、ケインズはその旅行の印象を『ロシア管見』として出版。

当時、イギリスの社会は保守的であった。そのために、ケインズはロポコヴァとの結婚に慎重である。アメリカにいるロポコヴァの夫との離婚問題もあった。かれは結婚に先立って、大学の人たちに「シグナー・ニッティをご紹介するために」という招待状を送っている。イタリア自由党の政治家で前首相のシグナー・ニッティが、自由党の夏期大学で講演するにさいしての会であった。だが、ケインズのほんとうのねらいは、ロポコヴァを大学の人たちに紹介するためであった。古い固陋な人たちを集めるための手段であった。ロポコヴァを見た人たちは、先入観を取り除かれた。こうしてケインズとロポコヴァは、ケンブリッジでの生活を築く基礎ができたのである。      「ケインズの思想と理論」伊東光晴(『世界の名著 ケインズ ハロッド』解説)

ロポコヴァは、ブルームズベリ・グループの雰囲気になじめなかった。そのこともあって、ケインズは同グループから次第に離れていった。
一九二六年(大正十五年〔昭和元年〕)四三歳 D.H.ロバートソン『銀行政策と価格水準』を出版、ケンブリッジの経済学者に多くの影響を与える。経済学者エッジワースが死去し、ケインズは追悼論文を『エコノミック・ジャーナル』に発表する。四月、炭鉱労働者が長期ストに突入、五月ゼネストに発展、チャーチルがスト弾圧に大活躍する。ケインズは、労働者に同情する立場を表明。『自由放任の終焉』を出版。

「生活様式として資本主義に対して真に反対している多くの人々は、あたかも、資本主義は、それ自体の目的を達成するうえで非能率である、という理由で反対しているかのように論じている。これとは反対に、資本主義の狂信者は、しばしば必要以上に保守的であり、資本主義自体から離脱する第一歩になるかもしれないという不安から、真に資本主義の強化の維持に役立つことになる資本主義的運営技術の改革をも、頑として受け入れないのである」 (『自由放任の終焉』)

「資本主義は、賢明に管理されるかぎり、おそらく今までに現れた、いかなる他の制度よりもいっそう有効に経済目的を達成するのに役立ちうるものであるが、それ自体として見るかぎり、資本主義は多くの点できわめて好ましくないもののように思われる」    (同上)

一九二七年(昭和二年)四四歳 自由党黄書『イギリス産業の将来』に関係。このころから、『貨幣論』の執筆の用意を始める。
一九二九年(昭和四年)四六歳 一月一八日、ウィトゲンシュタインを客としてケンブリッジ大学に迎え入れる。その日ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙に次のように書いた。

「さて、神が到着した。5時15分の電車に乗ってきた神に私は会った」
ウィトゲンシュタイン

ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して終生尊敬の念を抱きつづけた。総選挙に際し、自由党から立候補をすすめられる。立候補は断ったが、ヘンダーソンと共同で、パンフレット『ロイド・ジョージはそれをなしうるか』を発行したりして自由党を支援。五月の総選挙の結果、労働党がはじめて第一党となり、自由党と連立して第二次マクドナルド内閣が成立。ケインズ、学士院会員に選ばれる。戦後の金融と不況対策を考えるマクミラン委員が発足し、その委員となる。十月、ウォール街で株価大暴落、世界恐慌始まる。未曾有の大失業の原因を、従来の経済学は、賃金が適正な水準に低下しないことに求めたのに対して、ケインズは、企業の投資が過小であることに求めた。だから、完全雇用を実現するほど十分に投資を増加することが、大失業の解決策である、となる。その役割を担うのは、ケインズによれば、政府である。
一九三〇年(昭和五年)四七歳 経済諮問会議委員となる。親友ラムジー死去。『貨幣論』二巻を出版(学術書)。翌年にかけて、マクミラン委員会で活躍する。同年、ロンドン軍縮会議。
一九三一年(昭和六年)四八歳 カーンが乗数理論の構想を示した「国内投資と失業」を『エコノミック・ジャーナル』六月号に発表。労働党が分裂し、八月挙国一致内閣が成立。ケインズ、メイ委員会の緊縮財政案を批判。九月、イギリスが金本位制から離脱。秋の総選挙で保守党が大勝。一九三五年六月まで挙国一致内閣が続く。『ネーション』と『ニュー・ステイツマン』とが合併して『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』となり、ケインズはその取締役に就任、編集者にキングズリー・マーティンを迎えたことを喜ぶ。自由党系の『ネーション』に対し、『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』は、労働党系知識人色を強める。ケインズ、従来の時事評論を集めた『説得評論集』を出版。同年、満州事変。
一九三二年(昭和七年)四九歳 イギリスが輸入税法を制定、九〇年の伝統を持つ自由貿易政策を放棄する。七~八月、オタワ会議(ポンド=ブロックの結成)。ケインズ、「近代社会主義のディレンマ」を『ポリティカル・クォーター』に発表。日本で五・一五事件。
一九三三年(昭和八年)五〇歳 アメリカでローズヴェルトが大統領に就任、ニュー・ディール政策を実施。ケインズ、マーシャル追悼論文その他を集めて、『人物評伝』を出版。『ザ・タイムズ』に不況対策について連載(三月十三日~一六日)、これに加筆して、『繁栄への道』を出版。彼の経済理論と政策は、この著作に結晶したと言われる。

「われわれが当然疑ってよい計算は、すでに失業者の生活保護の問題を負っているのに、現在か将来、仮に彼らに家を作らせでもしたら、国が負担しきれないほどの膨大な赤字を出してしまうだろうとわれわれに述べる政治家の計算である。問題にされるべきなのは、失業者に、船という人間の最も偉大な所産の一つを造らせるために彼らの生活維持費の一部を費やすよりも、造船工を失業させておくほうが、国富を増加させるのにより経済的であり、より正しい計算だと考える政治家がはたして正気かどうかという点である。(中略)また、課税が、課税対象を打ち砕いてしまうほど高率であることがありうる議論、および、減税の成果を収集するために十分な時間が与えられているならば、減税は増税よりも予算を均衡させるよりよい機会を与えるという議論は、奇妙でも何でもないはずである。というのは、今日、増税という見解をとることは、損失が生じたので価格を上げる決定をし、そして売上高の減少によって損失が増加した時に、簡単な算術を正しいと思い込んで、慎重に価格のいっそうの引き上げを決定する製造業者に似ている。――彼は、ついに、帳簿が貸方も借方も、ともに零になって釣り合った時でもなお、損をしている時に値下げするなんぞは山師のすることだ、といみじくも明言することだろう」                             『繁栄の道』より抜粋

ケインズ革命の動きが、ケンブリッジ大学におけるケインズのインナー・サークルのなかから芽生えだす。ケインズの周囲には、彼とたえず討議し、彼を助けるジョーン・ロビンソンなどの何人かの若い研究者がいて、ケインズは、そういう人々との討論のなかで自分の考えを固めていくのである。ジョーン・ロビンソン『不完全競争の理論』を出版。一月、ドイツでヒトラーが首相となる。六~七月、ロンドンで世界経済会議。国際金本位制の再建を目論むが失敗に終わる。
一九三四年(昭和九年)五一歳 アメリカが平価を切下げ、金一オンスを三五ドルとする。ケインズ、コロンビア大学から名誉法学博士の学位を受けるためにアメリカに渡り、ローズヴェルトと会う。『一般理論』の第一稿完成。この年、八月、ヒトラーが総統の地位に就く。十月、中国共産党が長征を始める。
一九三五年(昭和十年)五二歳 『一般理論』の初校刷をロバートソンに送る。次いで、第二回目の校正刷をハロッドとホートレーに送る。
一九三六年(昭和十一年)五三歳 一月、主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版。この新しい経済理論を契機に、新しい経済学の波が起こりだす。王立統計学協会が『ジェボンズ生誕百年記念回想録』を発表。二月、スペインの総選挙で人民戦線が大勝。四~五月、フランスの総選挙で人民戦線が下院の過半数を獲得。七月、スペインに内乱が起こる。ナチスをめぐり、ケインズは『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』編集者でナチズムに対して批判的なキングズリー・マーティンと意見を異にし、以後、はげしい手紙のやり取りをする。ケインズは、戦争回避によってイギリス経済を守るため(イギリス経済の没落を決定的にしないため)、対ドイツ宥和政策を支持する。二・二六事件。
一九三七年(昭和十二年)五四歳 講演をもとにした「人口逓減の若干の経済的結果」を『ユージニックス・レヴュー』に発表。七月、日中戦争始まる。夏、ソヴィエト連邦訪問。ケンブリッジで冠状動脈血栓症による心臓病によって重態に陥る。回復するが、以後彼の健康状態は常に予断を許さないものとなる。十一月、日独伊防共協定成立。
一九三八年(昭和十三年)五五歳 九月、ティルトンで「若き日の信条」を書く。この年、三月、ドイツがオーストリアを併合。九月、ミュンヘン会議。同会議で、イギリス首相チェンバレンは、フランスとともに、ドイツのチェコスロバキア・ズデーデン地方併合を認め、宥和政策を推し進めた。日本、国家総動員法成立。
一九三九年(昭和十四年)五六歳 ケインズ夫妻、ヨーロッパ旅行。八月、独ソ不可侵条約締結。九月、ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。ケインズ、戦時金融の問題についての論文を『ザ・タイムズ』(十一月十四、十五日)に発表。これが、事前に(十一月七日)、『フランクフルト・ツァイトゥング』に掲載される。
一九四〇年(昭和十五年)五七歳 『ザ・タイムズ』に発表した論文をもとに『戦費調達論』を出版。国民所得会計の考えを展開しだす。大蔵大臣諮問会議に参加。「アメリカ合衆国とケインズ・プラン」を『ニュー・リパブリック』に発表。六月、独仏休戦条約締結。九月、日独伊三国同盟成立。大政翼賛会発会。十一月、アメリカでローズヴェルト、大統領に三選される。
一九四一年(昭和十六年)五八歳 一月、ローズヴェルトが年頭教書で武器貸与法を声明。ケインズは、五月八日アメリカに渡り、武器貸与法に基づく諸問題をはじめ、イギリス‐アメリカ間の経済協力関係の樹立に努力。十月、イングランド銀行理事に就任。六月二二日、ドイツがソ連に侵攻、独ソ戦争始まる。十二月、日本が参戦。
一九四二年(昭和十七年)五九歳 男爵となりティルトン卿を名乗る。上院議員となり自由党席につく。戦後の世界金融体制のため、イギリス、アメリカでそれぞれ討論が始まる。イギリス案はケインズが、アメリカ案は財務長官モーゲンソーを助けたホワイトが中心になって作成した。六月、日本海軍、ミッドウェー海戦で大敗を喫す。以後、劣勢が続く。
一九四三年(昭和十八年)六〇歳 三月、戦後世界金融制度のためのアメリカ案がイギリスにとどき、ケインズは討議のためにアメリカに渡る。ケインズ案とホワイト案が衝突する。

ケインズ案は、一種の世界(中央――引用者補)銀行の設立であった。国際経済の動きに応じて、ちょうど一国で中央銀行が操作するように、世界的に必要とする資金の流動性を保証するための世界の中央銀行――ケインズが「清算同盟」とよんだものをつくる。それは「バンコール」とケインズがよんだ国際支払い通貨を、この銀行への各国の預金の形で創設する。そして、アメリカとイギリスの国際収支関係がアメリカの一億ポンドの黒字、イギリスの赤字であったときには、それ相当額のバンコール預金をイギリスからアメリカに移す。長期的には、世界貿易の増加につれてバンコール預金も増やし、その比を一定にする。ただし、もしも赤字国の赤字が、割当を受けたバンコールの一定比以上になると、その国は為替レートの切下げ、一定額の金準備の引渡し、海外投資規制等を受け、逆に黒字国の黒字の割合が一定比以上になると、逆に為替レートの切下げ、国内拡大政策、海外援助などを求めるというものであった。(中略)ブレトン・ウッズ協定によってつくられた国際通貨基金(IMF)はアメリカのホワイト案をもとにしたものであった。それはケインズ案と異なって、加盟国が基金に出資しなければならなかった(四分の一は金で、残りの四分の三は自国通貨で)。そして各国が必要に応じて引出すことができる額は、この四分の一の部分を除いて、貸付にかなりの規制を受けた。さらにIMFの出資金は、バンコールのように自動的に増加するわけではない。それはあくまでも為替相場安定のための機構であったにすぎない。(中略)IMFの金額は、ケインズの考えに比べて、あまりにも少額であった(ケインズ案は二五〇億ドル、ホワイト案は五〇億ドル、IMFは八八億ドル)。   「ケインズの思想と理論」伊東光晴(『世界の名著 ケインズ ハロッド』解説)

九月、イタリアが降伏。
一九四四年(昭和一九年)六一歳 七月一~二二日、ブレトン・ウッズで連合国通貨会議が開かれ、ケインズはイギリス首席代表として出席。このときと、四六年三月のアメリカでの会議のとき、心臓の発作が起こるが、倒れながらなお仕事を続けなければならなかった。


ホワイトとケインズ

一九四五年(昭和二〇年)六二歳 五月、ドイツが降伏。八月、日本が降伏。第二次世界大戦終わる。九月、ケインズは借款を得るためにアメリカに渡る。十月、国際連合発足。
一九四六年(昭和二一年)六三歳 三月、国際通貨基金(IMF)、世界銀行設立会議に理事として出席。帰国後、四月二一日、サセックス州ティルトンの山荘で心臓麻痺によって急逝。ウェストミンスター寺院での追悼式には、九三歳の父ネヴィルと母フローレンスがともに出席した。死の翌日、『ザ・タイムズ』に掲載された追悼文の冒頭は、「彼の死によって、イギリスは偉大なイギリス人を失った。かれは、経済学者として専門家ならびに一般人の思考に世界的影響を与えると同時に、生涯を通じてたずさわった他の種々なる問題にきわめて造詣が深かった天才であった。かれは思想家であるとともに、非常時に際して国家重要事項に関与し、普通人なら一生かかるほどの実際的仕事をてきぱきと片づけた行動の人でもあった」という言葉で始まっており、さらに、その才気煥発とユーモアに溢れた人柄にふれ、「愚かなことを容赦しない」気質にふれ、いかなる人間に対しても理あるならば完膚なきまでに反論し、提案が受け入れられないときはただちに別の計画を立て先に進むことに努めたと書かれ、「かれは公共の福祉のために、誠実にその生涯を捧げた、情愛に満ちた人であった」と結ばれている。
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極私的田恆存入門 その1「一匹にこだわる心」  (由紀草一)

2015年03月18日 16時46分39秒 | 由紀草一
極私的田恆存入門 その1「一匹にこだわる心」 (由紀草一)



 私淑している田恆存について、自分のブログで、「田恆存に関するいくつかの疑問 その1(アポカリプスより出でて)」(http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/727d7d1744a256153b0086953d714938)から4回にわたって書いたのですが、美津島明氏から、「あれではよくわからない、今まで田なんて全く読んだことのない人にもわかるような、『田恆存入門』のようなものを書いて欲しかった」、と愛情あふれる文句つけをいただきました。

そう言われると一応、やってみたくなりました。こう見えて、乗せられやすい体質なもんで。ただ、「唯一の、正確な読解」を示す、なんてことを夢想するわけにはいきません。田先生も、そういうことは不可能なんだ、と何度か言っていますし。私はただ、凡庸なこの頭で理解し、感動した田像を示し、それが先生に興味のある人に多少の参考になれば、と願うばかりです。おかげで、そんなに深遠な、難しい話にだけはならないと思いますので。

田思想の出発点にして生涯を通じた立脚点は、まず昭和21年の「一匹と九十九匹と」に明瞭に示されました。今回はほぼこれのみに即してお話します。

これは戦後直後に文壇を賑わせた「政治と文学」論争中に書かれたエッセイです。と言っても、田はこの論争自体に深入りすることはどうやら意識的に避けています。論ずべきことはもっと別にあるはずだ、というスタンスは明瞭に読み取れ、これはこの後の田の論争文の多くに引き継がれて、時に「搦め手論法」と呼ばれることもあったようです。

論争の主流についても一応ざっくり見ておきましょう。この淵源はずっと古く、共産主義が、少なくとも知識人の間ではそれこそ怪物じみた猛威をふるった昭和初期にまで遡ります。

具体的には、共産主義は正しいと多くの人にみなされた。当然共産主義革命は正しいし、そのための活動は正しい。これに疑問の余地はない。と、すると、芸術は、その中でも社会観を直接的か間接的に含まないわけにはいかない文学は、どういうことになるのか。これがつまり論争のテーマでした。

模範解答とされたのはこんなんです。文学作品についても、別の「正しさ」があるわけはない。別の、なんてものを認めれば、その分共産主義の正しさは相対化され、革命そのものも、革命運動の価値も貶められることになる。文学でも社会活動でも、単一の物差しで測られなければならない。そんなに難しいことではない。革命運動を鼓吹するか、少なくとも革命の担い手たるプロレタリアートに即した目で現代社会を見つめ、その矛盾を示すような作品ならよい作品、それ以外は悪い、少なくとも無価値な作品。そう判定すればいい……。

「いやあ、そりゃあんまり簡単すぎるだろう」とたいていの人が思うでしょう。と言うか、土台、共産主義が正しいと信じなければ始まらない話ではあるんですが。

その後の歴史の中で共産主義もずいぶん変わりましたし、また、文学者は知識人であるという思い込みがあった頃までは、彼らは文学の社会的な効用やら責務を気にかけないわけにはいかなかったのです。そこで政治(では何が正しいか)と文学(の価値は何か)をめぐる論争は、少しづつ形を変えてこの後も現れましたし、今後も現れる可能性はあります。これについては加藤典洋「戦後後論」(『敗戦後論』所収)が面白い見取り図を提出しておりますので、興味のある方はご覧おきください。

さて田恆存は、「政治上の正しさと文学の価値」という問いの形を変え、「そもそも政治とは、そして文学とは何か」、言い換えると、「人間はなぜ、またどのように、政治を、そして文学を必要とするのか」まで遡及して考えてみせたのです。演繹に代えて帰納的に考える、というわけですが、「かくあるべき」から「かくある」に議論の中心を移すのは、もっと大きな意味があり、前に言った「搦め手論法」というのもそこを指しているようです。それは後ほど述べるとして、「政治と文学」の局面にもどりますと、政治は九十九匹のためにあり、文学は一匹のためにある、これを混同するところから不毛な混乱が起きるのだ、という答えが提出されました

「一匹と九十九匹」の譬喩は、キャッチコピーとしてもなかなかいいですよね。人目を惹きやすいし、覚えやすいでしょう? それでけっこう有名なんですが、そのためにかえってたびたび誤解されてきたように思います。解説してみましょう。
話の出処は聖書のルカ伝第十五章です。

なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや。

この譬えは、すぐ後の「蕩児の帰宅」の話を見れば明らかなように、悔い改めた一人を得る喜びは、もともと正しかった九十九人がいることより勝る、という意味です。ですからここで言う一匹とは正しい道を踏み外した迷える羊(stray sheep)であり、キリスト教からみた罪人のことです。それぐらいは田も当然知っており、そう書いてもいますが、この一節から受けたインスピレーションが強烈だったので、正統的な解釈とは別の「意味」を、語らないわけにはいかなかったのです。

もともとこの話にはちょっとヘンなところがあります。どんな場合でも、九十九匹の羊を野に放っておいていいはずはないのです。狼に襲われたり、羊たちの内部で争いごとがおきたりしたときのために、面倒を見る人が必要です。田の考えでは、それをやるのが最も広い意味の政治です。宗教者の役割ではないから、イエスはそれについて語らなかった。宗教者は、「失せたるもの」を探し求めずにはいられないのであり、後にこれを引き継いだのが文学者、であるはず。そうであるならば、どんな時代でも、群から迷い出てしまう一匹は必ずいるので、宗教・文学の必要性が絶えることはありません。

以上は誤解を招く言い方になりました。「なんぢらのうちたれか」と語り出されているところからもわかるように、特定の宗教者、文学者のみが考えられているわけではありません。九十九匹と一匹の領分は、万人の心の中にこそあるのです。そして、迷い出る一匹はそれを探し求める一匹と同一なのでしょう。「かれ(=真の文学者、及びそれに近い心性)は自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない」と、田は言っています。

で、改めて、この一匹とは何なのか。たぶん、この時代の文学者やら文学愛好者なら、くどくど言わずともわかる人にはわかったらしく、田もそれは暗示するにとどめています。文学の権威が一般に失われた今日では、多少の逸脱を恐れず、言葉を重ねておくべきでしょう。

日本近代文学の中だと、イエスつながりと、もう一つ田の出世作になった文芸評論(「芥川龍之介」)とのつながりからして、芥川龍之介「西方の人」中の「永遠に超えんとするもの」が、「一匹」に近いように思えます。これはイエスその人、あるいは彼を導く聖霊を指し、聖母マリアが表象する「永遠に守らんとするもの」と対置されています。

天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳えてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴や無花果も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気(ひとけ)のない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。(「西方の人」中「二十五 天に近い山の上の問答」)

つまり、平和で暖かい生活の場を捨てて、冷厳で孤独な世界へと誘われる性向、芥川が「聖霊」の言葉で呼んだもの、これを田は「(九十九匹=下界の人生に対する)一匹」と名づけた、と考えて、そんなに的外れではないと思います。

しかし、では、日本の近代文学者が「永遠に超えんとする一匹」を自分の裡に感じていたかというと、それはちょっと怪しい。根本的に、「永遠に守らんとするもの」が守る身近な平和から、否応なくはみ出してしまう性情は乏しかったように見える。ただ、西洋文学には折々現れるそのような個人の傾向に憧れる気持ちはあったようで、芥川もどうやらその例外ではない。彼が描くイエス像が、上に見られるようにやたらにロマンチックなのはそのせいでしょう。

上記は日本の近代を考える上で大きなポイントになるところですが、今回はもうちょっと卑近なところで話をしたいと思います。そうすると、田の論旨の応用、というより多少どころではない逸脱ということになってしまうかも知れませんが、私が田恆存から学んだつもりでいる最も重要なことの一つですので、恐れも恥も顧みずに申し上げます。

最近拙ブログの記事「国家意識をめぐって、小浜逸郎さんとの対話(その1)」http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/ef269ddc5b057dee2ef855a5b735a164?fm=entry_awpに、息子を特攻作戦で失くし、戦後苦難の道を歩まなければならなかった母親について書きました。彼女は極貧のうちに生きて、死ななければならなかったようで、それについて私は、「「国のために死ね」と要求するなら、最低限、遺族の生活の面倒ぐらい、ちゃんとみてあげられなくてどうするのか」と申しました。因みに日本で軍人恩給の復活が議会で認められたのは昭和28年で、支給が開始されたのは翌29年、この母親はその恩恵に浴する直前に亡くなったのです。戦争に負けて軍隊もなくなって、日本中が苦しい時期であったとはいえ、こういう人にはちゃんとお金を上げるべきでした。それは明らかに、政治の役割です。

ところで問題は、さらにその先にあります。政治がちゃんとしているなら、彼らが生活に困ることはない。それで万々歳かと言えば、そうもいかんでしょう。二十歳そこそこの息子に先立たれた悲しみ、苦しみは残ります。どんな政治がこれを救えるのか? 考えるまでもなく、無理に決まっています。即ち、最良の政治が行われてもなお、すべての人間を必ず幸せにできるわけはないのです。

戦後社会のイカンところの一つは、こういうふうに戦争が絡んだ話だとすぐに、「戦争はこんな悲惨をもたらす、最大の悪だ」と言い立て、逆に「だから戦争さえなくなれば万事OKなんだ」をこの場合の解答のように思わせる詐術がはびこったところです。実際には仏教で言う四苦(老病生死)八苦(愛する者と別れる苦しみ、その他)から完全に逃れられる人などいません。早い話が、戦争がなくても、子どもに先立たれる親はいるのです。その苦しみ、悲しみをどうするか? どうしようもない。どうしようもないけれど、宗教と文学のみが、僅かにそこに関われる、いや、関わることを目指すべきだ。それが田恆存の文学論の根幹なのです。

どういうふうに関わるのかと言えば、それは、マルクスが喝破したように、また田も認めたように、麻薬として役立つのです。マルクスが「ヘーゲル法哲学批判序説」中でそう言ったのは、もちろん否定的な意味でです。麻薬(直截には阿片)には、苦しみを和らげる働きはあるが、病気を根治することはできない。根治をあきらめるから、麻薬の需要も出てくる。同じように、現実の苦しみが除去されるならば、宗教の必要性はなくなる。だから、宗教の廃棄を要求することは、そういうものが必要とされる現実社会の、根本的な変革を要求することに等しい、とおおよそマルクスは論じています。

彼が言い落としているのは、世の中には不治の病があることです。現在でも末期癌患者の鎮痛剤として麻薬が処方されることがあるのは知られているでしょう。その意味で、将来も麻薬の需要が絶えることはないでしょう。同じように、人々の苦しみがすっかり消えることもないから、文学の存在価値も失われないでしょう。

具体例を出しておきます。子どもを失った母の悲哀を表現したものとして、以下の和泉式部の歌はよく知られています。

とどめおきて誰をあはれと思うふらむ
子はまさるらむ子はまさりけり


「この世に遺す者のうちで誰をあわれと思うのだろう、子どもだろうな、自分も子ども失って(親を失ったときより)あわれに思うのだから」という意味で、感情より理屈を表に出している(と、見せて、同語反復による強調にもなっているのはさすがです)ことが注目されます。これと、何よりも和歌の調べによって、ここでの感情には客観性が付与され、「作品」になっている。子どもに先立たれることは、「戦死」というような社会的な共通項がない限り、個人的なできごとに止まります。それでも、フォルム(形)があることで、同じような経験をしていない人にも心持が伝わる。その全過程をここでは「文学」と名づけます。

即ち、個人的なことがらがそのまま共同性を得るというマジックが文学であり、人間が集団的な存在(九十九匹)であると同時に個的な存在(一匹)でもあることを証すものです。

だからと言ってもちろん、ごく普通の意味での公共性がなおざりにされていいわけはありません。政治上の施策や社会改革によって救われる不幸ならちゃんと救うべきですし、まして、人々に不当な悲惨を強いる政治悪はなくすべく努めるべきです。その努力が革命という形をとるなら、正義は明らかにこちらにあることになります。

ここで、先ほど挙げた、共産主義に対して文学(正確にはプロレタリア文学)から提出された「模範解答」をもう一度見てください。正義は革命にある。ならば、文学もまた革命の正義に専一に仕えるべきだ、とされる。

結果として、それ以外の正しさ、どころか、この正義の力が及ばない領域は無視されます。例えば、戦争被害者の苦しみは大いに描くべきだ、それは帝国主義の悲惨を訴えるのに役立つから。では、国家のせいにも社会のせいにもできない事故の犠牲者や、その関係者の苦しみは? そんなもの、革命のためにはなんの効果もないんだから、放っておけ、とは誰も言ってませんが、言ったのと同じ効果はあるんです。

難癖をつけていると思いますか? そう見えるらしいんで、このような言い方は、正攻法ではない、「搦め手論法」と呼ばれたのですが。しかし、広い意味での革命運動がどういう道をたどったかを考えれば、現実的にも決して無視し得ない論点がここにあるのは明らかでしょう。それはどんな道で、どこから始まったのか。「政治と文学」論争のときによく取り上げられた、小林多喜二「党生活者」をこちら側の具体例として出しましょう。

この小説で最も印象が深いのは、次のような点です。革命運動に従事する主人公が、職場も住居も追われ、親しい女に全面的に生活の面倒をみてもらうことにする。革命が正しいなら、そういうこともしかたないかも知れない。ただ驚くのは、主人公は、どうやら彼との結婚を夢見ている彼女に対して、「申し訳ないけど、我慢してほしい」ではなく、「革命運動の必要性・正当性をなかなか理解しようとしない」と、私も若い頃聞いたことがある言葉で言い換えると「意識が低い」、としか思わない。本気で? どうも、本気らしいです。

あるいはまた、六十歳になった母親にもう会わない決心をする。母親には辛いことだろうが、それは「母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だ」……。いやいやいや、本当にやめましょうよ。何かの事情で肉親と別れる人はいつでも、どこにでも、いる。自分から望んでそうなることもある。それを一概に悪だと言う気はない。けれど、何かの正義を持ってきて、それを正当化することは、とりわけ、自分が思い込むだけではなく、他人もそうであるべきだ、などとするのだけは、是非やめてほしい。

また、こうも言える。主人公は、厳しい弾圧を受けている。正義は自分にあり、それなら弾圧は不当だ。そこまでは認めてもいいが、さらに、だから弾圧される苦しさを味わうことこそ正当だ、までいったら、明らかな転倒である。そうではありませんか?

「党生活者」の主人公がそうであるように、小林多喜二もまったき善意の人ではあったのでしょう。だからこそ、あぶない。「正しいこと」はどこまでも押し進めていいはず。ならば、それをどこかで押し止めようとすることこそ悪。正義の論理がこの段階にまで至れば、この正しさはあらゆることを犠牲にするように要求するまでになるでしょう。革命が成功すると、革命前よりもっと激しい弾圧が始まる根本の理由は、ここにあるのです。

思うに、文学の社会的な効用は、このような事態に対する警告を発するところに求められるのではないでしょうか。一人の人間には、国家・社会を含む他者にはどうすることもできない領域がある。言わば、絶対的な個別性です。もちろん文学にだって、根本的にそれをどうにかできるわけではない。しかし、「どうにもならないこともある」ことを訴えて、この世に完全な正義はあり得ず、ゆえに正義の暴走は何よりも危険だと戒めることについては、少しは期待してもいいのではないでしょうか。

上がある程度認められたとしても、でもやっぱり「そんなの本当に意味があるの?」と思われることもあるでしょう。文学が宗教ほど(麻薬としての)大きな慰安を与えることなどめったにあるものではなく、その分、依存症の危険などはごく少ない。それというのも、社会に大きな影響を与える宗教ほど、「教団」を作って、革命運動によく似た活動をする、集団的なものになるからです。文学は、あくまで個人にのみ関わろうとするので、純粋ですが、また、まことに無力です。それを残念に思う文学者が、「絶対の正義」を外部に求めようとした結果が、「プロレタリア文学」をもたらしたのでしょう。
このように無限に循環しそうな問いに対して田恆存がここで出した診断を、最後に掲げておきます。

かれ(=文学者)のみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも、その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者でもあるかれは、阿片でしか救われぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。そのかれのペシミズムがいかなる世の政治といへども最後の一匹を見のがすであらうことを見ぬいてゐるのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。そのかれのオプティミズムが九十九匹に専念する政治の道を是認するのにほかならない。このかれのペシミズムとオプティミズムとの二律背反は、じつはぼくたち人間のうちにひそむ個人的自我と集団的自我との矛盾をそのまま容認し、相互肯定によつて生かさうとするところになりたつのである。

一匹にこだわり続け、それによって百匹に慰安としての阿片を供給すること、ただしそれは阿片に過ぎないことはわかっているので、九十九匹の救済は甘んじて政治に委ねること。ここには、九十九匹(公共性)の名において一匹(個人)に最小限の犠牲を強いることはどうしてもある、それは認めるしかない、という断念も含まれます。そうでないと、お互いを肯定し合って、ともに生かす、ということにはならない。しかし、何が「最小限」かを見極めることはいつも難しい。

それから、こちらのほうが大きいのですが、九十九匹の側からの圧迫は特にないのに、群れから迷いでる一匹、「永遠に超えんとするもの」の問題は、提出されたままで終わっています。それは田の後の文業、特に「人間・この劇的なるもの」で正面から取り上げられることになります。なので、「極私的田恆存入門 その2」では、これを主に見て行くことにします。
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訪蜀記(その1)蜀の精華  (美津島明)

2015年03月12日 21時54分06秒 | 報告
訪蜀記(その1)蜀の精華 (美津島明)

今回私は、二〇年ぶりに中国四川省を訪れました。妻がそこの出身で、そこに住んでいる両親が高齢なので不測の事態がいつ生じてもおかしくない。だから、ふたりが元気なうちに彼らに私の顔を見せてあげてほしい、という妻の願いを私が受け入れた、というのがその理由です。そういうふうに切々と訴えられて断るわけにいかなくなってしまったのです。

二〇年前に訪れたのは、妻の両親にふたりの結婚を報告するためでした。私にとっては初めての中国訪問の旅でした。帰路で、北京に立ち寄って、妻の父方の親戚に会ったのを覚えています。旅の途中で、全身に痒みを伴う発疹が生じたり、ホテルで使ったタオルのせいで目が充血し目やにが異常発生して面妖な風貌になったり、ホテルや空港での職員の劣悪なサーヴィスに堪忍袋の緒が切れて英語をしゃべりまくる変な日本人になってしまったり、と心身ともにボロボロになって帰国しました。それで、もともとは熱烈な中国ファンだった私(中国人と結婚するくらいですから)が、中国にすっかり懲りてしまったのです。ひるんでしまったのです。その後、妻は何度か帰国しましたが、私はそれに同伴しませんでした。

「実は両親だけではなくて、弟や妹もあなたに会いたがっている」。その言葉は、妻の幾度かの帰国をなかば見て見ぬふりをしてきた私のやましさを直撃しました。

そんなわけで、私は二月二三日(月)から二八日(土)までの六日間、四川省、すなわち、三国志の魏・呉・蜀のなかの蜀の国に行ってきたのであります。

成都空港に着いたのは夜中の12時前後でした。空港では、妻と彼女の弟の千と妹の群英の三人が待っていました。弟の千とは二〇年前に会ったことがありますが、妹の群英とは今回が初顔合わせです。ふたりについてはいずれ詳しく触れようと思っているので、ここでは略します。弟の車で、ホテルに直行しました。車窓から見える夜中の成都は、なんとなくですが、二〇年前と比べて巨大化しているような印象を抱きました。ビルが大きくなっているからです。ホテルのロビーでは、妻の親戚たちの予期せぬ大歓迎を受けました。弟の千の奥さんやその子どもたち、妹の群英の旦那さんやその子供たちもいました。真夜中であるにもかかわらず、みんなニコニコ顔で、目が野生動物のようにきらきらしています。というのは、ホテルのロビーの照明があまり明るくなかったのです。中国語をほとんどしゃべれない私は、謝謝(シェシェ)を繰り返すよりほかに術はありません。

翌日の昼、みんなで昼食をとった後、妹の群英の旦那さんの車で妻の両親が待っている資中県に向かいました。資中県は、高速道路を時速100kmで突っ走って三時間ほど成都を南下したところにあります。

その次の日、親類縁者が一同に会しての、近所の中華料理屋での昼食会がありました。総勢約三〇人で丸テーブル三卓の大規模な会食でした。妻の両親が住んでいるところを集合場所にしたのですが、そこでとてもなつかしい顔を見かけました。妻の父方の従兄です。

二〇年前に資中県に来たとき、真っ先に立ち寄ったのが、実はこの従兄の家だったのです。八月初旬のことだったので、とても暑かったのを覚えています。成都空港からバスで三時間ほど爆走して資中県に到着し、降り立ったところから徒歩で一〇分程度のところに従兄の家はありました。降り立ったところは、資中県の中心街なのでしょうが、鄙びた埃っぽい小さな田舎町という印象でした。居間に通されて、お湯が出されたのには、内心けっこう驚きました。

当時三三歳の従兄は、生活に疲れた様子ではありましたが、繊細な顔立ちをしたなかなかのイケメンでした。妻が子どものころの憧れの男性だったようです。彼に紹介された奥さんも、所帯やつれをしてはいるもののなかなかの美人です。妻によれば、当時のふたりは近所でも評判の美男美女カップルでした。


しかし、それ以上に驚いたのは、当時八歳の、従兄夫婦の長女の美少女ぶりでした。次の写真の右側が彼女です(ちなみに左側は、当時の妻です)。



当時の写真を被写体としてあらためて撮り直したため、やや不鮮明ではありますが、その愛くるしさはそれなりにうかがわれるのではないでしょうか。見た目だけではなくて、仕草や妻とのやり取りから、性格の素直さや真面目さや優しさもうかがわれて、私はすっかり長女のファンになってしまいました。半ば本気で、養女として日本に連れ帰ることができないものかと妻と話し合ったほどです。まあ、こんな宝物を、従兄夫婦が手放すはずがないので、そのことを彼らに対して口に出すことはなかったのですが。いつまで続くか分からない貧しさに押しつぶされてしまうには、彼女の心身の美質があまりにも勿体ないように思われて、気が気でない気分に襲われた、というのもあったのです。子どもに心を奪われると、私の場合、その子と血のつながりがなくても、過剰なほどの庇護欲求が湧いてくるようなのです。それはそんなにめずらしいことではないだろうとは思いますが、いかがでしょうか。

話を戻します。妻の両親の家の庭先で二〇年ぶりに再会した従兄は、ニコニコしながら奥さんを紹介してくれました。従兄も奥さんもそれなりに年齢を重ねてはいましたが、幸せな暮らしぶりをうかがわせるようなふっくらとした風貌をしています。そうして、奥さんの隣に落ち着いた佇(たたず)まいで椅子に座っている若奥さんが自ずと目に入りました。というのは、その女性が目を射抜くような色白の美形であったからです。結婚しているのがすぐに分かったのは、赤ん坊を抱いていたからです。ほどなく従兄が、「長女です」と紹介してくれて、やっと、その若奥さんと二〇年前の美少女とが頭のなかで結びつきました。私の目の前には、二〇年前の美少女がゆっくりと時間をかけて大輪の花に成長した姿が、そんなことなどごく当たり前で、あらためて感動するほどのことでもないと言っているかのようなおっとりとした風情でたたずんでいるのです。

宴席は、従兄の隣でした。そこで私はあらためて従兄と旧交を温めました。むろん通訳は妻よりほかにいません。ほかには、妻の父親や弟の千や妻の旦那さんのお父さんやらが一〇名ほど丸テーブルを囲んで、ご当地のアルコール45%の焼酎を飲んでいます。酒宴の詳細については「その2」でお伝えしようと思っていますが、私は、中国式の「乾杯」で焼酎の一気呑みをやらかして、結局前後不覚状態になってしまいました。

気がついたのは、翌日の午前中でした。ほぼ、まる一日寝ていたことになります。意識を取り戻した私に、妻が「従兄が自分の家にみんなを招待したいと言っている。昨日のお返しをしたいということだ。起きれるか」と声をかけてきました。私は、こっくりとうなずいて、おもむろにベッドから起き上がりました。私たちの資中県での滞在先は、妻の妹・群英のマンションです。リビングは20畳以上あったでしょうか。

従兄の家は、群英のマンションから、とぼとぼと歩いて三〇分弱ほどのところにありました。従兄の家に向かう道路は一応舗装されてはいるのですが、雨が降ると泥でぐちぐちゃになってしまうという代物です。四川省は一年中、巨大な盆地が巨大な雲で蓋をされているような土地柄なので、夜は毎日のように小雨がぱらつきます。だから、そこいらの道路はいつもぐちゃぐちゃなのです。でも、商店が途切れることはありません。資中県の中心地は、二〇年の間に、都市として信じられないほどに巨大化したのです。だから、道路・ゴミ処理・下水道などのインフラ整備がどうにも追いつかない状態なのでしょう。それで、泥を避けるようにして細い歩道をとぼとぼと歩くよりほかにないわけです。

従兄の家は、マンションの二階にありました。総勢10数名の親戚たちと中に入ってリビングのソファに座ると、小奇麗な暮らしぶりをしていることがすぐに分かりました。おもてなしとしてまず出されたのは、お湯ではなくて、ワンタッチで出るお湯を注がれたお茶でした。トイレも日本人に馴染みのある水洗式で戸惑うことはありません。中国で一般に普及しているのは、用を足した後、柄杓で汲んだ水を排水口に流し込む方式のトイレです。両親の家も群英のマンションもそうです。だから、従兄の暮らしぶりは、中国ではなかなか都会的なもの、例えば、上海あたりの中流家庭のそれに近いものであると言えるのではないかと思われます。

私は従兄に対して、その住居がたいへん素晴らしいものであり、この二〇年間従兄は実によく頑張ったにちがいないと思っていることなどを率直に伝えた。すると従兄は、大きくうなずいて、「全ては妻のおかげだ。この女性を娶った私は、果報者だ」と言います。その率直な物言いに、私はなにやら胸中がスカッとしました。妻によれば、従兄は、親戚が地元の工場を退職したのを引き継いで機械の修理工としてその工場でずっと働いてきました。だから、儲け話に手を出すとかなんとかいった、バブルに踊るようなマネをして豊かになったのではどうやらなくて、地道に真面目に働いて今日の経済的基盤を手に入れたのです。これは、中国社会における豊かさの実現がバブルや汚職によるものだけなのではなくて、真面目に働くことによっても可能であることを雄弁に物語っている、と私は考えます。この視点は、中国経済の本当の姿を察するうえで極めて重要なものなのではないでしょうか。

お酒が進んできたところで、あんな綺麗な娘を持って、結婚するまで父として気が気ではなかっただろうと言ったところ、従兄は、本当にそうだったというふうに無言で深くうなずきました。綺麗で上品で素直な娘さんにちょっかいを出したがる身分不相応でタチの悪い馬鹿男はどの国にもいますからね。長女は君という名で、どうやら成都郊外のけっこう裕福な男のところに嫁いだようです。旧正月で実家に帰ってきた、ということでした。いま二八歳。これから女の盛りを謳歌することになるのでしょう。妹もいるのですが、こちらは、姉よりも早く嫁ぎ、いまは広東に住んでいるとの由。

食事の後に、従兄一家の写真を撮りました。次のがそれです。



向かって左手が従兄の長女、真ん中後ろが従兄、右手がその奥さん、そうして、三人に囲まれている赤ん坊が、まだ生後七ヶ月の、長女の娘です。実は、この赤ん坊、一座の大の人気者で、妻の親族の人々によって代わる代わる抱っこされていました。その気持ち、私はよく分かります。この写真からどの程度伝わるのか、よくは分かりませんが、抱いている人の真正面にその顔を持ってくると、つぶらな瞳で至近距離の相手の顔を正面からじっと不思議そうに見つめ、キャッキャと笑うので、いとおしい感情がおのずと湧いてくるのですから。



上の写真なら、その感じがわりと伝わりやすいかもしれません。お母さん、娘さん、お孫さんと、この一家は、すっきりとした素敵な雰囲気とつぶらな瞳がちゃんと遺伝しているようです。

私が今回の投稿につけたサブタイトルの「蜀の精華」とは、この三人の生命の美しき連続性を形容したものです。従兄の奥さんがお孫さんを抱いているのを私が嬉しそうに眺めていたところ、何をどう思ったのか、私にお孫さんを抱かせようとしました。むろん私がそれを拒むはずもないのですが、なんというか、赤ちゃんを抱くのに慣れていないので、突然壊れやすい宝物を授かったような気持ちになり、実に神妙な心持ちであやすような曖昧な動きをちょっとしただけで、奥さんにお返ししました。でもそれだけでも、ぼおっとのぼせてしまうほどに幸せな瞬間だったのです、私にとっては。

従兄の家での宴の昼の部に続いて夜の部も終わりに近づいたころ(中国四川省では、客人を招いての宴は、通常昼夜2回行われるそうです)、従兄が、私たち夫婦に昔の自分の家を見せたいと申し出ました。中庭からすぐに行けるのですが、いったん表通りに出てそこから路地に入る形で見せたいというのです。彼としては、二〇年前に私が訪問したルートをたどることで、そのときのことを私が思い出すのを期待したようです。彼のその目論見は的中しました。私は二〇年前に従兄の家を訪ねたときのことを細部に至るまではっきりと思い出したのです。妻を通じて、従兄にそのことを告げると、従兄は、何度もうんうんとうなずきました。いまは、ほかの人にそこを貸しているのですが、その人が旧正月で留守にしているから、従兄は家のなかまで私たちを案内してくれました。古びてはいましたが、従兄の家は私たちが訪問したときの原形をしっかりととどめていました。従兄も、奥さんも、長女も、貧しかった当時のことを隠そうとする素振りをまったく示そうとせず、実に自然に私たちが訪れた当時のことを懐かしそうに思い浮かべているようでした。そこに私は、中国人の強靭さの秘密があるように感じました。 (その2につづく) 
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