美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ポール・クルーグマン『危機突破の経済学』(PHP)について (イザ!ブログ 2012・5・15 掲載分)

2013年11月14日 18時33分10秒 | 経済
碩学・宍戸駿太郎と同じくポール・クルーグマンもエクソシストである。私はそう信じています。


クルーグマン

クルーグマンは、1953年、ニューヨーク州に生まれました。1974年に イェール大学を卒業。その後、マサチューセッツ工科大学で博士号を取得。イェール大学で助教授を、レーガン政権で一年間大統領経済諮問委員会委員(政策とは何なのかを知ることができたいい機会だったと本書で述懐している)をそれぞれ務めました。その後、 マサチューセッツ工科大学で准教授と教授を、スタンフォード大学で教授を、それぞれ歴任しました。現在はプリンストン大学の教授です。忘れるところでした、2008年にはノーベル経済学賞を受賞しています。文筆家としては、2000年から、ニューヨーク・タイムズのコラムを担当し、舌鋒鋭く時の政府の経済政策を批判し続けています。

ところで、クルーグマンはSF小説の大ファンです。若い頃、アイザック・アシモフの、あの膨大な『ファウンデーション』(邦題は『銀河帝国興亡史』)シリーズに夢中になったことがあるそうです。彼によれば、その自己形成史において、その小説の内容は彼に大いに影響を与えたとのこと。

それは銀河系の文明を救った社会科学者についての小説です。正確に言うと、作中のハリ・セルダンという心理歴史学者が銀河帝国の滅亡を宣言する予言者になり、やがて帝国を救うことになります。心理歴史学とは、作中では「一定の社会的、経済的刺激に対する人間集団の反応を扱う数学の一分野」と説明されています。平たく言えば、特殊な計算によって人類の未来を予測し、それを善導しようとする学問、といったところでしょうか。もちろん、アシモフが作中で創り出した学問で、そのような学問は当然のことながら実在しません。

で、そういう社会科学者になりたくって、それに一番近い経済学を選んだと、クルーグマンは率直に語ります。彼はどうやら、卓越した頭脳とヒロイックなロマンティズムとを兼ね備えた人のようです。ただし、不思議なくらいに権力欲を感じさせないキャラです。「あなたが財務長官になったらどうする?」とよく聞かれるそうですが、彼は「私は管理者になれる人間ではありませんし、外交の面でもだめです」と言っていて、組織の一員や組織のリーダ-としての適性とか駆け引き上手の政治家としての適性とかが、からっきしないと自分を判断しています。(そこだけは、私は彼と共通しています(笑))根っからの自由人なのでしょう。一匹狼なのでしょう。それは、その闊達な文体によく表れています。クルーグマンの文章を読んでいると、その聡明さと卓抜でイメージの鮮烈な語りっぷりと爽快さとは感じますが、彼がとてもエライ学者さんなのだということはすっかり忘れてしまいます。

本書で一番強烈な印象を残すのは、FRB議長在任中のアラン・グリーンスパン(1987年8月11日 ~ 2006年1月31日在任)との電話でのやり取りの一節です。

グリーンスパンにとっては、それまであった規制がすべて気に入らなかったのです。そして、新しい金融上のイノベーションを大変気に入り、進めていったのです。結局それが、根本的に間違った世界観であることが分かったのです。いまでも忘れられないのが、2001年の彼からの不快な電話です。私が彼について書いたことについて、文句を言うために電話をかけてきたのです。それが彼と最後に話をしたときになりました。そのとき、グリーンスパンがブッシュ大統領の減税を支持していたことを、私は激しく批判しました。彼の議論が間違っていただけではなく、議論が不誠実であると思ったのです。財政黒字が大きくなりすぎないように、ブッシュにさらに減税を積極的にすすめたのです。ですから、私はそのことを痛烈に批判したのです。そうしたら、本人から直接電話がありました。非常に不快な電話でしたから、それ以来は口を利いていません。私はグリーンスパンをあまりにも痛烈に批判したために、FRBのイベントに出席できなくなりました。きっとブラックリストにでも入ったのでしょう。毎年ワイオミング州のジャクソンホールで開かれるFRBのイベントにも招待されなくなりました。

このエピソードの衝撃を理解するには、ちょっとその背景を知っておいたほうがよいものと思われます。

今ではグリーンスパンは、ITバブルと住宅バブルを意図的に招き、その熱狂に油を注いだ張本人であり、その後のバブル崩壊の惨禍のタネを蒔いた災いの主と目されています。おそらく、それが歴史的な評価として定着することになるのでしょう。

ところが、FRB議長としてアメリカの経済界に君臨していた18年間、彼はカリスマ性を帯びた史上最強の金融政策の遂行者と崇拝され続け、やがて神格化されるに至りました。当時、米タイムズ誌は「世界を救う委員会」に彼を推薦し、伝説的ジャーナリストのボブ・ウッドワードは『マエストロ』(名指揮者の意、邦訳『グリーンスパン』日本経済新聞社刊)というお追従本を書き、テキサスのフィル・グラム上院議員は彼を「史上最も偉大なセントラル・バンカー」とたたえ、さらには英国女王さえも「サー・アラン(アラン卿)は世界経済に安定をもたらしている」として、彼にナイトの称号を授与することに票を投じました。

つまり当時のクルーグマンは、「神」に逆らったのも同然の振る舞いをしてしまった、というわけです。その結果、経済学者としていろいろと嫌がらせをされ、また干されもした、と。ぼやいているのではありませんが、クルーグマンによれば、事実としてそういうことがあったのです。

彼が、風評にまったく信を置かず、あくまでも自分の目で物事の真偽・価値を判断しようとする哲人であることがお分かりいただけるでしょう。世界中を敵に回しても、ガリレオ・ガリレイのように「それでも地球は回っている」とつぶやかざるを得ない気質の人なのです。私は、そういうクルーグマンが、人として好きです。

インターネットで2001年のブッシュ減税について調べてみたところ、当時のブッシュは、当減税は中産階級のためのものであり、現状の予算規模で賄えるものであると述べているのですが、実はその言い方は、国民が数字に弱いことに付け込んだ詐欺同然のものであり、個人所得税の減税を柱とした減税措置の真の狙いは、富裕層や金持ちの懐を潤すことだった、ということが判明しました。『ウソつきブッシュのデタラメ経済』(早川書房)で、クルーグマンはそのことを激越な調子で批判しているとのことです。(今度読んでみたいものです。そのときは、またご報告します。)

グリーンスパンは、ブッシュ減税措置のそのような本質を知りながらも、新自由主義を信奉する「小さな政府」論者として、それに賛成したのでしょう。これは私の想像ですが、クルーグマンは、グリーンスパンのそういう態度に、後々大きな災いをもたらす不誠実で、言ってしまえば邪悪なものを感じ取ったのでしょう。クルーグマンは、それに対して決然として立ち向かったのです。エクソシストとしての面目躍如とした名場面です。

また、中央銀行に君臨する海千山千のトップと超一流の若手の経済学者とが、口角泡を飛ばして対等に激しく舌戦を繰り広げるところに、アメリカが世界の覇権国家になった原動力を目の当たりにする思いも合わせて抱きます。日本にもこういうケレン味のない活力があれば、とちょっとうらやましくなるのは、私だけでしょうか。唾のかけ合いも、配役がここまで豪華だと、なんだか絵になりますね。

次は、インフレ・ターゲットについて。

クルーグマンといえばインフレ・ターゲット、インフレ・ターゲットといえばクルーグマンというくらいに、クルーグマンとインフレ・ターゲットとは切り離せない関係にあります。国際貿易論でノーベル経済学賞を取ったくらいですから、ほかにもたくさん業績があるようなのですが、とりあえずそれは措いておきます。いまから、それに絞って話をしようと思います。

まず、インフレ・ターゲットとは何なのか、から話すべきでしょう。これは、平たく言えば、景気回復策の一つです。では、何故この景気回復策の一つにすぎないものがことさらに脚光を浴びているのでしょうか。それは、日本が20年来のデフレ基調から逃れられなくて苦しんでいるからです。

デフレとは、(いろいろな言い方ができおますが)商品に比べておカネの価値が相対的に上がってしまう現象です。だから、デフレ下では、人々はなかなかモノを買わなくなってしまいます。消費を手控えるわけですね。それで、モノの値段はどんどん下がります。どんどん下がるから、人はますますモノを買わないでおカネを持っていよう(貯蔵しよう)とします。つまり、人々の間でデフレ期待が形作られることになってしまうのです。そうなると金利をゼロにしてもおカネが世の中に出回らなくなってきます。(これを経済学で「流動性の罠」といいます)その結果、企業の売上は下がり、新たな投資がどんどん減り、労働者は、賃金がカットされたり、失業の憂き目に遭うことになったりします。(その結果、GDPはまったく成長しなくなったり、縮小したりします)だから、人々の購買力はますます低下し、商品の値段はもっと下げなければ売れないことになり・・・・、という恐怖のデフレ・ループを描くことになるのです。このデフレ・ループに陥ると、社会全体があの輿石幹事長のような疫病神・貧乏神に取り憑かれた状態になってしまうのです。

以上の連鎖反応のつながりをよく見てみると、商品に比べておカネの価値が相対的に上がってしまうところにどうやら突破口がありそうなことに気がつきます。つまり、おカネをどんどん新たに発行し、おカネの供給量を増やして、その価値を相対的に下げてしまえばいいことに気づきますね。商品に比べておカネの価値が相対的に下がる、言いかえれば、物価が上がる現象をインフレといいます。おカネを新たにどんどん発行して、人々に2%程度の穏当なインフレの期待を抱かせることで、デフレから脱却する。これが、インフレ・ターゲットのアイデアの核にあたる部分です。

とても分かりやすいですね。小学生でちょっと頭の回る子なら、すんなりと理解してしまいそうなくらいに分かりやすい。天才的な人物のアイデアは、どこかしら「コロンブスの卵」のようなところがあります。だからこそ、圧倒的な説得力を持つことになるのだと、私は考えます。アインシュタインが、「真理はいつもシンプルで美しい」という名言を残しています。インフレ・ターゲットの基本思想に接すると、私はその言葉を思い出します。

日本でおカネを発行できる権限を与えられている公的機関は、日銀を措いて他にありません。(財務省が発行できるのは硬貨だけです)だからクルーグマンは、日銀に対してインフレ・ターゲットを実施するよう求めることになります。

ところが、日銀は頑なにその要求を拒み続けてきました。日銀は事実上のデフレ・ターゲット路線を、改正日銀法によって保証されたかりそめの「日銀の独立性」にあぐらかいたまま、呑気に突き進んでいるので、クルーグマンの要求に応えようがないし、もともとその気がないのです。日銀は、20年間におよぶデフレのさ中でにおいても、インフレになることをずっと心配しつけてきた強者(つわもの)です。まるで、旱魃のさ中に農民たちが不作で苦しんでいるときに、大洪水を心配しつづけてなにもしない庄屋さまのようなものです。彼らにとってインフレは、たとえそれが穏当なものであっても、いつハイパー・インフレに悪化するか知れたものではない、問答無用の絶対悪なのです。

だから、クルーグマンが、思考が硬直化してしまった日銀を厳しく批判するようになるのは自然の勢いです。「外人が余計なお世話だ」などと野暮なことは言わないでくださいね。経済のダイナミズムは国境をらくらくと超えてしまっています。だから、GDP第3位の経済大国日本の経済的な不調はそっくりそのままアメリカに響くのです。世界の国々に影響を与えるのです。もっと積極的な言い方をすれば、日本には、恐慌の直前のところで危うく踏みとどまっている世界経済を、うまくすればより良い方向へ牽引しうる潜在力があるとクルーグマンは認めているのです。クルーグマンは、世界経済の見地から日本経済に言及してるのですね。さすがは覇権国の経済学者だけのことはあります。

だからこそクルーグマンは、日銀の無責任さに対してとても厳しい。本書が出版されたのは2009年6月17日。リーマン・ショックが起こったのが2008年9月15日なので、それから約9ヶ月後のことです。本書での彼の発言が、政府・日銀の舵取りの巧拙が日本経済の行く末に重大な影響を与える局面が続いている状況下でのものであることに注意してください。クルーグマンは、今日のグローバル化した経済を踏まえての中央銀行の役割についてこう述べています。

中央銀行業の基本に従えば、その目標は完全雇用だけではなく、緩やかなインフレ率を達成することにあります。プラスのインフレ率を確保する理由はまさに、起こりうるデフレ・ショックに対する緩衝材に当たるものを確保することにあります。

日本経済が前もってデフレ状態に追い込まれた状態のまま、外部世界からデフレ・ショックが襲ってきた場合、さらなるデフレ化がダイレクトに激しく進んでしまうことになる。日銀はそういう最悪の事態にならないように、常々日本経済を穏当な2%程度のインフレ状態にキープしておくよう細心の注意を払っておくべきである、と言っているわけです。ここは、クルーグマンの見識の高さを感じるところです。今日の中央銀行に求められるものの核心を突いていると、私は思います。

では、日銀はそういう役割をきちんと果たして来たと言えるのか。クルーグマンはそれについてこう述べます。

日本国内での代表的な日銀批判として、たとえば2006年3月の量的緩和解除、2006年7月と2007年2月には誘導金利引き上げといった日銀の金融引き締めが、デフレを十分に克服しないまま行われ、そうしたツケがいままで続いている、というものがあるようですが、それについてはある程度はそうだと思います。(中略)日銀は実際にプラスのインフレ率になっていないのに、金融引き締めを始めたのです。他国の中央銀行では、インフレが2%になるまで、引き締めを留保するのが常識でした。(中略)すごい金融引き締めをしたわけではありませんでしたが、しかしその軽めの引き締めが時期尚早だったのは確かです。そして、本当に不思議なのは、日本は過去にやった間違いを繰り返しているということです。たとえば、2000年を見ると、ゼロ金利政策解除に動いていますが、これは時期尚早でした。当時は逆のことをしなければなりませんでした。(当時はコアコア消費者物価指数が下降局面にあった。つまり、デフレが進行中だった。ー引用者注)もっとさかのぼって、日本の財政状態を見てみると、(阪神淡路大震災の翌年のー引用者補)1996年に大きな政策の間違いがありました。日本経済が堅実な回復の状態に到底戻っていない状態で、なぜ日本の政策決定者らが拡大することをしようとしなかったのか、疑問に思わざるをえません。

日銀は、今日の世界の中央銀行が果たすべき役割をまったく果たしていないという結論に至りそうです。次のグラフを見てください。


田村秀男氏ブログ「経済がわかれば、世界がわかる」より拝借

2008年9月15日のリーマン・ショックによるデフレ化の影響を最小限に食い止めるために、世界各国の中央銀行が懸命におカネを刷っているのがお分かりになるでしょう。それに対して、日銀はほとんんど何ごともおこらなかったかのような音無しの構えに終始しているのがはっきりと分かります。世界の先進国のなかで、デフレ基調をキープするという珍妙かつ深刻な問題含みの金融政策をあらかじめ実行しておいた上で、日本経済をプロテクターなしでリーマン・ショックというデフレ圧力に晒し、そうしてその後ほとんどなにもしないのですから、日本が本格的なデフレ状態に転落していくのは火を見るよりあきらかです。円高が野放図に進んで、輸出産業がキリキリ舞をしているのは、端的に言えば、日銀の無策のせいなのです。(経団連よ、怒りの声をなぜ挙げないのか。それとも、日本から出ていきゃいいだけよとタカをくくっているのか)

最近では、例の2月14日の、世論の圧力に押されての、白川総裁によるしぶしぶの「1%インフレ・ターゲットもどき」発言が、日銀当局の予想を超えた反響を呼び、それまでずっと続いていた円高・株安が翌日から一転、円安・株高局面になったことにびっくり仰天。慌てて火消しに精を出したという日銀の醜態ぶりが思い出されます。彼らは、日本経済の好転を決して喜んではいないのです。こんな中央銀行が世界にあるのでしょうか。

日銀は、つい先日のフランスとギリシャの選挙結果に実のところほっと胸をなでおろしているのではないかと推察します。「円高・株安は自分たちのせいじゃないもーん」という言い逃れがしばらくは出来そう、というわけです。情けない人たちです。彼らが、来るべきEUの不安定化・崩壊とユーロ安に備えて、金融政策責任者として国民生活を守るためにどうすべきかをめぐって真剣に検討しているようには感じられないことが本当に残念です。自己保身をめぐってしか頭が回らないパワー・エリートって、なんだか最低ですね。

様々な人物についてのコメントが興味深かったので、それをいくつか紹介しておきましょう。

〔現FRB議長バーナンキ〕あまり知られた事実ではありませんが、私が教えるプリンストン大学のなかに学者のグループがあって、10年くらい前、この日本の(「失われた10年」というー引用者補)例について非常に懸念し、どうやって避けることができるのか真剣に考えていたのです。一人はラルス・スヴェンソン教授で、すでにスウェーデンに戻りました。もう一人はマイク・ウッドフォードで、そしてもう一人が現在のFRB議長のバーナンキです。私ももちろんその一人です。そして、我々が「失われた10年」から学んだこと、それが先のFRBの(金融上の刺激対策を行なっていたなら、「失われた10年」は避けることができたかもしれないというー引用者補)結論の下地となるものでした。(略)彼がプリンストン大学にいるとき知ったのですが、彼は人との協調性があり、チームプレイヤーとしても長けています。他人の意見によく耳を傾け、間違いを認めることを厭いません。そういう人こそ、FRBにぴったりの人です。

バーナンキをFRB議長に迎えなかったならば、アメリカはデフレの泥沼に深く沈んでいたことでしょうし、世界はすでに大恐慌の嵐に巻き込まれていたにちがいないと私は思っています。もしも白川方明氏のようなデフレ原理主義者がFRB議長の椅子に座っていたら、アメリカも世界もカタストロフィックな事態を迎えていたことでしょう。こんな想像をするのは、日本人としてあまり愉快なことではありませんけれど。

〔オバマ大統領〕オバマはこの(リーマン・ショックというー引用者補)危機に対して、非常に知性がありました。思慮深く、冷静であり、しかもパニックにならない、そういう人物であることを、人々に強く印象づけました。彼はとてもクールで知性があり、頭脳も明晰な人です。インスピレーションがすごくて、それをみんなが信用するようになったと思います。正しい方向に導いてくれる、とみんなが信用するようになったのです。彼についてどのような批評を読んでも、情熱的な男ではないと言われていますが、そうではありません。彼は「静かなる情熱家」だと思います。ホワイトハウスにいた人のなかで、おそらくケネディ以来のもっとも知性のある人だと、個人的には思います。(ここでは大絶賛ですが、別のところではちゃんと、オバマ政権がウォールストリートの人々に逆らえない弱さを抱えていることを指摘していますー引用者注)

たとえ、クルーグマンがオバマの親派だとしても、お追従を言うようなタイプでは決してないので、この記述を私はおおむね信じます。このくだりに触れて、オバマを見る私の目は少なからず変わりました。

〔アダム・スミスとケインズ〕私は本当に、ケインズをアダム・スミス以来のもっとも偉大な経済学者だと思っています。立派な経済学者はたくさん出てきましたが、そうした経済学者にとっての究極の到達点とは何かと言えば、それはすべての人が、世界を見る考え方を完全に変えてしまうような、経済学の視座を見つけることです。アダム・スミスはそれを成し遂げました。突然すべての人が市場に目を向けたのです。カオスを見るのではなく、「見えざる手」が作用していることがわかったのです。しかも、このことは政策も形成したのです。ケインズはリセッション(景気後退)を理解できるようにしました。突然、不十分な需要(需要不足)の現実が、すべての人にとって明らかになったのです。ケインズを嫌う人にもそうだったのです。

〔フリードマン〕ミルトン・フリードマンを彼ら(アダム・スミスやケインズのことー引用者注)と同じ部類に入れる人もいますが、私はそう思いません。フリードマンはもちろん偉大な経済学者ですが、ケインズが革命家であった一方で、フルードマンはむしろ反革命家でした。すなわち、フリードマンは、ケインズのあとに人々が捨ててしまった考え方のいくつかを復活させた人物だったのです

最後に、クルーグマンの日本経済への警句をひとつ掲げます。

日本は「失われた10年」ではなかったのであり、いままさに「失われた25年」へと突き進んでいる
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五〇代・岩崎宏美の魅力 (イザ!ブログ 2012・5・13 掲載分)

2013年11月14日 17時01分45秒 | 音楽
手元に、長年のファンであった岩崎宏美のコンサートにはじめて行ったときのことを記録した文章があります。3年前のことです。それをブログに掲げておきます。こんな形でなければ陽の目を見ない文章だろうと思うので、心の広いみなさまに甘えます。



岩崎宏美LIVE報告

平成21年2月22日(日) 六本木スイートべジルSTB139 午後8時~9時半

ピアノ 青柳 誠
アコースティック・ギター 古川 昌義

ピアノの青柳誠、アコースティックギターの古川昌義と三人で、福岡、大阪、名古屋と回ってきたライヴハウス・コンサートの、東京での今日は最終日。「今晩のお客さんは、なんだか真剣に私の歌を聴こうという方がとても多いような気がします。もっとテキトーでかまわないんですよ。」と本人がいささか戸惑いを見せるくらいに真摯な、と言いたくなる空気が張りつめていた。私の場合、彼女のコンサートに足を運ぶのは、これがはじめてである。思っていたよりも小柄なのにびっくり。そのかわいらしい身体像に、年甲斐もなく胸がときめく。

オープ二ングは、ワルツ調の『好きにならずにいられない』だった。彼女が歌いはじめてすぐに、ジーンときてしまった。あの甘酸っぱいような歌いっぷりに、忘れていた「胸キュン」(死語か?)状態が襲ってくる。これが、いくつになっても変わらぬファン心理というやつなのだろう。当ツアーでこの曲を歌うのは始めてらしい。当会場に駆けつけて来た山川恵津子氏へのお礼として、とは本人の弁。山川氏は、この曲の作曲者なのである。

二曲目は、おなじみの『思秋期』。青柳誠のピアノに乗せてしんみりと歌う。この曲で、歌手として生きていくことを決めた、とは本人の弁。宏美さんのお父さんの、初めてのご納得の一曲。レコーデングのとき、宏美さんが泣いて泣いてどうしようも無かった曲でもある。その痕跡は、録音された原盤に残っている。ファンにはそれが分かる。(作曲者の三木たかしは、今から3年前の2009年5月11日に失くなっている。知っている人がどんどん死んでいく。ー注)

三曲目は、・・・これが忘れてしまったんですね。メモ帳に、「明日」となぐり書きしてあるのですが、なんの曲だか皆目見当がつかないんです(と、自虐的な丁寧語になってしまう)。確か、古川昌義のアコースティック・ギターをフィーチャーしていたはずである。うーん、思い出せない。

四曲目は、『春おぼろ』。昔から思っていたのだが、彼女が曲中で男のセリフを歌ったところは、妙に心に残る。なんだかゾクゾクっとするのだ。若い頃筒美京平に褒められた、その中低音がよく響いているのかもしれない。例えば、『ドリーム』のなかの「このぼくに君のすべてを預けて」 というくだりなどがそうだ。この曲の場合、恋人が自分の家に結婚の許しを得に来て、父から冷たく、「まだ早い 若すぎる」と言われるところが一番クル。駅への帰り道、押し黙っている恋人に心のなかで、「怒っているでしょー ぶっても いいのよー」というところが生々しくもありはかなくもあり、という微妙な表現になっている。この二人はどうやら結ばれることはない、と思わせる作りになっている。青春期のどうしようもないもどかしさ、不器用さがよく表現されているというべきか。なつかしいというより不思議と苦さがのこる一曲だ。

五曲目は、カバーアルバム「Dear Freiends Ⅳ」から、ハイファイ・セットの『フィーリング』(1976年)。ゲストにあの大ヒット曲『学生街の喫茶店』で有名なガロのボーカルだった大野真澄を呼んでデュエットした(アルバム中の原曲でも同じく)。会場は大いに盛り上がったのだが、大野が相当に緊張していたようだった。岩崎宏美と一緒に歌うってのは、やはり大変なことなのだろう。『学生街の喫茶店』のベースは、実はあのYMOの細野晴臣が担当したというエピソードにちょっとびっくり。

六曲目も、同アルバムからで、さだまさし作曲の『人生の贈り物~他に望むものはない~』。作詞は、楊姫銀という人だが、詳細は不明。「もしももう一度だけ若さを くれると言われても おそらく 私はそっと断るだろう 若き日のときめきや迷いをもう一度 繰り返すなんてそれはもう望むものではない それが人生の秘密 それが人生の贈り物」なんて、そうだなとは思うものの、五十歳の岩崎宏美がそう歌うとやや淋しくもある。もう十年経ってから歌ってほしかったかな、と。真に迫る、すごい歌いっぷりではあるのだけど。一度はこの世の栄華の頂点を極めた人は、精神的に年をとるのが早いのかもしれない、とも想う。

七曲目と八曲目は、楽器が弾けない、音符が読めないという岩崎宏美が、なんと楽器を弾き語りしながら、坂本九の『上を向いて歩こう』とキャロル・キングの『You’ve got a friend.』を歌った。その楽器というのは、『涙そうそう』を作曲したBEGINが開発した一五一会(いちごいちえ)という、ちょっとギターに似た四弦の、いわゆる誰でも弾ける楽器だそうだ。次は何番を押せばよいかという指示書があるので、それに従って弾けばよいとのこと。それはそれとして、最近観たテレビ番組でそれを弾きながら岩崎宏美がトチッてしまった場面を目撃してしまったので、ファンとして気が気でなかった、というのが正直なところだ。だから、歌の印象はほとんど残っていない。青柳誠と古川昌義という凄腕のサポーターがついているので、サウンド面でビクともしないのは分かるのではあるが。あまりハラハラさせないでくださいって。

九曲目は、岡本真夜作詞作曲の『手紙』。「永遠なんて ないけど 明日も あさってもずっと ふたり一緒にいれたなら こんな幸せないと思うの」なんて、実存的で、とてもいい歌詞だと思うし、そのときもそう思った。微妙なほろ苦さが織り込まれているようにも感じた。かつての失敗に終わった結婚生活の幻影のなせるわざか。

十曲目は、池間史規作詞作曲の『シアワセノカケラ』。彼女によれば、この曲を歌うことで、愛息たちとの別離の悲しみに耐えることができたとのこと。彼女のレパートリーの中で、癒し系の筆頭であるといってよいだろう。私にとっては、彼女の歌い手としての存在そのものが、その身体像をふくめて、掛け値なしに癒しそのものなのではあるが。正直に言おう、私は口をあんぐり開けたまま、頬にさらさらと涙が伝ってしまった(知人に予告したとおりにちゃんとなってしまいました)。

十一曲目が、名曲『聖母(マドンナ)たちのララバイ』。これを歌ってヒットさせたのは、一九八二年、彼女が二十三歳のとき。それから二十八年間、コンサートのときには欠かさず歌ったはずである。お客さんからいちばん拍手をもらった曲であるにちがいない。この曲を聴かないと岩崎宏美のコンサートに来た気がしない、という位置づけの曲なのではないだろうか。私自身、正直なところ、まだかまだかと心待ちにしていたのだった。

なんというか、シンプルでとても力強いマドララであった。みんながんばって、と心から言われたような気がした。そうして、圧倒的であった。こういう一撃必殺の一曲といえば、昔なら美空ひばりの『悲しい酒』。いまでは、森進一の『おふくろさん』くらいのものではないだろうか。ほかにあるのかなぁ。

アンコール曲は、新曲『始まりの歌 あなたへ』だった。あらためて、良い曲であると思った。岩崎宏美が、「この曲を歌うと、死んだ人たちが見守ってくれているような気がする」といっていたのがおもしろかった。というのは、それは、日本人の伝統的な生死観の自然体の表白であったからだ。この曲の根底にあるものを彼女は的確につかみとっているし、また、それを私たちに教えてもくれたのだった。となりのおじいさんが、「ああ、良い曲だ」と思わずもらしていた。

最初に申し上げたとおり、今回はじめて岩崎宏美のコンサートを観た。予期していたとおり、(繰り返しになるが)圧倒的なものだった。あのちあきなおみが歌っていない現状においては、おそらく最高峰(の少なくともひとつ)のライヴなのではなかろうか、と思う。こういうことにはおのずと好き嫌いの問題がからんでしまうので、強いことがいえないのではあるが。
実は、コンサートが終わった後、ある機関紙に載せてもらった文章を場内の係りの人に託した。″この雑誌の中に宏美さんのことを書いた自分の文章が載っているのでぜひお渡しいただきたい″、と頼んだところ、その人は「必ずお渡しします」と言ってくれた。私の文章は、彼女の目に触れることになったのだろうか。

参考までに、上記中の「ある雑誌に載せてもらった文章」を次に掲げておきます。もしも運悪く、宏美さんご本人の目に私の文章が触れていなかったのであれば、その機会を少しでも作りたい、というファンの煩悩ゆえの振る舞いと、お許し願います。

******


神様のご褒美 ――岩崎宏美の歌声

お昼にNHKを見ていたら、ひょっこりと岩崎宏美が登場していた。後日インターネットで調べてみたら、それは(2008年ー注)十一月十八日のことで、番組はNHK「スタジオパークからこんにちは」であることが判明した。

「それがどうした」とお叱りを受けそうなのだが、実は私、彼女の長年のファンなのだ。「だから、どうした」とまたもやお叱りを受けそうなのだが、その番組を見て、私はけっこう感動してしまったのだった。

私が熱心に彼女の(CDではなく)LPを買っていたのは、高校生のころから大学生のころまでだった、と記憶している。山口百恵、森昌子、桜田淳子そして岩崎宏美。彼女たちはみんな私と同い年の歌手だが、私がLPを買ったのは岩崎宏美だけである。そのころ買ったLPのほとんどがロックだったなかで、岩崎宏美だけは例外だった。なぜだったのだろう。彼女のおかっぱヘアとその透明感のあるのびやかな歌声に心惹かれるものがあったとしかいいようがない。それと、歌唱力の本格度が若手では群を抜いていたように感じたのも一因だったような気もする。

彼女が『二重唱(デュエット)』でデビューしたのは一九七五年。十六歳のときだ。その次の『ロマンス』で人気歌手としてブレイク。ファンでなくとも「あなたおー願ァいよー 席を立ったなァいでェー」のフレーズは知っているのではないか。その後はいわゆる飛ぶ鳥も落とす勢いだった。同年の『センチメンタル』、七六年の『ファンタジー』『未来』『ドリーム』、七七年の『悲恋白書』『熱帯魚』『思秋期』、七八年の『シンデレラ・ハネムーン』、七九年の『万華鏡』、八十年の『スローな愛がいいわ』、八一年の『すみれ色の涙』とほぼ切れ目なくヒットを飛ばし続けた(ファンの方、もれがあったらスミマセン)。そして、一九八二年の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』がミリオンセラーを記録。これまたファンでなくとも「今はァ心のォ痛みをーぬぐゥってェ 小さな子供の、昔に、帰って、熱い胸にィ甘えてェー」のフレーズは知っているのではないか。このあたりが彼女の人気歌手としての頂点だったと思う。そして、そこで彼女にまつわる私の記憶はぷっつりと途絶えている。

いや、一つだけあった。お昼のワイドショウみたいな番組で、彼女が三井財閥の大番頭益田孝の玄孫(やしゃまご)と結婚し、今度ドイツに住むことになっている、と報じられるのをぼんやりと聞いていたのを思い出した。ファンとしての感慨めいたものはなにもなかった。単なる他人事だった。(分かりましたョ、ヤキモチがあったことも認めますって)そう、私は長いこと彼女に対して実に冷淡なファンであり続けてきたのだ。そして、それは結婚し家庭人として生きることを決意し「歌を忘れたカナリア」であることを甘受しようとした彼女の潔さとどこかでつながっていたのではないか、といまでは感じている。

NHKで四半世紀ぶりに目の当たりにした彼女は、若いころとは一味違うが相変わらずの美しさだった。五十歳にしてなお私を惹きつけてやまない魔力めいたものを保持していたのである。(その客観性は保証の限りではない)番組の五十分間、私の目は彼女を映す地デジの画面に吸い寄せられ続けた。そのさっぱりとした江戸前の語り口も魅力的だった。彼女は、情と知の兼ね合いが絶妙な人であることを再認識した。本質的に頭が良いのだ。しかし、そこには狡さのかけらも感じられない。その頭の回転の速さが、周りの人たちへの気遣いをさりげないものにするためにだけ使われているように感じられた。良い歌い手であるための心がけがちゃんとできているのである。

番組の歌のコーナーでは、今年リリースされた『始まりの歌、あなたへ』が歌われた。結婚、出産、離婚、そして、愛するわが子達との生木を引き裂くような別離、と人生の曲折を経た彼女ならではのスケールの大きな曲で、あたたかさとこまやかさとを兼ね備えた素晴らしい歌だった。作詞作曲は大江千里である。「あなたへ 心から ありがとう あなたへ」というエンディング・フレーズのところでは、おのずとこちらの涙腺がゆるんでしまった。もともと天才的だった彼女の歌声は、今では人の心に深く届くようになっていたのである。肩の力を抜いて軽やかな歌い方をしているのだが、不思議なくらいに圧倒的なのである。司会の竹内アナウンサーが、今日は泣きっ放しで顔がぼろぼろになってしまったと語っていたが、それはちっとも大げさではなかった。

彼女は、一九九五年に協議離婚が成立した後、二〇〇〇年になってから歌手としての活動を本格的に再開した。ところが、なぜだか思うように声が出ない。相当に無理をしないと昔のような声が出ないのだった。肉体的な不調より、精神的な落ち込みの方がつらかったという。ほがらかでうじうじしたところのない人柄なので、暗くなってしまった自分を受け容れることに戸惑いを感じたのだろう。おそらくその時期に、歌うことが自分のアイデンティティにどれほど深く関わっているのか心底思い知ったのではないだろうか。

結局ポリープが二個できていることが判明。摘出手術を施した後、一ヶ月ほど声を出さないように医者から指示を受けたそうだ。そして、仮退院の許可が出て、タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げたとき、自分の声にびっくりしたという。というのは、彼女の耳に、小学校時代の少女の声が響いたからだ。涙が止まらなかったらしい。

そういう話を友人にしたところ、彼が言うには、「それはね、何十年も一生懸命歌っている彼女に神様がご褒美をくれたのさ」。

なかなか良いことを言ったものである。そのとおりなのだろう。いまの彼女は、歌が歌えることに感謝しながら歌っている。歌うために生まれてきた宿命を心静かに受け容れている。そのひたむきさが聴く者の胸を打つのだ。それに加えて、もっといい歌を歌いたいという向上心が感じられる。その長いキャリアに甘えることなくいまにおいてもなおベストの歌を歌おうとしている。手馴れ感がない。こんな歌手は、私の記憶によれば、ほかには今はなき美空ひばりだけである。いまの彼女はその域に達している。そう言われたとしても、ほめられたときいつもそうであるように、少しはにかみながら「ははは」と朗らかに笑うだけだろうが。(後に彼女が『Dear Friends Ⅴ』で歌った、美空ひばりの『愛燦々』のカバーは絶品であるー注)

今、彼女は喉をとても大事にしているという。寝覚めの電話には出ないようにしているし、午前中はなるべく話さないようにも心がけている、とのこと。天から与えられた宝物を決して傷つけないように、とつけ加えたい。

これが応援せずにおらりょうか、彼女のコンサートにぜひ行ってみたい、とは思っている。長いこと知らん顔をしていて悪かったとも感じている。あまりにも身近すぎて不覚にもすっかりその存在を忘れていたのだ。しかし、いい歳をして、暗いコンサートホールの片隅でおろおろ泣きながら彼女の母性的な歌声に聞き惚れるなんてのは、はずかしいのを通り越してちょっとつらくさえ感じる、とも思うのである。そういう自分がありありとまぶたに浮かぶのだ。さて、どうしたものか。久しぶりに彼女の(LPではなく)CDを買って聴きながら考えてみることにしよう。

*みなさんに一枚だけ推薦するとすれば、『PRAHA』(2007年発売)です。それもDVD付きのお買い得版の方です。セルフ・カバー・アルバム。東欧の国チェコの首都プラハで、マリオ・クレメンス氏が指揮するチェコフィルハーモニー管弦楽団の極上の演奏をバックに、彼女の代表作が目白押し、という趣向のものです。若い人でも、日本にこんな歌手がいたのかと再認識すること請け合いです。年を重ねて力強さの増した中低音と、若い頃のように地声では出なくなった高音部を伸びやかなファルセットでカバーする超絶技巧とによって、歌謡曲でもない、かといってクラシックでもない、「岩崎宏美風」としか名付けようのない独特の世界が展開されています。下の写真は、『PRAHA』ではありません。単にこれが、若い頃の私のハートを鷲掴みにした彼女の身体像を凝縮しているような気がしたので掲げてみただけです。

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「ガッパ」譚 対馬の記憶 (イザ!ブログ 2012・5・12 掲載分)

2013年11月14日 05時50分51秒 | 文学


今回は、私の生まれ故郷の対馬(つしま)についての話をしようと思う。

もしも対馬がどこにあるのか知らないならば、地図上の九州本土の博多あたりと朝鮮半島の釜山あたりとに交互に視線をくれてやればいい。その中間地点くらいのところにふた粒のへそのゴマのような島が玄界灘に浮かんでいるのがいやでも視野に入るだろう。それが対馬である。

対馬では、河童のことをなぜか「ガッパ」という。同じく対馬生まれの母の実家に、その「ガッパ」にまつわるけっこう生々しいエピソードがあるので紹介したい。

いまから六十年ほど前のことである。母には三人の兄がいた。そのなかの次兄のイタルが、あるとき四十二度の高熱を発した。イタルが十代なかばのころのことだ。父親のマサルじいさまが病院に連れて行って、お医者さまにいろいろと細かく診てもらったのだが、どうにも原因が分からないという。

とりあえず、解熱剤をもらって決められたとおりしばらくの間服用し続けてみたのだけれど、熱がちっとも下がらなかった。マサルじいさまは、仕方なくもう一度病院にイタルを連れて行ったのだが、やはり原因がわからなかった。そうして、別の種類の解熱剤を渡すときに、立派な髯の板垣退助によく似たお医者さまは眉を八の字に寄せながらマサルじいさまにこう告げた。「このまま熱が下がらんようじゃったら、脳に障害が残ることを覚悟してくだされぃ。」

残念なことに、別の種類の解熱剤も効き目がなかった。イタルは一週間続いた高熱でゆで蛸のようになってしまっている。マサルじいさまは、このままイタルがうんうん唸りながら低能児みたいなものになってしまうのを座視しているよりほかにないのかと思って、目の前が真っ暗になる思いを味わったという。イタルは、近所で評判の秀才であったのだ。いわゆる神童である。他の二人の兄たちも、長女だった母も、下の年端のいかないマチヨ、ユタカも心配そうに替わり番こに襖を開けてイタルが寝ている薄暗い寝室をのぞきこむのだった。にわかにアビル家に暗雲が立ち込めはじめたのである。

そのころ母親のおデンちゃん(私の母方の祖母に当たるのだが、みんなが彼女をそう呼んでいたので、それを踏襲する)は、たまたま金毘羅サマをご本尊とする新興宗教団体に入信していた。かねてから信仰心の篤かった人で、折に触れては八百万の神に両の手を合わせるのが習い性になっていた。普段は冷静に物事を処するマサルじいさまのきりきり舞いの様子を見るに見かね、そうしてもちろんお腹を痛めたわが子の窮状をなんとかして救いたいと思って、おデンちゃんは教団に駆け込んだ。そうして、そこの女の拝み屋さんに情況を説明して、神サマにお伺いを立ててもらった。

拝み屋さんが数珠の玉をしわくちゃの、老人特有のシミのある右手の親指の腹でひとつずつたぐりよせながら口のなかでぶつぶつわけの分からぬ呪文を唱えるうちに、その脇に控えていた依り代の、薄化粧をした別嬪さんで一重瞼の十代後半くらいの娘の形相がやおら変わり、目が狐のようにつりあがってきた。そうして、小刻みに体を震わしながら、おデンちゃんを高音のひしゃげたような変な声で唐突にののしった。

「おい、こら。こんちくしょうめ。お前んとこの悪ガキめが、オレの頭の皿に石をぶっつけやがった。オレが気持ちよく泳いどったら、あんちきしょうめ、橋の上から面白がって石を投げたんだ。おらぁ、痛くて悔しくて、悪ガキをうんとこらしめてやってるんだい。へん。お前の親父さんも、オレに失礼なことをしたんだぞ。州藻(すも)の坂んとこで、オレがアイサツしたのを無視して自転車で通りすぎようとしたんで、相撲をとって自転車ごとひっくりかえしてやったんだ。へんだ。」

金毘羅サマのご託宣によれば、ガッパへのイタルの心ない悪戯とマサルじいさまの悪気のない失礼がどうやらイタルの高熱の原因であるという。父親の過失の分だけ、息子はうんと苦しんでいるらしい。

家にすっとんで帰ったおデンちゃんは、まずは、うんうん唸っているイタルに尋ねた。「イタル、お前は、一週間前にガッパの皿に石をぶつけたのかい。」記憶の糸をそろりそろりとたぐり寄せるうちに、思い当たるところがあったらしく、イタルはうるんだ目を少しだけ開けてとぎれとぎれに、そういえば川で泥鰌すくいをした帰り道、川上から、周りを枯れた雑草のようなもので囲まれた丸くて平べったい灰色の変なものが流れてきたのを目にしたので、橋の上からそれに何の気なしに石を投げたらたまたま当った、といった。

今度は、庭で薪割りに精を出しているマサルじいさまのところへ駆けて行き、尋ねた。「お前さまは、一週間くらい前に、隣村の州藻のあたりで自転車ごと転びなさりましたでしょうか。」じいさまは、額の汗をぬぐいながら、州藻から帰ってくるとき下り坂のところで自転車ごと宙返りをするようにして確かに転んだといった。

それを聞くやいなや、おデンちゃんは、教団に折り返しすっとんで行き、拝み屋さんにどうすればイタルの熱が下がるのかお伺いを立てた。彼女から、「離れの便所の近くの柿の木の下に、夜明け前まだ村のみんなが寝静まっているときに、白い皿に稲荷寿司を三個載せたのをお供えしておけ。それを三日間続ければ息子の熱は下がる。ただし、それは誰にも見られてはならぬぞ。」と言われたので、おデンちゃんがその通りのことをしてみたところ、三日目の明け方にイタルはウソのように熱を下げたのだった。正気を取り戻したイタルの第一声は、「母ちゃん、腹減った。」であったという。

母の実家は、対馬のほぼ中央部に位置する雉(け)知(ち)にあったのだが、その周りの州藻や上里などという集落の特定の坂とか池とかに住み着いているガッパには、三太とか笠太郎とか三郎とかいった名前がつけられていて、彼らはちょくちょく人間様に悪戯をしかけたという。上里のだれそれになにか障りが生じたら、村人たちは、あれは三太の仕業やげな、とうわさしあったのである。ちなみに、対馬方言の「げな」は、伝聞の「そうだ」とほとんど同じ意味である。対馬には、「げなげな話は、嘘やげな」ということわざがある。なかなかのユーモアのセンスではなかろうか。

河童の悪戯については、柳田国男の『遠野物語』のなかのいくつかのエピソードが人口に膾炙しているのではあるが、どうやら対馬にも「ガッパ」話は豊富にあるようだ。もちろん全国いたるところにあるのだろう。昔の日本人は、とても素敵な精神空間に生きていたのだとつくづく思う。時間の流れが、いまとはくらべものにならないほどにゆるやかでやわらかいものであったようだ。幼少のころにかすかに触れたそういう時の流れを、私は、数年前に行ったタイのメコン川沿いのゲストハウスで数日間過ごしたときに、本当に久しぶりに思い出した。

母の実家の裏庭の柿の木のことで、ひとつ思い出した話があるので、付け加えておこう。それは、「ガッパ」騒動よりずっと昔のことである。

おデンちゃんには妹が二人いた。そのうち、末の妹の名をミツエという。彼女は、小学校を卒業してから働き詰めで、そうこうするうちに病を得た。それからは、おデンちゃんの嫁ぎ先、つまり母の実家の庭先に作られた粗末な小屋で養生を続けていた。おデンちゃんは、姑の厳しい監視の目を盗んでは、細やかに妹の面倒を見た。自分の食事を削ってでも、妹に食事を与えて、その養生に努めたという。しかし、そのかいもなく、ミツエは十八歳のときに亡くなった。幸薄い生涯であった。おデンちゃんは、妹の早すぎた死をとても切ながった。

ミツエの死から一週間くらい経ったころだった。マサルじいさまが、おデンちゃんにそっと告げた。実は、お前の妹が亡くなったときからずっと、真夜中、裏庭の柿の木の下に、生きていたときの姿のままの悲しそうな風情でうつむきかげんに立っているのだ、毎晩のことだから錯覚でもなんでもない、と。さらに、このことは子供たちに絶対に教えるな、またお前も決して彼女の姿を見てはならぬ、さもないと子供たちやお前によくないことが起こる、なぜかそのことが自分には分かる、という意味のことを言ったのである。マサルじいさまは世間で評判になるくらいに実直な性格の男であったから、大切に思っている妻や子供たちにまつわることで世迷言を垂れ流したとは到底考えられない。責任ある家長としての独特の勘が働いたのだろうと私は考える。それを聞いたおデンちゃんは、暇さえあれば仏壇に座り込み合掌して妹の成仏を祈ったという。

その後の顛末は、残念ながら聞き及んでいない。

ミツエは、この世によっぽど強い思いを残して亡くなったのだろう。私はこの話をいまにいたるまでそのままに受けとめ、ひそやかに信じているのである。それが、いささかなりとも回向になればと思う。
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ガルブレイス『日本経済への最後の警告』(徳間書店)について (イザ!ブログ 2012・5・10掲載分)

2013年11月14日 05時21分42秒 | 経済
ガルブレイス。懐かしい名です。この名を懐かしがるのは、1970年代後半に20才前後だった世代特有の現象なのかもしれません。

当時、テレビのCMで盛んにガルブレイスの『不確実性の時代』が宣伝されていました。私はそのころからへそ曲がりだったから買いませんでした(村上春樹の『1Q84』はブック・オフで100円で売り出されるまで絶対に読まないと心に誓っています)が、BBC制作の、ご本人が進行役を務める同名のテレビ番組は、ぼんやりとですが観た記憶があります。内容についてはほとんど覚えていませんが、確かイギリスの、インドにおける植民地経営の光と影について述べられていたような気がします。ずいぶん視野の広い人だという漠然とした印象を持ちました。『不確実性の時代』は、外国の経済学者が書いた本にしては異例と言っていいほどに売れたのではないでしょうか。

『日本経済への最後の警告』という、日本人にとってはとても気になるタイトルのこの本が発刊されたのは2002年7月31日。「聖域なき構造改革」の鳴り物入りで小泉内閣が発足したのが2001年の4月なので、それから約1年余りが経ったころに発刊されたことになります。翻訳を通してですが、彼は大した文筆家であることを再認識しました。こちらを退屈させずに最後まで一気に読ませるワザの持ち主なのです、ガルブレイスは。

小泉内閣の構造改革路線について、いろいろと言及されています。いくつか拾ってみましょう。まず、ガルブレイスは、次のように読み手に問いかけ、また、あらかじめ結論付けます。

いったいあの気高い『武士道』の民、『菊と刀』を愛する日本人は、どうしてこんなにも自信と覇気を喪失してしまったのでしょうか。考えられる理由は一つです。「個人」としては言うまでもなく世界一優秀な国民なのですが、いかんせん「政府」の指導者たちがあまりにもミクロ的な視野でしかものを見ておらず、マクロ的な長期にわたる将来展望や、「百万人といえども吾行かん!」という確固たる信念や理想を欠いているからです。

突然『武士道』が出てきていますが、これは新渡戸稲造の、英語で書かれた有名な本を指しています。これを読んでフランクリン・ルーズベルトが非常に心を動かされたと、ガルブレイスは書いています。『菊と刀』はもちろん、アメリカ人のルース・ベネジクトによる、これまた有名な日本人論です。「世界一優秀な国民」なんてちょっとこそばゆい感じもしますけれど、多少のリップ・サーヴィスを交えながらもガルブレイスは真剣そのものです。

彼は焼け野原の日本に、故ルーズベルトに心酔するニュー・ディーラーの一員としてやって来て、GHQの下で働きました。そうして、その後の日本の復興を温かい目で見守り続けてきた人です。けっこう日本びいきなのですね。彼が日本に対して不遜な意識を持たなかったのは、カナダ生まれという出自に原因の一端があるのかもしれません。

そんなガルブレイスが、日本の1990年からの「失われた十年」を心から憂慮しているのです。何故こんなことになってしまったのか、と。それは、一言でいえば、政府の長らくの経済政策の誤りとその定見のなさが原因であるとガルブレイスは断じています。小泉もその轍をどうやら踏みそうである、というガルブレイスの危惧の念がこちらにひしひしと伝わってきます。

最も重大な問題は、このレーガン政権時代の極端なまでの自由放任経済を真に受けたことによって、日本の為政者たちは、今日にいたるまでの大きな禍根を残すこととなった「バブル経済」と、その必然的な結末としての「大崩壊→大不況」を招き寄せてしまったのだ、という歴史的事実です。

上記の「レーガン政権時代の極端なまでの自由放任経済」を理論的に支えたのが、サプライ・サイドの経済学、いわゆるレーガノミクスです。小泉の「構造改革なくして経済成長なし」という信念を理論的に支えたのも、このサプライ・サイドの経済学です。では、それはどういう経済理論なのか、ガルブレイスの言葉に耳を傾けましょう。

一九八一年一月二〇日に発足したレーガン政権の「レーガノミクス」(Reaganomics)と総称される一連の経済政策は、極端に「富の供給側」、すなわち大資本や大企業など金持ち階級の利益を擁護しようとするものでした。一口に「サプライ・サイダー」と総称されるこのSSE(供給側重視の経済学ー引用者注)支持者たちの中にも様々な学派や主張が混在していました(マネタリズム・合理的期待形成論・公共選択論・自由競争主義などの諸潮流があるー引用者注)が、その主旨を最も簡単に言えば、「ケインズ革命のため、アメリカの『政府』機構は不必要に膨張してしまった。この肥大化した『大きな政府』(ビッグ・ガバメント)を、累進税率の廃止や高福祉政策の見直しなどを通じて『小さな政府』(スモール・ガバメント)に引き戻し、富の生産・供給側が本当にやる気(incentive)を起こすような経済体制に変えていかなければならない」というもので、極端なまでに「個人」や「企業」のインセンティブを重視し、「政府」の果たすべき役割を軽減しようとしたのでした。

さらに続けましょう。

そしてこのような政策は、同じような「大きな政府」のマイナス面(政府支出の増大や国有企業の肥大化、官僚機構の無駄遣いなど)に悩まされ続けてきた日本の指導者層にも積極的に受け入れられ、いわゆる「民営化」論や「社会福祉制度の抜本的見直し」論などという形で、1980年代の世界を大きく揺り動かしたのです。

もちろん、その渦中に日本もいましたし、その延長線上に、橋本行財政改革(1996年1月~98年7月)や小泉構造改革(2001年4月~06年9月)があったことは、今日においてはもはや論を俟たないでしょう。ガルブレイスは、日本の読者にこう問いかけます。

日本の指導者たちは、あまりに頑迷にレーガノミクス時代の負の遺産にすぎない「サプライ・サイド・エコノミクス」(SSE)的な思考様式にとらわれ、こだわりすぎて、「政府は何もしないのが一番良いのだ」というフーヴァー的な「理想論」にすがりつきすぎてはいないでしようか?

これは、そっくりそのまま現在の日本政府・日銀にも当てはまる批判です。だから、日本は「失われた10年」をそのまま引きずって「失われた20年」になだれ込み、デフレ不況下における被災地の復旧・復興を増税でまかなおうとする愚策を展開することで、新たに「失われた30年」に突入しようとしているのです。ちなみに、何故SSE的思考様式が負の遺産に過ぎないのかといえば、ガルブレイスによると、それは、財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」をもたらしただけで、経済を好転することがほとんどできなかったからです。また、「フーヴァー的」という言葉使いのなかのフーヴァーとは、1929年のウォール街における株価大暴落に端を発する世界大恐慌時に無為無策だった当時のアメリカ大統領の名です。彼は、自由放任主義の信奉者だったのです。

この段階に立ち至ってもなお、日本の政策担当者たちは、「消費税の引き上げ」を初めとする広く薄い税収増や、「健康保険の自己負担分の増額」などの社会保障制度への切り込みなど、結局は「社会的弱者」層の″痛み″感が増すようなことばかりに力を入れている。かつてフランクリン・ルーズヴェルトが何よりも先に手をつけたような具体的な政策、すなわち「新しい仕事を創成する」ことや「庶民が住む所を奪われないようにする」ことなど、眼前に広がる急務にほとんど手をつけようとしない。

これは、現野田政権の批判なのではありません。約10年前の小泉政権に対する批判なのです。それからの10年間、政権交代があっても、政策の基調に変化がないことがお分かりいただけると思います。その政策の基調を一言でいえば、需要サイドを重視するケインズ政策の全面的な否定と言えるでしょう。次のグラフをご覧ください。


*三橋貴明「新世紀のビッグブラザーたちへ」より 出典:内閣府「国民経済計算」

これは、1980年から2007年までの公共投資(正確には「公的固定資本形成」)と公共投資対GDP比率の推移をグラフにしたものです。1996年をピークに公共投資の総額も対GDP比も劇的といっていいほどに顕著に減少し続けているのが分かります。この傾向は、それ以降も続いています。「コンクリートから人へ」をスローガンにして政権交代を果たした民主党が公共投資を削減し続けるのは当然ですね。

ケインズ政策は、デフレ・ギャップが生じたときの政府の役割を重視します。ルーズベルト大統領のニューディール政策に典型的に見られるように、大規模な公共事業を実施し、有効需要を創出して政府が積極的にデフレ・ギャップを埋めることを、それは強力に推し進めようとします。

ごのブログで何度も申し上げてきたように、橋本デフレは1997年から始まりました。ここから、日本経済は本格的なデフレ不況の泥沼に呑み込まれていきます。それ以降の公共投資の総額と対GDP比とのはっきりとした減少傾向の継続に、ケインズ政策に対する、政府による全面的な拒否の意思の介在を読み取るのは容易なことです。

ちなみに、1989年まで、棒グラフと折れ線グラフが乖離しているのは、この時期が、公共投資を増やさなくてもGDPがどんどん増えていくバブル経済期に当たるからです。また、1990年から1996年まで公共投資が増え続けているのにもかかわらず、GDPが増えていないことをもって、新自由主義陣営が、鬼の首を取ったような意気込みで「ほら、だからケインズ政策はもはや時代遅れと言っただろ」と言い募る場面をテレビで目にしたことが何度かあります。忘れてはいけません、この時期は、バブル経済が崩壊した直後です。だから、もしもこの財政出動の増加がなかったならば、日本経済は恐慌に突入していった可能性が高いとガルブレイス自身が本書で言っています。ケインズ政策がその時期、事実として、日本経済を破滅から救ったことを、新自由主義者たちは銘記するべきです。

2002年の段階で、ガルブレイスは日本のその後の10年間の成り行きをどうやら見越していたようです。ここで、私たちは彼の卓見を誉め称える前に、ハタと気づくべきでしょう。「失われた20年を失われた30年にしないためには、新自由主義的なサプライ・サイド重視の経済政策からケインズ政策的なデマンド・サイド重視の経済政策への大きな政策転換をしなければならないのではないか」ということに。

この本全体で、生粋のケインジアンであり生粋のニューディーラーでもあるガルブレイスはそう主張しています。

私も、このブログでちがった言い方でそのことをずっと主張してきました。(ガルブレイスは、中央銀行の金融政策の重要性について、本書ではあまり言及していません)

ただし、さすがはガルブレイス、単なる土建国家の復権をブチ上げているのではありません。生活必需品が行き届き豊かになったいまの日本で「金を借りてきてでも、政府はじゃんじゃん公共投資に精を出し、有効需要の拡大に専念すべきである」などという原理・原則論だけを振りかざして「景気回復」を迫ってみても、なかなか国全体にエンジンがかからないのは無理からぬことであると言っています。その上で、

ケインズが強調した「公共投資」も、やみくもに列島改造論の時のように土木工事や巨大建造物だけに注ぎ込もうとするのではなく、「社会保障」や「教育」、「国際平和」など、選択的に的を絞って集中的に投資しなければ、ほとんど効果があがらないし、また国民の同意も得られないと思うのだ。

と公共投資の新しい形を示唆しています。それ以上は、私たち日本人自身が考えることですね。

いまならガルブレイスは、被災地の復旧・復興と列島全体の耐震構造の強化と耐用年数の差し迫ったインフラの更新・補強に全力を挙げるよう強く日本政府に進言するはずです。

しかし、そういうガルブレイスの姿は、もう二度と見ることがかないません。なぜなら、ジョン・ケネス・ガルブレイスは、2006年4月29日にこの世を去ったからです。享年97歳です。
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