美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一の、これ基本でしょ その6(不安は放射能より早く深く伝わる)

2017年04月16日 15時27分18秒 | 由紀草一


「今一番救済されるべきなのは、さんざんひどい目にあってきた福島県の人々である」という当論考の結語が、胸に残りました。ここには、原発の政治的是非論のみに現を抜かす多言居士が傾聴すべき厳粛な響きがあります。原発をめぐる諸言説の茨を丁寧にかき分けた末にこの結語にたどり着くのは、並大抵のことではありません。冒頭に「明けましておめでとうございます」とあるのは、私が当論考を受け取ってから約四ヶ月間が経ったからです。この場を借りて、筆者にお詫びいたします。すみませんでした。(編集長 記)

***

 明けましておめでとうございます。
なんですが、どうも困ったことに、昨年報道された、福島からの避難民の子弟が学校でいじめを受けた話題のおかげで、どうもいやな気分が抜けません。
 いじめにそのものについては、まず、それこそ基本的に、全く根拠がないことは何度でも強調されるべきです。もちろん多くのいじめにこれといった根拠・理由などないですし、たとえあったところで、いじめが正当化されるわけはありません。しかし、この場合は特にそれが言われなくてはならないでしょう。
 今回いじめ被害にあった子どもたちは、「放射能がうつる」と言われたり、「~菌」と呼ばれたりしたそうです。もちろん「放射能」が「うつる」なんてことはありません。放射性物質が衣服や身体に付着することはあっても、そんなものは洗濯したり入浴したりすれば除去できます。本当に危ない内部被曝についても、それを惹き起こした放射性物質も、甲状腺癌や白血病などの疾患も、他に感染するようなものではありません
 と言っただけでは、どうもことがすみそうにない。
 何かの参考にはなるかもしれませんので、私のささやかな放射能関連体験を紹介しておきます。

 私は以前には、放射能汚染のことなど、頭の片隅にもありませんでした。今でも似たようなもんです。自分の迂闊さを弁解するわけではないですが、日本中でそういう人は、決して少なくないでしょう。
 それでも、学校に奉職しているおかげで、これまで全く無縁だったということではありません。
 茨城県の南部にある以前の勤務校に、福島からの避難民が転校して来たのに会いました。この時県教育委員会からの通達で、いじめには充分注意するように、というのがありましたが、特に問題なく、すぐに学校に溶け込んで、楽しくやっていたようです。
 それより以前に、息子が通っている小学校、こっちは千葉県で、なんでも排水溝が詰まっていて、雨水が溜まったところの放射能濃度が、国の基準値よりずっと高い、というのがTVのニュース番組で取り上げられてしまいまして。調べてみると、校庭の土もけっこう高濃度だったそうです。
 善後策の説明のために学校で緊急集会があり、市の教育委員も出席するということでした。行ってみると、取り敢えず排水溝付近は立ち入り禁止、校庭は、表土を削って除染する、と。でも、その削った土はどうするのか? それは行政の仕事だからどうたらこうたらで、教育委員は不得要領な答え。学校にできることは、これから当分の間毎日放射能濃度を量ること、それはもちろん、教職員の仕事です。それだけか、教育委員会は無責任じゃないか、って言った保護者もいましたが、私は、教育委員会の権能は、現場の教職員をいじったり使ったりすることしかないんだから、しょうがないじゃないかな、と思って聞いておりました。
 でもともかく、土削りまで先生方にだけやらせるのはどう考えても無理だろう、ということで、PTAでボランティアを募りましたんで、私も半日だけ、スコップで校庭の表面をごりごり剃る作業に従事しました。
久しぶりの肉体労働でちょっと筋肉痛になった、なんてことはどうでもいいとして、あの作業には意味があったのかどうか、そもそも放射能の、児童たちへの影響はどうだったのか、誰もなんとも言わない。私よりは近所づきあいも、同じ学校のママ友の知り合いも多い女房に訊いても、放射能のほの字も、その後聞いたことはないようでした。
 まあ、茨城の学校でも年に何回かは放射能の測定をやりましたから、こっちでもやってるんだろうな、とは思いましたが、確認する気にもなれないうちに、すっかり忘れてしまった次第です。

 もう一つあります。去年の夏、私と同年配のご婦人との雑談中に、熊本地震に関連した、川内(せんだい)原発再稼働についての話になりました。私は、そのときたまたま、当ブログに、「由紀草一の、これ基本でしょ その2」を寄稿したばっかりでしたんで、にわか勉強した内容を覚えており、『朝日新聞』に基づいて、「川内原発内で記録されているガル数(揺れの勢いを示す加速度の単位)は、4月16日のマグニチュード7.3の本震時で8.6ガル。福島原発事故以後の原発耐震設計の基準値は620ガル、さらに川内原発では緊急停止させる設定値を160ガルとしていて、それをはるかに下回っている」から大丈夫なんだ、と申しました。
 しかしそのご婦人は納得しません。「そういう数字を挙げられても、現に絶対安全だと言われていた原発があんな事になったんだから、信用できない。知り合いの奥さんたちも、たいていそう言っている」とおっしゃいます。それは仕方のないことだ、と私もあきらめました。
 でも、いろいろ話しているうちに、向こうが、「被災地ではいろんな病気がどんどん出てきているのよ」とおっしゃったときには、びっくりして、そのとたんに年甲斐もなくキレてしまって、「そんなことはない!」と大きな声を出しました。
 だってそうでしょう、そんな噂だけでも、福島の人たちが、将来にわたってどんな目で見られ、どんな扱いを受けるか。原発には反対でもいい、そういう考え方があることは理解できる、しかし、なんの罪も責任もない人たちに対する差別感情が広まること、さらに、そういうことに全く無頓着な人がどうやら大勢いそうなことには、ごく平凡な庶民の一人としても、ショックを受けざるを得ません
 しかも、「将来」の話ではなく、差別感情は、子どもたちの間にもしっかり忍び込んでいて、もうとっくに、いじめの種になっていた。年末にそれが明らかになったので、とてもいやな気持ちになったのです。

 これに対抗するためには、私のようなド素人ではなく、専門的な研鑽を積んだ人たちが、きちんとしたデータと論理で、実情を伝えるべきでしょう。しかし、そういう報告や論文はすでにたくさんあります。それがさほど効果を上げていないようなのは、なぜなのでしょうか。
 放射能が危険ではない、とは誰も言いません。原発事故によって放射能がばらまかれた時の福島県のある地域も、危険ではあった。そうでなければ、避難勧告を出す必要もなかったはずです。【1月9日の新聞報道によると、福島医大放射線健康管理学講座の宮崎真助手らの研究グループが、ガラスバッジ(個人線量計)による外部被爆線量測定の実測値と、市民が住む場所の空間線量との関係を4年に渡って調べた結果、除染や避難の基準となった政府の推計値は高すぎるのではないかとの結論を得たそうです。つまり、不必要な除染や避難があったかも知れないということです。】
 一方、放射能は、目にも見えず匂いもしないので、不気味さが増す、ということ以上に、20世紀半ばになってから初めて一般人にも知られるようになった問題で、実際はどの程度に危険なものか、厳密にはまだよくわかっていません。どれほどの放射線量で、どういう害がどれほどあるか、専門家にもよくわかっていない。だから、「この程度なら心配はない」とも簡単には言い切れないのです(言っている人もいますが)。
 もともと、専門的な詳しい説明ほど、ミリシーベルトたらなんたら、世間の多数を占める私の如き文系人間には全く馴染のない言葉が飛び交う上に、危険―安全の境は結局曖昧なまま、となれば、そこは頭に残りづらい、それ以前に、入りづらくなります。残るのは一番プリミティブな、「放射能は危険」の観念だけになるのです。
  私は別に、放射能汚染に対して、できるだけの防備策を講じようとした人々を、嗤うつもりはありません。そういう人は、個人としては私の身近にはおりませんけれど、間接的な知り合いの中にはいます。福島県民ではないですよ。放射能汚染の危険は、福島に限った話ではありませんからね。放射性物質は風に乗って運ばれるので、関東全域が危ない、ひょっとするともっと広範囲に及ぶかも、という話もありました。現に、東葛(とうかつ)地区にある息子の学校でも、除染をしたのです。
 これが正しい、としたら、関東に住む我々はみんな、1300万の東京都民を含めて、「放射能に汚染された同士」なんです。何も福島県の人を特別視する理由はないわけです。
 ところで一方、私ほどには呑気ではなくても、誰しも大なり小なり生活上の問題や悩みを抱えています。放射能のことばかり、ずっと心配しているわけにはいかないのです。それで、前に申し上げたような状態、つまりいつの間にか忘れた状態、にたいていなります。
 すっからかんに忘れることができるなら、それはそれでいいんではないですかね。放射線による健康被害が事実あるとしても、その害を被るのは自分だけなんですから。でも、プリミティブな「放射能は危険」の感情、それに密接に関連しそうな「原発―危険」「福島―危険」の観念連合は、心の底に残ってしまうのです。原子力発電所や福島県という言葉や事物が目の前に現れたとたんに、警戒心が首をもたげる場合もある、ということです。
 さらにやっかいなことに、ふだんの生活からは切り離された恐怖や不安の念は、スリリングで面白い、と感ずる心も人間にはあります。
幽霊が存在するかどうかなんて、ふだん考えもしない人が、暗闇で怪しいものを見聞きすると、恐怖といっしょにこの言葉が自然に頭に浮かぶ。さらに、疑似体験中での恐怖を「楽しむ」ために、わざわざ金をはらってお化け屋敷へ行ったりもする、ということを思い浮かべたら、私の言いたいことがわかっていただけるでしょうか。
 かくして、目の前に「福島―危険」の性格を帯びていると思しき人が現れたら、ちょっとだけ不安になり、その不安をとっかかりとして、楽しい遊びである、それだけに遊ばれるほうにしてみれば残酷である、「いじめ」が始まる、というわけです。

 で、どうしましょうか、ということになりますと、とりあえず、無関心はやめて、自分でできる限り具体的に、この問題を考えてみるしかないな、とまことに平凡なことしか思いつきません。そうでなければ不快感が募るばかりだから、という、どこまでも個人的な動機からではありますが、最高にうまくいけば、ヒョウタンからコマ式に、何かしらの突破口の、ヒントぐらいは見つかるかもわかりませんし。

 するとやっぱり、この話を無視するわけにはいかんでしょうね。少しでも放射能の問題に関心がある人なら、とうにご存知なんですが。
 チェルノブイリの原発事故後、主に放射性沃(よう)素に汚染されたミルクを飲んだ子どもに、甲状腺癌の多発が見られた、その経験を踏まえて、福島県では甲状腺検査が実施されているのです。その結果については、(福島)県民健康調査検討委員会の甲状腺検査評価部会に提出された「甲状腺検査に関する中間取りまとめ」http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/174220.pdfにこうあります。

平成23年10月に開始した先行検査(一巡目の検査)においては、震災時福島県にお住まいで概ね18歳以下であった全県民を対象に実施し約30万人が受診、これまでに112人が甲状腺がんの「悪性ないし悪性疑い」と判定、このうち、99人が手術を受け、乳頭がん95人、低分化がん3人、良性結節1人という確定診断が得られている。[平成27年3月31日現在] 【由紀注。その後4月までの検査で、最終的には「悪性ないし悪性疑い」であるC判定は、115人にまで増えた。】
こうした検査結果に関しては、わが国の地域がん登録で把握されている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い。この解釈については、被ばくによる過剰発生か過剰診断(生命予後を脅かしたり症状をもたらしたりしないようながんの診断)のいずれかが考えられ、これ までの科学的知見からは、前者の可能性を完全に否定するものではないが、後者の可能性が高いとの意見があった。

 用語解説はしておきましょう。チェルノブイリの場合、この症状が発見されたのが事故後おおよそ四年後だったので、平成23~25(2011~13)の三年間は「先行検査(一巡目の検査)」として、原発事故以前の甲状腺異常はどれくらいあったのか、いわば基準値を得るための検査がなされたのです。その段階の罹患率が一般(100万人中多くても3人程度と言われている)より遥かに高かったのが、さまざまな意味で、問題とされています。
 この後の「本格検査(二巡目の検査)」は平成26年に始まり、この年で51人、27年に17人が「悪性(癌だということ)ないし悪性疑い」となりました(第25回県民健康調査検討委員会配布資料http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/194773.pdf)。28年度を加えると、もっと増えるでしょう。
 それでも、公的な見解は、上の引用文にあるような、どちらかといえば、放射線の影響というよりスクリーニング効果(症状が出る以前に甲状腺に特定した診断することで、病気の発見率は高まる)や過剰診療(放置してもよい程度のものまで悪性もしくは悪性の疑いと診断する)の結果ではないか、ということで変わっていません。
 確実なところは、わかりません。そのような判断は信用できない、とする専門家もいて、現在論争が継続中です。

 私のような素人でも現時点でこれは言えるだろう、と思えるのは、放射線による健康被害が疑われる具体例は、今のところ、これだけだ、ということです。
 なぜそう言えるのか。それは政府や東京電力に批判的な人々のうち、ネット上に無記名で、「福島では突然死が多く、また奇形児が多数産まれている」なんてことを書いている人は度外視するとして、多少とも社会的信頼度がある人や機関が問題視しているのが、これだけだからです。
 TVではほとんど唯一、らしいですが、テレビ朝日の「報道ステーション」が昨年、3月11日の45分の特集を初めとして、この問題に何回か触れています。そのうちのいくつかは現在もYouTubeで視聴することができます。
例えば、事故後に産まれた0~5歳児には、症状が見られなかったことが、放射能と甲状腺異常の関連が薄いことの論拠の一つにされていたことに対して、本格検査で一人発見されたことが、6月6日に放送されました。
 それについては、番組中で紹介された「一例出たからそれで科学的うんぬんを議論する内容ではない」という、星北斗検討委員会座長の言葉のほうが妥当なような気がします。しかしともかく、否定的にではあれ、公的な見解をもこうしてちゃんと映像メディアで伝えている点で、この番組スタッフの労は多としてよいと思います。
 政治家では山本太郎参議院議員が、何しろ脱原発をスローガンにして当選した人ですので、最も活発に、この問題に関わっています。上の一見驚くべき発症数については、平成27年7月の行政監視委員会で環境庁に、平成28年10月の参議院予算委員会では安倍首相に対して、問い質しています。
山本議員につきましては、園遊会で天皇陛下に「直訴」するなんぞという、泉下の田中正造が聞いたら顔を顰めるしかないような行いは、是非慎むべきだと思います。また、安倍首相への質問で、「甲状腺がんと診断された子どもの数、もしくは疑いとされた子どもの数を知っているか」と執拗に訊いたのは、この問題に対する首相の無知と無関心ぶりを炙り出そうとする戦略だったとしても、「重箱の隅をつつく」といった印象が持たれますので、逆効果ではなかったのかな、とも。
 などなど批判すべき点はありますが、彼はこの分野では頼もしい存在ではあるでしょう。政府のやる重大政策には、これだけ猜疑心をもって監視する人がいたほうがいい。
 それくらいですから、山本議員も、「報道ステーション」スタッフも、もし原発事故との関連が疑われる突然死やら奇形児出産があったなら、黙っているはずはないのです。それは国家権力が隠蔽しているのだ、という人もいますが、現在の政府がそれほど有能か、それとも山本議員らがそれほどマヌケなのか、と考えた場合には、やっぱり、素直に、事実それはないんだ、が正解、とするべきでしょう?
 ただ、一歩進んで、彼らを尊敬するかとなると、足りないものがある。それは、「もし我々の疑いが杞憂であったとしたら、それに越したことはないんだ」というような言葉や、それに相応しい態度です。寛容さ、と呼んでよいでしょう。
 何しろ、今一番救済されるべきなのは、さんざんひどい目にあってきた福島県の人々であることは間違いないのです。山本議員の直訴状は、福島難民の窮乏を訴える内容だったそうですが、それが政治的野心から出たものではないなら、彼らに対する優しさをこそ、前面に出すべきではないのですか。
 これは、政府の原発政策を疑い、山本議員らを支持するすべての人々に申し上げたいことです。福島の避難民は異世界の人でもなければ、まして幽霊でもない。人間同士の、同朋としての、当たり前の寛容こそ肝要。やっぱり平凡なことしか言えなかったので、下手なダジャレで終わりますが、意のあるところを汲んでいただけたら幸甚です。
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由紀草一の、これ基本でしょ その5 Brexitからナショナリズムを考える

2016年10月30日 22時11分08秒 | 由紀草一


当論考には、激動の世界情勢を、しっかりとした思想的足場を確認しながら論じようとする姿勢、良きバランス感覚が感じられます。そこには、学ぶべき多くのことがらがあると感じました。(編集長 記)

***

 日本の知識人にBrexitが気に入らないのは、民主主義が彼らの気に入るように働かなかった以上に、彼らの気に入らないように動いたからでしょう。つまり、ナショナリズムの方向を選択してしまったようなところが。
 日本、だけではないでしょうが、特に戦後日本では、ナショナリズム、いやその前提の国家(nation)は、は悪しきもの・オクレたものの代表でしたし、今もある程度はそうです。私の若い頃でも、「日本のことを考えたら」なんて言ったら、「国家の枠を超えた、世界全体の観点から広く考えるべきじゃないか」なんてよく返されたもんです。まあ、日本にしろ世界にしろ、単なる若造からは無限に遠いところにあり、要するに観念に過ぎないことは同じでしたので、こんな議論もできた、ということなんですが。
 それから、「国境線なんて人間が勝手に決めただけ」とか、「国家がなければ戦争なんてないんだ」とか、よく聞きました。今もありますか? その種の感情を表現したものとして、世界的に有名な代表例と言うと、やっぱりこれでしょうかね。

Imagine there's no countries    想像してごらん 国なんてない、と
It isn't hard to do          そんなに難しいことじゃないよ
Nothing to kill or die for     殺したり死んだりする値打ちのあるものなんてない
And no religion too         そしてまた、宗教もない
Imagine all the people      想像してごらん すべての人が
Living life in peace         平和な生活を送っているところを


 お若い方は知らないかもしれないので一応述べますと、これはロックミュージック史上最も有名なスーパーバンド・ビートルズの、リーダー格だったジョン・レノンというシンガーソングライター(これも古い言葉ですね。自分で作った歌を自分で歌う人のことです)が、ソロになってから出したimagineという曲の、2節目(2コーラス目と言うんですか?)です。
 1971年の発売で、かなりヒットしました。当時は、1950年代に始まった「怒れる若者たち」(angry young men)ムーブメントの末期で、若者による社会運動(日本では全学連とか全共闘とかいう大学生たちが暴れた、アレです)から、精神面に重きを置いたヒッピー文化だのニューエイジとか呼ばれる流派が、アメリカでは盛んになった頃です。レノンはそこで、一方のカリスマに祭り上げられたのです。実際「イマジン」は、この派の主張の一つを、美しく歌い上げています。
  しかし、ここにはレノン個人にとっての危険もありました。カリスマは歌だけではなく、生き方でも理想を体現すべきだ、なんて思われたりしますから。「Imagine there is no possessions(所有物なんてないんだと想像してごらん)なんてこの歌の最後のほうで言っていた男が、ニューヨークの超高級アパートでリッチな生活をしてるなんてインチキだ、許せない」なんて人間も出てきます。レノン殺害犯人の動機については、ジャック・ジョーンズ『ジョン・レノンを殺した男』(堤雅久訳)を読んでもけっこう複雑で、一概にこうだとは言えないのですが、上のような感情も実際に口から出ています。
 それは結局こういうことです。レノンは、国家や既成宗教へのこだわりは最初からなく、当時流行したマントラなんたら言う(今風に言えば)スピリチュアリズムからも早くに醒めて、「平和に生きるただの人間」しかない、という心境に達したらしいのです。
しかし、「ただの人間」が「ただの人間」になれと言われても、けっこう難しい。そこまではあまり思いが及ばなかったようです。
意地悪くみれば、レノンのような、功なり名を遂げた人間だからこそ、「命をかけるに値するものなど何もない」と平気で言えるのではないでしょうか。あらゆる国家や宗教の帰属意識から離れた「一個の人間」には、多くの場合、なんら積極的な意味は見いだせません。
なるほど、安定した生活は、それが失われた人間にとっては、最も切実に希求されるものでしょう。しかし、人間というものはまことにやっかいな生き物で、衣食住がとりあえず充たされたら、往々にして「それ以上」を望んでしまうのです。他の動物との最大の違いは、毎日ほぼ同じように過ぎて行く安全で安定した生活の最中に、「こんな人生、退屈で、惨めだ」なんて考えてしまいがちな独特の、過剰な感性にこそあります。
そこから、レノンのような大スターは、「国家や宗教なんてなくても生きていけると言ったお前がリーダーになって、俺たちをひっぱっていって、新たな『意味』を見せてくれ」なんて要求されることも出てきます。
 ところがレノンのほうでは、「そんなのまっぴらだ、おれはただの男だ、そう生きたいんだ」と、「ゴッド」(ソロになってからの最初のアルバム『ジョンの魂』所収。1970年)という歌の中では言っています。「ただの男」ではなくなったからこそ、それを望む、もう一段上の贅沢。ふざけた野郎だ、と恨まれることも、正当とまでは申しませんが、ありがちではありますね。

 そこで、国家です。これはいわゆるアイデンティティ、ここでは帰属意識と言い換えておきますが、そう呼ばれる巨大な「物語」の、「意味」の供給源であったのだし、今もあり続けています。だからこそ危険だ、とも言えるのですが。
 それで、そもそも、国家とは何か。大昔のことは措いて、近代国家成立の要件を、考えてみましょう。このあたり、後の本論に密接に関係しますが、長広舌を揮いすぎると、何の話だか我人ともにわからなくなってしまう恐れがありますので、思い切って大雑把に、いわば一筆書きで述べます。読者諸賢には、いい加減にもほどがある、と思われましたら、よろしくご叱正のほど、お願いします。
まず産業の進展。そのためには何より、物品の交換がスムースに行われなければなりません。陸路・海路の整備による交通の便はもとより、度量衡、つまりものの単位をできるだけ統一する、そして何より肝要なことが二つ、①統一された通貨(貨幣と紙幣)の体系と②同一の言語=国語、が確立されていなければなりません。
 次の段階、と言って、時間的・構造的な順序は本当はよくわからないのですが、叙述の都合上、次に、と言います、このようにしてできたルールを守らせ、また輸送の途中で物品を奪うような、山賊・海賊などの輩から人々を守る、武装集団とそれを率いる権威ある首領が必要となり、彼らがふつういわゆる権力者となります。
 ところで、この時、往々にして、ルールそのものが彼らから出ているように見えるのが妙ですね。これはまあ、錯覚なんですが。モーゼが「殺す勿かれ」を神の言葉として伝える前から、殺人は悪いことだと考えられていたんでしょうし。しかし、それを守ることは神の意志だとされると、ルールが神聖な権威あるものに見えますし、またその神聖なるルールをもたらした立法者legislatorとして彼らは権威づけられる。この回路が確立されたところに、統治のメカニズムという意味での「国家」が成立します。
  ここではまだナショナリズムは出てきません。それは、一度確立された権威・権力同士の争い、つまり戦争、のために使われるのです。
 同じ過去と文化(箸でご飯を食べる、というような)とを持つ民族という集団は、もちろん事実存在しますが、ここへきてその価値がめいっぱい強調されます。強調されるあまり、同一民族の中にもこれまた現に存在している地域差localityなどは無視され、破壊されたりもします。例えば、日本でも戦前戦後にざらに見られたように、国家の近代化の過程で、地方の荒廃が進む場合があるのです。故郷愛patriotismがナショナリズムの基だというのは、この点では無理を含んでいると言わねばなりません。
 それから、栄光ある国家、それを具体的に、「敵と戦って、敵から守る」という形で、担うべき存在として「国民」はどうか。これによって初めて、食ってチマチマした仕事をして寝るだけの庶民が、巨大な歴史的な存在になれる、ような気がする、という。
 これもまた、くだらないインチキだ、と言う人がいるのに不思議はないです。煽てられて戦場へ行って、病に倒れたら、日本軍に、ひいては日本国から見捨てられ、悲惨な境涯をたどる国民の姿は、大岡昇平「野火」や、それより以前の日露戦争時、田山花袋「一兵卒」などに描かれています。
だいたい、「国家の栄光」そのものが非常に怪しい。ぎりぎりのところ、人々をおだてて、戦場に駆り出すために作られたインチキに過ぎないのではないか、とも思える。そうだとしたら、どんなインチキか。最初に歌を取り上げたので、これが一番端的に表現されている国歌をちょっとみてみましょう。「イマジン」と比べるなんて、あんたヒマジンだね、と嗤われるのは甘んじて受けるとして。
 イギリスの、事実上の国歌(national anthemだから、文字通り国家を讃える歌、です)はGod save the Queen「神よ、女王陛下を救い給え」で、Long live our noble Queen「我らの高貴な女王の命長からんことを」の歌詞など、我が「君が代」に似てますよね。君主の弥栄(いやさか)を祈る、その感情を共有する者たちと信じられている「国民」。逆に言うと、「国民」は、栄誉を担うという行為を通じて、歴史的な存在である君主=国家と一体化し、自らも歴史的な存在となる契機を得る、と。
  なんたることか、そもそも君主とはそれほどの存在か。人民の膏血を絞ってぬくぬくと永らえているのがどこの国でも実相ではないか。それを国家の栄光の象徴とは、ほとんどマゾヒスティックな転倒であり、そんな認識が広く、長く共有されねばならないのだとしたら、それこそ、「国家の栄光」そのものが、根拠のないデタラメであることの何よりの証拠ではないか。
  と、反国家主義者の代弁をしてみましたが、いかがですか?
 その君主国・イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国はどうかと言えば、国歌で、独立戦争時、一昼夜にわたる敵の猛攻撃に耐えて、砦の上に翩翻と翻るstar Spangled Banner「星煌く旗」=「星条旗」が歌われています。君主はもちろん、ネルソンやウェリントン、それからウェイド元帥などの、将軍名も出てこないところがミソかな、と思います。独立Independenceという形で国家を成立せしめたのが最初から名もなき兵士=国民、いや、「人民」が相応しいかな、であったとされるところが、アメリカという国家の新しさではあるんでしょう。
 では、こういう国家なら正当と言えるのか? そうすんなりとは言えません。独立戦争時だって、「戦争で死ぬくらいなら、イギリスに従属したままでいいや」と思っていた人もいるんじゃないかと思いますが、そういうことは言えなくする、少なくとも非常に言いづらくするのも、ナショナリズムの大事な働きです。つまり個人的な自由は制限する、その力がなかったら、ナショナリズムなんて、いいにつけ悪いにつけ、問題にならないでしょう。
仮に、独立戦争は合理的でもあれば道徳的にも正しかったとしても、その後のアメリカが、大国になるにつれて、いつもそんなに理にかなった行動をしているとは簡単には言えません。ベトナム戦争や第二湾岸戦争を戦った兵士たちは、いかなる栄光を味わったのでしょうか?
 この場合、決して見逃せない要素がありそうです。二十世紀後半のアメリカは、大英帝国に代わる帝国になったのです。四年に一度帝王を選挙で選ぶ帝国。軽くて、無自覚な、だらしない帝国ではあるが、帝国には違いない、とこの国の歴史家兼ジャーナリストのマイケル・イグナチエフも言っています(が、最近はもうそうではない、とエマニュエル・トッドが言っています)。
 「故国を守る」という意味の、普通の素朴なナショナリズムからは離れた、自由と民主主義を「人類普遍の原理」として、世界中に、時には武力を使って、押し付けようとしてきたのが第二次世界大戦後のアメリカです。理念が事実正しくて、武力で押しつけるのも正しい、としたら、アメリカへの帰属意識・忠誠心、という形の、ナショナリズムも正当化されます。一回りして、もとにもどるというわけです。
それが怪しくなっているところが、アメリカにとっても、世界にとっても問題なのです。
   しかしいずれにもせよ、明らかに言い得るのは、大勢の人を現に動かす力という点で、宗教以外の観念(=フィクション)としては、国家しか見当たらない、ということです。国連常設軍なんて、今では話題に上ることすらないでしょう。アメリカのためなら命を懸けるという人は少しはいても、「世界平和」なんて単なる抽象観念のために身命を投げ出そうなんて人はほとんどいないことは、これでもわかります。

 ブレグジットを忘れたわけではないのですが、私の興味は常に原理的なところにありますので、それに沿ったところを言おうとして、前提が長くなってしまいました。
 イギリスが、かつて世界の覇者であった大英帝国の栄光を忘れかね、ヨーロッパ連合の一部であることに甘んじてなどいられない、というのがブレグジットを決めた大きな要因だったとしたら、それは愚かだ、というのもわかります。ただ、自分たちが選んだわけでもない欧州委員会なんたらが決めた決定に従わねばならんなんておかしい、という感情なら、民主主義国家としてはまっとうです。
 そこでブレグジットの是非は次の尺度で考えられなければなりません。EUは、一国のナショナリズムと、同伴関係にある民主主義、それらを超えるだけの価値あるものをもたらすのか、否か。
 まず、産業の進展・大規模化に資すると言う意味では、近代国家成立条件の一つを拡大したものと言えます。通貨の統一は実現しましたし。
 それから、国家エゴイズムと呼ばれるものは、EUにはないのか? あるいは弱まったか? 念のために申し添えますと、それは同胞意識の半面です。異邦人に対する同国民なんですから、その連帯意識の裏には、絶えず連帯の「外部」にいる者たちへの敵愾心、軽くても警戒心があり、つまりは排除の意識と無縁ではあり得ません。だからこそ、戦争で一番有効に使えるわけでして。
 EU内部に限って言えば、エゴイズムは軽減された、と言えるでしょう。欧州連合軍事参謀部(EUMS)、いやそれ以前にNATOがあって、ヨーロッパ各国は、独自に戦争を始める権利こそ手放していませんが(それがなかったら、もはや国家ではない)、緊密な集団防衛体制を構築しており、この内部で戦争が起きることはまずあり得ません。
 それはすばらしい……かと言えば、そもそもどうしてNATOができたのか、誰もが知ってますね。ソ連に対抗するためには、ヨーロッパ各国が協同し、アメリカの力をも借りる必要があったからです。つまり、警戒心・敵愾心はベースの部分にあったわけで。
 EUの中心課題は経済ですね。ECはEEC(欧州経済協力機構)の拡大版ですし、そこに、汎ヨーロッパ的経済活動をより円滑にするために、司法と行政の協力体制を繰り入れたのがEUです(この単純化はあんまりだという場合は……以下前と同じ)。ヨーロッパ全体にまたがる広大な地域で、大規模な経済活動を展開し、早い話がより金を儲けるための機構。そこにはアメリカやら中国に対する、敵愾心とは言わぬまでも、対抗意識を見て取るのは容易でしょう。
 以上から要するに、EUが具体化したグローバリズムは、必ずしもナショナリズムの対抗原理ではなく、超克しようとする試みでもなく、むしろナショナリズムの延長だ、と言い得ます。ただ、図体が大きいと、内部の人には外部が見えにくくなるので、対抗心・敵愾心が具体的に、激しくならずにすむ、ということはあるかも知れません。

 それはそれでけっこうである、少なくとも害はない、としても、ここへきてよく言われるようになったグローバリズムの弱点があります。経済規模が大きくなると、確かに大儲けする人はいるのですが、儲からない人はますます儲けが少なくなる。つまり、貧富の格差が開く、いわゆるマタイの法則、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」事態が露骨に見えるようになっている、と。
  理由はざっと二つ考えられます。
(1)EUに限らず、グローバリズムを牽引しているのは国際金融資本だということ。つまり巨大な投資機関が、広い範囲から金を集めて、これまた広い範囲で使い道を探す、それが国境の壁を低くする具体的な、第一の利点だと考えられています。資本による利益が労働による価値創出を上回るのは資本主義の変わらぬ姿であり、貧富の差が開く要因だ、とはトマ・ピケティ以来常識になったようです。総体としての資本が大きくなるなら、この傾向に拍車がかかるのは全く当然ということになるでしょう。
(2)移民・難民問題。人・モノ・カネの移動を自由にすれば、近代化の過程でたいていの国が経験したように、貧しい地域から豊かな地域への人口の流入は必ず起こります。そこに国家という枠までなくなれば、結果として、豊かな国は、言葉や文化の違う人々との共生を強いられるわけです。「国なんてないんだと想像してごらん」なんて、想像しているだけならいいですが、実際問題として生活の場で「異邦人」と直面したら、そんな簡単なわけにはいかない。その実例は、現在のフランスやドイツ、それからアメリカでも、たくさん見つかるでしょう。
   純粋に経済的、いや経営的な面でも、言葉が不自由でもできるような単純労働は、給料が安くても雇ってもらいたがる移民・難民にまわるでしょう。かくして労働価格が下がり、安い賃金で働かなくてはならない人が増えます。だからこそ、経営者サイドは移民・難民を受け入れたがっているのでしょうが。
   以上の弱点は、単にEU内のグローバリズムがまだ発展途上にあるからで、将来は解消可能なものでしょうか。(1)の問題は、資本主義である以上根本的には解決不可能であるにしても、社会全体が豊かになり、底上げが起きて、下層のほうにも十分な金が回れば、皆さん、文句ないんですよね?
だいたい、18世紀イギリス発の産業革命以来、①産業が大規模化して、多くの商品が生産される→②その商品を買わせるために、労働者の給料を上げる→③以前よりは多くの金を得た労働者=消費者に買わせるために、より多くの商品が生産される、この循環でいわゆる先進国は出来上がりました。トリクルダウン理論がこういう意味だとすれば、長い目で見れば実現しているのです。
 もっと肝心なことは、貧乏人が多少とも金持ちになるやり方を、人類がこれ以外には見つけていないところです。
   ただし、そうであるにしても、今現にある不満をそのままにしておくことはできません。
それにもまして問題だと思うのは、グローバリズムはある面では近代国家の論理を受け継いで発展させたものだとしても、同朋意識という不合理なものは含まないところです。産業の発展・拡大のためには役立ちそうにないですから。
  というところを逆に考えると、国家は、産業の野放図な展開にブレーキをかけることで、逆に資本主義社会を支えてきたのではないか、と見えてきます。保護貿易によって国内の産業を守る、というだけではありません。もっと基本的なところで国民を守る義務が国家にはある、と考えられるところで、です。
  例えば、資本主義である以上、競争は避けられません。そうであれば、競争のルールは公正でなければならない。各種の規制(談合のような、非公式の隠されたものまで含む)によって正常な競争が阻害されているなら、それはできるだけ取り払おう、というのが小泉規制緩和だったわけです。これは原理的にはまちがっていません。
が、競争なら必ず、勝つ人と負ける人が出てきます、ってこれ、トートロジーですね。公正な競争が行われているなら、才覚や努力が足りない事業者が負けるのが、つまり正しいわけです。とは言え、目に余る散財をしたわけでもなく、まずまず普通には真面目に仕事をした人が、競争に敗れた場合、「そんなの、自分のせいなんだら、自分でなんとかするしかない」なる「自己責任論」だけで、すべてすますわけにはいかんでしょう? あまりいい生活はできない、ぐらいはしかたないとしても、食うに困るほど貧窮したら、やっぱり何かのケアは必要だ。そのケアをするのは、国家以外にないんではないですか?
  いやあ、実際の国家は、そんなことやってないんだよ、と言われるかもしれず、その証拠も見つかることでしょう。それでも、最低限、「国はやるべきことをやっていない」と非難することはできます。国際金融資本が相手では、「そんなもん、知らんよ」でおしまいですよね。
そのケアに密接に関連する話ですが、「富の再配分」なる考え方。これも、資本主義そのものからは出てきません。「公正なルール内の競争で、懸命に努力して、たくさんの金を稼ぐことができた。それに対して、国や世間が力を貸してくれたわけではない。それなのにどうして、他人よりたくさん税金を納めなければならんのか」と問われた場合、合理的な答えを出すのは難しいですよね(「いや、答えられる」という方は、是非お聞かせください)。税金が、よく説明されるように、公共物や公共サービスへの対価だとしたら、累進課税はもちろん、課税率なんてのがそもそもおかしい。全員同額払う、でなければならんはずでしょう。
  ここでは「社会の安定」という次元の違うことが考えられているわけです。貧富の差が甚だしいと、貧しい側の不満、その不満は正当な時もそうでないときもあるでしょうが、どちらにしてもあまりに溜まると、暴動などにつながる社会の不安定要素になる。だからそれは宥めなくてはならない。その配慮をするのは国家の義務であり、その義務を全うするために、実はあまり理屈に合ってないようなやり方で税金を取り立てる権力も与えられている、というわけです。
  そして、国家が現に累進課税などを実施できるのも、国家内の、同朋意識があるから です。より正確には、同朋意識があるものとみなしてさしつかえないという意識なら、あるとみなしてさしつかえない、ぐらいのところで、現に政治が行われているからです。
さらに、こういうこともあります。
  福島の原発事故のとき、在日米軍のうち何人かが、被災地の救援と復興に赴きました。「トモダチ作戦」と言われましたね。美談として語られることもあるんですが、作戦中何人かの兵士が被爆して、障害が出たとして、現在東京電力側に補償を求めて訴訟を起こしています。小泉純一郎がわざわざ渡米して、彼らと面会し、「これは見過ごせない」と涙を流したのは、どうでもいいとしまして。
 この事件については、同時期に同じ場所で活動していた日本の消防士や自衛隊員の方々には障害がは出なかったのか、出ても、訴えてはいないのかな、などなど、いろいろ疑問が持たれます。それも置いといて、何人かが被爆したのは事実であるとして、痛烈に感じられたのは、在日米軍は、日本の「トモダチ」であるとしても、「同胞」ではないんだな、ということです。「トモダチ」に期待できることは、限られているのです。

 以上、いろいろ申し上げましたが、「ナショナリズムとグローバリズムのいいところは伸ばして、悪いところは抑えるようにしよう」なんてご都合主義的折衷主義からは一線を画したいために、こうなってしまいました。できるだけかいつまんで申しますと。
  資本主義は、生き延びるためにはどうやら拡大が宿命づけられているらしい。それなら、国境を越えて産業が拡大していくグローバリズムは、ある程度は必然です。そうなればなるほど、国家の重要性は増し、その美点と、それが裏返された弱点も、拡大されて見えてくるようになるでしょう。
 それで、結局どうなるのか? わかりません(笑)。ブレグジットは、反グローバリズムの動きであるのは確かですが、単なる反動なのか、それとも、今後の世界の主流になるのか、つまり、現行のグローバリズムは捨て去られ、新たなナショナリズムの時代になるのかどうか。なかなか見ものではありますね。自分の生活を守るのだけでも、庶民にはなかなかたいへんではありますけど、できるだけ余裕をもって、興味深く見守っていきたいものです。
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由紀草一の、これ基本でしょ その4 Brexitから民主主義を考える

2016年08月11日 19時08分34秒 | 由紀草一


ブレグジット(Britain+exit)即ち英国のEU離脱について、その政治的・経済的な是非を論ずることは私にはできません。結局のところ、英国にとって、また日本を含めた国際社会にとって、プラスであるのか、マイナスであるのか。そもそも、英国はいかなる条件でEUを離脱することになるのか、わかりませんので、それを詳細に論じるのは時期尚早でしょう。

私が面白く思ったのは、これに対する、日本の、様々な反応です。これはまちがった選択だ、というのが多いようですね。

ネット上で髙野孟氏のメルマガを見ましたら、6月21日付ロイター通信の論評が引用されており、要旨はぽぼそれに尽きています。「そこにあるのは、ナショナリズム、美化されたノスタルジア、エリートへの不信感、移民が犯罪を持ち込み雇用を奪うという警戒心だ」。これは確かにあるでしょう。同じような感情は、今までにもあったのだし、世界のいろいろな地域で見つけることができるでしょう。

ここから、問題が二つ出てきます。

(1)ロイターの論評氏や髙野氏は、ナショナリズム、などなどの感情を、当然のようにマイナスなものとみなしている。本当にそうなのか。
(2)髙野氏たちが正しいとしたら、そういう感情に動かされやすい国民を「主権者」とする民主主義を、どう考えるべきか。結果としてまちがいを犯しやすい、よくない政治制度だとすべきなのか。


(2)から先に述べます。「民の声は天の声」でしたっけ。民衆は常に正しく、少なくとも善なるもので、権力者こそが悪なんだ、と、日本では今まで、主にいわゆる進歩派が言っていましたっけね。ここへ来てそんなのウソだったんだ、これを口にした多くの人が、本音ではそんなの信じていなかったんだ、ということが暴かれたようです。

だってそうでしょう。ブレグジットはまちがっている、という見地からしたら、どうしてもそうなる。キャメロン前首相を初めとする政府は、ほとんどがEU残留を求め、離脱した場合には英国はどういう経済的な不利益を被ると予想されるか、データを挙げて国民を説得しようとしていた。民衆のほうが、ナショナリズムなんて古臭くてしょうもない方角の、決定をしてしまった。

「警戒心」を煽る右派の宣伝は、あったでしょう。だとしても、そんな宣伝に乗ぜられるほど民衆は愚かだ、ということに変わりはない。

念のために、すべての人に完全に正しい情報が与えられ、正しい判断ができれば……、なんて、理想じゃなくて、夢想に耽っちゃダメですよ。誰の目にもわかる完全に正しいことがあるなら、民主制も寡頭制も何も、そんな各種の制度自体がハナからいらない。相談もいらない。いろんな立場や考え方から、いろんな正義や利害が考えられてくるからこそ、選挙にもせよリーダーの決断にもせよ、集団としての決定の方法を定めておくことが必要になってくるわけで。

では、各種の制度の中でも、愚かな民衆に立脚していることがタテマエの民主主義はダメ、とすべきのか。そうとは言い切れないと思います。ここで、有名すぎるので気恥ずかしくなるのを抑えつつ、チャーチルの名言を思い出しておきましょう。

民主主義は、今まで試みられてきた他のすべてを除けば、最悪の政治形態と言われてきた」(It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.)

民主主義は、ある特定の個人・集団だけが得をして、国の残り全部が不利益被るような施策は防げるだろう、少なくとも、そのためには一番有効であろう。それだけです。それだけで満足すべきなのです。「今まで試みられてきた他のすべて」の制度に、民主主義より後発の社会主義を加えても、できなかったことなんですから。

そして、民主主義の名において行われる害悪を最小限に止めるためにも、この断念は必要です

つまり、民主主義の究極の決定法と言うべき国民投票は、濫用してはならない、と言うより、最小限にしかやってはいけない。これははっきりしたようです。そこをより明確にするべく、どのようなところから今回の投票がなされることになったのか、ちょっと振り返っておきましょう。

国政に関する国民投票(referendum)は、イギリスでは、今回のを含めて今までに三回実施されました(一昨年の、スコットランド独立に関するものを含めて四回、と言う人がいますが、これはスコットランド住民のみの投票ですから、国民投票にはカウントしないほうが妥当なようです)。

最初のは、1975年、労働党の第二次ハロルド・ウィルソン内閣により、EUの前身であるEC(欧州共同体)離脱か残留かをめぐって行われたものです。ECへの加盟は、保守党のエドワード・ヒース内閣によって決定されたのですが、労働党は、加盟そのものには反対はしないものの、加盟条件を見直すべきだとしていました。

労働党は、その名の通り国内の労働者保護が第一の党是ですから、労働者市場を含めた国内市場の、少なくとも部分的な開放の結果、国内産業及びその従事者(=労働者)への悪影響が懸念される欧州連合構想には、消極的か慎重にならざるを得ませんでした(その後、英国とヨーロッパとの関係の変遷につれて、英国保守党と労働党の政策も変わりましたが、現在の労働党はこの、1975年当時の立場に近いところにいるようです)。

そのため、ウィルソンは、政権を失った後の1974年の総選挙を、労働党内部の根強いEC加盟反対論を宥めるためにも、次の二つを公約して戦いました。①ECとの再交渉と、②その成果を踏まえたうえで改めてEC加盟の賛否を広く問うための国民投票。

翌年彼が連立内閣で首相に返り咲いてから実施された投票結果は、67%対33%の、ダブルスコアで残留派が勝利しました。

こうして英国は、主権者による直接決定というパンドラの箱を開けてしまったのです。

ただし、この時のも今回のも、国民投票の法文自体には法的拘束力をうたっていません(2011年の、選挙制度改革に関する国民投票のみ、政府は投票結果に拘束される、とされました)。「参考」に止めておいても、違反ではないのです。とは言え、結果を無視する、なんてわけにはいかない。それでは第一、なんのための投票だ、ということになりますから。

また、そのつどの特別立法によって行われる(まず国民投票のための法律を制定してからやる)もので、「~の場合には実施されなくてはならない」なんてものでもない。が、またしても「とは言え」なんですが、一度やってしまったものを、同じようなケースでやらないとしたら、やっぱり「なぜ今回はやらないのか」の理由が必要であるようにも感じられてくるでしょう。そう詰問する人は必ずいるでしょう。

その代り、政府の思い通りの結果が出たときには、国民投票はウルトラマンのスペシウム光線のようなものです。それがなくても怪獣には勝てるところを、最後をカッコよく決めるために使われる技で(このへんは呉智英氏が以前書いておられたことを勝手に変えて使っています)、最初から出せば三分ルール(ウルトラマンが地球上でウルトラマンでいられる制限時間)も気にせず簡単にすむだろうに、なんで出さないの? と幼い頃の私は思っておりました。が、やっぱり見世物にはスリルが必要で、それを経た上での勝利だからカタルシスもあるわけでして。

いやもちろん、国民投票はそれだけではない。国民中の有権者=庶民に、一国全体の問題について周知させる効果はある。知らない人はそれでもやっぱり知らないでしょうけど、やらないよりはマシでしょう。そして勝利の暁には、日本の安保法案について未だに言われているような、「その政策は民意に反しておるぞ」なる非難の声は封ずることができる。

生憎、現実は、スリルがスリルだけでは終わらないときもある。キャメロンは、政府要人のほとんどは残留派だし、自分がやったEUとの交渉では、ウィルソン以上の成果を挙げたのだという自負もあって、勝利を確信していたようですが。

あにはからんや、の結果が出たとき、法的な義務はないにもかかわらず、投票結果に従うこと、そのための指導者として自分は不適当だとして辞任を表明したのは、立派だったと思います。後任のテリーザ・メイも、自身も残留派でありながら、再投票などで以前の結果を覆すような試みはしない、と明言したのは、妥当としか言いようがない。

だってそうでしょう。二回目の投票で一回目とは違う結果が出たとしたら、どちらが「本当」なのか。「本当」にも二つの意味が考えられて、「どちらが国益のための正しい決定か」と「どちらが正しく民意を示しているか」。これを決定するために、三回目の投票が必要であるように考えられてきて、それをやると、三回のうちどれが「本当」かで……、以下、これが無限に繰り返されかねません。

本当は、「国益」にせよ「民意」にしろ、固定したものではなく、従って完全な「正しさ」などどこにもありません。だからこそ、投票その他の決定手段が必要になるんです、と、ここは肝心なポイントだと思うので、しつこく繰り返しておきます。

とは言え、というか、だからこそ、なんでしょう、たった一度の投票結果ですべて決定済みにしていいものか、という思いもどうしても消えない。殊に今回のような、48%対52%の僅差となると。この結果は、半分近くの国民がEU離脱には反対であることをも、明らかに示してしまっていますから。
国民投票の怖さはここにあります。国論だけではなく、国民そのものを二分しかねないところが。

もっとも、スイスのような、直接民主制で、年中国民投票をやっている国はどうなのか、もう慣れてしまっているから平気なんでしょうかね。「慣れの力」って、けっこう大きいですから。しかし、たとえそうだとしても、例えば永世中立のような根本的な国是を変えるための投票を将来やったらどうなるか、それは予想の限りではないんじゃないですか?

すると、どうも、間接民主主義である代議制のほうがマシなようだな、と思えてきませんか? これについて、高野孟氏も引用している成田憲彦氏の意見は、急所を突いているようです(『讀賣新聞』6月26日、「論点スペシャル」)。

代議制の大きな利点は、政府責任のシステムが使える点だ。もし国民投票で誤った選択がなされた場合、誰が責任を取るのか。この点で行き詰る。代議制なら、代表者や党派に責任を取らせることで、方向転換が可能になる。

よく、「政治家が悪いと言うけれど、そんな政治家を選挙で選んだ国民にも責任があるじゃないか」と言われ、正論のようではあるんですが、国民にどうやって責任を取らせるのかわからないので、話が終わってしまいます。

ところで、国民はこの場合、無責任でいいんだ、と憲法に明記されていることはご存知でしたか? 第十五条の4項です。「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」。だから選挙人=選挙権があるすべての国民は、買収や利益供与によって投票するのでない限り、ヒトラーを選んだとしても、「公的にも私的にも」責任を問われることはないのです。

再び、責任を取らせようったって、具体的にどうするんだ、でだいたい話は終わりますから、あまり深くは考えられないのですが、これは「君主無答責」原則を主権者たる国民に応用したものだと見ることができます。君主は、間違えたとしても、その責任は問われない。立憲君主国にはよくある規定で、大日本帝国憲法下の日本もそうでした(部分的には、天皇が「国家元首」から「象徴」になった今でもそうです)。

で、ここからが私の言いたいことなんですが、国内では至高の決定力である主権sovereigntyの持ち主は、間違いは犯せない。間違った、とはっきりしても、認めることができない。「至高」の度合いが低くなるから、と言うか、そういうのはもう「至高」ではないからです。

そんな存在に、実質的な選択・決定をさせるのは非常にまずい。逆から見ると、人間が、個人でも集団でも、決して間違いを犯さない方法は、たった一つ、何もしないことです。これがイギリス王室の「君臨すれど統治せず」の原則であり、日本も、多少の例外はあっても、明治以来それでやってきたのです。
国民は、天皇と違って、議員を選挙で選ぶという政治上の決定を実際にしますんで、「何もしない」わけではありません。でも実際の政治は、選ばれた者たちがやる。そこで何か間違いがあったら、それはその政治家の責任であるから、引責辞任させたうえで、新たな政治家に訂正させればよい。それで取り返しがつく。「間違いを犯すような政治家を選んだ責任」は、あったとしても、遠い所にあるんで、忘れることができる。なんだか幾重にも欺瞞が働いているような気がしますが、あまり深く考えなければ、最悪の事態はなんとか防げそうではありますね。

他にいい代替案が見つからない以上は、政治は当分、これでやっていくしかないのではないでしょうか?

それでも、日本で国民投票をやらなくちゃいけない場合があります。憲法を改正する時。何しろこれ、条文に明記されてますんで(日本国憲法第九十六条)。

ここへきて、進歩派とか護憲派と言われている人たちのうち何人かが、これはどうも危ない、と言い出していますね。参議院選で、改憲派に三分の二超の議席を与えるほどバカな国民に、憲法を決めさせるなんて、というわけで。まあ、私も「危ない」の部分は同意見ではあるんですけど。しかし、「国民主権」を憲法の三大原則の一つだとしたのは彼らのお仲間だったはずなんで、それにはきちんとケジメをつけてもらわないと、どうも信用できない。

いずれにしても、「国民投票はやめよう」とか、「過半数による決定じゃなくて、せめて国会と同じ三分の二以上にすべきだ」などと唱えるのはいいですが、そう変えるのにも既定の方法で、つまり国民の過半数の賛同を得なくてはならないわけですから。「一般国民はバカなんだ」の前提では、どのみちよい結果が期待できないわけでしょう。

私は、憲法九条改正論者です。しかし、国民投票の結果否決されたら、しょうがない、だからと言って日本を脱出したくもないので、従うしかない。自分が絶対に正しいとは思っていませんから。いや、思ってますけど、それがすべての人に認められるとも、認められるべきだとも思っていませんから。他のより少しはマシな制度である民主主義を守るためには、そこは覚悟するしかないでしょう。

もうけっこう長くなりましたので、(1)のナショナリズムについて述べるのは、次回にしたいと思います。ご親切に拙文を読んでくださっている方々は、どうぞご期待ください。
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由紀草一の、これ基本でしょ その3 喜劇舛添劇場傍観記

2016年06月28日 11時06分02秒 | 由紀草一


編集者より:当論考には、由紀草一氏の、「舛添騒動」をめぐっての個性的で鋭い人間観察が感じられます。私は、氏の知的なユーモアセンスを酷愛する者です。当騒動をめぐっての私見をいささか述べれば、あの騒動の渦中の極点で、舛添氏は、もはや悪いことをする可能性ゼロの「絶対安全知事」になることを余儀なくされました。だから都民は、その弱みを握りしめて、彼を都知事として馬車馬のごとくこき使えばいいのではないか。それが私の抱いた感想です。為政者にどのような動機があろうとも、結果として善政がもたらされれば、なんでもよろしかろう、と思うのですね。ところで、由紀氏が当論考をお書きになった日付と発表されたそれとに多少の齟齬があるとお感じになった鋭敏な読み手がいらっしゃると思います。それは、ひとえに、忙しさにかまけてアップの時期を逸した私の責任です。

***

 4月末から続いてきた舛添要一主演の喜劇が、6月15日の辞任表明によってひとまず閉幕しました(今ニュースで見たら、今日が最後の登庁日だったそうで)。第二幕があるのかどうか、今のところ不明。
今のところで明らかなのは、2か月近くの間、TVをつければ必ず報道という名の舞台中継をやっていたので、みなさんさぞかし食傷しておられるであろうこと。もう「舛」の字を見ただけで読む気をなくすかも、ですが、多少変わったことを述べるつもりですので、よろしくお付き合い願います。

 喜劇、と申しましたが、これはどういう喜劇であったのか。少しだけ、なけなしのウンチクを披歴しましょう。たいへん古典的な、わかりやすいものでした。
 例えばイタリアに、16世紀以来続いているコメディア・デラルテというのがあります。大部分が仮面をかぶった、ある類型を示す登場人物(キャラクター)が、全体としては同じようなエピソードを、即興で、手を変え品を変え道具立てを変えながら、演じるのです。
 代表的なキャラクターには次のようなものがあります。
①パンタローネ。日本でいう因業おやじ。金持ちで、ケチでスケベで、疑い深い。金の力で若い娘をモノにしようとして、機転も悪知恵も利く道化アレルッキーノ(フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインと呼ばれる)たちに妨害されるのが、最も多いパターン。
②カピターノ。英語のキャプテン。元軍人で、かつての戦場での手柄を自慢するが、それはホラ話であって、実際は臆病者。
③ドットーレ。英語のドクター。医者か学者で、難しげなことをもっともらしく言うが、中身はまるでない。
 これでだいたいわかるでしょうが、たいしたことはないのに、金や地位の力を借りて威張りくさっている輩の裏面を暴き、笑いものにするのが、コメディア・デラルテ、だけではなく喜劇の、一典型なんです。本当の悪人は出てこないですよ。それはそれで「たいしたこと」のある人物ですからね。
なぜこういう喜劇がわかりやすいのか。上記のようなキャラクーは、いつでもどこでも、見つけやすいからです。虚心に自分を反省できる人なら、自分にも多少はそういうところがあるな、と認めざるを得なくなるような、ありふれた人間的な弱点が、極端に誇張されて、人物の姿で出てくるからです。
 観客は、「俺はあれよりはマシだが、知り合いの誰それは、まあこういう奴だよな」なんて優越感を抱きつつ、笑い転げる。その知り合いの誰それから見たら、自分こそそうで、笑われている可能性は、棚に上げることができる。それは喜劇が成立するためには必須の、大事な人間の性質です。
 
 それで舛添さん。わかりやすいですなあ。全くもって、たいしたことがない。
 龍宮城スパホテル三日月に家族旅行に行って、会議をしたという名目で、政治資金から宿泊費を出した。一泊二十七万円? でしたっけ? もちろん私はそんな高いホテルに泊まったことはないし、これからもないでしょうが、舛添なら、ポケットマネーからわけなく出せたでしょうに。
 でも、できるだけ自分の金は使いたくない、と。まあそういう人、いますね、世間に。むしろ、お金持ちって、そういう人が多いかも。
 これが都議会で追及されると、その様子がTVのワイドショーで映され、取材結果が報告される。誰と会議をしたって? 出版社社長? 桝添の知人の中から探すと、それらしい人物は、去年死んでいて、今年行けたはずはない……云々で、要するにこの話は怪しい、そんな話をする桝添も怪しい、という場の雰囲気が盛り上がる。
 TV内の場、つまりスタジオには、コメンテーターとかいう道化役がいて、「呆れたね」とか「こんな人が都知事だなんて、恥ずかしいね」とか「許せない!」とか、アレルッキーノに比べたらはるかに気の利かない、誰でもできる反応をして見せるんですが、雰囲気が雰囲気のまま流れてしまわないように、アクセントをつけて、観客に笑う機会を与えるのも、ツッコミの大事な役割なんで、それはまあ果たしていたようです。
 その他、勉強会のために出したという玉子サンドの代金一万八千円の、疑惑の領収書。政治資金で買った本に「クレヨンしんちゃん」があった(息子が好きなんで、私もビデオを買いました)。家族の外食にも使ったようだ、回転寿司で……。
 慎ましいもんじゃないか、例えば前都知事の、不正受給の疑いがある金は五千万円。それに比べたら、むしろオレの清廉さが証明されたと言ってもいいぐらいだ、といっそ居直ったら、と言いたくなりますが、そんなふうにとった人はいなかった。とにかくセコい、ケチだ、小ズルい、意地汚い、という声だけが大きくなった。
 一度ついたこのイメージを払拭することは、たぶんできなかったでしょう。それにしても、舛添の打った手はまずかった。「第三者の厳しい眼」として、法曹界では有名な「マムシの善三」氏を担ぎ出し、政治資金の使い方には、「不適切なところもあったが、違法ではない」と言わせた。
 言葉以上に、この人のドットーレぶり、つまり、「お前ら、法律を知らんだろ」と言うが如き尊大な態度が反発を招き、それがそのまま舛添に返された。「確かに法は犯していないかも知れない、少なくとも確証はない。しかし、法律をギリギリのところですり抜けたとすれば、それこそ、人間性が悪い何よりの証拠だ。気持ち悪い、もう引っ込んでくれ」と。

 喜劇の効用には他に、社会的な強者を引きずり下ろす快感もあります。偉そうな、もっともらしい様子の奴だって、上記の人間的な弱点を免れているわけはない。むしろ金や権力で、邪(よこしま)とされる欲望を満たして、しかもそれを隠しているのかも知れない。いや、そうに違いない。それが暴かれさえすれば、彼らも、自分たちと同じような弱い立場にまで落ちるだろう。ニーチェが言ったルサンチマン(嫉妬、怨恨)が、ちょっとは晴れる機会を舞台上で見るのは、やっぱり楽しい。
 まして、TVというメディアのおかげで、同趣旨の「現実」を、家にいてビールを飲みながら見物できるのです。まあ、めったに見逃せませんわな。
 冗談じゃない、俺は舛添のおかげで本当に不快な思いをしたんだ、と言って怒る方、ちょっと待ってください。我々庶民には、「みっともない」と言われる程度のリスクもなしに、怒って、おまけにそれを家人や仲間と共有して盛り上がる機会は、そんなにありませんよね? そんな「機会」自体に需要があるから、TVなどのメディアはそうなりそうなニュースを多く供給するんです。皆が不愉快な思いをするだけなら、連日ワイドショーで伝えたりはしませんよ。
 舛添劇場は、「皆が同じ不快を共有する」という、なかなかに得難い娯楽を提供したんで、これだけヒットした。これは否定し難い事実ではないですか?

 もう一つ面白いのは、舛添自らが、大量のルサンチマンの所有者であったらしく見えるところです。
 九州八幡の、あまり裕福でない家庭に生まれ育ち、勉強でのし上がった。東大教養学部の(政治学)助教授になった昭和60年代頃から、TVの討論番組に、保守派の論客としてしばしば登場するようになる。
私も当時たびたび彼をブラウン管上で見ましたが、ただ一度だけ、発言に感心した覚えがあります。あれはいつ頃かなあ、田原総一朗司会の「朝まで生テレビ」だったでしょう。こんなことを言ったんです。
僕は外国で、何度も危ない目に遭ったが、そういうときはいつも金で切り抜けてきた
 「何度も」の部分は、カピターノばりのホラかも知れない。しかし、結局頼りになるのは金だ、と、その頃も今も、TVなどではなかなか言えない「本音」を言って、しかも説得力があった。金で苦労したことがない人間には、この迫力は出せないんじゃないかと、たぶん雑誌で読んでこの人の出自をある程度知っていた私は、思ったのでした。
 そのうち、東大の体質を批判して、政治家に転身しました。これまでの成功体験で自信をつけ、恵まれなかった幼少年期の補償のために、さらなる権力を求めた結果でしょう。
 それはいいんですが、これもしばしば取り上げられたように、この頃から、他の政治家の、金に対する汚さ、だらしなさを批判するようになりました。 「大臣になったんだからファーストクラスで海外というさもしい根性が気にくわない」とかね。彼自身のルサンチマンが言わせたのか、それとも、こう言えば権力者にルサンチマンを抱く庶民にウケる、と思ったのか。
 それかあらぬか、この当時舛添人気は高く、確か、何かのアンケートで、「総理にしたい人物」No.1になったこともありましたでしょう。偉そうな奴らをこき下ろす、アレルッキーノ的な魅力が、いくらかは感じられたんでしょうね。
 でも、アレルッキーノ役者が、年を取ると、パンタローネやドットーレをやるようになる、というのはよくある話のようです。現実でもそうか? 少なくとも、そうなりがちであることには、なかなか想像力が及ばない。それもまた、前に述べた「人間の性質」の一部なんでしょう。
 私としては、世界有数の大都市の首長が、ファーストクラスに乗るなんて、当たり前じゃないか、と思うんですが。こういうのは「おおらか」じゃなくて、「だらしない」と言うんでしょうかね。ま、私は千葉県民で、東京都に住民税を払っておりませんので、無責任な放言だと思われてもいいです。
 因みに、実は舛添以上だったんじゃないか、と一部で言われている石原慎太郎は、フジテレビの「プライム・ニュース」に出たとき、ファーストクラスや一流ホテルの問題について、「失礼ですが、あなたの都知事時代から始まったんじゃないか、と言う人もいます」と訊かれると、「あれは役人が全部決めるんで、俺自身が指示したことじゃない」と、舛添そっくりの答えをしてました。政治家(石原の場合は、元、ですが)になると、「そんなケチ臭いことを言うな」と一蹴するのは、石原といえどもでもできない、ということですね。私にはとてもつとまらないな、と改めて実感しました。
 それだけに、さんざんにコキおろされながら、なかなか「辞任する」と言わない彼の「打たれ強さ」には、正直、感心しました。ここはなかなかどうして、たいしたもんじゃないかな、と。どうせなら、往生際を徹底的に悪くして、不信任案が可決された時点で都議会を解散したら面白いのに、とそれこそ無責任に思っておりましたが、やっぱりこの人、日本の憲政史上に残るほどの大悪人になる器量はなかった。今の政治家には、それは期待できないことの一つなのでしょうね。

 最後に、次の都知事についてですが。
 今回を教訓にするなら、自分自身ルサンチマンが強いか、あるいは庶民のルサンチマンを利用することに長けている人は避けたほうがいいんじゃないですかね。いつも馬脚を出して、笑いもので終わってくれるとは限りませんよ。こういう人は、タイプ的には、ヒトラー型独裁者に近いように思いますんで。
 都民ではない私は、そうご忠告申し上げるだけです。より詳しくは、小浜逸郎氏の、下記のブログ記事をご覧ください。
 http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/0ced7935bbc25e77b979dc7856739432
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極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)

2016年06月10日 18時37分17秒 | 由紀草一
極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)
極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)パウル・クレー「大聖堂(東方風の)」(1932)*編集者記:上の絵画は、本文を読んでいるうちに、なんとなく浮かんでき...

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