美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「君の名は。」あるいは「シン・ゴジラ」についてのノート(岡部凜太郎)

2016年09月06日 16時41分23秒 | 岡部凜太郎


今年の夏に公開された「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の二作品は、既に社会現象と言える盛り上がりを見せている。

「シン・ゴジラ」は公開から一ヶ月ほどで興行収入は50億円を突破し、「君の名は。」も既に初動の興行収入だけで、12億円を超えている。

インターネットでは、多くの人間が、それら二作品について、この場面はこうではないか、あの結末はこういう意味があるのではないか、と言った具合で、考察し、議論を重ねている。

私は1999年生まれなので、「新世紀エヴァンゲリオン」放送当時、オタク達が行っていた、よく言えば真剣な、悪く言えば大袈裟な議論、考察についてはよく知らないが、当時もこういった雰囲気だったのだろうか。

「シン・ゴジラ」について言えば、東浩紀氏や石破茂氏、あるいは田原総一郎氏などが、その作品の持つ構造や、テーマ性に言及し、その議論の広がりは、いよいよ大規模なものになりつつある。

私自身、「シン・ゴジラ」については、その物語や、描写の数々に不思議な感動を覚え、興奮して鑑賞した。

既に多くの人々が指摘しているように「シン・ゴジラ」は、災害映画だと言える。自衛隊、官邸、米国、これらの組織、団体がいかに動き、そして、いかなる相関関係にあるのかを、ゴジラという究極のフィクションを用いて、鮮やかに描いている。「シン・ゴジラ」を観て、我々日本人はその内面に持ち合わせている生々しい恐怖の感情を想起させられる。

だからこそ、あれだけインターネット上で、熱い議論が行われているだと言っても過言ではないだろう。

一方で、 「君の名は。」は、「シン・ゴジラ」の対極に位置する作品だと言える。そもそも「君の名は。」では、「シン・ゴジラ」において、排除された恋愛というモチーフが、物語の主題となっているし、劇中で物語の軸となる隕石の衝突から人々を守ろうとするのは、政治家や官僚といった大人ではなく、あくまで幼さが残る思春期の高校生たちである。「君の名は。」はどこまでも非治者的、非統治者的な作品だと言える。

上記の点などで「君の名は。」と「シン・ゴジラ」は、その物語の構造やモチーフにおいて対極に位置している。しかし、自然災害を執拗と言っても過言ではないほど丁寧に描写しているという点で、両者は共通している

東京の都会の少年、瀧と、同い年である岐阜の田舎の少女、三葉が、夢の中で、身体が 入れ替わり、入れ替わりを繰り返すうちに、両者に恋愛感情が生まれてくる、というのが、「君の名は。」における序盤までのストーリーである。

上記の、まるでラブコメの王道をいくかのようなストーリーは、彗星が地球に最接近するという事態を前に、変化していく。

それは、なぜかと言えば、瀧が追い求め、探していた少女、三葉が、彗星の破片である隕石の衝突によって三年前に亡くなっていたからだ。

夢の中で入れ替わっていた、そして、繰り返される入れ替わりの中で愛しく思うようになっていた三葉が、隕石の衝突によって既に死亡していたという事態に、瀧は動揺を隠せず、もがくように三葉を追い求める。それより先の詳しいストーリー展開については、是非、劇場で確かめてもらいたいが、最終的に瀧は、三葉を救うことに成功する。

この「君の名は。」の後半において示されているこの三葉の救済という展開は、ある意味で「慰霊」だと言える。

一度死んだ人間は当然、生き返ることはないし、人間は時間を遡ることは不可能である。だからこそ、死という事態、状態はその重みを増し、我々の精神、あるいは社会に大きな影響を与えている。多くの人々が死ねば、いくら赤の他人だとしても、良い気分はしないし、まして、愛しい人間の死は、時として生きている人間の精神を破壊させる。死は突然であれば、あるほど、重大で残酷なものになる。

そして、その死の重大性、残酷性が一気に生きてる我々に襲いかかってくるのは、現代日本においては、その多くが自然災害である。

五年前の東日本大震災の際は、一万人を超える人々が一瞬にして、命を奪われた。未だに遺体すら見つかっていない死者は少なくない。仮に遺体が見つかっても、原型を留めていることは稀だと云う。

そんな自然災害の後、遺された生者は、死者の霊、あるいは魂、精神といったものを慰霊し、慰める。なぜ慰霊をするのか-慰霊という営為の意味については、個々人に思うところがあるだろうし、一概にこうである、といった具合に断定するのは乱暴だが、多くの場合、非業の死を迎えた死者を、少しでも救済したいという気持ちがあるということは、否定し難いのではないか。事実、種々の慰霊式や追悼式で述べられ、あるいは慰霊塔などの碑文には、「安らかにお眠り下さい」といった趣旨の文言が挿入されていることが多い。私は民俗学や宗教学に詳しくないが、これらの文言に、死者の魂がせめてあの世では幸福であってもらいたい、という魂の彼岸での救済を希望する意味合いが含まれていることは、明らかだろう。

そして、その魂の救済という、「慰霊」をフィクションの中で行っているのが、「君の名は。」だと言えるのではないだろうか。

非業の死を遂げた三葉をどうにかして、救済したい。瀧の純粋な想いに、観客は次第に自身の感情を同化させていく。そして、途中で、入れ替わりが戻った後は、三葉に感情を同化させる。

これほどまでに、「君の名は。」が感動的であるのは、RADWIMPSの美しい音楽や、美しい背景がその一因だと、もちろん言えるだろうが、我々が果たすことができない、死者を復活させるという究極の「慰霊」、魂の救済の理想形を、「君の名は。」に見いだしているのではないか。

「もし、私があの時、ああしていたらあの人は救うことができたかもしれない」「もしあの時ああしていたら彼女は幸せな最期を迎えたのかもしれない」。我々が何処かの地点で経験する、肉感的な死、愛しい人の死を前にして、我々がとっさに考える、夢想、妄想。それを叶えた物語、それが「君の名は。」という作品ではないだろうか。

夢想、妄想を叶えた物語と言えば、悪いイメージを抱く方も居るかもしれない。確かに、観客の願望を叶えるというあり方は、観客に甘えていると言えるかもしれない。しかし、「君の名は。」において、絶対に不可能な死者の救済の理想形を提示することで、監督の新海誠氏は、観客を救済しようとしたのではないか。いや、それは生き方と言っていいかもしれない。死者に相対した後の生者の生き方。そういった我々生者の生き方に、希望を与えようとしたのかもしれない。実際、最期の、二十代になった瀧と三葉が出会うシーンは、それまでの新海誠氏の「秒速5センチメートル」といった作品とは明確に異なった、いわゆる「運命的な出会い」と呼ぶに相応しい明るい最期を迎えている。

この最期は、我々に希望を与える。そして、その希望は死者の過去ではなく、生者の未来に向いている

死者を救済し、尚且つ生者を救済する-新海誠氏の才能に驚くばかりだ。
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日本人の原罪について ――天皇陛下の「生前退位」をめぐって (岡部凜太郎)

2016年07月19日 08時20分57秒 | 岡部凜太郎


天皇陛下が「生前退位」のご意向を示されている、というニュースを聞いて、一週間が経とうとしている。私は最初にその報らせ聞いたとき、驚きのあまり、自失し、世界が終わった、という不可思議な喪失感に満たされた。
陛下の叡慮について、ここでとやかく言うつもりはない。近々、陛下が直接、我ら国民に叡慮をお示しになられると聞いている。その後から皇室典範の改正の議論を始めても遅くはないだろう。我ら国民はただじっと叡慮に従うまでである。
されど、ただ一つ、私がここで述べたいのは、国民のその有り様についてである。
私は数ヶ月ほど前に、「『象徴天皇』と奪われた天皇」という題で、この「直言の宴」に小文を投稿した。
その小文で私は、只今の天皇、国体の有り様に、疑問を呈したつもりである。我ら国民は陛下を「象徴」という存在に縛ってきたのではないか、天皇を日常の雑な情報として消費しているのではないか、我らは国体について考えるべきではないか、と。
私の小文は幸いなことに、少なくない反響を頂いた。具体的な名はここでは控えるが、読者の方々の反響を興奮して読んだ。
そして、そういった反響の数々を何度も読んでいるうちに、あの報らせが届いた。
陛下の叡慮を伝えるマスメディアは陛下の御公務が多い、と言い、削減するべきだ、と言っていた。あるいは教養があるとされる知識人は、天皇という存在は一種の差別であるという意見を述べていた。
これらの意見はどれも正論と手放しで言えなくとも、間違ったおかしな意見という訳ではない。私とて賛同しない訳ではない。

されど、私はこれらの意見に名状し難い嫌悪の念を抱いた。それはひとえに彼らマスメディアや知識人は、我らが抱える原罪に目を逸らしているからだ。
我らは日本人として生を受けた時、罪を背負う定めにある。天皇が祭祀王として、政治紛争を調停する最高権威として、その存在が日本史において顕現した頃より、我らは天皇を一つの依り代として、自らの生存基盤を成り立たせた。
アメリカの小説家アーシュラ・K・ル=グウィンの短編「オメラスを去る人々」にオメラスという都市が登場する。オメラスは美しい理想郷で、人々が幸福に生活していた。しかし、そのオメラスの地下深くでは一人の少年が閉じ込められ、辛い生活を強いられていた。その少年のことをオメラスの人々は全員知っており、その上で少年を人々はオメラスの幸福を維持するために、閉じ込め続けたていたのだ。
絶望や怒りや憎悪は全て彼一人に押し付け、それを取り繕うかのように幸福を維持するオメラスの人々。
誤解を恐れずに言えば、天皇とはオメラスの地下の少年であるように私は思ってしまうのだ。
日本人は天皇に憎悪や憎しみや悲しみを押し付けて来た。災害が起きれば、天皇に希望を見出し。国家が乱れようとすれば、人々は政治における正義を天皇と同一化させた。そして、現代では天皇を一種の娯楽として消費してきた。
戦後の時流に怒りの声を上げた三島由紀夫でさえ、結局は天皇と自己を同一化させただけに過ぎないと、切り捨てることすら不可能ではない。
我らが平和と繁栄を享受する裏で常に天皇は孤独であったのだ
そして、その孤独を押し付けている我らは等しく罪を背負った、罪人ではないか
罪は罪として認識した時、初めて人は自らの行いについて反省し、改めようとする。聖書におけるアダムとイブの有名な話は、神がアダムとイブに失望した場面とも読み取れるが、一方でアダムとイブに自らの存在を罪という手段を用い、認識させようとした愛の場面とも読み取れる。

今、冒頭で私が感じた、と述べた喪失感は大手を振って、陛下の真意はこれだ、とする言説の氾濫を目撃して、静かな怒りに変化している。
これ以上、政治的な言説の補強材料として利用されるのを見るのは忍びない。
我々日本人は自らの行動を回顧するためにその原罪に目を向けるべきである。そして、ただ陛下を待つのみである。真意を探らず、政治に用いず、ただ待つ。それが我々国民が、民が行える数少ない罪の背負い方ではないだろうか。
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「欺瞞の時代」と奪われた天皇 (岡部凜太郎)

2016年02月07日 11時06分07秒 | 岡部凜太郎
〔編集者より〕新しい執筆者の登場です。岡部凜太郎さんは、現役の高校生です。まだ一年生のようです。その若さで、言論ポータルサイト・ASREADにおいて健筆を奮っていらっしゃるとは驚きです。(http://asread.info/archives/author/rintaro_okabe)。 拙ブログでのデビューを心から祝福します。個人的には、本文中で引用された、福田恆存『象徴天皇の宿命』の文言にぐっとくるものがありました。



「欺瞞の時代」と奪われた天皇 (岡部凛太郎)

戦後日本という「欺瞞の時代」
平成二十三年(2011年)に発生した東日本大震災は文字通り国難と呼ぶに値する大災害であった。一万を超える人々が震災の犠牲となり、未だに二千あまりの人々が行方不明となっている。多くの人々が家族や最愛の人を亡くし、その傷は今なお深いものである。

日本人にとってこの大震災は今までの平和で豊かな時代と言われていたそれが大きな転換点に立っているということを否応無く意識させた。政府の無為無策ぶりは強く批判され、今まで安全安心とされていた制度や技術に欠陥が見つかり、日本人が漠然と有していた技術や政府への奇妙な信頼というものは一気に失われてしまった。

そんな今回の大震災の発生五日目の三月十六日に今上陛下はテレビ放送を用い全日本国民へお言葉が述べられた。このテレビ放送を用いたお言葉は大東亜戦争敗戦時の玉音放送以来のものであったため、一部で平成の玉音放送と呼ばれ、また、今上陛下そして皇后陛下におかれては震災発生の翌月より千葉、埼玉、茨城、宮城と行啓され、被災者を励まされた。陛下の行啓によって治し難い心の傷が少しだけでも癒された被災者は少なくない。

そもそも今上陛下におかれては御即位以来、雲仙普賢岳の噴火災害や阪神淡路大震災などの大規模災害に際しては積極的に未だ危険の残る被災地を行啓されてきた。こちらにおかれても今上陛下は東日本大震災と同じく被災者へ励ましのお言葉を述べられ、被災者の精神的な拠り所となった。このような今上陛下の我々国民への献身的な御姿は被災者のみならず、多くの日本人が好意的に反応し、感謝している。かくいう私もその一人である。実際、平成二十一年(2009年)に今上陛下御即位二十周年を記念してNHK放送文化研究所が行った世論調査によると「今の天皇が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うか」という問いに対してアンケート回答者の85%が「十分果たしている」あるいは「ある程度果たしている」と回答したと言う。この世論調査は大震災発生前に行われおり、仮に大震災発生後の現在に行えば上記の問いに対して、今上陛下に対して好意的な回答は平成二十一年(2010年)の調査を上回るであると推測出来よう。

現在、このような天皇と国民の関係性に一日本人として私は一定の安堵の念を覚える。この安堵の念は今後も皇室の未来が安泰である可能性が高いからだが、それと同時に私を含めた一定数の人々は現在の今上陛下の御姿に疑問とも言える奇妙な違和感を感じざるを得ないのではないだろうか。それはこの今上陛下の御姿が果たして本来の天皇の御姿なのかという疑問である。

古来より歴代の天皇は国の混乱期にその混乱を鎮めようとされ、国民の精神的拠り所となってきた。奈良時代の天平期におきた度重なる疫病の流行や政変に際し、聖武天皇が全国に国分寺を建立され、さらに東大寺盧遮那仏像を建立されることでその混乱を鎮め、国家に平穏をもたらそうとされたことは有名である。又、室町末期の戦乱期に後奈良天皇が国内の戦乱と民の窮状を憂いになられ、「般若心経」を書写されたものは現在、「後奈良天皇宸翰般若心経」(ごならてんのうしんぴつはんにゃしんぎょう)として伝わっている。このように国の混乱に際して、これを鎮めようと尽力されることは天皇の御務めの重大な要素の一つとなっていると言える。そして今上陛下も古来の伝統と同じく災害が発生した際は国の混乱を鎮めようとなされてきた。

しかし、今上陛下と歴代天皇におかれてはその方法において大きな差異が存在する。
歴代天皇は国の混乱期に際してはあくまで祭司者として御祈願されてきた。しかし、今上陛下におかれては国の混乱期には自ら被災地に行啓され、被災者を御見舞いされている。歴代天皇が祭司という「祈り」で国の混乱を鎮めようとされていたのに対して、今上陛下は被災地を行啓されるという「行動」で国の混乱を鎮めようとなされていると言えるだろう。勿論、今上陛下の被災地への行啓は私自身、一国民として心から感謝しているし、それを非難しようとする意図は毛頭ない。しかし、今上陛下のこの行啓という「行動」が歴代天皇の方法と異質だということは否定し難い事実と言えるだろう。

この事実を前に石原慎太郎氏は自身のコラムの中で下記のような疑問を呈している。

日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。
戦後からこのかた皇室の存在感の在り方は、宮内庁の意向か何かは知らぬが、私にはいささかその本質からずれているような気がしてならない。たとえば何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか。
   (平成十九年(2006年)二月六日 産経新聞朝刊より)

天皇はただの個人ではない。天皇は日本の歴史の中に存在する。そして、その歴史とは祭司としての歴史である。しかし、その祭司としての天皇、即ち天皇の伝統に鑑みた場合、本当に現在の天皇の在り方で良いのか。上記の石原氏の違和感とは日本の文化伝統である天皇が現在の天皇のあり方と一致しているのかという違和感でありそれを問題としない現代の日本への危機感を祭司という文言を使い投げかけたものと言えるだろう。

とはいえ、天皇という存在は説明するまでもなく日本の伝統そのものである。そういった天皇という伝統が従来の伝統から離れつつあるというこの事態はいささか奇妙である。それは天皇が歴史であり、なおかつ個人を指す、多義的言葉であることに直接の原因をみいだせるし、単に今上陛下が従来の伝統とは異質な御仁であられると言うこともできるだろう。しかし、この奇妙な事態の原因を深く探っていけば、最終的に現在の天皇像、すなわち戦後における天皇という問題に突き当たってしまうだろう。

 戦後天皇の欺瞞
戦後日本において天皇のその神格性は積極的に肯定されていない。天皇と言えどもその地位はあくまで国民の意思の下にあり、その改廃の可否は国民自ら決める権利を有する。こういった意識は天皇を否定的、肯定的に見る立場に関係なく、戦後日本人が有している共通の認識と言えるだろう。また敗戦直後の昭和二十一年(1946年)に昭和天皇御自身より天皇は現人神ではないと解釈できる詔書が発布され、天皇は神ではなく、あくまで我々と同じ人間であり象徴なのだ、との考え方が天皇の意思、言うなれば陛下の御心とされ、戦後の日本はそうした天皇の人間性すなわち人間天皇を国家の大前提、「象徴」としていただきながら歩んできた。いわゆる「象徴天皇制」と呼ばれるものは、そういった個々の天皇の人間性を強調し、政治性を排除する「制度」とそしてそれを覆うように存在する天皇もただの人だとするヒューマニズムと表現できる人間礼賛主義的な思潮の総称と定義することができるだろう。

今上陛下が、「日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い」というお言葉を皇統の歴史と伝統を我々日本人に最も意識させる即位の礼に際して述べられたことで、戦後に始まった「象徴天皇制」は完成を迎えたと言って良い。勿論、宮中においては現在も祭祀は行われており、神道と天皇の関係性は切っても切れないものである。が、そういった宮中の祭祀や神道との関係性があくまで皇室の「私的」行事とされているということ自体、天皇の神格性を否定しようとする「象徴天皇制」の試みそのものと言えるだろう。

天皇と言えどもあくまで国民の意思決定の下にあるとする考えが日本人の共通認識である。そして、この共通認識は勿論、現行憲法第1条における「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という条文に起因する。

しかし、我々日本人はこの条文の意味を深く理解しているのだろうか。例えば、条文における象徴という語の意味を一体何人の日本人が説明できるのだろうか。そもそも、条文の国民統合の象徴という語の意味自体、明確ではない。ここにおける国民とは単に現在生きている日本人のみに限定しているのか、それともすでに死者となったものあるいは今後生まれてくる日本人も含むであろうか。それ自体もこの条文からは読み取ることは出来ない。

我が国の現行の憲法は国家の最高の成文法であるにも関わらず極めて不明瞭かつ不可解なものである。

なぜ現行の憲法がこれ程不明瞭かつ不可解であるかと言えばそれは現行の憲法が日本に対して無知で無理解な極少数のアメリカ人によって起草され、銃剣を前に日本政府に押し付けられた欠陥憲法だということに当然、起因する。この連合国軍による憲法の押し付けは占領軍の被占領地での遵法義務を明記したハーグ陸戦条規第43条に明らかに反し、国際法違反である。このことは十分に批判されなければならない。しかし、真に問題なのはこの国際法違反の欠陥憲法を一度も微修正すらせず、天皇という我々のアイデンティティー、自己同一性に深く関わる存在を「国民統合の象徴」という条文に追いやった事である。

福田恆存は昭和天皇崩御ののちの平成元年(1989年)に「象徴天皇の宿命」という評論を発表した。ここにおいて福田は自身と昭和天皇との想い出を回想したのちにこの「戦後の天皇」という存在の辛さについて述べた。

 『象徴』とは何を意味するのか。不敏にして生者が『象徴』に使はれた例を知らない (中略) この世の一体何人が同胞感などといふ抽象的属性の『象徴』たる事が出来ようか (中略) 全生活をあげてさういふ『象徴』にならうとすれば、身動きの出来ぬ非人間的な存在にならざるを得ないであらう。天皇はさういふ苛酷な宿命を身に背負ひながら、しかしなほ周囲のあらゆる紐帯を断ち切られてゐるのだ。政治から断ち切られ、軍事とは訣別し、藩屏たるべき華族は消滅した。そしてひたすら署名をし、人に会ふことのみを責務として求められてゐる‥‥‥。これを四十年間繰返してゐれば、天皇の面上に孤独、苦渋の色が現れて来るのも至極当然といへよう。  (『象徴天皇の宿命』)

我々日本人は戦後、天皇を非人間的な「象徴」に追い込み、福田の言う「さういふ苛酷な宿命」を追わせたと言えるのではないだろうか。敗戦前に天皇が有していた軍人としての雄々しさや凛々しさは排除され、天皇はただ国民に笑顔を見せ、人々に会うというある種のロボットに戦後、仕立て上げられてしまった。更には天皇が執り行われる祭祀は現在、あくまで天皇の個人的な儀式とされ、天皇が有してきた国家の祭司という側面すらも発端は連合国軍とは言え戦後日本人は否定してしまった。

天皇が有してきた様々な属性と呼べる天皇像を奪い、国民統合の象徴という急拵えの存在に統合する、これが我々日本人の真の戦後の歩みの姿だったのだ。

先程の引用で福田が述べたように昭和天皇は孤独であられた。大東亜戦争敗戦とその結果としての国民の犠牲の責任を深く痛感されながらも、戦後、その苦しい重圧を吐露する重臣や元老らはすでにおらず、外野の批判に耐えることしか出来なくなってしまった。

宮中の外には昭和天皇を侵略戦争を指揮した悪魔のごとく宣伝する輩が溢れ、天皇打倒を謳う知識人らが時代の寵児として持て囃された時流すらあった。それと同時に皇室は悪しきジャーナリズムの餌食となり、下品で興味本位な皇室に関する記事が盛んに掲載されるようになった。「週刊誌的天皇制」などという言葉が生まれたのは丁度、そういった悪しきジャーナリズムが跳梁跋扈していた昭和三十年代である。

我々日本人の戦後の天皇に対する関係性を見ていけば、それは天皇を「国民統合の象徴」という檻に追い込むことで、それ以前に存在していた様々な天皇像を否定し、下品なジャーナリズムや知識人達を用いて、皇室ひいては天皇を好奇の対象として見物し、あるいは与太話の種として消費し、天皇の人格性を徹底して蝕んでいくものであった。そういった現状を前にすれば現行の「象徴天皇制」が全く戦後、信奉されてきたヒューマニズムとは程遠い非人間的かつ多様な天皇のあり方を否定する偏狭なものであると言え、そして、そのような非人間的で偏狭な「制度」を国家の前提としてきた戦後という時代はヒューマニズム、自由から最も遠い時代であると言わざるを得ないだろう。

江藤淳は戦後という時代をアメリカの力に依存し、自己同一性を回復できず、真の経験を得ることができない「『ごっこ』の世界」であると批判した。が、天皇を一つの存在に押し込むという行為を主権回復後、自ら進んで積極的に行ってきた戦後日本は天皇という問題に関しては「ごっこ」よりも酷い「欺瞞の時代」だと言えるだろう。

 三島由紀夫の行動と挫折
三島由紀夫は昭和45年(1970年)に森田必勝と共に自衛隊庁舎において自決を遂げた。この三島由紀夫事件の背景に三島達の戦後時代の欺瞞への絶望があるということは言うまでもない。

 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。  (『檄』)

三島が自衛隊庁舎でばら撒いた「檄」は三島の最後の文学であり叫びであると言える。この有名な三島の叫びの奥には三島の複雑なものがある。それは、天皇への崇敬とそれ故の激しい呪詛である。

三島の盟友的存在である林房雄との対談において、三島は天皇は神と人間の境界に位置するとする林の天皇観に対して天皇は絶対的に無謬な神であると述べている。

 僕は天皇無謬説なんです。僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ (中略) つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。   (『対話・日本人論』)

三島にとって天皇とは人格性を有しつつもそれは無謬の存在つまり神であった。それは幼少の頃より祖母の影響で古典に親しみ、蓮田善明や伊東静雄から強い精神的な影響を受けていた三島にとっては当然のことであった。

そして文の後半で三島が述べているように戦後の「人間天皇」は三島にとって我慢ならない存在であった。
自決の三年前の昭和四十二年(1967年)に発表された「英霊の聲」には三島の天皇への崇敬故の戦後の天皇への呪詛が死した英霊の叫びとして明瞭に書かれている。

「陛下がただ人間と仰せ出されしとき神のために死したる霊は名を剥脱せられ祭られるべき社もなく今もなほうつろなる胸より血潮を流し神界にありながら安らひはあらず」

「日本の敗れたるはよし農地の改革せられたるはよし社会主義的改革も行はるるがよしわが祖国は敗れたれば敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよしわが国民はよく負荷に耐へ試煉をくぐりてなほ力あり。屈辱を嘗めしはよし、抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、されど、ただ一つ、ただ一つ、いかなる強制、いかなる弾圧、いかなる死の脅迫ありとても、陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。世のそしり、人の侮りを受けつつ、ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉ひ、そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに宮中賢所のなほ奥深く、皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん。などてすめろぎは人間となりたまひし。などてすめろぎは人間となりたまひし。などてすめろぎは人間となりたまひし」

  (『英霊の聲』)
 
三島にとって天皇は無謬の存在であり続けなければならなかったのであり、神であったからこそ、二二六事件の蹶起者達、そして特攻隊員達は救われるのである。この「などてすめろぎはひととなりたまひし」という一文に代表されるように、天皇に神としての無謬性が存在すると考える三島にとって天皇が人間であるということは正に「裏切り」であり、戦後日本の「象徴天皇」は英霊への冒涜以外の何物でもなかったのだ。

三島はそういった戦後の「象徴天皇」という冒涜の現状を変革するために「文化防衛論」を発表し、「政治概念」とは分離された「文化概念としての天皇」を提唱した。

「みやびの源流が天皇であるということは、美的価値の最高度を『みやび』に求める伝統を物語り、左翼の民衆文化論の示唆するところとなって、日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発している。そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高貴で月並みなみやびの文化であり、文化の反独創性の極、古典主義の極致の秘庫が天皇なのであった (中略) 文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに『みやび』の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、というのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも抱含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並みの故郷であった」(『文化防衛論』)

「全体性」「再帰性」「主体性」に要約される「行動様式」としての日本文化を防衛するためにその文化の母胎である天皇を防衛する必要があるとする三島の論には、浅薄な文化主義が跋扈する戦後への嫌気と天皇、つまり国体を形式的に或いは内実的に破壊しようとする試みが目前にあったことへの危機感があることは明白である。特に後者への危機感は天皇がいくら国民から支持されようともそれが単なる天皇への「好意」である以上、いつその「好意」が無関心になるかはわからない。だから単純に天皇を擁護するのではなく文化も含んだ国体を保護する必要があるという三島の複雑な天皇への想いを見ることが出来る。

 文化の全体性を代表するこのような天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、あるいは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。 (『文化防衛論』)

しかし、その試みは失敗し、先程述べたように三島はあの劇的な死を迎える。
幼少より崇敬していた天皇に人間の「象徴天皇」というかたちで裏切られ、更に戦後、浅薄な昭和元禄を終焉せしめる役割として希望を見出していた自衛隊からも最後、自衛隊庁舎で自衛隊員から罵声を浴びせられることで裏切りられてしまった三島は切腹という「行動」で自身の文化、天皇への思いを叫ぶことなる。

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
 (『果たし得ていない約束』)

三島が没して四十五年が経とうする現在も三島が唾棄した戦後の天皇は国民からの崇敬ではなく興味というかたちで存在している。そして、元号こそ変わっても浅薄な文化主義による昭和元禄は続いている。三島の論はある種の過激さが常に存在しており、三島の天皇への想いを政策論として俎上にあげることは危険かも知れない、戦後という時代における我々日本人の努力を否定することも決して行うべきではない。しかし、仮にそうであったとしても我々日本人はこの「欺瞞の時代」とどう向き合い、対処すべきか、我々はその行動の真価が問われているのではないか、そのように私は考える。
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