八月十三日に私が投稿した「教育問題と戦後民主主義と日教組 soichi2011さんへの返事」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6018fe3b4272cc174490daf9af05fcb6に対するsoichi2011こと由紀草一氏からの返事を掲載します。
「教育現場で教師たちを悩ましているモンスター・ペアレンツの自己中心的な言動(オバタリアリズム)に対して、現実的にも原理的にも無効である戦後民主主義を思想的にきちんと埋葬することが必要である。戦後民主主義は、オバタリアリズムを原理的には肯定するほかない。それを信奉してきた日教組は解体されるべきである」という私の主張をめぐって、根底からの考察がなされています。
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美津島明 様
バトンタッチされてから、個人的な用事で、渡されたバトンを返すのがすっかり遅くなってしまいました。今も忙しいと言えばそうですが、やはり気になるのは体より心の疲れです。そのために、表現という私の生きがいに場を与えてやろうというお申し出は、本当にありがたいものです。
で、お言葉に甘えて、「戦後民主主義」と「学校の現状」につきまして、牛の涎の如く長々しく愚見をご披露したいと思います。もとより、このブログは美津島さんのものですから、以下の拙文中、あまりにも議論の本筋を逸脱している、と思われましたらその部分の削除、また、拙文全体が「載せるだけの価値なし」と思われましたら、全体をボツにしていただくのも、すべて御自由です。
まずはやっぱり、戦後民主主義について語りましょうか。現実的な問題解決には結びつかなくても、「正しい考え」がある、という線を崩すほどニヒリスティックにはなれないとしたら、言葉の整理は一応しておいたほうがよろしいでしょうから。
石川達三「人間の壁」と言えば、もう知る人も少なくなりましたが、昭和32年の佐賀県教組の、教職員定員削減(首切り・減給を含む)反対闘争を描き、一時は「日教組運動のバイブル」と言われた小説です。この中の「拡大闘争委員会」の章で、一人の教師がこんなことを言います。
つまりですな、日本の政府は、僕はこまかい所まではよく知らんですが、要するに資本主義政府だろうと思うんです。ところがその政府が、われわれに要求している教育の体系は、民主主義教育なんです。
(中略)
資本主義政府ではあるけれども、資本主義教育をやる訳にはゆかないし、それでは憲法に違反することになるから、やむを得ず文部省は民主教育を看板にしているんだが、本当は学校で民主教育をされたら困るらしい。ところが日本中の先生たちはたいてみんな貧乏で、プロレタリヤですから、そういう教師に日本の教育を任せておいたら、資本主義教育なんかやるはずはないんで、みんな民主教育をやりたがります。(岩波現代文庫版 中巻P.211~212)
「何を言ってるの?」とは思いませんか? 民主主義と資本主義が対立するもののように言われている。社会主義、という言葉こそ使われていませんが、「プロレタリヤ」なるおなじみの用語からすると、どうもそこに親近性があるらしい。社会主義こそ民主主義と矛盾しない体制? と、すると、「プロレタリア独裁」とは何? 独裁と民主主義は矛盾しないの?
てなことを言うと、訳知りの人に憐れまれるかも知れませんな。
「民主主義というのは、戦後初期の日本では、あるいは部分的には今でも、左翼が掲げた看板なんだよ。戦前のプロレタリア文学の正嫡をもって任じた中野重治たち『新日本文学』派は自分たちの理念を『民主主義文学』だと言ってたんだし。今もある共産党の下部組織は『民主青年同盟』でしょう? 外国では日本のすぐ近くに『朝鮮民主主義人民共和国』てのがあって、ここでは一度も選挙が行われたことはないでしょう?」
はい、その通りです。言葉の中でも特に「民主主義」なんていうデカすぎる抽象語は、時代により集団により、かなり得手勝手に使われる。そういうもんです。
しかし、純然たる誤用、あるいは言っている本人も半分以上自覚している欺瞞だったら、それほど強く人々を動かすことはできません。問題は、ある言葉にこめられた情念であり、それがどれくらい広く、深く共有されているか、なんです。
この時代の、日教組の良心的な教師たちは、戦前の「軍国主義教育」あるいは「皇民教育」が、戦後「民主主義教育」に変わったのだ、ということはそれこそ疑うことのできない公理としてみんな認識していた。戦前の教育は、国民を無謀な戦争に駆り立て、塗炭の苦しみを嘗めさせた、悪の代名詞である。もう二度と再びそこへもどってはならない、と。そこで、「愛国心」だの「道徳=修身」だのという、戦前の匂いのする言葉はすべて忌避される。新時代の「民主主義」は絶対にそれとは違うはずである。
もう一つ、先の戦争は、財閥と軍部が結託して、金儲けのために植民地を増やそうとして起こしたものだ、という認識も、彼らには常識であった。だから「資本主義」は悪である。一方、「民主主義」はよいもののはず。ならば「資本主義」とは対立する。この三段論法(ですか?)で十分。
そもそも、言葉の定義なんて次元より、現に資本家の走狗たる政府自民党は、やっと芽生えた民主主義教育を守ろうとする教師たちを蔭に陽に弾圧している。だから、資本主義は民主主義の敵なのだ。そう言って何か不都合はあるか?
…ありますよ。戦前の日本はすべて悪、愛国心も悪、とするところから生まれてくる極端な、というよりは常軌を逸した反日感情は、例えば美津島さんの心に逆の情念を植え付けてしまったではないですか。情念といっしょに言葉のイメージが反転して、民主主義は、少なくとも日教組など左翼勢力が看板にした「戦後の民主主義」は悪なんだ、ということになりました。
これでは民主主義が可哀そう過ぎます。人は理屈よりは情念によって大きく動かされるものであることは今も昔も変わりません。問題は、善悪の基準が反転した情念同士の間には、決して妥協が成立しませんので、しまいには戦争しかなくなってしまうところです。知性って、そういうときに、少しは役にたたないものでしょうか?
それで、知性の担い手が知識人であるはずなんですよね。
昔西部邁さんが小林よしのりさんとの対談で、「知識人というのは村はずれの変わり者(あるいは、狂人、だったかな?)なんだ」と言っていたことを思い出します。
例えば、ある村で普通に通用している言葉に対して、「その使い方は正しくねえだよ。それは本来かくかくしかじかの意味なんでよ~」なんぞと、無益な知識をひけらかしては、他の村人からうるさがられたり、笑われたりで、まともに相手にされない。しかしたまに、村の常識では対応しきれない異変が出来したときには、変わり者の意見が役に立つ、かも知れない。
例えば、今年はたいへんな凶作で、いつものような規模では村祭りはやれんなあ。んでも、完全にとりやめではさびし過ぎるべえ。最小限でもやるべし。んだが、そんでは、最小限とはなんだ? 神輿を担ぎ回ることか? 村の娘や子どもたちの踊りか? どっちだ? どっちが大切だ? 逆に言うと、やらずにすますか、規模を縮小するとしたら、どっちにすんだ? 村人それぞれに思い入れがあって、どうにも調停がつかない。だいたい、「思い入れ」は情念なんで、話し合いにならない。感情的な反目が増すばかりで、ものごとが一歩もすすまなくなった。
ところへしゃしゃり出てきた変わり者。「古い文献によるとだな、この村の祭りはよ、昔とんでもねえ悪天候が長く続いたんだとさ。そんとき、神様にいろいろおうかがいしてよ、そしたらこの神様がえれえ踊りが好きでな、そんで娘っ子とガキもでえ好きだと御宣託があったんでよ、踊らしてみたら天気がよくなんだったんだと。それが起こりだから、祭りでてえせつなのは踊りなんだんべよ」などと言う。
それでものごとが落ち着いた、めでたしめでたし、なんてことのほうがずっと少ないでしょうねえ。でも、なんとなく、議論の道筋はついたような気がしませんか? 「こいつが言ってることは本当はどの程度に正しいのか」とか、「元はこいつが言っている通りだとしても、その後の歴史の中で祭りの意義が変わったように思えるのを、どう評価するか」なんて具合に問題を立てたら、その線でああだこうだ言っているうちに、「落とし所」が見つかるんじゃないか、な? 村人がそう思ってくれたら、もう変わり者の役目はすんだんで、あとはまた村はずれにもどって、役にも立たない、誰も聞かない理屈を捏ねていればよい。
私は、知識がないので、知識人とは言えないんですが、生来理屈をこねたがる性分なんで、まあ、この村はずれの変わり者に、実際、職場などでもなっているんです。それで、親愛なる美津島さんへの失礼も顧みず、今も現にやっています。
因みに、先の「人間の壁」中の教師も、これから文部省や佐賀県とどう戦うのかが議題の、切迫した会議の席上で上のようなことを滔々と述べるので、笑われたり、「議事進行!(=余計なことを言うな!)」と言われたりします。他の参加者からすれば、言っている内容がまちがっている、というのではない、そんな原理論に悠長に耽っている場合ではない、というわけです。でも、彼が原理論をやってくれたおかげで、日教組活動の根底にあったものは今もよくわかる、そういう効能はあります。私が滔々と述べるところも、無益かも知れないが、せめて皆様に笑っていただけたら幸いです。
これから、村はずれの変わり者が民主主義を云々します。
そもそも何が一番根本なのかと言いますと、ホッブズさんあたりを元祖とする社会契約説でよかろう、と思います。たぶん皆さんご存じでしょうが、ざっとまとめますと、
「人間はみんなエゴイズムの固まりであって、放っておけば自分のことだけ考えて勝手なことばかりやる。それでは世の中が保たれないので、強そうな連中に依頼して、利害の対立が生じたら調停してもらうことにした。これが公権力の起こりである」
こうまとめると、自分ですぐにあらが見えるんだから世話はない。ざっと挙げますと、
(1)これは歴史的な事実とは言い難い。権力者がまずいて、それが元は自分の支配下になかった者たちまで征服するようになってから、その征服を正当化するために編み出された理屈のうちでも、たぶん一番新しいもの。そう言ったほうがまだしも事実に近い。
(2)これで世の中をまとめるためには、公権力の裁定には皆が従う、という同意が必要である。もちろん、皆が心から同意するとは限らない。社会の全員が納得するような正義や善がいつでもどこでも見つかるものなら、元々こういう話にはなっていない。公権力の裁定に不満で、従わない者には、有形力(暴力の上品な言い方)が行使され、つまり無理矢理でも従わせることもまた、同意されていなければならない。
ところで、しかし、公権力はいつも正しいか? そんなこと、あるわけない。それなら、公権力が明らかに間違っているときには、従わないほうが正しく、無理矢理従わせようとするほうが悪である。いわゆる「権力悪」。これをどうしたらいいか。難問中の難問です。
(3)ここで言われる公権力は、エゴイズムの調停者であるだけだ。本当の人間の価値とか、生きがいとかは全然与えない。ありがたいものだとは全然思えないのだが、それでもよいのか。
それでよい、と私は思います。人間的な価値とかは、権力が容喙すべきものではない。宗教や芸術が扱うべき事柄だ。てなことを言ってますと、宗教が大勢信者を集めた場合、それは有形力も備えますから、その意味で一種の権力になります。そういうのはどうするのか、も歴史的な難問で、日本ではこれが少なかったんでよかった、とはよく言われますね。
でもやっぱり、(3)も問題になります。日本人には、キリスト教みたいな宗教心は薄くても、よその国人々と同じぐらいには、「正義」という言葉や概念に、個々人のエゴイズムや利害の調停以上のものを求めたがるものですから。
その輝かしい「正義」こそ、とてもやっかいです。エゴイズム以上に、と私は思います。これからはその話になって、「美津島さんの言ったこととなんのつながりがあるの?」と思われるかも知れません。しかし、美津島さんがこの場合一番大事に思っているらしい「公を担う私」まで射程に収めるにはこの迂廻路を通ったほうがいいと思えますので、どうぞご辛抱を。
人間はみんな自分が一番可愛い。それは自然なことであって、悪ではない。それがわかったら、もうひとつ、自分だけでなく、他人にもエゴイズムがあるし、それを非難することはできない、まで認めたらよろしい。そうであるならば、押さえるべきところは押さえないと、結局自分のエゴイズムだって通らなくなる。これが正義のすべてだ、なんて言うと、それこそ小学生にするお説教みたいなもんじゃないか、それだけのはずがあるか、と多くの人が思うでしょう。
実際、それだけでは話は決しておさまりません。ただ、制度は調整のためにこそある、という「根本」は必ず押さえておくべきだと思うので、しつこく繰り返します。
例えば我が畏友夏木智がよく持ち出す交通信号。誰でも車を運転したら、赤信号なんかでテレテレ止まっていないで、直に目的地へ行きたいもんです。だからと言って、みんなが他人には譲らず、自分の行きたい道をどしどし行くだけなら、危なくて、運転そのものができなる。つまり、「車を運転したい」という、エゴイズム、とは言えないか、自分の都合、から考えても、とても都合の悪いことになる。
これはわかりやすいですね。だからと言って、というか、だからこそ、「交通信号様はありがたい」などと崇拝する人はいません。
民主主義、というか民主制もまた、利害調整の原理であって、交通信号のうんと複雑になったものに過ぎない(複雑な分だけ調整が難しく、壊れやすいのは確かですが)、などと言われて満足する人は今でも少ないでしょう。もっとずっと輝かしいか汚らしいか、大きな意味があるはずだ、と。だからこそ、人々の情念を絡め取ることができて、言葉と概念の限りない混乱が生じるのです。
それでようやく美津島さんがおっしゃっていることに直接絡むんですが。
戦後民主主義は、教育の場にどのような不都合をもたらしたか。まず、悪平等。すべての人間は本来平等である、というのは、いかにも民主主義的な理念ではあります。「すべての人間」の中には子どもも入る、と。子ども=生徒も一個の人格を持つものとして尊重されねばならない、と言った人はいたし、今もいます。教師も生徒も、基本的には平等なんである、とも。
それなら、生徒は教師の言うことにいつも従う必要はない。「授業だから教室へ入れ」と言われても、いやなら入らなくてもいいのだし、「勉強をしろ」と言われても気分が乗らなければやらなくてもよい。そのために、学校内で勝手放題やる生徒がでてきて、やがて学級崩壊にも至るのだ、と。
いかにももっともらしい。しかし、現場教師として、個々の生徒の顔を思い浮かべると、どうしてもズレている、と思えます。教師の言うことを聞かない子どもは、「自分たちは権利主体だから」と考えてそうしていると思いますか? あるいは、モンスター・ペアレンツ、美津島さんの言うオバタリアンたちは、自分の子を権利主体として扱ってくれ、と要求しているのでしょうか? むしろ、それなら話は早い。
教室へ入りたくない? はいどうぞ、どこへでも行って。勉強したくない? だったらやらなくていいよ。君に関することは、君自身が決めればいいんだから。ということはつまり、その結果どういうことになっても、それは君の「自己責任」ということになるんだよ。あ、念のために断っておくけど、君一個の範囲を超えて、例えば授業中騒いで妨害したという場合には、他の生徒の学習権を侵害したことになる。教師からみたら業務妨害になる。だから、応分の責任はとってもらうからね。「責任の主体」であることがつまり、「権利の主体」である、ということなんだから。
保護者の皆様、このような言い分にご満足いただけますでしょうか? モンスターペアレンツほど、受け入れないんじゃないかなあ。そして、美津島さんはどうだかわかりませんが、戦後民主主義教育を唾棄すべきものとしている、いわゆる保守派の皆さんも、この点では同様でしょう。
そういうズレはあっても、平等主義をタテマエとする戦後民主主義は、オバタリアンたちと親和性はあるだろう。だから、彼女たちをとめられないんだろう、と言われますか。それはその通りです。しかし、他の体制・思想だって、自分勝手なことを言う人はどうしても出てきてしまう。それは見ておかないと、民主主義に対して著しく不公平になるでしょう。
日教組の教師たちやその同調者たちの怨嗟の的になった、そしてそうなることで、組合活動に正当性を与えることになった、日本の軍国主義はどうでしょうか。確かに、威張りくさる軍人はいたんですよね。ああ、美津島さんが以前ある会で見せてくれた映画「拝啓天皇陛下様」にも出てきましたっけ。あれでもそうでしたが、下士官ほど、自分より下の者に対しては強圧的な態度になりがちなもののようです。
私の父は、いわゆる戦中派の端っこで、最近ボケてきましたが、そういう人の常として、昔のことは実によく覚えている。思い出話の一つに、小学校へ少佐・中佐クラスの軍人がやってきて、講演などしていった時のことがあります。彼らはたいてい、軍隊内部では出世が見込めなくなった者で、その分、外部でやたらに威張る。「大日本帝国の臣民たるものは」どうたらこうたら垂れて。御真影のガラスが汚れていると言っては校長を叱り飛ばし、自分の講話中児童がよそ見をしていたと言っては教師を詰る。
彼らは心底大日本帝国の栄光を信じ、そのためなら命を投げ出す覚悟でいたのでしょうか? そんなことはわかりませんし、だいたい、重要でもありません。とりあえず、彼らは、その場では帝国の代表者なので、「正義は我にあり」と考えていた。ただ威張りたい、大きな顔をしたい、というだけのエゴイズムないし虚栄心が、そこで正当化される。そして、自分の正義に逆らう奴は、悪の「非国民」に決まっているのだから、叱り飛ばすなんて序の口、やっつけてしまってよい。
このような心性が日本を大東亜戦争の破滅にまで導いた、というのが戦後左翼の言い分なわけで、私はそれは、部分的には真実であろうと思います。で、この心性が軍国主義と呼ばれ、戦後は悪の代名詞となった。するとそれに反対するのは絶対に善で、その善に反対するのは悪で…、で冒頭につながります。正義はかほどにやっかいなものなのです。いつでも、どこでも。
ただ、次の違いはあります。封建主義や軍国主義の時代は、社会の正義は少数者の占有物であった。だから威張る人は少数で、多数はただ威張られるだけの存在であった。民主主義は正義の門戸を広くした。少なくとも、そのような思い込みは与えた。このため、正義のインフレが生じて、以前よりは世の中が無秩序に見える。そんなもんじゃないですかね。
オバタリアンも、その子どもたちも、どうやら「正義は我にあり」と言った様子をしています。ともかく、教員に対しては。しかし、彼らに正義を供給しているのは民主主義ではない。では、何か? 一種の宗教だ、と私は思います。呼び名としては、今まで使わせてもらった「お子様教」より「教育教」というほうがどうやらふさわしい。
その根本教義は、「どんな人間でも、よい教育によって、よくなる」です。だから、生徒が悪いとしたら、よい教育ができない教師が悪いのです。そこを反省しないで、生徒を叱り飛ばすなんて、とんでもない教師だ、と、煎じつめればこういうことになる非難に、現在の教師は実際に晒される機会が多いのです。
話がややこしくてすみませんが、だからと言って、日本の多くの人が、教師批判が大好きなオバタリアンを含めて、心からこの宗教の信者かというと、どうもそうでもないような。
上の教義をちょっと具体的にしてみます。「どんな悪い奴でも、よい教育によって矯正できる」。「どんなに馬鹿な奴でも、よい教育によって学力をつけられる」。どうです? これ、その通りだと思えますか? それとも、笑えますか?
こういうのは論破できません。以下と同じですから。
A「神様を信仰しているのに、ちっとも御利益がないぞ」。B「そりゃ、信仰心が足りないからだよ」。A「それじゃどこまで信仰したらいいんだ?」。B「御利益があるまでだよ」。
念のために、教育教用に文句をあてはめておきます。
A「よい教育を受けたってよくならない奴もいるじゃないか」。B「そりゃ、教育のよさが足りないからだよ」。A「どこまでいったら十分によい教育と言えるんだ?」。B「教育を受けた人間がよくなるまでだよ」。
こんなことにかかずりあっているほどヒマな人間はそうはいませんわな。しかし、教師が「そんなの、オレ、知らないよ。オレにできるのは交通整理みたいなことだけだよ」などと言うと、不安がる人はとても多いです。そしたら、教師は、勉強ができない子や、素行の悪い子をただ放っておくようになるんじゃないか、ということらしいですねえ。だから、自分はともかく、教師は、教育教を信じてほしい、とこの部分は本気で思うようです。
考えると不思議な話ですね。しかしこの感情は、現代の正義の感情と直接結びついているらしい。
そして、どっちが原因でどっちが結果かは知りませんが、教師のほうでも、自分は交通整理よりは崇高な何かをしている、少なくとも、しようと努力している、という顔をしたがるんですな。
ここに罠がある。まことに、「先生と、言われるほどの馬鹿はなし」でして。教師はいくらでも嘲笑されるんです。まず、そんな非現実的なことを信じている馬鹿者として。次に、それでいて実際は何もできない無能力者として。そして、何しろ話が大きいし曖昧でもあるので、次のような要請も、もう現実に出てきています。
「教育は立派なことなんだから、先生は信号機よりは立派なんでしょう? それなら、うちの子が運転したいときには、一時止めたりせずに、ずっと走らせてやってくださいよ。そうじゃないと、あの子のやる気が殺がれるんですから」
今日本中の教師たちを脅かしているモンスター・オバタリアニズムの真髄を、試しに言葉にしてみるとこうなります。
こう言う彼女たち自身は本当の教育教信者ではないかも知れませんが、ただ、少なくとも信じるふりをして、その教義からして、不正を働いているとみなせる教師を非難する正義を手に入れているんです。たぶん、三日やったらやめられないぐらいには、面白いでしょうなあ。
そして、文科省は、教育教の総本山みたいな顔をしなくてはならないので、私が以下の自分のブログで述べたような現実的な施策にはなかなか踏み切れないのです。現実的だというだけで、もう、教育教の「夢」を傷つけますから。教育教には今や、そういう実害が出てきています。
「そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/4edea3ee82e28b5478bedeba2ab5d921
改めて美津島さんへ。お言葉にすっかり甘えて、好き勝手にしゃべり散らしました。今後どれくらい時間はかかってもかまいませんから、できたら、対応してください。
Soichi2011こと由紀草一
「教育現場で教師たちを悩ましているモンスター・ペアレンツの自己中心的な言動(オバタリアリズム)に対して、現実的にも原理的にも無効である戦後民主主義を思想的にきちんと埋葬することが必要である。戦後民主主義は、オバタリアリズムを原理的には肯定するほかない。それを信奉してきた日教組は解体されるべきである」という私の主張をめぐって、根底からの考察がなされています。
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美津島明 様
バトンタッチされてから、個人的な用事で、渡されたバトンを返すのがすっかり遅くなってしまいました。今も忙しいと言えばそうですが、やはり気になるのは体より心の疲れです。そのために、表現という私の生きがいに場を与えてやろうというお申し出は、本当にありがたいものです。
で、お言葉に甘えて、「戦後民主主義」と「学校の現状」につきまして、牛の涎の如く長々しく愚見をご披露したいと思います。もとより、このブログは美津島さんのものですから、以下の拙文中、あまりにも議論の本筋を逸脱している、と思われましたらその部分の削除、また、拙文全体が「載せるだけの価値なし」と思われましたら、全体をボツにしていただくのも、すべて御自由です。
まずはやっぱり、戦後民主主義について語りましょうか。現実的な問題解決には結びつかなくても、「正しい考え」がある、という線を崩すほどニヒリスティックにはなれないとしたら、言葉の整理は一応しておいたほうがよろしいでしょうから。
石川達三「人間の壁」と言えば、もう知る人も少なくなりましたが、昭和32年の佐賀県教組の、教職員定員削減(首切り・減給を含む)反対闘争を描き、一時は「日教組運動のバイブル」と言われた小説です。この中の「拡大闘争委員会」の章で、一人の教師がこんなことを言います。
つまりですな、日本の政府は、僕はこまかい所まではよく知らんですが、要するに資本主義政府だろうと思うんです。ところがその政府が、われわれに要求している教育の体系は、民主主義教育なんです。
(中略)
資本主義政府ではあるけれども、資本主義教育をやる訳にはゆかないし、それでは憲法に違反することになるから、やむを得ず文部省は民主教育を看板にしているんだが、本当は学校で民主教育をされたら困るらしい。ところが日本中の先生たちはたいてみんな貧乏で、プロレタリヤですから、そういう教師に日本の教育を任せておいたら、資本主義教育なんかやるはずはないんで、みんな民主教育をやりたがります。(岩波現代文庫版 中巻P.211~212)
「何を言ってるの?」とは思いませんか? 民主主義と資本主義が対立するもののように言われている。社会主義、という言葉こそ使われていませんが、「プロレタリヤ」なるおなじみの用語からすると、どうもそこに親近性があるらしい。社会主義こそ民主主義と矛盾しない体制? と、すると、「プロレタリア独裁」とは何? 独裁と民主主義は矛盾しないの?
てなことを言うと、訳知りの人に憐れまれるかも知れませんな。
「民主主義というのは、戦後初期の日本では、あるいは部分的には今でも、左翼が掲げた看板なんだよ。戦前のプロレタリア文学の正嫡をもって任じた中野重治たち『新日本文学』派は自分たちの理念を『民主主義文学』だと言ってたんだし。今もある共産党の下部組織は『民主青年同盟』でしょう? 外国では日本のすぐ近くに『朝鮮民主主義人民共和国』てのがあって、ここでは一度も選挙が行われたことはないでしょう?」
はい、その通りです。言葉の中でも特に「民主主義」なんていうデカすぎる抽象語は、時代により集団により、かなり得手勝手に使われる。そういうもんです。
しかし、純然たる誤用、あるいは言っている本人も半分以上自覚している欺瞞だったら、それほど強く人々を動かすことはできません。問題は、ある言葉にこめられた情念であり、それがどれくらい広く、深く共有されているか、なんです。
この時代の、日教組の良心的な教師たちは、戦前の「軍国主義教育」あるいは「皇民教育」が、戦後「民主主義教育」に変わったのだ、ということはそれこそ疑うことのできない公理としてみんな認識していた。戦前の教育は、国民を無謀な戦争に駆り立て、塗炭の苦しみを嘗めさせた、悪の代名詞である。もう二度と再びそこへもどってはならない、と。そこで、「愛国心」だの「道徳=修身」だのという、戦前の匂いのする言葉はすべて忌避される。新時代の「民主主義」は絶対にそれとは違うはずである。
もう一つ、先の戦争は、財閥と軍部が結託して、金儲けのために植民地を増やそうとして起こしたものだ、という認識も、彼らには常識であった。だから「資本主義」は悪である。一方、「民主主義」はよいもののはず。ならば「資本主義」とは対立する。この三段論法(ですか?)で十分。
そもそも、言葉の定義なんて次元より、現に資本家の走狗たる政府自民党は、やっと芽生えた民主主義教育を守ろうとする教師たちを蔭に陽に弾圧している。だから、資本主義は民主主義の敵なのだ。そう言って何か不都合はあるか?
…ありますよ。戦前の日本はすべて悪、愛国心も悪、とするところから生まれてくる極端な、というよりは常軌を逸した反日感情は、例えば美津島さんの心に逆の情念を植え付けてしまったではないですか。情念といっしょに言葉のイメージが反転して、民主主義は、少なくとも日教組など左翼勢力が看板にした「戦後の民主主義」は悪なんだ、ということになりました。
これでは民主主義が可哀そう過ぎます。人は理屈よりは情念によって大きく動かされるものであることは今も昔も変わりません。問題は、善悪の基準が反転した情念同士の間には、決して妥協が成立しませんので、しまいには戦争しかなくなってしまうところです。知性って、そういうときに、少しは役にたたないものでしょうか?
それで、知性の担い手が知識人であるはずなんですよね。
昔西部邁さんが小林よしのりさんとの対談で、「知識人というのは村はずれの変わり者(あるいは、狂人、だったかな?)なんだ」と言っていたことを思い出します。
例えば、ある村で普通に通用している言葉に対して、「その使い方は正しくねえだよ。それは本来かくかくしかじかの意味なんでよ~」なんぞと、無益な知識をひけらかしては、他の村人からうるさがられたり、笑われたりで、まともに相手にされない。しかしたまに、村の常識では対応しきれない異変が出来したときには、変わり者の意見が役に立つ、かも知れない。
例えば、今年はたいへんな凶作で、いつものような規模では村祭りはやれんなあ。んでも、完全にとりやめではさびし過ぎるべえ。最小限でもやるべし。んだが、そんでは、最小限とはなんだ? 神輿を担ぎ回ることか? 村の娘や子どもたちの踊りか? どっちだ? どっちが大切だ? 逆に言うと、やらずにすますか、規模を縮小するとしたら、どっちにすんだ? 村人それぞれに思い入れがあって、どうにも調停がつかない。だいたい、「思い入れ」は情念なんで、話し合いにならない。感情的な反目が増すばかりで、ものごとが一歩もすすまなくなった。
ところへしゃしゃり出てきた変わり者。「古い文献によるとだな、この村の祭りはよ、昔とんでもねえ悪天候が長く続いたんだとさ。そんとき、神様にいろいろおうかがいしてよ、そしたらこの神様がえれえ踊りが好きでな、そんで娘っ子とガキもでえ好きだと御宣託があったんでよ、踊らしてみたら天気がよくなんだったんだと。それが起こりだから、祭りでてえせつなのは踊りなんだんべよ」などと言う。
それでものごとが落ち着いた、めでたしめでたし、なんてことのほうがずっと少ないでしょうねえ。でも、なんとなく、議論の道筋はついたような気がしませんか? 「こいつが言ってることは本当はどの程度に正しいのか」とか、「元はこいつが言っている通りだとしても、その後の歴史の中で祭りの意義が変わったように思えるのを、どう評価するか」なんて具合に問題を立てたら、その線でああだこうだ言っているうちに、「落とし所」が見つかるんじゃないか、な? 村人がそう思ってくれたら、もう変わり者の役目はすんだんで、あとはまた村はずれにもどって、役にも立たない、誰も聞かない理屈を捏ねていればよい。
私は、知識がないので、知識人とは言えないんですが、生来理屈をこねたがる性分なんで、まあ、この村はずれの変わり者に、実際、職場などでもなっているんです。それで、親愛なる美津島さんへの失礼も顧みず、今も現にやっています。
因みに、先の「人間の壁」中の教師も、これから文部省や佐賀県とどう戦うのかが議題の、切迫した会議の席上で上のようなことを滔々と述べるので、笑われたり、「議事進行!(=余計なことを言うな!)」と言われたりします。他の参加者からすれば、言っている内容がまちがっている、というのではない、そんな原理論に悠長に耽っている場合ではない、というわけです。でも、彼が原理論をやってくれたおかげで、日教組活動の根底にあったものは今もよくわかる、そういう効能はあります。私が滔々と述べるところも、無益かも知れないが、せめて皆様に笑っていただけたら幸いです。
これから、村はずれの変わり者が民主主義を云々します。
そもそも何が一番根本なのかと言いますと、ホッブズさんあたりを元祖とする社会契約説でよかろう、と思います。たぶん皆さんご存じでしょうが、ざっとまとめますと、
「人間はみんなエゴイズムの固まりであって、放っておけば自分のことだけ考えて勝手なことばかりやる。それでは世の中が保たれないので、強そうな連中に依頼して、利害の対立が生じたら調停してもらうことにした。これが公権力の起こりである」
こうまとめると、自分ですぐにあらが見えるんだから世話はない。ざっと挙げますと、
(1)これは歴史的な事実とは言い難い。権力者がまずいて、それが元は自分の支配下になかった者たちまで征服するようになってから、その征服を正当化するために編み出された理屈のうちでも、たぶん一番新しいもの。そう言ったほうがまだしも事実に近い。
(2)これで世の中をまとめるためには、公権力の裁定には皆が従う、という同意が必要である。もちろん、皆が心から同意するとは限らない。社会の全員が納得するような正義や善がいつでもどこでも見つかるものなら、元々こういう話にはなっていない。公権力の裁定に不満で、従わない者には、有形力(暴力の上品な言い方)が行使され、つまり無理矢理でも従わせることもまた、同意されていなければならない。
ところで、しかし、公権力はいつも正しいか? そんなこと、あるわけない。それなら、公権力が明らかに間違っているときには、従わないほうが正しく、無理矢理従わせようとするほうが悪である。いわゆる「権力悪」。これをどうしたらいいか。難問中の難問です。
(3)ここで言われる公権力は、エゴイズムの調停者であるだけだ。本当の人間の価値とか、生きがいとかは全然与えない。ありがたいものだとは全然思えないのだが、それでもよいのか。
それでよい、と私は思います。人間的な価値とかは、権力が容喙すべきものではない。宗教や芸術が扱うべき事柄だ。てなことを言ってますと、宗教が大勢信者を集めた場合、それは有形力も備えますから、その意味で一種の権力になります。そういうのはどうするのか、も歴史的な難問で、日本ではこれが少なかったんでよかった、とはよく言われますね。
でもやっぱり、(3)も問題になります。日本人には、キリスト教みたいな宗教心は薄くても、よその国人々と同じぐらいには、「正義」という言葉や概念に、個々人のエゴイズムや利害の調停以上のものを求めたがるものですから。
その輝かしい「正義」こそ、とてもやっかいです。エゴイズム以上に、と私は思います。これからはその話になって、「美津島さんの言ったこととなんのつながりがあるの?」と思われるかも知れません。しかし、美津島さんがこの場合一番大事に思っているらしい「公を担う私」まで射程に収めるにはこの迂廻路を通ったほうがいいと思えますので、どうぞご辛抱を。
人間はみんな自分が一番可愛い。それは自然なことであって、悪ではない。それがわかったら、もうひとつ、自分だけでなく、他人にもエゴイズムがあるし、それを非難することはできない、まで認めたらよろしい。そうであるならば、押さえるべきところは押さえないと、結局自分のエゴイズムだって通らなくなる。これが正義のすべてだ、なんて言うと、それこそ小学生にするお説教みたいなもんじゃないか、それだけのはずがあるか、と多くの人が思うでしょう。
実際、それだけでは話は決しておさまりません。ただ、制度は調整のためにこそある、という「根本」は必ず押さえておくべきだと思うので、しつこく繰り返します。
例えば我が畏友夏木智がよく持ち出す交通信号。誰でも車を運転したら、赤信号なんかでテレテレ止まっていないで、直に目的地へ行きたいもんです。だからと言って、みんなが他人には譲らず、自分の行きたい道をどしどし行くだけなら、危なくて、運転そのものができなる。つまり、「車を運転したい」という、エゴイズム、とは言えないか、自分の都合、から考えても、とても都合の悪いことになる。
これはわかりやすいですね。だからと言って、というか、だからこそ、「交通信号様はありがたい」などと崇拝する人はいません。
民主主義、というか民主制もまた、利害調整の原理であって、交通信号のうんと複雑になったものに過ぎない(複雑な分だけ調整が難しく、壊れやすいのは確かですが)、などと言われて満足する人は今でも少ないでしょう。もっとずっと輝かしいか汚らしいか、大きな意味があるはずだ、と。だからこそ、人々の情念を絡め取ることができて、言葉と概念の限りない混乱が生じるのです。
それでようやく美津島さんがおっしゃっていることに直接絡むんですが。
戦後民主主義は、教育の場にどのような不都合をもたらしたか。まず、悪平等。すべての人間は本来平等である、というのは、いかにも民主主義的な理念ではあります。「すべての人間」の中には子どもも入る、と。子ども=生徒も一個の人格を持つものとして尊重されねばならない、と言った人はいたし、今もいます。教師も生徒も、基本的には平等なんである、とも。
それなら、生徒は教師の言うことにいつも従う必要はない。「授業だから教室へ入れ」と言われても、いやなら入らなくてもいいのだし、「勉強をしろ」と言われても気分が乗らなければやらなくてもよい。そのために、学校内で勝手放題やる生徒がでてきて、やがて学級崩壊にも至るのだ、と。
いかにももっともらしい。しかし、現場教師として、個々の生徒の顔を思い浮かべると、どうしてもズレている、と思えます。教師の言うことを聞かない子どもは、「自分たちは権利主体だから」と考えてそうしていると思いますか? あるいは、モンスター・ペアレンツ、美津島さんの言うオバタリアンたちは、自分の子を権利主体として扱ってくれ、と要求しているのでしょうか? むしろ、それなら話は早い。
教室へ入りたくない? はいどうぞ、どこへでも行って。勉強したくない? だったらやらなくていいよ。君に関することは、君自身が決めればいいんだから。ということはつまり、その結果どういうことになっても、それは君の「自己責任」ということになるんだよ。あ、念のために断っておくけど、君一個の範囲を超えて、例えば授業中騒いで妨害したという場合には、他の生徒の学習権を侵害したことになる。教師からみたら業務妨害になる。だから、応分の責任はとってもらうからね。「責任の主体」であることがつまり、「権利の主体」である、ということなんだから。
保護者の皆様、このような言い分にご満足いただけますでしょうか? モンスターペアレンツほど、受け入れないんじゃないかなあ。そして、美津島さんはどうだかわかりませんが、戦後民主主義教育を唾棄すべきものとしている、いわゆる保守派の皆さんも、この点では同様でしょう。
そういうズレはあっても、平等主義をタテマエとする戦後民主主義は、オバタリアンたちと親和性はあるだろう。だから、彼女たちをとめられないんだろう、と言われますか。それはその通りです。しかし、他の体制・思想だって、自分勝手なことを言う人はどうしても出てきてしまう。それは見ておかないと、民主主義に対して著しく不公平になるでしょう。
日教組の教師たちやその同調者たちの怨嗟の的になった、そしてそうなることで、組合活動に正当性を与えることになった、日本の軍国主義はどうでしょうか。確かに、威張りくさる軍人はいたんですよね。ああ、美津島さんが以前ある会で見せてくれた映画「拝啓天皇陛下様」にも出てきましたっけ。あれでもそうでしたが、下士官ほど、自分より下の者に対しては強圧的な態度になりがちなもののようです。
私の父は、いわゆる戦中派の端っこで、最近ボケてきましたが、そういう人の常として、昔のことは実によく覚えている。思い出話の一つに、小学校へ少佐・中佐クラスの軍人がやってきて、講演などしていった時のことがあります。彼らはたいてい、軍隊内部では出世が見込めなくなった者で、その分、外部でやたらに威張る。「大日本帝国の臣民たるものは」どうたらこうたら垂れて。御真影のガラスが汚れていると言っては校長を叱り飛ばし、自分の講話中児童がよそ見をしていたと言っては教師を詰る。
彼らは心底大日本帝国の栄光を信じ、そのためなら命を投げ出す覚悟でいたのでしょうか? そんなことはわかりませんし、だいたい、重要でもありません。とりあえず、彼らは、その場では帝国の代表者なので、「正義は我にあり」と考えていた。ただ威張りたい、大きな顔をしたい、というだけのエゴイズムないし虚栄心が、そこで正当化される。そして、自分の正義に逆らう奴は、悪の「非国民」に決まっているのだから、叱り飛ばすなんて序の口、やっつけてしまってよい。
このような心性が日本を大東亜戦争の破滅にまで導いた、というのが戦後左翼の言い分なわけで、私はそれは、部分的には真実であろうと思います。で、この心性が軍国主義と呼ばれ、戦後は悪の代名詞となった。するとそれに反対するのは絶対に善で、その善に反対するのは悪で…、で冒頭につながります。正義はかほどにやっかいなものなのです。いつでも、どこでも。
ただ、次の違いはあります。封建主義や軍国主義の時代は、社会の正義は少数者の占有物であった。だから威張る人は少数で、多数はただ威張られるだけの存在であった。民主主義は正義の門戸を広くした。少なくとも、そのような思い込みは与えた。このため、正義のインフレが生じて、以前よりは世の中が無秩序に見える。そんなもんじゃないですかね。
オバタリアンも、その子どもたちも、どうやら「正義は我にあり」と言った様子をしています。ともかく、教員に対しては。しかし、彼らに正義を供給しているのは民主主義ではない。では、何か? 一種の宗教だ、と私は思います。呼び名としては、今まで使わせてもらった「お子様教」より「教育教」というほうがどうやらふさわしい。
その根本教義は、「どんな人間でも、よい教育によって、よくなる」です。だから、生徒が悪いとしたら、よい教育ができない教師が悪いのです。そこを反省しないで、生徒を叱り飛ばすなんて、とんでもない教師だ、と、煎じつめればこういうことになる非難に、現在の教師は実際に晒される機会が多いのです。
話がややこしくてすみませんが、だからと言って、日本の多くの人が、教師批判が大好きなオバタリアンを含めて、心からこの宗教の信者かというと、どうもそうでもないような。
上の教義をちょっと具体的にしてみます。「どんな悪い奴でも、よい教育によって矯正できる」。「どんなに馬鹿な奴でも、よい教育によって学力をつけられる」。どうです? これ、その通りだと思えますか? それとも、笑えますか?
こういうのは論破できません。以下と同じですから。
A「神様を信仰しているのに、ちっとも御利益がないぞ」。B「そりゃ、信仰心が足りないからだよ」。A「それじゃどこまで信仰したらいいんだ?」。B「御利益があるまでだよ」。
念のために、教育教用に文句をあてはめておきます。
A「よい教育を受けたってよくならない奴もいるじゃないか」。B「そりゃ、教育のよさが足りないからだよ」。A「どこまでいったら十分によい教育と言えるんだ?」。B「教育を受けた人間がよくなるまでだよ」。
こんなことにかかずりあっているほどヒマな人間はそうはいませんわな。しかし、教師が「そんなの、オレ、知らないよ。オレにできるのは交通整理みたいなことだけだよ」などと言うと、不安がる人はとても多いです。そしたら、教師は、勉強ができない子や、素行の悪い子をただ放っておくようになるんじゃないか、ということらしいですねえ。だから、自分はともかく、教師は、教育教を信じてほしい、とこの部分は本気で思うようです。
考えると不思議な話ですね。しかしこの感情は、現代の正義の感情と直接結びついているらしい。
そして、どっちが原因でどっちが結果かは知りませんが、教師のほうでも、自分は交通整理よりは崇高な何かをしている、少なくとも、しようと努力している、という顔をしたがるんですな。
ここに罠がある。まことに、「先生と、言われるほどの馬鹿はなし」でして。教師はいくらでも嘲笑されるんです。まず、そんな非現実的なことを信じている馬鹿者として。次に、それでいて実際は何もできない無能力者として。そして、何しろ話が大きいし曖昧でもあるので、次のような要請も、もう現実に出てきています。
「教育は立派なことなんだから、先生は信号機よりは立派なんでしょう? それなら、うちの子が運転したいときには、一時止めたりせずに、ずっと走らせてやってくださいよ。そうじゃないと、あの子のやる気が殺がれるんですから」
今日本中の教師たちを脅かしているモンスター・オバタリアニズムの真髄を、試しに言葉にしてみるとこうなります。
こう言う彼女たち自身は本当の教育教信者ではないかも知れませんが、ただ、少なくとも信じるふりをして、その教義からして、不正を働いているとみなせる教師を非難する正義を手に入れているんです。たぶん、三日やったらやめられないぐらいには、面白いでしょうなあ。
そして、文科省は、教育教の総本山みたいな顔をしなくてはならないので、私が以下の自分のブログで述べたような現実的な施策にはなかなか踏み切れないのです。現実的だというだけで、もう、教育教の「夢」を傷つけますから。教育教には今や、そういう実害が出てきています。
「そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/4edea3ee82e28b5478bedeba2ab5d921
改めて美津島さんへ。お言葉にすっかり甘えて、好き勝手にしゃべり散らしました。今後どれくらい時間はかかってもかまいませんから、できたら、対応してください。
Soichi2011こと由紀草一