美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小沢昭一という映画人 (イザ!ブログ 2013・12・15 掲載)

2013年12月28日 05時45分19秒 | 映画
小沢昭一という映画人



今日私は、池袋新文芸座に行ってきました。小沢昭一が出演している映画を観るためにです。当映画館では、十二月八日(日)から一八日(水)まで「小沢昭一一周忌追善特集」を開催しています。私が行ったのは、そのうちの今日と十日(火)の二日間です。十日に上映されたのは、『お父ちゃんは大学生』(1961年、吉村廉監督)と『サムライの子』(1963年、若杉光夫監督)で、今日上映していたのは、『果てしなき欲望』(1958年、今村昌平監督)と『痴人の愛』(1967年、増村保造監督)です。

十日には、麻生中高時代と早大時代の同級だった大西信行氏(劇作家・脚本家)のトークショウがありました。小沢昭一が落語の芸のレベルでフランキー堺にどうしてもかなわないのを悔しがっていたこと、後に俳優になる仲谷昇(個人的には、成瀬巳喜男『放浪記』で、高峰秀子扮する林芙美子の最初の同棲相手役が印象に残っています)が当時から水のしたたるいい男で、学徒動員先で女学生たちの人気を独り占めしていたのに対してもおおいに悔しがっていたこと、俳優になって撮った初めてのブロマイド写真の鼻の右下の大きなほくろを撮影担当者が傷と間違えて削り取ってしまったことなどを、面白おかしくなつかしそうに語っていました。場内のまばらな客に向かって「小沢のことを忘れずに、映画を観に来てくれて本当にありがとう」と頭を下げていたのが、なんとも切なかったですよ。「七十年の付き合いだよ。親よりも女房よりも長いんだからね」と感慨深く語ってもいました。ついでながら、仲谷昇は、いい男であるばかりではなくて、ケンカがめっぽう強かったそうです。けれど、勉強はあまりパッとしなかったとのこと。麻生時代の同級には、他に俳優の加藤武がいます。大西氏は、早大時代に出会った今村昌平のことは、別格の扱いをしているようでした。

今日実は、『果てしなき欲望』に出演した柳澤愼一(歌手・俳優・声優)のトークショウが予定されていたのですが、当映画館に来る途中何かにぶつかって緊急入院する旨が開始の10数分前に判明するというアクシデントがありました。大丈夫でしょうか。かつておおいに人気を博したテレビ番組『奥様は魔女』のダーリン役の吹き替えで昔の日本人の耳にしっかりと刻み込まれたあの陽気な美声が聞けなくて本当に残念でした。心より回復を祈ります。

さて、映画の話に戻りましょう。

私が観た四本それぞれに感慨深いものを感じたのですが、とりわけ心を動かされたのは、増村保造監督の『痴人の愛』(谷崎潤一郎原作)でした。浪費癖があり、手当たり次第に男たちと肉体関係を持つなど、ご乱交の限りを尽くすナオミ(安田道代)から人生をメチャクチャにされるほどに振り回されながらも、どうしても関係を断てず、彼女への執着によって頭がおかしくなりそうなダメ男の苦悩と悦びを、小沢昭一は、渾身の演技で表現しています。ラスト・シーンで、関係を修復し、ナオミを背に載せてお馬さんごっこを半狂乱で繰り広げながら、小沢昭一演じる譲治が「やっと夫婦になれたんだ。もう一生離さないぞ」と絶叫するのに応えて、ナオミが「譲治さん、愛してるわ。私もあなたしかいないの」と初めて真情を吐露し、譲治の背中にしがみついて嗚咽をこらえる姿には、エロスの真実が表現されていて、観る者の胸を打ちます。シリアスの極みの滑稽さ、不格好さ、愚かしさ。あるいは、滑稽さ、不格好さ、愚かしさとしてしか表されえないシリアスな思いの哀しさ。どう言ってもよいのですが、そういう生と性のリアリティに迫る描写になりえていると思いました。画竜点睛を欠く点があるとすれば、ナオミ役の安田道代に男を狂わせるだけの魔性があまり感じられないところです。いい女のイメージは、時代によってかなり変わる、ということでしょうか。

ある軍医が埋めた時価6000万円のモルヒネを、昔の日本兵の元同僚たちが掘り当てようとする『果てしなき欲望』では、前科者の凶暴な大男を演じる加藤武の怪演ぶりが、強烈な印象を残します。彼は、小沢演じる小男を叩きのめして青息吐息の状態に追い込むのですが、小沢から逆襲を喰らい、鉈(なた)で脳天をかち割られて息絶えます。まさに、欲望と殺意ドロドロの今村ワールドですね。渡辺美佐子の爛熟した色気もすごかったですよ。西村晃や殿山泰司の好演ぶりも印象に残ります。

今村昌平は、『サムライの子』では脚本を担当しています。この映画の舞台は北海道の小樽で、「サムライの村」は、屑屋の集落の蔑称です。「野武士」というのは、それよりもさらに下層の住民票もない人びとの蔑称です。小沢は、「サムライの村」の飲んだくれの薄汚い無精ひげの親爺役を好演しています。強烈なのは、その妻を演じた南田洋子です。彼女は、精薄で蓬髪でぼろきれのような褞袍(どてら)を身にまとって乱暴な言葉使いをする汚れ役を果敢に演じています。意外なほどの性格の良さが哀れを誘います。言われなければ、演じているのが南田洋子だとは、ふつうの人は気づきません。大した役者魂の持ち主であることを再認識いたしました。浜田光夫のいつもながらの爽やかな演技がなつかしい。

南田洋子は、『お父ちゃんは大学生』では打って変わって知的でこざっぱりとした子持ちのキャリア・ウーマンを演じています。こちらが、南田洋子という名を聞いて、自然と思い浮かべる彼女のイメージ通りの役柄でしょうね。南田洋子って、声がなんとも素敵な女優さんだったのですね。包みこむような優しい響きがあるのです。夫の長門裕之は、あれにやられたのでしょうか。小沢昭一は、大学八年生の役で、なさぬ仲の長男(新沢輝一)との友だちのような交流ぶりがなんとも心温まります。左卜全、由利徹、清川虹子と懐かしい顔が登場します。

この企画、後三日あります。特に、明後日の十七日(火)には、デジタル修復版の『幕末太陽傳』(1957年、川島雄三)が控えています。お暇なら、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。私ですか?ええ、行こうかどうかちょっと迷っています。だって、今度行くとこの映画を観るのが五回目になるのですから。とはいうものの、映画館で観る映画は、格別ですからね。さて、どうしたものやら。http://www.shin-bungeiza.com/program.html
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清水宏監督作品『有りがたうさん』  (イザ!ブログ 2013・12・11 掲載)

2013年12月28日 02時37分56秒 | 映画
清水宏監督作品『有りがたうさん』

先の日曜日は、仲間内の映画会でした。今回は常連のGさんが担当で、清水宏監督の『有りがたうさん』(川端康成原作)が上映されました。ちなみに当作品の発表は、一九三六年の二月二七日。奇しくもあの二・二六事件の翌日です。暗い世相の最中、世に送り出された作品、ということになります。そんなわけで作中に、娘の身売りや失業や不景気の話がたくさん出てきます。しかし、当作品を観終えた後に心に残るのは、決して暗いものではありません。そこが、この映画の大したところと申せましょう。

当映画はトーキーです。同じ年に、小津安二郎初のトーキー『一人息子』が、またその前年には、成瀬巳喜男初のトーキー『妻よ薔薇のやうに』が上映されています。当時はまだ映画作品の八割がサイレント映画なのでした。日本初の本格的なトーキーである五所平之助の『マダムと女房』が発表されたのが一九三一年。一気にサイレントからトーキーに変わったわけではないのです。そのあたりの事情について、映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べています。(Wikipedia 「トーキー」より)

西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた。

つまりサイレントは、当時技術的に成熟期を迎えていたのです。小津も成瀬も、そうしてここに紹介する清水宏も、そういう高度に発達したサイレント映画を十二分に作り込むことで、自身の映像作家としての力量に磨きをかけていたのです。そのうえで、トーキーに入っていった。

当作品を観ると、そのことがよく分かります。つまり、映像自体が語りうることはなるべく映像に語らせる、という映像作家・清水のハイセンスな創作態度が、当作品において貫かれているのです。だから、小うるさい説明は極力省かれていて、表現に無駄がない。ぜい肉がない。そうして、遊び心にあふれている。それが、映像表現としていかに優れたことなのか、当作品を観ていただければよくお分かりになるものと思われます。清水監督は、映像の天使を招き寄せることの巧みなお人のようですね。

戦前の映画に特有の、ゆるやかな時の流れに馴れるまで数分間ほどの時間が必要かもしれません。それさえやり過ごすことができたならば、もうしめたもの。七〇分前後の当作品を観終えた後、極上のお酒を飲んだ後のような陶酔感や幸福感があなたの心を包みこむことをお約束いたします。それは、つらい日常を寡黙にやり過ごす名も無き庶民に対する、清水監督の慎み深いエールを感じ取ることでもあります。

え?そんな感想は抱かなかったって?それは、問題です。ささくれだった今様の時間感覚が、あなたの心を蝕んでいるのかもしれませんよ。

と、まあ、これは冗談です。ゆるやかなやさしい気持ちで当作品とおつきあいいただくことを願っているだけなので、あまり怒らないでくださいね。

〔おもなキャスト〕
有りがたうさん…上原謙
髭の紳士…石山隆嗣
黒襟の女…桑野通子
売られゆく娘…築地まゆみ
その母親…二葉かほる
朝鮮の女…久原良子

〔スタッフ〕
監督…清水宏
監督補助…沼波功雄、佐々木康、長島豊次郎
脚色…清水宏
撮影…青木勇

特筆したいのは、「黒襟の女」を演じる桑野通子の美しさです。ふつう、戦前のいわゆる「美人」とされている女優さんは、戦後の私たちからすれば、いまひとつピンとこないところがあるケースがほとんどなのですが、彼女の場合は違います。いまでも十分に通用する美人です。いわゆるクール・ビューティの部類に入るでしょう。つまり彼女の美しさは、松尾芭蕉の「流行」の域を超えて「不易」の域に達していることになります。彼女は、三一歳で逝去した佳人薄命の典型のような女性です。頭の回転が早くて、ふだんは物静かな女性だったようです。さぞかし魅力的な方だったのでしょうね。当作品に出演したのは二一歳のとき。元女優の桑野みゆきは、彼女の一人娘です。


「淑女は何を忘れたか」の桑野通子(右は斉藤達雄)

上原謙についてもちょっと。当作品を観る者の目に、若かりし日の彼の鮮烈な像が焼き付きます。彼は、当時からすでに並外れた美青年だったのですが、後年のような、ポマードを塗りたくったスケこまし風はまだなくて、当作品では、彼の素の持ち味としての純朴な心優しい雰囲気がよく出ています。演技に、感情の自然な流れがあって、好感が持てるのですね。彼は、役者としての自分の作り方をどこかで間違ってしまった俳優さんなのではないかと思います。

当作品は、ぜひ拡大画面でご覧ください。いわゆるロード・ムービーの先駆けのような作品で、バスは旧天城街道を走ります。起点の港町は、おそらく下田でしょう。二つ目のトンネルは、おそらく天城トンネルで、バスは天城越えをしていることになります。その直前の、朝鮮女と「有りがたうさん」との会話やトンネル口でバスを見送る彼女の立ち姿が次第に小さくなっていくのがなんとも切なくて、こちらの胸を締め付けます。

当作品の撮影は、オール・ロケだそうです。それ自体、当時では斬新なアイデアだったに違いありません。


Mr. Thank-You / 有りがとうさん (1936) (EN/ES)
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 『瞼の母』の片岡千恵蔵はこのうえなく美しい  (イザ!ブログ 2013・9・14 掲載)

2013年12月21日 23時11分24秒 | 映画
『瞼の母』の片岡千恵蔵はこのうえなく美しい



今月の八日(日)、私は池袋新文芸座で長谷川伸原作の映画『瞼の母』を観ました。稲垣浩監督が一九三一年に発表したオリジナルで、もちろん無声映画です。澤登翠(さわと・みどり)さんという活動映画女弁士の語り付きというので、観る気になったのでした。というのは、以前に彼女の語り付きの『麗人』(監督・島津保次郎、主演・栗島すみ子、高峰秀子(当時六歳)出演、一九三〇年)を見て、とても感動したからです。「活動写真って、すごい」と思ったのですね。それからちょっと活弁付きの映画がクセになってしまって、成瀬巳喜男と小津安二郎のその手の作品を何本か観たほどです。活弁付ではなかったのですが、ピアノ伴奏付きの成瀬巳喜男の無声映画『君と別れて』(一九三三年)にとりわけ深く感動しました。いまでもその映画の場面のいくつかがフラッシュ・バックをするほどです。そういう経緯を経て、私の映画観はいささかの変更を余儀なくされてしまったのでした。それをいまここで語ると、話の流れが変わってしまいかねないのでやめておきます。

燕尾服を着た澤登さんが、映画の始まる前にごく短いスピーチをなさっていました。その中で、当映画に対する当時の「この映画では、登場人物のみならず、木の枝も降る雪もなにもかもすべてが演じている」という映画評を挙げていました。

この映画を撮った稲垣浩や主演の片岡千恵蔵は、このときまだ二〇代後半でした。妹の「お登世」役の山田五十鈴に至ってはまだ一〇代前半です。彼らはいずれも監督や俳優としての才能はそのころからずば抜けたものがあったのでしょうが、ともに若さのまっさかりなのでした。だから、画面がとても瑞々(みずみず)しいのです。永遠に瑞々しいのです。そうして、その瑞々しさの中心にいるのが、番場の忠太郎を演じる片岡千恵蔵なのです(江州の番場は、いまの滋賀県にあります)。渡世人から足を洗おうとする仲間の「金町の半次」(浅香新八郎)を励ましながら別れを告げる情深さと淋しさの入り混じった表情、殺陣での凄みのある殺気立った表情、実の母である「水熊のお浜」(常盤操子)との出会いを喜ぶ子供のような表情、彼女に突慳貪にされたときの絶望的な表情、それらすべてがそれこそ瞼に焼きついています。無声映画であるからこそ、場面にふさわしい表情ですべてを表現することが強く求められるという事情があり、それでなおさらそういうことになるのかもしれません。

「水も滴るいい男」という形容句は、このときの千恵蔵のためにあるのではないかと私は思いました。さらには、映画にも神様がいらっしゃるのならば、この映画にこそ神様は宿っているにちがいない、とまで思いました。この映画には永遠の輝きがあるのです。いっしょにこの映画を観た友人は、千恵蔵が画面に登場してからずっと涙がはらはらと止まらなかったそうです。その気持ち、よく分かります。その姿のかけがえのなさが観る者の胸を打つのです。おそらく、私が申し上げていることは、みなさまのお耳に、かなり大袈裟に響いているはずです。それは仕方がないこととあきらめましょう。

私は、この映画を観てはじめて、男優なるものを心から美しいと思いました。シブいとか、魅力があるとか、味があるとか、カッコイイとかは思ったことがありますが、「美しい」と思ったことはこれまでありませんでした。そう感じた自分自身に対して、私は少なからず衝撃を受けました。片岡千恵蔵を美しいと感じる自分を、私はまったく想定していなかったのです。

この映画の命を蘇らせたいちばんの功労者は、活弁士の澤登翠さんです。幸い、彼女自身のプロフィール等を扱った動画と、彼女自身が弁士をしている『番場の忠太郎 瞼の母』のダイジェスト動画が見つかったので掲げておきます。この映画の魅力的な雰囲気をいささかなりとも味わっていただければさいわいです。


心に響く音を届ける匠の技 活動弁士の沢登翠さん


活弁映画『瞼の母』弁士澤登翠


なおこの作品は、一九六二年に加藤泰(たい)監督によってリメイクされており、そのときの忠太郎役は中村錦之助です。また、一九三一年のオリジナル版で、大団円の荒川堤での殺陣の場面で忠太郎に最後に斬られた「素盲の金五郎」役の瀬川路三郎が、リメイク版にも登場し今度は最初の場面で斬られています。なかなか味な演出ですね。



そうそう、リメイク版といえば、『瞼の母』を観る前に、私は一九二九年に辻吉郎監督が作った長谷川伸原作の『沓掛時次郎』のリメイク版を観ました。こちらも加藤泰監督の作品で、タイトルは『沓掛時次郎 遊侠一匹』(一九六六年)。主演は中村錦之助です。なんだか同じような名前が出てきて混乱しそうになりますが、加藤監督の長谷川伸に対する惚れ込みぶりと、役者としての中村錦之助に対する評価の高さがうかがわれます。最初の二〇分間ほどに渥美清が時次郎の子分・身延の朝吉役で登場し、『男はつらいよ』で国民的な大スターになる前の、毒気を交えたユーモアを発散するすごい演技をしているのが観られて、思わぬ拾い物をした気分になれました。朝吉は、非力ながらも任侠道を貫き通そうとして哀れにも命を落とします。また、時次郎が惚れる後家さん(おきぬ)役の池内淳子が熟柿のような濃密なお色気を発散させているのにいたく感心し、彼女の女優としての魅力をはじめて得心した次第です。また、清川虹子がおろく役で出ていて、病弱なおきぬを甲斐甲斐しく面倒見る人情味の厚さと、ヤクザ連中が家に押しかけて来ても鼻息ひとつで蹴散らしてしまう肝っ玉ぶりとを懐深く演じていました。彼女は名女優なのですね。

備忘のために付け足しておきますが、『沓掛時次郎』の設定が、『無法松の一生』のそれにじつによく似ていると思いました。



〔追加〕
中村美律子という歌手が、『瞼の母』を歌っています。ハートをぐいっと掴まれてしまいましたので、掲げておきます。忠太郎の妹のお登世は、木綿問屋の若だんな・長二郎と近く祝言を挙げることになっています。母は、「身内にヤクザ者がいるとなると手塩にかけて育ててきた娘の縁談に傷がつきかねない」と思い、心を鬼にして忠太郎に邪慳にするのです。娘が掻き口説くのにほだされて改心し、母は娘と忠太郎を探すのですが、忠太郎は男の意地を張ってそっと姿を消します。これが原作。映画では、忠太郎が母と抱きあうところで終わります。


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木下恵介生誕100年記念企画映画 原恵一監督『はじまりのみち』 (イザ!ブログ 2013・6・10 掲載)

2013年12月16日 06時43分14秒 | 映画
昨日、立川のシネマシティで、原恵一監督の『はじまりのみち』を観ました。原監督は、当作品の脚本も担当しています。彼は、アニメ映画では巨匠と称しても過言ではないほどの存在のようで、クレヨンしんちゃんシリーズや『河童のクゥと夏休み』(2007年)などが代表作です。年齢は私より一歳下の五三歳、群馬出身とのこと。実写映画は、今回が初めてだそうです。

当作品は、映像作家・木下恵介の原風景をその母親との交流を通して描いたものです。ほんの数日間の出来事によって、それを凝縮された形で描いています。

あらすじを述べながら、折に触れ感想を挟みましょう。

まずは、恵介の故郷の浜松の夜明け前の浜辺が映し出されます。そこに設置された真っ白なスクリーンに、彼のデビュー作『花咲く港』(1943年)のモノクロの映像が映し出されます。彼は、この浜辺でこの映画のロケの多くを撮ったのです。

次に、恵介が松竹を辞めるまでの経緯が描かれます。陸軍が後援し、情報局国民映画として木下恵介が製作した松竹映画『陸軍』が封切られたのは昭和一九年(1944年)十二月七日でした。陸軍省内の強硬派は、ラスト10分で、戦地へ赴く長男の伸太郎(星野和正)の出征を見送る母わか(田中絹代)が取り乱している姿が延々と続いているシーンを目にしてカンカンに怒ります。そうして、「軍国の母としてふさわしくない」「女々しい」と批判しました。

次回作として予定されていた『神風特別攻撃隊』について、松竹が木下恵介(加瀬亮)を監督として起用するのなら、その企画の進行を認めないと、当時の検閲機関であった情報局に申し渡されます(木下恵介が撮ったなら、『神風特別攻撃隊』はとんでもない傑作になったことでしょうに)。困り果てた城戸四郎(大杉漣・城戸は松竹映画の土台を作り上げた人)は、恵介をなんとかなだめすかそうとするのですが、彼は、「どこに、愛する息子に向かって『御国のために立派に死んでこい』という母親がいますか」と城戸に詰め寄り、映画製作を取り巻く現実に絶望し、辞表を出して、故郷浜松に帰り、病身の母たま(田中裕子)が療養していた静岡県気賀町の親戚の家に身を寄せました。たまは、前年の暮、恵介の東京の家にいたとき、空襲のストレスが高じたせいか、脳溢血で倒れたのでした。

それから半年後の昭和二〇年(1945年)六月十八日、B29約50機の空襲によって、浜松町の中心部は一面の焦土と化し、恵介の父周吉(斉木しげる)と母たまが精魂をこめて築き上げた食料品店「尾張屋」も灰燼に帰してしまいました。尾張屋は、地元では名の通ったお店だったようです。

米軍の本土上陸もありうるという切迫した情況のなか、母たまをもっと奥まった場所へ移さなければと考えた恵介は、木下家の持山がある静岡県周智郡気多村勝坂に一家で疎開することに決めました。

問題は、母親たまの移動方法でした。バスで、という提案もあったのですが、振動が激しすぎます。それでは、病弱な母が持ちこたえることができるかどうか、おぼつかない。結局恵介は、リヤカーで静かに運ぶことに決めました。父は、それを無謀だとして息子を諦めさせようとするのですが、恵介の決意は固かったのです。彼は、真夜中の十二時に、すぐ上の兄敏三(ユースケ・サンタマリア)と便利屋(濱田岳)とともに、家族の見送るなか、たまを載せたリヤカーを引いて出発します。

恵介(本名は正吉)と敏三はリヤカーの引手と後押しの役を交互にしながら坂道を登って行きます。運び屋は荷物の担当です。やがて夜明けを迎えます。母は、朝日に向かって静かに合掌します。息子二人も黙ってそれに倣います。静かで美しいシーンです。

昼になり強い日射しを避けるためのたまの蝙蝠傘がやがて降り出した雨を避けるためのものに変わります。雨足は次第に強くなりいつしか土砂降りになります。前夜から十数時間歩き続けてきた足が、極度の疲労と土砂降りとで、ますます重くなってきます。仰向けになったたまの顔には、土砂降りで跳ねた泥が容赦なく降りかかってきます。

十七時間ほぼ不眠不休で歩き続けた末に、四人はようやくのことで宿屋のある気多村気田に到着します。しかし、一件目の地元でいちばんいいとされてい宿屋は、病人がいることを嫌ってか、すげなく「満員です」と彼らの宿泊を断りました(どうやら、木下監督は、その宿屋のことをのちのちまで恨んだようです)。次に訪ねた「澤田屋」(主人・庄平(光石研)、妻こまん(濱田マリ)、長女やゑ子(松岡茉優)、次女義子(相楽樹))は快く四人を受け入れてくれました。宿に入る前に、恵介がたまの顔や手足に降りかかった泥を丹念に手ぬぐいで拭き取る姿を、「澤田屋」一家は深く記憶に刻み込んだとのことです。この長回しのシーンは、確かに印象に残ります。このシーンのために、あまり実物と似ていない加瀬亮が木下恵介役に抜擢されたのではないか、とさえ思うくらいです。加瀬亮の優しさに満ちた繊細な手つきがとても魅力的です。




気田から目的地の勝坂までは、トロッコ列車を利用すればよい。ただし、それが発車するまで、四人は澤田屋で二泊しなければなりません。時間的に余裕の出来た恵介は、気晴らしに気田川の川原に行きます。彼の目に、女教師(宮崎あおい)と日の丸の小旗を持った十二人の生徒たちの群れが遠景として飛び込んできます。恵介は、思わず映画の四角の枠を右手で作って、構図を練る仕草をします。恵介の視線に気づいた女教師が、怪訝そうに彼に一瞥をくれたときの彼のちょっと戸惑ったところがいい味を出していました。この場面は、もちろん『二十四の瞳』(1954年)へのオマージュです。宮崎あおいの羽織袴姿の美しさが印象に残ります。



川原に座って、川の流れを眺めていた恵介のところに、運び屋がやってきます。そうして、目の前の相手が木下恵介だとは知らずに、自分が『陸軍』を観たこと、ラスト10分の母親わかの姿を観ていて感動のあまりに泣いてしまったことを率直に述べます。「ああいう映画を観たい」とも。失意の恵介は、その言葉を聞いて男泣きをします。事情を知らない運び屋は、恵介に「お前は変わった奴だな」と声をかけます。げんきんで、ひょうきんなだけの印象だった運び屋が一気に魅力を発散するシーンです。このとき、便利屋の話の流れに合わせて、『陸軍』のラスト10分がほぼそのまま上映されます。私は、原監督の、当作品に寄せる深い思いを感じておおいに心を動かされました。

勝坂にたどり着いた恵介は、疎開地での暮らしを始めます。しかし、彼の様子は、どことなく浮かない感じです。恵介の心事を察した、言葉の不自由な母たまの強い勧めに促されて、恵介は映画の道に戻ることを決意します。片時も映画のことを忘れられない自分を、恵介は自覚するのです。リュックをしょって、その決意を胸に秘め、白い上下と白い帽子を被った恵介が暗いトンネルに入っていくと、彼の戦後の名画の名場面の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていきます。そこに映し出された木下映画は、その美しさが際立っているように感じました。登場した順に列挙すると、『わが恋せし乙女』(1946)の井川邦子、『お嬢さん乾杯』(1949)の原節子、『破れ太鼓』(1949)の阪東妻三郎、『カルメン故郷に帰る』(1951)の高峰秀子と小林トシ子、『日本の悲劇』(1953)の望月優子、『二十四の瞳』(1954)の高峰秀子と子どもたち、『野菊の如き君なりき』(1955)の有田紀子と田中普二、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)の高峰秀子と佐田啓二、『楢山節考』(1958)の田中絹代と高橋貞二、『笛吹川』(1960)の高峰秀子、『永遠の人』(1961)の高峰秀子と佐田啓二と中代達矢、『香華』(1964)の岡田茉莉子と乙羽信子、『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986)の加藤剛と大原麗子。以上です。作品としての完成度を神経質に気にかけるさかしらを遠く超えた、原監督の木下恵介に対する深い思いがこんこんと泉のように湧いてくるさまが、観る者を圧倒します。



『日本の悲劇』(1953年)。望月優子と佐田啓二。

若い方が、この映画を観て、木下映画に少しでも興味を持っていただければ、これに勝る喜びはありません。外国で高く評価された日本映画もけっこうですが、日本人にしか分からない日本映画ももう少しだけ大切にされていいのではないでしょうか。そうして、世の中にいささかなりとも潤いのようなものが生まれてくれば、少しはごくふつうのひとびとの生きにくさが減るのではないか、などと気の弱い夢想をしてしまいます。

最後に、木下恵介自身の言葉を掲げて、この文章を終わります。

愛するもののためにコジキになったってがん張りぬけるさ、おれは―――と思う。          
(「底力」毎日新聞(夕刊)1955年一月四日より)

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木下恵介監督 『破れ太鼓』と『陸軍』  (イザ!ブログ 2013・6・5 掲載)

2013年12月16日 06時27分49秒 | 映画
昨日は、池袋文芸座で催されている木下恵介生誕100年祭の四日目に行ってきました。上映されていたのは、『破れ太鼓』(1949年)と『陸軍』(1944年)でした。『陸軍』を映画館で観るのは今回が二度目です。そのおかげだと思いますが、前回よりも、映画の細部にいろいろと気がつくことができました。

初日の『花咲く港』(1943年)を観ているときにも思ったことですが、『陸軍』における笠智衆の演技は、戦前の臣民の心根を、後世のわれわれによく伝えることができています。彼が演じる友助は、古風で生真面目な性格で、筋を通そうとして、生活のために重宝しておかなければならない人たちとしばしばぶつかってしまいます。そうして、損をします。友助自身、自分のそういう融通のきかないところを自覚してはいるのですが、やはりまた「やって」しまいます。そうして、家族の生活を思い、がっくりと肩を落とします。このタイプの男は、いまもしもいたのならシーラカンス扱いをされることでしょう。それほどに、友助の風貌は、戦前に特有のキャラである、と言っていいのではないでしょうか(その性格の潔さやこまごまとした計算を厭う姿勢は、勝ち目のない対米戦争に挑んだ当時の日本に通じるものがあるとも思います)。映画の記録性は、たまたま映し出された当時の建築物や登場人物が無意識に体現する風俗・習慣によるものであると同時に、当時の俳優の演技からかもしだされる雰囲気それ自体によってももたらされるものなのですね。『陸軍』については、以前論じたことがあるので、そのURLを掲げておきます。よろしかったら、どうぞご覧ください。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/7ad13147688249e05a2d76171e2ec640

融通がきかない、といえば、『破れ太鼓』で阪妻が演じる軍平もそうです。軍平は、苦労に苦労を重ねて一代で土建会社を興し、田園調布に大邸宅を構えた、三男四女の大家族の長です。だから当然のことながら、並外れたほどの自信家であり、また、万事、自分が思ったように事を進めようとします。他の人たちの言葉に耳を貸そうとは決してしません。自分の判断に間違いがあるはずがない、というわけです。その傲慢さに耐え切れず、家族は四散してしまい、さらには、会社が潰れてしまいます。そうやって、一人ぼっちになってしまったときの軍平の、身体から滲み出してくるような、地べたから這い上がって来た者に特有の、言葉にならない悲哀を、阪妻は見事に表現しています。私は、その味わい深い演技に心の底から感動しました。『陸軍』を観たときにも思ったことなのですが、木下監督は、ラスト10分の大切さを知り抜いている映像作家です。

私事に渡って恐縮なのですが、私は、阪妻のそういう姿を観ているうちに、わが父の秘められた思いを目の当たりにする思いに襲われました。父は、軍平のような成功者ではないのですが、そういうこととはかかわりのないところで、私が生きてきた時代とはまったく違う雰囲気の時代を生き抜いてきた者の、こちらににはどうしても理解しようのない哀しみを、阪妻が、渾身の演技でこちらに伝えてくれたような思いにかられたのでした。私にじかに語ったことはありませんが、父は高校中退という低い学歴に起因する悲哀を噛み締めて生きてきたのではないかと思います。猫も杓子も大学に行く当世において、その哀しみは孤独なものです。阪妻が、名も無き庶民からの根強い支持を得たことの根にあるものに、いささかなりとも触れることができたような気がしました。

ところで、私が今回『破れ太鼓』を観ようと思ったのは、以前、高峰秀子の『私の渡世日記』で、当作品をめぐるある事情を知っていたからです。当作品は、高峰秀子にとって、「いわくつき」なのです。

そのあたりの事情の詳細にいまここで触れるのは控えておきましょう。興味がおありの方は、『私の渡世日記(下)』(文春文庫)のP171~186をお読みください(面白いですよー)。ここでは、当時彼女のプロデューサーだった人が、仕事がらみで彼女を騙して大金を手にする手段として当作品を利用しようとしたこと、当作品のヒロイン役として予定されていたのは高峰秀子だったこと、事情を知った木下監督が彼女のヒロイン役の辞退の申し出を快く受け入れたこと、そのとき監督が「この次はあなたのために脚本(ほん)を書きます」と約束をしたこと、彼女が辞退したヒロイン役を代わりにつとめたのは新人の小林トシ子だったこと、その約束は日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』(1951年)で果たされたこと、『カルメン故郷に帰る』で彼女が小林トシ子と共演したことを指摘しておけば足りるでしょう。

『破れ太鼓』を観ていて、小林トシ子の、すっきりと伸びた四肢ときっちりとしたくびれは、当時としては並外れたレベルのものだったのではないかと思いました。彼女は、『カルメン故郷に帰る』では、高峰秀子の圧倒的な存在感の影に隠れた形でしたが、当作品においては、清潔なお色気を発散して、その女性としての魅力がしっかりと演出されています。また、木下映画の音楽を一手に引き受けた弟の木下忠司が、音楽家志望の次男役で出演しているのも、ちょっとした驚きでした。さらには、森雅之の出演作なら、なるべく観ようと思っている私としては、彼が長男役で当作品に出ていたのを目にすることができたのは、喜ばしい収穫でした。演技がとても上手で、そうして危険で上質な男の色気を漂わせている、二人と得難い俳優さんであるとあらためて思いました。男優さんに魅力を感じることなど、私の場合めったにないことです。

『破れ太鼓』の貴重な映像があるので、下に掲げておきます。

破れ太鼓 1949 / A Broken Dram
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