美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

アニメ『鉄の竜騎兵』(原作:松本零士)  (イザ!ブログ 2013・12・2 掲載)

2013年12月28日 00時58分56秒 | アニメ
アニメ『鉄の竜騎兵』(原作:松本零士)

宮崎駿の『風立ちぬ』を観て以来、私は、アニメを見る目が変わりました。以前から、馬鹿にする気はなかったのですが、アニメが、いよいよ実写フィルムのリアリティの領域を本格的に脅かし始めたことを実感したからです。そのことには、実写フィルムの制作に携わる側が、安易にCGやVFXに頼った映画を量産していることが関わっているのではないかという思いがあります。そのことと、Jポップが王道コードやカノンコードに頼り切った音楽を量産することによって音楽としての新鮮味を失いかけていることとは、どこかでパラレルな現象なのではないか、とも思います。その隙を、初音ミクというアニメ・コンセプトに突かれたりしているのではないか、と。

今回ご紹介する『鉄の竜騎兵』を観て、映像のリアリティをめぐってのそういう思いを新たにしました。二〇分ちょっとの短篇アニメですが、けっこう見ごたえがあるのです。とはいうものの、『風立ちぬ』の菜穂子のような魅力的な女性は一人も登場しません。レイテ島の戦場での、年長の古代一等兵と年少の宇都宮一等兵との、大げさには表出されない心の交流を通して、命を賭けた戦いの意味が鮮明に描かれています。原作は、松本零士氏が二五年以上描き続けている『The Cockpit』シリーズの同名作品(『週刊少年サンデー』一九七四年24号)です。脚本・監督は、高橋良輔氏とあります。

その次の動画は、『The Cockpit』シリーズから作られた三本のアニメについて、松本零士氏が、原作者としての思いを語ったインタビューです。彼は、そのなかで″機械構造物は、血と汗の結晶である。戦争という極限状況において、メカや機械構造物は、まったく無駄のない究極の姿にまで磨きをかけられる。極限状況における究極の産物なのだ。ファジーさや無駄は、平時の技術のものである。そのことは、戦争の是非とは関係がない。後世の我々は、みじめな負け戦のなかで先人によって磨き上げられた究極の技術の恩恵に浴している。そういうことを突き詰めておかないと、日本人は、今後辛い局面に追い込まれたとき、何のために自分たちはそういう苦労をしているのか訳がわからなくなって、みじめな思いをすることになる″という意味のことを言っています。松本氏は、さすがに『男おいどん』というペーソスに満ちたギャグ漫画を何年も書き続けた人だけのことはあります。人間の赤裸々な、飾り気のない本質に強い興味・関心を抱いている表現者なのですね。
*残念ながら、上記動画はその後削除されました(2013・12・28 記)。

そのことがとても残念なので、氏のお話の核心を、改めて述べておきます。松本氏が言っていることは、先の大東亜戦争の是非とはなんの関係もありません。共同体としての人間が極限状況に追い込まれた場合、おのずと共同体の記憶の中から最良のものを探り当て、その形姿が抜き差しならぬ技術として立ち上がる、と言っているのです。(2019.3.10 記)

ちなみに、上記の「三本のアニメ」のうちの一本が今回ご紹介するもので、他に、『音速電撃隊』と『成層圏気流』があります。そのなかで、私がもっとも心を動かされたものを今回ご紹介いたしました。


THE COCKPIT 鉄の竜騎兵 1/2

THE COCKPIT 鉄の竜騎兵 2/2

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