美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

分かりやすく言い換えることについて (古松待男)

2014年12月22日 12時29分13秒 | 古松待男
分かりやすく言い換えることについて

古松待男(こまつまつお)



最近の新聞にこんな記事が載っていた。

 ポケモン人気は国境も越える。最新作は日本語だけでなく英語、スペイン語など計7言語に対応。ほぼ同時に世界各地で発売する。ネット普及で世界中の子どもたちが時間差なく最新情報を手に入れている。人気ゲームを外国語対応させて海外展開するのは日本企業の常とう手段だが、数カ月の遅れが新作の熱気を冷やしてしまっていた。(『日本経済新聞』2014年11月22日付 朝刊)

 内容そのものにはあんまり関心がなかったので特になんの感想も持たなかったが、ただ、「常とう手段」という表記はなんだかマヌケだな、とだけ思った。

 テレビや新聞を見ていると、こういう例がしばしば見つかる。例えば、「ら致」だったり「終えん」だったり「じん大な被害」だったり「精ちな表現」だったり「標ぼうする」だったり「肺がんのり患率」だったり「現実と理想とのかい離」だったり・・・、まぁ、このほかにもいろいろある。前々から思っていたが、このように熟語の一部分を平仮名に置き換える表記法はなんだかマヌケだし、マヌケなだけじゃなくて読みにくく分かりにくい。


1 漢字使用制限
 この種のマヌケな表記の源流は1946年の当用漢字表導入による漢字使用制限に遡れる。当用漢字表とは日常のなかで使用する漢字の範囲とその読み方、標準となる字体を定めたリストである。
種類が多く難解で煩雑な漢字表記を改めるべきだという声はかなり前から既にあった。かなり前、というと・・・我が国の郵便制度の礎を築いた前島密は維新前夜の1866年の段階で将軍慶喜に漢字を廃止し仮名表記に統一すべきであると提案していた、という例が挙げられるだろう。また、日本が近代化を果たしてからも議論は絶えず、いずれも実施こそされなかったが1922年には「常用漢字表」、1942年には「標準漢字表」という名で漢字制限の具体的なリストが作成されていたらしい。ずいぶんと昔からあちらこちらで唱えられていた漢字表記への異議は戦後間もない時期に大いに高まった。さらに、一部では漢字の使用そのものを廃止してローマ字を導入するべきだという声も上がった。「大衆的ローマ字運動へ」と題された1946年4月11日付『讀賣報知』社説は次のように始まる。

 日本の民主化については、漢字の廃止とローマ字採用の必要であることを、いままで二回ほどわれらは本欄において主張したが、米国教育使節団の報告においてローマ字採用の必要が指摘されてゐるのをみてまことに喜ばしく感ぜられた。この報告が實行に移されるとすれば、國語のローマ字書きは遠からず實現されるわけで日本民族と文化との發展のうへに革命的な影響を與えるにちがひない。

 いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だ。日本の「民主化」を実現するためには漢字を廃止してローマ字表記に改めた方がよい、ローマ字採用は日本民族と文化の発展に革命的な影響を与える、との内容を「米国教育使節団の報告」という外圧を用いて主張している。この引用の後には、ローマ字反対論が極めて根強いということを指摘しながらも、大衆運動を起こせば三年か五年の内に日本語はローマ字表記になる、ローマ字を習った子どもたちはすぐに不便な漢字仮名交じり文を嫌いになる、漢字とともにそれに付随する封建的観念は日本人の頭から一掃される・・・・などという楽観的な見通しが続く。
 いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だが、そのように感じてしまうのは私が当時の日本国内の空気に肌で触れていないからなのかもしれない。この社説の書かれた敗戦後間もない時代は、戦中戦前の「軍国主義」を猛省し、日本をいかにして「民主化」するのかという課題を前に皆が必死になっていたのだろう。国が亡びるかどうかというぎりぎりの状況の中で、難解で複雑な漢字が「ファシズム」を導き、「民主化」を阻む「封建主義時代」の遺物としてやり玉に挙げられるのも分からなくはない。きっとみんな必死だったのだろう。どうにかしようと懸命になっていたのだろう。敗戦に打ちのめされた先人たちの苦悩とそこから這い上がろうとする努力に敬意を払いつつ、ローマ字採用なんて愚かな策を採らないでよかったとホッとする。もしも朝、起床して一番につけたテレビにローマ字のテロップが映り、ひらいた新聞にローマ字がびっしり並んでいたら一日の始まりの気分は台無しになるだろう。

明治維新以来官民問わず様々なところで検討されてきた漢字制限は、一連の昭和の御一新の動きの中、「当用漢字表」という形で実現された。
漢字を制限することの目的は二つある。一つは教育上の配慮であり、もう一つは円滑な意思疎通のためである。たくさんの漢字を覚えるのは大変だし、覚えるのが大変な漢字で情報のやり取りをするのは困難である。だから制限するべきだという人たち(これを「表音派」と呼ぶ)と、そんなに急速に制限したら社会は混乱するし伝統文化が壊れかねないから慎重になるべきだという人たち(これを「表意派」と呼ぶ)とが長いこと相争ってきた。それが敗戦となり、「民主化」というイデオロギッシュな色彩をまとうことによって時代の空気とマッチした「表音派」がついに一定の勝利を収めた、ということになるだろう。
 しかしこの勝利は飽くまで一定のものに過ぎない。当用漢字表導入当初から漢字制限の問題点を指摘する声は上がっていた。出来上がった表を見てみると、ごく普通に使いそうな漢字でも見当たらないものがあった。当用漢字表の中には例えば、「犬」はあるが「猫」はない。「松」はあるが「杉」はない。「杯」はあるが「皿」はない。なにゆえあれはあるのにこれはないのか。どうしてあれじゃなくてそれにしたのか。・・・それなりに頭のいい人たちがいろいろ考えて作ったリストなんだろうが、なんであれ甲を選び乙を捨てる作業を誰もが納得する形で行なうのは難しいことだ。ましてやそれが、これから毎日使っていく漢字の選択ともなれば完璧なものとすることは限りなく不可能に近い。
 そういうわけで、急速な変革であった1946年の当用漢字表導入から現代にいたるまで二回の見直しがあった。一回目が1981年の「常用漢字表」で、二回目が割と最近のこと、2010年の「改訂常用漢字表」である。
「表音派」の中には当用漢字表以後もどんどん使用できる漢字の数を減らしていくべきだと考えていた人もいたらしいが、現実はそのようにはならなかった。使える漢字の数は「当用漢字表」では1850字、「常用漢字表」では1945字、「改訂常用漢字表」では(196字増5字減の)2136字、と、漢字表の改定ごとに使える数は増えていった。ほんの一例を挙げれば、1981年には(念願だった?)「猫」「杉」「皿」などが追加されている。また、2010年には拉致の「拉」や精緻の「緻」などが新しく表に加わった。つまり、二回の改定を経て制限は緩くなっていっているのである。
 
 学びやすさや分かりやすさを求めて漢字の使用範囲を制限する試みは、しばしば反対に遭う。同じ意味を持つ単語ならば、字画の多い字よりは少ない字を選んだ方が効率的である。同じ内容を表わせるのならば、数限りなく存在する漢字を覚えるよりも、よく使うものに限定して覚えた方が経済的である。もっと言えば、漢字なんか使うよりも、全部で30字に満たないローマ字を使うことにする方が賢い。しかし、このような意見に賛成する者は少ない。
 或る表現を別の表現に言い換える際、時として私たちはためらうことがある。このとき二つの表現の間には、言い換えても言い換えきれないものがあるのだということになるだろう。


2 言い換えても言い換えきれないもの
 
「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる。」しかし、実際に私たちが普段使う具体的な言葉を挙げてこのことを確認してみようとすると、あんまりうまくいかない。「恍惚」と「うっとり」はおんなじ意味のように思えるけど、だからと言ってこの世の中のありとあらゆる文章の中に登場する「恍惚」という言葉をひとつ残らず「うっとり」に言い換えるのは気が引ける。気が引けるぐらいで諦めたりせずに勇気を振り絞って言い換えればよいではないかと言われるかもしれないが、気が引ける時点で二つの言葉が同値でないことを私たちの繊細な精神は感じ取ってしまっているのである。「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる」というのが正しいかどうかはひとまず置いといて、とにかく、私たちが普段使う言語や記号には厳密な意味で同値のペアは存在しないので、日常語を用いてこのテーゼを確かめることできない。「恍惚」と「うっとり」は同じ意味の言葉として言い換えることができるだろうが、言い換えきれない要素がそれぞれに備わっているのである。
 言い換えても言い換えきれないものは、大雑把に言って、二種類に分けられる。ひとつが記号そのものの特徴に関わるもので、もうひとつが記号の来歴に関わるものである。順に見ていこう。

2-1 記号そのものの特徴
 「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? 明白な違いは記号そのものの特徴の違いである。つまり、声に出したときには音の響きが違い、書いたときには字の形が違う。音の響きと字の形は、「恍惚」と「うっとり」を言い換えるときに言い換えきれないものである。言葉は意味を持つから意味にばかり目が行ってしまうが、記号としての物理的な特徴を持っていることを忘れてはならない。
 言葉の物理的な特徴は意味と必然的な結びつきをもっているわけではない、というのはきっとそうなんだろうけれど、なんとなく、「うっとり」という響きはうっとりとした様子をうまく表わしているような気がする。あしたから「うっとり」という言葉の代わりに「しっかり」という言葉を使用するように取り決めたとする。この取り決めに従って「太郎はしっかりした」と言ってみても、太郎が恍惚とした様子とうまくマッチしていない。うまくマッチしていないと感じるのは、これまでにうっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきたからだ、と言われてしまえばこちらは何も言い返せない。その場合、しばらくのあいだ違和感に耐えればやがて「しっかり」が恍惚とした様子をうまく表わしているような気がしてくることになる。まぁでも、うっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきた人間の感覚からすると、「うっとり」はやっぱりうっとりしているし、「しっかり」はやっぱりうっとりしていない。うっとりとした様子は「うっとり」という響きや形において表現されている、という気がする。
 この種の記号そのものの特徴は、とりわけ文学や演説や言葉遊びなどの場合に重要な要素として現れてくることが多い。これらの局面での言葉の使用は、リズミカルで心地よい響きそれ自体への愛好をうまく利用してそれぞれの目的を果たしていると言える。それゆえ、(同じ言語内であれ異なる言語間であれ)別の表現に言い換えることによって、一定の名文句はもともとの良さが半減してしまう(し、ダジャレならば良さが半減するどころかその生命が完全に失われてしまう)。例えば、ピュタゴラス一派の言葉とされている「肉体は魂の墓である」という言葉は、その意味内容だけではなく、ギリシア語の「肉体(sōma)」と「墓(sēma)」が似た響きと字面を持っていることによって名文句たり得ている。だから、当時のギリシア人がこれを聞いたら「ソーマとセーマか・・・、なるほど、こいつ上手いこと言ってるなー」と感動できるのだろうけど、ギリシア語の分からない私は残念ながら同じ感動を味わうことができない。
 言葉そのものの特徴は他の言葉に言い換えた瞬間に不可避的に消えてしまう。しかしながら翻訳者は、意味だけじゃなく原文の持っている彩りをも出来るかぎり訳文に反映させたいと願うものだろう。オーソドックスな手としては、意味内容を言い換えたのちにルビで音を振るという方法が挙げられる。「肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)である」とすれば、読み手は「ああ、ギリシア語では韻を踏んでるんだろうなー」という見当をつけられる。私はこのような翻訳法で十分だと思う。芸がないとは思うが仕方ない。
 芸があると思ったのは、『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」のところに出てくる«сосну, как со сна»という台詞を「まつがまつわりつく」(原卓也訳)あるいは「うめをゆめのように」(米川正夫訳)と言い換えた日本語訳である。この翻訳は原文の意味を(まぁ、それなりに)保存しつつロシア語の言葉遊びを見事に日本語に移し替えている。ルビを振って「松の木(サスナー)を夢(サスナー)で」(亀山郁夫訳)としてる訳もあったが、おそらくこれが意味的には原文に忠実である・・・のではないかと私は踏んでいる。踏んでいる・・・というのも、私はロシア語をなにひとつ知らないので、正直なところよく分からない。のだが、きっとそんなとこだろうと思う。違っていたらごめんなさい。
 他に芸があると思ったのは、ジョルジュ・ペレックの小説『煙滅』の邦訳である。この小説は特定の文字(アルファベットのe)を使わないで書かれているリポグラム(文字落とし)という技法が用いられているが、これを日本語にする際に訳者の塩塚秀一郎氏は「い」段(い、き、し、ち、に、ひ、み、り、ゐ)の文字を使わないで訳出した。これも原文の意味だけではなく言葉そのものの特徴を踏まえた置き換えである。訳者あとがきを読むと、これがいかに骨の折れる作業だったかが感じとれる。
 もちろんこうした芸のある言い換えといえども、原語のもつ記号そのものの特徴を保存しているわけではない。ただ、言い換える際に意味にばかり囚われず、記号そのものの特徴に注目していることがよく分かる例だと思う。
 
 記号そのものの特徴を言い換えることができないということは、この議論を非言語記号にまで拡張させれば、より一層明らかとなる。「花」を詠んだ詩と「花」を描いた絵は、仮に同じ場面を表わしていたとしても、異なる情感を帯びている。リヒャルト・シュトラウスによる同名の交響詩が世に出たからといってニーチェの『ツァラトゥストラ』がそれに取って代わられることなどありえない。なぜなら、仮に同じ意味であったとしても、記号そのものの特徴が、あまりにも異なっているからである。
 言語記号であれ非言語記号であれ、同じ意味を持つものとして言い換えたとしても言い換えきれないものがどうしても残るのだが、その一つが記号そのものの特徴に関わる要素であることが分かった。次は、もう一つの要素である記号の来歴に関わるものについて考えてみよう。

2-2 記号の来歴
 「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? それはこの二つの言葉が辿ってきた歴史である。「恍惚」はどちらかと言えば日常であんまり使われないのに対して、「うっとり」は普段の会話の中でも出てくる。「恍惚」という言葉をどこかで小学生が口にしたら変な感じがするが、「うっとり」という言葉ならば別に違和感はない。「恍惚」という字は、二つとも立心偏が付いているから何かこころと関連するものとしてイメージされてきただろうし、「惚」の右側には「忽」という字があるから何かこころ(心)がうつろ(勿)な様子と関係づけられてきただろう。しかし、「うっとり」に同じような連想は生まれない。このように、同じ意味の言葉であってもそれまでに違う歴史を歩んで来れば、どのような場面や文脈において使用されて来たのか、どのような人たちによって使用されて来たのか、他のどのような言葉や事物と関係づけられてきたのか、という点において異なってくる。
 こうした言葉の来歴については人によって捉え方が異なる。「恍惚」という言葉を「うっとり」よりもよく使うという人も居るかもしれないし、「恍惚」という言葉を頻繁に使う小学生が近所にたくさん住んでいるという人も居るかもしれない。また、「恍惚」という言葉をわざわざ分解して「心」という言葉と連想させたことなどないという人も居るだろう。一つの言葉の来歴は、百人いれば百通りに語られうる。
 百通りに語られる一つの言葉の歴史の中には、偶然的なものもあるだろうし、間違っているものもあるだろう。「歯」という字に「米」が含まれていることを見て、歯で米を噛むからこんな字になった、という連想を膨らませる人も居るかもしれない。しかし、「歯」と「米」はなんら関係ない。「歯」という字は略字であり、この字体が導入されるまでに使われていた「齒」の字の中に「米」は見当たらない。それならば、「米」の代わりに「人」があるから、歯はもともと「人」と関連付けられていた、というのもまた違う。漢和辞典をひらいてみると、「齒」の下の部分は歯の見た目をそのまんま象ったものである、というようなことが書かれてある。辞典に書いてあるんだから、これが差し当たり正しい起源ということになるのだろう。このように言葉は日々誰かによって使われているものだから、誤った連想がなされる場合もある。
 人によってさまざまで、かつ、間違えることもある言葉の歴史もまた、私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素である。言葉は対象や概念への純粋な指示作用をもつだけでなく、使われていくごとに様々な印象、種々の観念、雑多な想念と結びついたり離れたりしながら歴史を蓄積させていく。学術用語として漢語やラテン語が用いられたり、完全に新しい術語が考案されたりするのは、日常語のもつ歴史性を断ち切り純粋な指示作用を出来る限り担保するためである。また、差別的な意味合いをもつ単語が使用禁止になり他の単語に言い換えられるのも同じ事情による。いつだったか、人種問題を扱ったテレビの一場面で「彼らは決して口にしてはいけない単語を叫んでいた。nから始まる単語をね。」とアメリカ人が言っていた。“negro”という単語は、語源に当たるラテン語のnigerまで遡れば純粋に「黒い」または「暗い」という意味を表わす言葉だったようだが、長い歴史を経て黒人に対する侮蔑的な意味合いを獲得していき、今や単なる引用として口にすることすら憚られる言葉になってしまったのである。本当は侮蔑的な意味合いなんてなかったのに・・・、と嘆いたところで今さらもう遅い。

1946年に使える漢字の範囲が定められて以来用いられるようになった代用字という表記法は、ある時点において言葉の持っている歴史を無視した上に成り立ったものと言えるだろう。代用字とは漢字表に載っていない漢字を表わすために、音が同じ漢字を同値のものとして置き換えることである。たとえば、当用漢字表に「苛」という漢字が載っていなかったので困ったことに「苛酷」という熟語を作ることができなくなるが、「苛」の代わりに「過」を用いて「過酷」とすれば、これは使っても許される漢字なので難を逃れることができる。他には、「理窟」と「理屈」、「禁錮」と「禁固」、「藝術」と「芸術」の例がある。前の方が元々の綴りで、後ろの方が代用表記である。
「過酷」も「理屈」も「禁固」も「芸術」も、当用漢字表が世に出てから半世紀のちに国語教育を受けた私からすれば、なんら変な感じはしない。マヌケな印象も受けない。しかし人によってはこうした表記に違和感を持つこともあるかもしれない。今道友信氏の本(『美について』、講談社現代新書、1973年、75頁あたり)を読んだときに知ったのだが、「芸」は「藝」の単なる略字ではなく、まったく別の歴史を歩んできた字であるということらしい。しかも、「藝」がもともと「ものを種える」という意味であったのに対して、「芸」は「草を刈りとる」という、言ってみれば反対の意味を持つ字であるそうだ。このことを踏まえ、芸術というのは「人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技」であるから「藝」の字を用いた方が適切である、と今道氏は述べている。
 私はこのことを知り、自分自身の漢字に対する知識、教養、感性の欠如を深く恥じ、これからは「藝術」と書くようにしようと自らに固く誓ったつもりだったが、ひと月と持たずにふたたび「芸術」と書くようになってしまった。いまでは何も見ずにこれを書けるかどうかも怪しい。こうなってしまったのは、たんに画数が多くて面倒だというよりは、その面倒臭さを厭わずに書こうとするだけの動機がなかったからである。確かに、「芸」と「藝」に違いがあるという知識は得ることができたし、「藝術」というのが適切な表記だという考えには納得したのだが、両者の違いを感覚として捉えられているとは言えず、また、「芸術」と書いても別にさしたる違和感が生じない以上、難しい字をわざわざ書く理由はない。

 私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素、記号の来歴はなにも正史だけに限定されるわけではなく、野史も外史も含まれる。米を噛むから「歯」だといった民間伝承も、「恍惚」が口癖の小学生が居たといった思い出も、記号の来歴と呼ぶに十分な資格を持っているのである。


3 分かりやすさについて
 誰かと意見を交換したり、大勢の人に向けて情報を発信したりする際には、出来る限り分かりやすく表現することが求められる。もちろん、聞き手や読み手が理解できないように敢えて難解な言葉を弄することがプラスに働く局面もあるだろう。厳粛な儀式で使われる呪文やお経なんかはどんな意味だか分からない方が有り難みがあるし、学術論文で使われる言葉なんかは耳に馴染みのない専門用語を多用する方が著者は自分を頭よさそうに見せることができる。しかし、大体の場合において分かりにくい言葉遣いを分かりやすい言葉遣いに言い換え、難しい言い回しを簡単な言い回しに言い直すことが要請される。
 漢字制限は、普段使う文章を分かりやすい表記にすることを目的の一つにしている。しかし、何が分かりやすい表現で何が分かりにくい表現なのかは、場面によって変わってくる。平仮名ならば分かりやすくて、漢字ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。大和言葉ならば分かりやすくて、漢語ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。専門用語を日常の中で多用することが円滑なコミュニケーションを阻害するのと同じように、専門家集団を相手にしてその中で既に通用している専門用語を日常語に言い直したら混乱するだろう。一様に分かりやすさの規準を与えることは困難である。

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産婆術としての哲学 (古松待男)

2014年04月02日 21時19分41秒 | 古松待男
産婆術としての哲学

古松待男(こまつまつお)



西洋哲学に関心を持ち始め多少専門的に学ぶようになって十年ぐらいになるが、そんな私にとって日常生活の中で出くわす「哲学」という語の用法の中には、なんだか違和感を覚えるようなものが少なくない。「きみ、哲学的なことを言うね。」「それが私の哲学です。」「わが社がこの難局を乗り越えるためには新たな哲学が必要である。」「彼は氷上の哲学者だ。」・・・どれも言わんとすることは分かるのだが、どうも引っ掛かる。この引っ掛かりの原因は、私が「哲学」という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのがデカルトだのカントだのショーペンハウアーだのと云った哲学者の思索やそれについての研究であるのに対して、先の例ではそれよりももっと広い意味で用いられているというズレが生じていることにある。

もちろん、日常の中で素朴に使われる「哲学」という言葉を「本来の意味」から外れた誤用として非難することは、意味がないばかりでなく正しくもない。こうした用法は既に広く認められたものだからである。辞書で「哲学」の項目を見てみれば、大学で学ばれるような学問としての哲学の意味だけでなく「人生観」や「世界観」や「考え方」を意味する言葉としても説明されている。また、英和辞典でphilosophyという単語を引けば、こうした意味に加えて「達観」であったり「諦め」であったり「冷静さ」であったり「覚悟」といった訳語を当てている例文すら見つかる。例えば、“one’s philosophy about women”は「女性に対する“達観”」と訳され、“I am no philosopher”は「私は“諦め”の悪い人間だ」と訳され、“~ with philosophy”は「“冷静”に~する」とか「“覚悟”して~する」と訳されている。このように、普通の会話の中で「哲学」は様々な意味合いをもって現れてくる。

ところで、普通の会話に現れるもの以上に多様で捉え難いのはむしろ「本来の意味」での哲学の方であろう。哲学と称される営みがいったい何であり、哲学者と呼ばれる人々が何をやっているのかと改めて問われると忽ち答えに窮してしまう。或る哲学者は法律について語っているし、別の哲学者は言語について語っている。社会の倫理について書いている人もいれば、人間の心理について書いている人もいる。その語り方や書き方についても一様ではなく、自身の思想を論文の形で示す人もいれば物語の形で示す人もいるし、詩の形で示す人もいる。哲学は扱うテーマも用いる形式も様々であるから、それがどのような営みであるのかを一言で答えることが極めて困難である。

哲学とは何か、というこの極めて困難な問いに答えるためには、その創始者、つまり、ソクラテスの活動を確認することから始めてみるのが一番であろう。


***

ソクラテスは自身の活動を産婆になぞらえた。母たちが出産する際に子供を取り上げる産婆のように、知恵(sophia)という子供を産み出すための手助けをすることが哲学者である自身の使命である、とソクラテスは自覚していた。産婆という比喩は哲学の活動内容とその意義を細かいところまで説明している点で卓抜であると言える。このことを確認するためには、産婆とはどのような存在であり、どのようなことを仕事としているとソクラテスが考えていたのかを見る必要がある。以下では産婆術について詳しく論じられている対話篇『テアイテトス』を手掛かりにこのことを見ていこう。

(1)産婆術の三つの特徴
『テアイテトス』において挙げられている産婆の特徴は大きく分けて三つある。一つ目が、産婆自身は出産をしない身であること(149B)であり、二つ目は、母親が妊娠してから出産するまでの面倒をみる役目をもっていること(149D)であり、三つ目は、産まれてきた子供が本物(alēthinos)なのか偽物(eidōlon)なのかを判断する役目ももつべきであること(150B)である。(ちなみに、ここで「偽物」と訳されているギリシア語「エイドーロン」はフランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』において正しい知識を得る際の妨げになる偏見として説明しているイドラ(idolum, idola)の語源である。)

この三つの特徴はそのままソクラテスの活動に当てはまる。

①産婆は出産しない。
プラトンの作品を読んでいてよく目にするのは対話相手がソクラテスに対して、「ひとに聞いてばかりで自分の意見を表明しない」との旨の非難をする場面である。たしかに、自分では何も主張しないくせに考えを言わされるだけ言わせられ、それに同意してくれるどころか捻じ曲げて解釈されたり、矛盾点を指摘されてばかりいられれば非難したくなるのも無理はない。年若くまだ知識のない者に尋ねられるならまだマシだろうが、ソクラテスはだいぶ年もいっていてその分いろいろと知っているくせにとぼけたふりをしてあれこれ質問攻めにするものだから、相手の苛立ちはなお募るだろう。しかし、ソクラテスはそうした非難を意に介することもなく「僕は他人には問いかけるが、自分は、何の知恵もないものだから、何についても何も自分の判断を示さないというのは、いかにも彼らの非難のとおりである」(150C)と平然としている。自分で何らかの判断を下すことは最初から彼の目指すところではない。そうではなく、誰かが何らかの判断を下すことについて判断を下すこと、このことがソクラテスの対話の目的なのである。

②産婆は出産を助ける。
出産の手助けとは具体的にはどのようなことを指すのだろうか。このこともこの対話篇の中で示されている。登場人物のテアイテトスは「知識(epistēmē)とは何か」という問いに対してはっきりとした答えを持てないでいた。何らかの漠たる答えは持っているようにも思えるが、それでも自信をもって断言できる状態にはなかった。それをみたソクラテスはこのように言う。

ほら、それがすなわち君の陣痛というわけなのだ、愛するテアイテトス、君が空(から)でなくって、何か産むものをお腹に持っているから起こることなのだ。(148E)

つまり、何か言いたいことはあるがうまく言葉(logos)にできない状態を妊娠になぞらえ、そのような状態から言うべきことをうまく言葉にすることを出産になぞらえているわけである。

③産婆は産まれた子供の善し悪しをみる。
問答法によって産み出された知恵という子供が偽物であった場合には棄てられることがあるとソクラテスは言う(151C)。この子棄てという比喩は健康状態や体力に問題が見られた子供がタイゲトス山に棄てられたという当時のスパルタの制度を念頭に置いたものであると思われるが、これもまた見事なアナロジーとなっている。自分がお腹を痛めて産んだ子供ならばどんなに出来の悪い子供であっても大事にしたいと思うのが人情というものだろうが、これと同じように、自分が苦労して産み出した理論や学説ならば多少の不備があったとしても護り通したいと思うのが人性だろう。実際、「偽物の子供」を棄てようとすることには相当な反感があったらしく、ソクラテスはこのことについて次のように語っている。

それ(偽物の子供)を僕が取り出して投げ棄てようとするようなことがあるかもしれないが、そんな場合、まるで初産のものがその子供についてするような狂態は演じないでくれたまえ。というのは、もうすでにたくさんの人間が、[…]僕に向かってそんなふうな気持をもち、その結果、一度僕が彼らからその何か愚劣な考えを取り除こうとしようものなら、何のことはない噛みつかんばかりの剣幕を示したものだ。そしてそれを僕が好意でしているのだとは考えてくれないのだ。(151C)

出産を手助けすることとは異なり、生まれた子供を吟味する作業は既に成立している知へ疑いの眼差しを向けることにつながる。そのため、既存の知識や価値観を受け入れている人や積極的に主張している人の反感を買うことになるわけである。

このように、ソクラテスの産婆術とは、自らは知を産み出すことなく、誰かに働きかけることによって知を成立させることであり、また、すでに成立している知を吟味・批判することである。

(2)産婆術の意義
ソクラテスはそもそもどうしてこのような活動をするようになったのだろうか。このことについては『ソクラテスの弁明』に記されている。ソクラテスが精神の産婆として活動するようになったきっかけは「ソクラテスより知恵のある者は誰もいない」とのアポロンの神託を受けた彼が、そのことを確認するために知恵のありそうな人たちを訪ねてまわったことであった。つまり、当時の知識人の在り様を目の当たりにしたこと、このことでソクラテスは産婆として活動する決意を固めたのである。

ソクラテスが訪ねたのは、政治家や作家や職人といった特定の領域に優れた知恵や技術を有している人びとである。彼らは世間では知恵のある者として通っているし、自分自身でもまた知恵のある者だと思い込んでいた。しかし、ソクラテスは問答をしているうちに彼らの知恵のあり方には大きな問題があることを理解していったのである。ソクラテスは訪問した作家についてこのように語っている。

彼らの作品から、私が見て、一番入念な仕事がしてあると思えたのを取り 上げて、これは何を言おうとしたのかと、つっこんで質問をしてみたのです。[…](その結果分かったことは)ほとんどその場にいた全部の人といってもよいくらいの人たちが、作者たるかれら自身よりも、その作品について、もっとよくその意味を語ることができただろうということです。[…]この人たちもまた、結構なことを、いろいろたくさん口では言うけれども、その言っていることの意味を、何も知ってはいないからです。(22C)

作家は常人には真似できないような優れた作品を作ることはできるものの、自分の作った作品の意味をよく分かっていない。つまり、彼らには専門的な知識や技術が備わっているものの、自分の知識や技術、またそれをもとに産み出されたものを広い文脈から眺める視座が欠けているのである。

また、職人についてはこのような評価をしている。

かれらはわたしの、知らないことを知っていて、その点では、わたしよりもすぐれた知恵を持っていました。しかしながら、[…](彼らは)技術上の仕上げが上手にやれるからというので、めいめいそれ以外のたいせつなことがらについても、とうぜん、自分が最高の知者だと考えているのでして、かれらのその見当違い(plēmmeleia)が、せっかくのかれらの知恵を蔽いかくすようになっていたのです。(22D)

職人は、確かに優れた技術を持っており、ソクラテスをはじめ、普通の人の知らないようなことを知っていた。しかしながらその反面、「技術上の仕上げが上手にやれる」という限定された領域での技術や知識に長けていることで視野が狭くなってしまっていることが明らかとなったのであった。

このように、ソクラテスの訪ねた知識人たちは高い専門性を有しつつも、その専門的知識を全体の中に位置づけることをしていなかった。ある領域内での高い知識を持ってしまっているがゆえにその特定領域外についても自分が何某かのことを語ることが出来るものであると見当違いをしている。専門知が専門知の内に閉じ籠ることによって台無しになっていることをソクラテスは目の当たりにしたのである。

ソクラテスの活動の眼目は、明知に自足する専門家を非知の場へと誘い、彼らの有する専門知の限界を指し示すことである。ここで重要なのは、ソクラテスが固有の領域における専門知を全否定しているわけではないということである。確かに、「神だけが本当の知者であり人間の知恵が無価値であるかもしれない」(23A)と述べている通り、ソクラテスは人間が絶対的真理へと到達することは困難であり、専門知の空しいことを強調しているように思える。しかし、見逃してはいけないことは、彼が精神の産婆として人々に働きかけ、出産を助け、産まれた子を吟味し続けたことである。もしも本当に人間の産み出す知恵が空しいものでしかないのだとしたら、その手伝いをしようとはしないはずであろう。

このようにソクラテスの産婆術とは、産婆術であるかぎり専門家・専門知批判である。人々の思い込みに対して警鐘を鳴らし、実はそうではないかもしれない可能性に開かせることが産婆術である。

(3)「ダイモニオンのしるし」
産婆術をこのように理解した時、ソクラテスが若い頃より頻繁に体験していたという「ダイモニオン(daimonion)のしるし」の正体も明らかとなる。ソクラテスは、何かをしようとしているとき、ダイモニオンの合図を聞き、ある種の神がかり的な恍惚状態になることがあると周囲の人々に常々語っていた。このことは、ソクラテスが裁判において「不敬神」としてやり玉に挙げられる要因ともなってしまったのである。(ちなみに、「不敬神」と聞けば宗教上の罪のようにも思われるが、聞くところによればそうとばかりも言えないようだ。「不敬神」という罪はその時々の政治状況によって適用されることがよくあり、そういう意味ではむしろ政治犯を裁く罪名と考えた方が妥当だという。たとえば、ペリクレスの失脚やペロポネソス戦争下の社会的緊張やアレクサンドロス大王死後の反マケドニア感情に対応して「不敬神」で訴えられる哲学者が数多く出たとのことだ。このあたりの事情は、『ソクラテスはなぜ死んだのか』(加来彰俊著、岩波書店、2004年)に詳しい。)

プラトン作品においてソクラテスがダイモニオンについて語っている箇所はいくつもあるが、ここでは『ソクラテスの弁明』での証言を見てみよう。
 
これはわたしには、子供の時から始まったもので、一種の声となってあらわれるのでして、それが現われる時は、いつでも、わたしが何かをしようとしている時に、それを私にさし止めるのでして、何かをなせとすすめることは、どんな場合にもないのです。(31D)

ここから分かることはダイモニオンのしるしとは、第一に、通常の思考様式や行動様態からは離れたところから下される命令のようなものである。そして第二の特徴は、それが禁止(~するな)の形で示されることである。

余談だが、ヘーゲルはこの二つ目の特徴をどういうわけだか見過ごしている。彼は『歴史哲学講義』において、ソクラテスがその内面に有していたというダイモニオンを「何をなすべきか(was er tun solle)を助言するものであり、友人にとって何が有益であるのかをあきらかにするもの」(Hegel, Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte, Frankfurt a. M. 1986, S. 329. 長谷川宏訳『歴史哲学講義(下)』、岩波文庫、1994年、81頁。)と記述しており、先に引用した「何かをなせとすすめることは、どんな場合にもない」というソクラテス自身の証言とは明らかに異なっている。その理由は、恐らくだが、ヘーゲルの関心が、ペロポネソス戦争を背景に共同体・人倫の紐帯が揺らいでいた当時のポリス社会にあって、行動を律する原理となるものが伝統や慣習から、ダイモニオンのしるしのように個人の内面に湧き起る主観的判断へと変化しつつあったという事実をこのダイモニオンのエピソードからくみ取ることだけに向けられていたからだと思われる。そのため、それが「~せよ」という形であろうが「~するな」という形であろうが、ヘーゲルにとってはどちらでもよかったのだろう。

しかし、ソクラテスの産婆術に焦点を当てるとき、両者の違いは看過できないものとなる。ソクラテスは、(ヘーゲルの言うように)ダイモニオンから「何をなすべきなのか」を知らされたわけではなかった。そうではなく、ダイモニオンの声は、ソクラテスの選んだ道が実現されつつあるときに、その判断が本当に正しいのか、誤っているのではないかと立ち止まらせるに留まり、別の正しい道を教えてくれるわけではなかった。このことは、産婆が子供を産まないということと符合している。

ソクラテスは「僕は(知恵を産む方ではなく)取上げの役の方をしなければならんように神が定め給うている」(『テアイテトス』150C)と言っているが、産婆術をするよう「神が定め給うている」とは、ダイモニオンのしるしが聞こえてきてしまうという彼の生まれながらの性質を指しているのであろう。

ところで、ソクラテスが産婆になった要因は生まれながらの性質だけでなく、それと同時に、自分自身が出産をしたか、あるいはしようと試みた過去があったこともあるのではないかと思われる。


(4)産婆の出産経験
ソクラテスはテアイテトスに向けて次のようなことを言っている。

君も知っていることだろうが、かれら産婆のうちには、誰一人として、まだ自分が妊娠をしたり産をしたりする身でありながら、それで他人の産婆をつとめるというようなものはいない。そういうことはもう産のできない者(ēdē adynatoi tictein/who have become too old to bear)がしているのだ。(149B)

産婆が出産をしないということについては既に確認していたが、それでは過去に出産の経験はあるのかということについてははっきりしていない。ただ、「もう産のできない者」が産婆をつとめるというここでの言い回しから推察するに、産婆にはそのむかし出産をした経験があるようにも思えてくる。ソクラテスについては少なくとも、出産を試みて挫折した過去があったのではないかと私は推測している。というのもソクラテスは『パイドン』の中で自然学に熱中した若き日の自分を回顧しているからだ。

わたしは、およそ存在するものの原因を、私の意にかなった仕方で教えてくれるひとを、ついに見つけ出した、それはアナクサゴラスにほかならない、とおもいよろこんだのであった。(97D)

こうした期待からソクラテスはアナクサゴラスの書物をずいぶん熱心に読んだようである。ところが、「これほどの期待からも、友よ、わたしはつき放されて、むなしく遠ざからざるを得なかったのだ」(98B)と述べられている通り、読み進んでいくにつれてアナクサゴラスの学説も自分を満足させるものではないことに、ソクラテスは気づいていった。つまり、ソクラテスには或る特定の学説を信奉し、正しい知恵を産もうと試みたものの挫折した経験があるのだ。このことはソクラテスの産婆術を始めるひとつの要因であるに違いない。

ただ、ひとたび産婆術が確立されると、そうした経験をもっていない者でも産婆の活動をすることができるようになる。産みの苦しみも知らないような者が、出産は空しいのだと最初から決めてかかるのである。ソクラテスにつき従った若者たちの多くはそのような者であったことだろう。『ソクラテスの弁明』の中で、次のようなソクラテスの言葉がある。

若い者で、暇がたいへん多く、金も非常にたくさんある家の者が、何ということなしに、自分たちのほうから、わたしについて来て、世間の人がしらべあげられるのを、興味をもって傍聴し、しばしば自分たちで、わたしのまねをして、そのあげく、他のひとをしらべあげるようなことを、やってみることにもなったのです。(23C)

今も昔も、哲学が若者たちに魅力的に映るのは哲学の持つ破壊的な働きによる。つまり、社会的権威を否定し、世の慣習を相対化し、我々の間に浸透している常識を破壊する危険な香りに青年たちは魅せられるのである。しかし、知恵を単に否定したいだけの人間と、自ら知恵を産み出そうと試みた結果、壁に突き当たり限界を痛感した上で、知恵を吟味・批判しようとする人間のあいだには雲泥の差があるのではないだろうか。

ソクラテスの産婆術は生来ダイモニオンに憑かれていたことに加えて、自ら専門知を開拓しようと試み、その限界を思い知ったという経験にも裏づけられているのである。

 
***
 
本論の目的は「哲学とは何か」という問いに対して、何らかの示唆を得るためにソクラテスの活動を振り返ることであった。

ソクラテスの活動とは産婆術のことであり、産婆術とは自らは知を生み出すことなく、誰かに働きかけることによって知を成立させることであり、また、すでに成立している知を吟味・批判することである。吟味・批判される対象は専門知および専門家であり、このような営みは当時のアテナイの知の分業体制を背景に行なわれた。

この産婆術で以て、世に登場した全ての哲学を規定することはできないだろう。そもそも2500年もの歴史を持つ言葉を一言で片づけることなど最初から不可能だ。哲学者を産婆に見立てることに対してはいろいろと問題も出てくるだろうが、たとえば、次のような疑問は湧いてしかるべきだろう。

果たして哲学者が知恵を産むことは本当に全くないのだろうか? というのも、哲学者と呼ばれる人たちが、学説を吟味し学問の方法を外から問うばかりでなく、自分自身も何らかの主張を行なうことはよくあるように思えるからである。第一、ソクラテス自身、「自分は知恵が無いから何も産めない」と言っておきながら、ある場面では国家のあり方を論じたりしているし、またある場面では天体の運動についても論じたりしている。何も産んでいないどころか、むしろ多産の部類に入るのではないだろうか。この矛盾を解消するために、ちょうどイエス・キリスト研究において、信仰の対象であるキリストとナザレからやってきたひとりの青年であるイエスとを分けて考えることがあるように、プラトン作品の登場人物としてのソクラテスと歴史上のソクラテスとを分離してみてもよいかもしれない。つまり、実在した史的ソクラテスは学者や青年相手の対話に明け暮れ自らは積極的に学説を打ち出さなかったが、作品上のソクラテスはプラトンが自身の思想を表明するための腹話術の人形に成り下がってしまった、というような具合に。ただ私は、ソクラテスが信仰の対象でない以上このような矛盾があろうが大した問題ではないと考えている。多少の言行不一致が見られても、ソクラテスが自身を産婆になぞらえ、その活動の意義を説いたことは確かだからである。

哲学を産婆術と捉えることの意義は、哲学を哲学内部に留まらせることなく他の専門的諸学問との関わり方を指し示し、広く社会の中での役割を確認することができることである。私は哲学を勉強し始めて十年ぐらいになるが、妊婦を診る気もなく子供と接する気もないくせに、陣痛を起こす技術や子供の善し悪しの判断力を磨くことだけに必死になっている産婆が多いような気がし始めている。


引用文献
『ソクラテスの弁明』(『プラトン全集1』、田中美知太郎訳、岩波書店、1975年。)
『パイドン』(『プラトン全集1』、松永雄二訳、岩波書店、1975年。)
『テアイテトス』(『プラトン全集2』、田中美知太郎訳、岩波書店、1974年。)

引用中のカッコ内の原語に関しては「ペルセウスデジタルライブラリー」(http://www.perseus.tufts.edu/hopper/)というなんともたいへん便利なサイト内のテキストを参照した上でローマ字表記に転写した。
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古松待男  話し合うことの難しさについて  (イザ!ブログ 2013・9・25 掲載)

2013年12月22日 06時08分11秒 | 古松待男
〔ブログ編集者より〕

ここに、新たな執筆者を迎えることができました。二〇代半ばの哲学の俊秀、古松待男(こまつまつお)氏です。執筆依頼をしたところ、いきなり成熟した論考が飛び出してきたので、正直に云って、私はびっくりするとともに、新しい思想家の誕生を祝する気持ちでいっぱいになりました。古松氏の今後のご活躍を期待いたします。

*****


話し合うことの難しさについて



長い人生、生きていれば誰しも他人との意見の対立は避けられない。誰と・どこで・何について話し合うかによって質や量の差はあったとしても、話し合いがうまくいかずに物別れとなることは往々にして起こることである。

言うまでもなく、議論することの目的はそこに参加する人々が協同することによって真理へと接近することだ、そのためには他人の声には真摯に耳を傾けてもしも自分に非があるならばそれを素直に認めなければならない――、と言うのはまことに結構なことだが、言うまでもないことをわざわざ言わなければならないのだとしたら、それは現実に行なわれる議論が真理の追究という理想からいかに外れやすいものであるのかということをすでに示していると言える。ある者は決して他人の話を聞かないし、またある者は決して自分の非を認めない。まっとうな反論だと心の底では分かっていても、言い方が気に入らない、お前には言われたくない、負けを認めたくない、などという理由から聞き入れることができなかったという経験は誰しも一度ぐらいあるのではないだろうか。現実の議論は常に生身の人間によって運営されるものであるから、理論のたんなる整合性や命題のたんなる信憑性によってのみ結論が導き出されるのではない。だから、話し合うことは難しい。

***

プラトンはこのことを強く自覚していた哲学者であった。たしかに、「イデア論」であったり、「哲人政治」であったり、「洞窟の比喩」であったり、「主知主義」であったり、プラトンのものとして紹介される思想はどれも生身の人間を超絶しようとする志向をもっているように見える。さらに、ラファエロの絵画「アテネの学堂」の中央で天を指さす老哲人の姿や、「プラトニックラヴ」といった言葉から醸成されるイメージも加われば、いよいよこうしたプラトン像も固まってくる。こうなると、プラトンは生身の人間の情念や人間同士の感情の対立を捨象して思想を展開した哲学者のように思えてくる。しかしそうではない。プラトンが話し合うことの難しさに強く自覚的であったこと、このことはプラトンが自分の思想を語るために用いた手法、つまり、対話篇という形式において示されている。

プラトンの著作のほとんどは対話篇という形式が採られている。対話篇とは、作中の登場人物が一定のテーマについて議論を行なうことによって真理の探求を行なう文学形式である。そこにおいてあらゆる学説・理論・思想はそこに現れる登場人物が語ることとなる。「イデア論」、「哲人政治」、「洞窟の比喩」、「主知主義」といった生身の人間を超絶する志向をもつ思想も、生身の人間の口を通して語られるのである。

対話篇という形式において、著者プラトン自身の(と思しき)主張とそれに対立する主張との比較・吟味は、生き生きと描かれた人物同士が向き合って議論することを通してなされる。人間同士が向き合っているのだから、議論の方向はまっすぐに進むことばかりではない。ときに冗談を言うこともあれば、ときに悪口を言うこともある。対立にいらだって立ち去ろうとすることもあれば、話題が何らかの学説からそれを奉じる人物のパーソナリティへと向かうこともある。このようにプラトンの対話篇において学説の吟味を行なわれる際には、学説それ自体のみならず、それを(1)「誰が議論しているか」、(2)「どのように議論するべきか」ということにも焦点が当てられるのである。

ただし、対話篇でありさえすれば上述の条件が満たされる訳ではない。たとえば、バークリ(George Berkeley, 1685 - 1753)の対話篇『ハイラスとフィロナスの三つの対話』のように、作中に人格を持った人物が登場してくるとしても、一人が一方的に自説を述べ、もう一人が一方的に聴き手にまわることもある。これでは一人で語っているのとあまり変わらない。語り手が何らかの教えをもたらす先生の役割であるのに対して、聴き手は、そうした先生の教えを分かりやすく読者に伝えるために、ひたすら生徒の役割に徹する。(この種の生徒は理解力に、妙に長けていることもあれば、妙に欠けていることもある。ただ、どちらの場合も共通しているのは、概して素直なところである。)このような先生と生徒の対話には意見の対立がない。だから、話し合いは難しくない。

また、決定的に異なる意見を持つ人物同士の対話であっても、人間同士が話し合うことの難しさに焦点が与えられていない場合もある。たとえば、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564 - 1642)著の『天文対話』がそれに該当する。作中では、天動説と地動説という真っ向から対立する学説同士が、ガリレオの弟子とアリストテレス学者の口を借りて相対する。彼らの対話は大いに長引き、岩波文庫二巻分延々と続くわけであるが、両陣営ともに大変行儀正しく冷静である。ぜひとも議論のお手本としたいところだ。

プラトンの対話篇に出てくる登場人物は、主人公のソクラテスも含め、あまり行儀が良いとは言えない。最も有名な作品の一つである『国家』でもそうした点は見受けられる。序盤に登場するトラシュマコスとソクラテスとの議論は、「〈正義=正しいこと〉とは何か」というテーマをめぐって行われる訳ではあるが、そのやり取りはほとんど喧嘩に近い。トラシュマコスの登場シーンを見てみよう。

こうしてぼく(ソクラテス・・・引用者註)たちが話し合っているあいだに、トラシュマコスが、すでに一度ならず身を乗り出しては、話題に割って入ろうとした。〔…〕話がしばしとぎれると、彼はもはや、じっとしていられなくなって、獣のように身をちぢめて狙いをつけ、八つ裂きにせんばかりの勢いでわれわれ目がけてとびかかってきた。

ぼくとポレマルコスとは恐れをなして慌てふためいた。トラシュマコスは、満座にとどろく大声でどなった、

「何というたわけたお喋りに、さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ、ソクラテス? ごもっともごもっともと譲り合いながら、お互いに人の好いところをみせ合っているそのざまは、何ごとですかね? もし〈正義〉とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。答えるよりも問うほうがやさしいことは百も承知のくせに! いやさ、自分のほうからも答えを提出しなさい
。〔…〕」(『国家』336B-C)

トラシュマコスがまさにケンカ腰でソクラテスに噛み付いていることがこの箇所からわかるだろう。

この場面において「〈正義=正しいこと〉とは何か」という議論自体は行われない。ここでは第一に、これからソクラテスとの対話を始めることとなるトラシュマコスの性格が描かれている。つまり、トラシュマコスという人物は、他の人が語り合っているそのさなかに割って入ろうとするような人物であり、「獣のように身をちぢめて狙いをつけ、八つ裂きにせんばかりの勢いで」とびかかってくるような行儀の悪い人物である、と。第二に、そのようなトラシュマコスの第一声が何に向けられているかも示されている。つまり、トラシュマコスにとってソクラテスとポレマルコスの対話は「お互いに人の好いところをみせ合っている」だけの「たわけたお喋り」であり、「〈正義=正しいこと〉とは何か」を探求するためには不完全な方法である、それゆえソクラテスは人に聞いているばかりではなく「自分のほうからも答えを提出」するべきである、と。このように、トラシュマコスの登場シーンには、「〈正義=正しいこと〉とは何か」というテーマを議論する以前に、それを(1)「誰が議論しているか」(2)「どのように議論するべきか」といった問題に焦点が当てられているのである。

さて、この強烈なキャラクターからは、「〈正義〉とは強者の利益である」という強烈な正義論が飛び出すわけであるが、程なくソクラテスによって命題内部の意味の矛盾を指摘され論駁されることとなる。その対話のさなか、トラシュマコスは自説の論証を行なうこともあれば、ソクラテスに悪態をつくこともあれば、議論をそのままにその場から立ち去ろうとすることもある。最終的にトラシュマコスはソクラテスの反駁を受け入れて引き下がるわけではあるが、それは彼の正義論そのものが論駁されたというよりもむしろ、ソクラテスの執拗な追窮に辟易した面が大きかったのだと思われる。そのことは、トラシュマコスがソクラテスとのやりとりのさなかに発する「まあ、あんたの気に入るようにしてあげるよ」(350E)だとか、「まあ心安らかに議論を楽しむがよい〔…〕わたしはけっして反論しはしないから。ここにいる人たちに嫌われないためにね。」(352B)だとかいった言葉からもうかがい知れるし、また、この作品自体の語り手でもあるソクラテスのト書き(たとえば、「さて、トラシュマコスは以上すべてのことに同意してくれはしたものの、とてもぼくがいま話しているような具合に、なめらかにことが運んだわけではなかった。彼はさんざん引き延ばしたり、嫌な顔をしたりし、びっくりするほど汗を流していた。」(350D)のような文章)からも読み取れる。結果的にトラシュマコスは、ソクラテスに対する「自分のほうからも答えを提出しなさい。」(336C)という要求を叶えられぬままに引き下がることとなってしまうのだった。

トラシュマコスが引き下がったのは「〈正義〉とは強者の利益である」という自説が論破されたからというよりもトラシュマコス自身のキャラクターによる要因があるのではないか。このような疑念はその場に居合わせた者にも抱かれていたようで、トラシュマコスが引き下がったあとすぐにグラウコンという人物からこのような問いが発される。

ソクラテス、いったいあなたは、私たちを説得したと思われさえすれば、それで気がすむのですか? それとも、ほんとうに私たちを説得して、正しくあることは不正であることよりもすべてにおいてまさるのだと、心から信じさせたいのですか?(357A-B)

このあとグラウコンは「私自身は、けっしてこのような見方に与するものではありません」と断りを入れたうえで、トラシュマコスの説を復活させる。「〈正義〉とは強者の利益である」との正義論は再びソクラテスに立ち向かうこととなる。トラシュマコスと比べると格段に冷静で行儀のよい人物が対話の舞台に上がったことで、徹底的に〈正義〉について語り合う場が構築され、ソクラテス自身の正義論が語られるきっかけとなるのであった。

この『国家』の序盤でのやりとりからも分かる通り、プラトンの対話篇は非常に生々しい現場で議論が行われているものが多い。同じテーゼであっても、それを唱えるのが情熱的なトラシュマコスなのか、幾分冷静なグラウコンなのかによって議論の筋道は変わってくるのである。

プラトン研究者のヴラストス(Gregory Vlastos, 1907 - 1991)は、プラトン初期対話篇の中でみられるソクラテスの独特の論駁法=エレンコス(Elenchus)には二つの目的があると指摘した。一つ目が「善い生き方についての真理を探求するもの」であり、二つ目が「答え手自身の生き方を吟味して彼を真理へと導こうとするもの」である。ソクラテスの目的は、人間一般にとっての真理を共同して探求することだけでは十分ではなく、同時にその探求に参加する人間個人を真理へと導くことも目標とされる。したがって、ソクラテスの対話相手への追窮は学説からそれを奉じている人物のパーソナリティへと向かうこととなる。この点についてはプラトンの作品内でも指摘されていることであり、『ラケス』の中に登場するニキアスは次のように語っている。

誰でもあまりソクラテスに近づいて話をしていますと、はじめは何かほかのことから話し出したとしましても、彼の言葉にずっとひっぱりまわされて、しまいにはかならず話がその人自身のことになり、現在どのような生きかたをしているか、またいままでどのように生きてきたか、を言わされるはめになるのです
。(『ラケス』187E-188A)

このようにソクラテスの論駁法は、命題や学説そのものの検討と対話相手の生き方への吟味が一体となって行われるのである。

ソクラテスの問答を受ける者は自分自身の発言に無責任では居られない。答え方次第で、自己自身の非倫理性を暴露してしまうことになる。心の底では思っていることでも、それを口にしてしまうことで自分の評判を落とすことになるのなら、なかなか正直な発言はできないものである。

『ゴルギアス』において三人目の対話者であるカリクレスとの対話が長引くのは、カリクレスが世間の評判を気にしないで自説を徹底的に展開したからである。自分に先行する対話者二人の敗北原因を周囲の目に遠慮したことであると見て取った(482C-D)カリクレスは「強者の正義」を掲げ、臆面もなく「正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。」(『ゴルギアス』491E)と主張する。これに対してはソクラテスも「ほかの人たちなら、心には思っていても、口に出しては言おうとしないようなことを、君はいま、はっきりと述べてくれている。」(492D)と徹底的に論じ尽くす姿勢を讃えている。

もちろん上に挙げた例は極端なものである。プラトン作品の中には二人の人物が議論を淡々と繰り広げることもあれば、一人の人物が自説を滔々と展開することもある。ただ、少なくともここで見てきた対話篇では人間と思想が一体となっている。異なる主張のぶつかり合いは人間同士のぶつかり合いとなる。つまり、そこでの議論は難しい話し合いとなる。

現存する最古の哲学書である一連のプラトンの作品群は対話篇形式で書かれたが、その弟子のアリストテレスはこれを採用しなかった。初期作品の中には対話篇形式で書かれたものもあると言われているが、現在残っているものはすべて整然たる論文形式である。『形而上学』の冒頭ではタレス以来のギリシア哲学史が、物事の原理(アルケー)を巡る思想の変遷として実に見事にまとめられている。プラトンにあっては鮮やかに描写される対象であったパルメニデスやプロタゴラスも、アリストテレスにあっては学説のみが切り離され、著者の図式の中に配置されるだけの対象となる。この変化は論証法の精錬とも言えるし、人間の忘却とも言える。少なくとも、アリストテレスの中に難しい話し合いは存在しない。


引用文献

『プラトン全集 7』、生島幹三訳、岩波書店、1975年。
『プラトン全集11』、藤沢令夫訳、岩波書店、1976年。
『ゴルギアス』、加来彰俊訳、岩波書店(岩波文庫)、1967年。

参考文献・その他

①G・ヴラストス「ソクラテスの論駁法」(井上忠・山本巍 編訳『ギリシア哲学の最前線Ⅰ』、東京大学出版会、1986年、pp. 37-72)
②トーマス・A.スレザーク『プラトンを読むために』、内山勝利・丸橋裕・角谷博 訳、岩波書店、2002年。
→ プラトンの思想だけでなく、その対話篇という形式のもたらすプラトン解釈の深さ・面白さが分かりやすく描かれている。
③ハンス・ヨアヒム・クレーマー『プラトンの形而上学(上)(下)』、岩野秀明訳、世界書院、2000年。
→ プラトンは人類史に燦然と輝く偉大な作品群を残した一方で、本当に大事なことは書き残さないとも述べている。(『第七書簡』)これを真に受けて「語られぬ学説」の探求を試みるテュービンゲン学派の一人であるクレーマーの書物。彼らの研究によると学説が語られなかったのは、プラトンの教育的な配慮があり、知の有効な伝達は対話を通じた長期間の教育課程の上に初めて可能であると教師プラトンが考えていたから、ということらしい。
④デイヴィッド・ヒューム『自然宗教に関する対話』、福鎌忠恕・斉藤繁雄訳、法政大学出版局、1975年
→ 宗教をテーマにした対話篇。冒頭で、なぜ哲学書が対話篇で書かれなくなったのかについて説明している。それによると哲学に求められる厳密な論証法やその体系が、会話の形には適さないからだそうだ。
⑤A. P. ダントレーヴ『国家とは何か』、石上良平訳、みすず書房、1972年。
→ リアリスト的な政治理論・法理論・国家論が論じられる本書にあって、プラトン『国家』のトラシュマコスを「実力 force」に関する議論の最も古いものとして検討している。
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