ひさかたぶりに、深く心を揺さぶられる文章に接しました。国語の問題集に載っている文章で、歌人・佐々木幸綱の『うた歳彩』です。冒頭に、浜田到という歌人の黒蟻の短歌が引かれます。
百粒の黒蟻をたたく雨を見ぬ
暴力がまだうつくしかりし日に
それに次の文章が続きます。
突然の激しい夕立。大粒の、たたきつけるような雨滴が、蟻を打ち、蟻をはじきとばす。
木の下で雨やどりでもしているのだろうか、黒蟻をおそうすさまじい銀色の雨を、感嘆のまなざしで見ている少年がいる。
逃げまどう蟻たち。少年は、だが、蟻がかわいそうだ、というふうには感じていない。輝きながら地に突き刺さる天の水に目を見はり、圧倒的な暴力としての自然に、ただ感嘆しているのである。
幼い者にとって、強いものは美しいものである。また、美しいものは強くなけければならない。暴力は、それ自体、少年にとって美である。これは善悪とは全く別次元の問題だ。強く、たくましい大人に成長したいという、おのずからの願望が選ばせる切実な美学なのだ。
幼少年時代に、何度かは、蟻の穴の前にうずくまり、出入りする蟻たちを眺めていたおぼえが誰にもあるはずだ。用ありげに穴から出てくる蟻を、途中で出遇って何やら話し合うように合図しあっている蟻を、蟻の屍をはこぶ蟻を、未知の世界を見る目で見つづけた記憶があるはずである。
そのうち、子供は残酷である、蟻の穴をふさいでしまい、蟻たちがどうするかを観察したりする。蟻の道をみつけ、なんとかして行列を乱そうとして、さまざまな妨害を試みたりする。蟻の穴に水を注ぎ込みもしよう。一匹をつかまえてはなれた場所に連れてゆき、どうやって巣に戻るかを試したりもする。
少年はたぶん、そこで、絶対の王を経験するのである。
君臨する絶対の王は、オールマイティとしての暴力を行使することができる。彼の判断、彼の気まぐれによって、蟻たちの運命は決定される。少年の小さな手に、蟻たちの生命はにぎられているのだ。
こうした経験が、人間らしいやさしさを芽生えさせる種子となるのだろう。愛とか思いやりとかを、理屈ではなしに、自分の内側に堀り当てる機会を、少年はこうして手に入れるのではないか。それがつまり、強く、たくましくなることでもあるのである。
人は、自然からあらゆるものを学ぶ。暴力は美である、という子供の美学ほど簡明率直な美学を大人になっても持ちつづけるのは困難としても、人間が人間と成りえた母胎が自然であったことを忘れ去らないかぎりは、自然から学びつづけてゆくのだろう。
私としては文句のつけようのないほどに正鵠を射たお話しであるとは思うのですが、女の子にとって、「愛とか思いやりとかを、理屈ではなしに、自分の内側に堀り当てる機会」は、自然もそうではあるのでしょうが、それよりむしろ、ママゴトやお人形ごっこなどの疑似家族的な遊びなのではないでしょうか。その男女の違いが何をもたらすのかについてはいまのところはっきりとはしないのですが、自分が在ることの感覚が相当に違ってくるような気がします。