美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「神は細部に宿る」、あるいは、川端康成『伊豆の踊子』との邂逅

2022年05月24日 21時37分49秒 | 文学

伊藤初代

*以下は、川端康成の「初代体験」をご存じの方にとっては、あまり興味の湧く読み物ではないと思われます。無視していただいてかまいません。

***

本を読んでいて、目が覚めるような思いをすることなどもはやないと思っておりました。

ところがつい最近、そういうことがあったのです。

渡辺惣樹さんの『第二次世界大戦とは何だったのか』の「あとがき」の次のくだりを読んでいるとき、文字通り図らずも、そういう経験をしてしまったのです。(指示語の内容を補ったりして、原文そのままでない箇所もあります。)

川端の『伊豆の踊子』を真の意味で鑑賞するには、川端の伊藤初代との強烈な失恋を頭に入れておく必要がある。大正六年(一九一七年)、川端は旧制第一高等学校に入学した。高校二年のとき、本郷にあるカフェ・エランの女給伊藤初代を知った。エランは当時の著名人谷崎潤一郎や佐藤春夫などが足繁く通う人気カフェで、初代は谷崎の仕草を真似たりして客を笑わせる人気者であった。

ここまでは、当時の文士や文士気取りの人びとにありがちな単なる風俗が淡々と述べられていると受けとめただけでした。

カフェの女将マスは、帝大法科の学生と恋に落ち、台湾銀行に就職する彼について行くため店を辞めた。マスは気に入っていた女給初代と多賀を台湾に帯同することを決め、郷里の岐阜に連れ帰った。しばらくすると、事情が変わった。二人の帯同が難しくなり、多賀は東京に戻り、初代はマスの長姉テイの暮らす岐阜西方寺預かりとなった(実質養女)。

上記引用中の「多賀」は、エランの新米の女給さんです。引用を続けます。

カフェ・エランに戻った多賀から、人気者だった初代の居所を知った学生たちの中にはわざわざ岐阜を訪ねるものがいた。その一人が川端であった。彼を誘ったのは友人の三明永無(みあけ・えいむ)だった。彼らが初めて岐阜を訪れ、友人らと初代を宿に連れ帰って手相などを見て他愛なく遊んだのは、大正十年(一九二一年)九月半ばのことである。初代は初め、川端のぎょろっとした目を気味悪がっていたようで、彼に惹かれてはいなかった。

三明永無は、川端と同級で三明が積極的にエランに川端を誘ったそうです。

川端らは十月にも再度岐阜を訪れ、初代を誘い出している。川端が、初代との結婚を決意したのはこのときであった。初代は、当時の少女らしく父親の許しがあればとの条件付きで結婚を承諾した。川端は早速友人ら四人と学生服姿で、初代の父が用務員をしていた岩手県江刺郡(現奥州市江刺岩谷堂)の岩谷堂尋常高等小学校に向かった(十月十五日)。翌十六日には、父忠吉から、「結構でございます。みなさんさえよければさしあげます。娘には大変気の毒な事をしておりますから」と許しを得たのである。

話の流れとは異なりますが、「奥州市江刺」と聴くと、大滝詠一フリークの当方としては、心に波立つものがあります。大滝詠一の生まれ故郷が同じく「奥州市江刺」だからです。

川端はすぐさま結婚の準備を始めた。菊池寛に相談し、親戚から当座のお金を工面した。そんなときに、突然彼女から結婚を止めたいとの手紙が届く(十一月七日)。驚いて岐阜に向かって会った初代の外貌は惨めであったらしい。何とか翻意をさせようとしたが、結局は絶交したいとの手紙が送られてきた(十一月二十四日)。

続けます。

彼女は心変わりの理由を川端に語ってはいない。川端が、その理由を初めて知ったのは別れからおよそ二年が経った大正十二年(一九二三年)の十月ごろである。彼女は、義父(僧侶)に犯されていたのである。この事件が公知となったのは、昭和二十三年に発刊された『川端康成全集』第四巻の後書きにおいてであった。川端が『伊豆の踊子』を発表したのは、彼が「事件」を知ってから三年経った大正十五年(一九二六年一月)のことであった。

この事実を知ることで、私は『伊豆の踊子』に密やかに込められた川端の、言葉にしがたい思いにはじめて触れることができたような気がしました。つまり、当方は長い時間を経てやっと『伊豆の踊子』との邂逅を経験できた。と同時に、作家・川端康成の深い悲しみの根幹にじかに触れたような気もしました。

むろん〈われわれの前には『伊豆の踊子』という一個の作品があるだけであり、そこから読み取りうるものがすべてである〉という考え方があるのは承知しています。それにも一理はあります。

しかし、上記の事実を知ってしまった後の当方が、それを知る前と同じように『伊豆の踊子』を、さらには作家・川端康成を受けとめることなどもはや不可能であることもまた事実です。そのことに、私は正直であらねばならないでしょう。

作品『伊豆の踊子』にとって、川端の初代体験は「細部」に他なりません。しかしその「細部」に当作品の「神」すなわち「真実」が宿っていることもまた確かです。

それにしても、川端が大作家になるために払った代償がいかに大きくて痛切なものであったのか。ついつい、それに思いをはせてしまいます。
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いい文章に巡りあいました

2020年12月27日 21時32分18秒 | 文学
      

ひさかたぶりに、深く心を揺さぶられる文章に接しました。国語の問題集に載っている文章で、歌人・佐々木幸綱の『うた歳彩』です。冒頭に、浜田到という歌人の黒蟻の短歌が引かれます。

百粒の黒蟻をたたく雨を見ぬ
  暴力がまだうつくしかりし日に


それに次の文章が続きます。

 突然の激しい夕立。大粒の、たたきつけるような雨滴が、蟻を打ち、蟻をはじきとばす。
 木の下で雨やどりでもしているのだろうか、黒蟻をおそうすさまじい銀色の雨を、感嘆のまなざしで見ている少年がいる。

 逃げまどう蟻たち。少年は、だが、蟻がかわいそうだ、というふうには感じていない。輝きながら地に突き刺さる天の水に目を見はり、圧倒的な暴力としての自然に、ただ感嘆しているのである。

 幼い者にとって、強いものは美しいものである。また、美しいものは強くなけければならない。暴力は、それ自体、少年にとって美である。これは善悪とは全く別次元の問題だ。強く、たくましい大人に成長したいという、おのずからの願望が選ばせる切実な美学なのだ。

 幼少年時代に、何度かは、蟻の穴の前にうずくまり、出入りする蟻たちを眺めていたおぼえが誰にもあるはずだ。用ありげに穴から出てくる蟻を、途中で出遇って何やら話し合うように合図しあっている蟻を、蟻の屍をはこぶ蟻を、未知の世界を見る目で見つづけた記憶があるはずである。

 そのうち、子供は残酷である、蟻の穴をふさいでしまい、蟻たちがどうするかを観察したりする。蟻の道をみつけ、なんとかして行列を乱そうとして、さまざまな妨害を試みたりする。蟻の穴に水を注ぎ込みもしよう。一匹をつかまえてはなれた場所に連れてゆき、どうやって巣に戻るかを試したりもする。

 少年はたぶん、そこで、絶対の王を経験するのである。

 君臨する絶対の王は、オールマイティとしての暴力を行使することができる。彼の判断、彼の気まぐれによって、蟻たちの運命は決定される。少年の小さな手に、蟻たちの生命はにぎられているのだ。

 こうした経験が、人間らしいやさしさを芽生えさせる種子となるのだろう。愛とか思いやりとかを、理屈ではなしに、自分の内側に堀り当てる機会を、少年はこうして手に入れるのではないか。それがつまり、強く、たくましくなることでもあるのである。

 人は、自然からあらゆるものを学ぶ。暴力は美である、という子供の美学ほど簡明率直な美学を大人になっても持ちつづけるのは困難としても、人間が人間と成りえた母胎が自然であったことを忘れ去らないかぎりは、自然から学びつづけてゆくのだろう。


私としては文句のつけようのないほどに正鵠を射たお話しであるとは思うのですが、女の子にとって、「愛とか思いやりとかを、理屈ではなしに、自分の内側に堀り当てる機会」は、自然もそうではあるのでしょうが、それよりむしろ、ママゴトやお人形ごっこなどの疑似家族的な遊びなのではないでしょうか。その男女の違いが何をもたらすのかについてはいまのところはっきりとはしないのですが、自分が在ることの感覚が相当に違ってくるような気がします。
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文芸批評の復権のために  (美津島明)                        

2016年05月11日 13時58分25秒 | 文学
〔編集者記〕当方が、2011年に書いた文章です。ある短歌誌に載せていただきました。最近は、政治・経済や世界情勢に触れた文章がほとんどという状態ですが、実は人並み以上に文学に対する関心を抱き続けてきた者である、という思いがあります。その関心・こだわりの核心に存在し続けてきたのは、故・吉本隆明氏です。当拙論を書いた翌年11月にその吉本隆明氏が亡くなりました。でも、いまでも一日が終わった25時、心のどこかでぶつぶつと吉本氏と対話をしているような気分が抜け切れていません。心からの敬意を抱いていながらも、口を開けば文句ばかりたれて、あの世の氏をうんざりさせているにちがいありません。


吉本隆明氏

私は、日本の文芸批評の現状について、少なからず小首をかしげている者である。

まずは、そのきっかけについて。

二〇〇四年に発行された『日本近代文学評論選』(千葉俊二/坪内祐三編 岩波文庫上・下二冊)を早速購入して通読したときのことである。その丁寧な編集には一定の好感を持ったのだが、なにやら言い知れぬ違和感が残った。というのは、ページのどこをめくってみても、吉本隆明の文章はもとより彼に言及した一行もないからであった。本書は、一九五〇年代までの評論を載せている。だったら、せめて吉本の『転向論』(1958年)くらいは載せたっていいだろう、と思ったのである。ちなみに、吉本抜きに日本の近代文芸批評は語りえないというのは、誰がどう言おうと、いまのところ常識なのである。

それ以前に、私は『近代日本の批評 昭和篇上・下』(柄谷行人編 浅田彰・蓮見重彦・三浦雅史・野口武彦 福武書店一九九一年、後、講談社文芸文庫に)を読んで、日本のポスト・モダンの夜郎自大ぶりに目の前がかすむくらいに憤激していた。当然のことながら、吉本の扱いも雑になる。浅田の「ぼくは全然理解できない、なぜ吉本があんなに読まれたのか」などという本書中の能天気な発言は、その最たるものである。

別に自慢するほどのことではないのだけれど、私は、吉本思想に入れ込むことで半生を棒に振った者である。また、オウム事件以降における吉本の身の振り方に対して拭いがたい違和感を抱え続けている者でもある。お会いしたことはないのだが、好悪相半ばの感情を抱いていると言っていいのだろう。

だから、吉本思想を黙殺しようとしたり、その目分量を少なく見積もって相対的に自分たちの目方を実態より重く印象づけようとしたりする姑息な身振りには、身体が敏感に反応してしまう。

また、吉本思想について護教的なスタンスを保持し続ける動きに対しても、同様に反応してしまうのである。

ではどうするか、というので五年前に立ち上げたのが「日本近代思想研究会」だった。つまり、吉本思想に対する自分のアンビバレントな思いをあたうかぎり冷静に腑分けすることで、しかるべき場所に吉本思想を位置づける、というのが、当会を立ち上げた私の個人的なモチーフだったのである。

ところが、会の方向性がいつのまにかずれてきた。具体的に言えば、東京裁判問題に深入りするにしたがって、取り上げるテキストが文芸批評から遠ざかりはじめたのである。とはいうものの、そうなるにはそうなるだけの避けられない流れがあり、それを無理やり文学領域に引き戻すのははばかりがある。

そこで、同会とは別に今回「日本近代文芸批評を読む会」を立ち上げることにした。幸いなことに、「文芸批評なるものを根底からとらえなおしてみよう」という会の設立趣旨への賛同者を数名得ることがかなった。いわば同志である。

「読む会」として手始めに取り上げるのは、坪内逍遥の『小説神髄』である。サブ・テキストは『当世書生気質』。ごくオーソドックスな滑り出しということになるだろう。

本書を一読してみて率直に思うのは、今から一二六年前に書かれた本書における逍遥の近代認識は、私が想像していたよりも本格的である、ということだ。そのことについて二点触れておこう。

第一に、文体に関する基本思想について。逍遥は、文体論の冒頭で次のように述べている。

文は思想の機械(どうぐ)なり、また粧飾(かざり)なり。小説を編むには最も等閑(なおざり)にすべからざるものなり。脚色(しくみ)いかほどに巧妙なりとも、文をなさなければ情通ぜず。文字(もんじ)如意ならねば模写も如意にものしがたし。

その意を深く汲み取れば、小説の近代化はその文体の近代化を抜きにしては決して語りえないという基本思想の促しによって、逍遥は、本書で文体論を詳細に展開している、といえよう。その思想は、後の小林秀雄が、プロレタリア文学陣営の素材主義的な文学観を念頭に置きながら、文体の革新なくして思想の革新はありえない、文体こそが思想なのだと喝破したことの先駆けとしてとらえることができるだろう。

第二に、文体の分類について。逍遥は、文体を雅文体と俗文体と雅俗折衷文体とに大別する。さらに、雅俗折衷文体を稗史(よみほん)体と艸冊子(くさぞうし)体とに分ける。ここで、稗史体は「地の文を綴るには雅言七八分の雅俗折衷の文を用ひ、詞を綴るには雅言五六分の雅俗折衷文を用ふ」とされる。また、艸冊子体は「雅俗折衷文の一種にして、その稗史体と異なる所以(ゆえん)は、単に俗言を用ふることの多きと、漢語を用ふることの少なきとにあり」とされる。そのうえで、それぞれの文体の特色と強みと弱みとが豊富な文例を駆使して詳細に述べられるのである。

ここで、私がふと気づいたのは、「稗史体」と「艸冊子体」 とは、吉本が『言語にとって美とは何か』において日本近代文学を言語表出史として描くときにキー・ワードとして用いた「文学体」と「話体」とにおおむね相当するのではないか、ということである。

そう把握することによって、吉本の独創の産物であるかのように見えていたそれらの言葉が、実は日本文学の地下水脈に深く根ざしていることに私たちは気づく。このことは、思想を継承することの本質とか、真の独創性とはなにかとかいった議論と無縁ではないはずだ。先の小林秀雄についても同じことが言えるだろう。

古いからといってゆめゆめ軽く見てはならないのである。

これから、会でいろいろな文芸批評テキストを取り上げていくことになるのだろうが、気構えとしては、一度はあらゆる先入観をなるべくチャラにして、テキストを虚心に読み解くことで視えてきたものをひとつひとつ掴み取って行きたいと思っている。それを持続することが文芸批評の復権への細くて狭い道につながるのではないか、と信じたい。

最後になるが、これまでの小説中心の近代文学言説は、根のところから紡ぎ直されねばならないのではないか、という私なりの(身のほどを知らぬ大胆な)見通しがある。その場合、「短歌」が極めて魅力的なキー・ワードになるのは間違いないだろう。なぜなら、「短歌」という日本独特の文学ジャンルこそが、時枝誠記が『国語学言論』で展開した、「辞」が「詞」を包むという言語の本質をいわば身体性において自覚し、「こそあど」と格闘し続けてきた長い歴史を有するからである。近代批評は、ざっくりといってしまえば、その歴史の重みを軽く見すぎてきたのだ。そのツケを支払うべき主たる債務者はもちろん文芸批評の側なのだけれど、その不当性を歌壇の方々ももっと大声で訴えていただきたいものだ、と私は考えている。
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『徒然草』第三十一段の真実 (美津島明)

2016年01月20日 01時43分17秒 | 文学
『徒然草』第三十一段の真実 (美津島明)



雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人のがり言ふべきことありて文をやるとて、雪のこと何も言はざりし返り事に、「『この雪いかが見る。』と、一筆のたまわせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるること、聞き入るべきかは。かへすがへす口惜しき御心なり。」と言いたりしこそ、をかしかりしか。

今は亡(な)き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。


〈語釈〉
*「人のがり」:ある人のもとへ
*「文」:手紙
*「返り事」:返事の手紙
*「一筆のたまわせぬ」:一言も書いていらっしゃらない
*「ひがひがしからん人」:風流を解さない無粋者
*「聞き入るべきかは」:聞き入れることができましょうか。いや、できません。
*「かばかりのこと」:これくらいのちょっとしたこと。


これは、吉田兼好『徒然草』の第三十一段です。あるいは、みなさまの記憶のかたすみに残っているのかもしれません。私は、高校二年生のときに習った記憶があります。そのときは、特段の感興もわきませんでした。

実は、今日これを塾の生徒に教えました。で、教えているうちに、湧きあがってきた思いがあったので、こうして書き記すことにいたしました。

最終行の「今は亡(な)き人なれば、かばかりのことも忘れがたし」を説明していたときのことです。この妙な如実感はなんなのだろうか、という思いをいだいたのです。なんというか、ここを玩味していると、他人事ながら、そこはかとない悲哀の情が湧いてくるのですね。どうしようもなく切なくなってくるのです。

で、私なりの結論を申し上げます。文中の「亡き人」は、かつての兼好の「思ひびと」であった、ということです。こまかい話は、すれば、いろいろとございますが、やめておきましょう。

以下、この段を小説仕立てで現代語訳してみましょう。ご笑納いただければさいわいです。

わが侘び住まいの窓から外を見ている。雪が降っている。まわりに物音はまったくない。あの日も、今日と同じように、音もなく雪が降っていた。夢にあの方が現れ、切ない思いは秘めるにはもはや耐えがたいほどになっていた。だから私は、目覚めるとほどなく使いの者に手紙を託したのだった。私が、出家する前のことだった。

私も歌人のはしくれ。感興をもよおす雪のことを意識しなかったわけではない。しかしながら、その趣(おもむき)深さをつづるには、私のあの方への思いがあまりにも切迫しすぎていたのだ。

ほどなく使いの者が、返事を持ち帰ってきた。その手紙には、次のように書かれていた。

「あなたは、『この雪をどのような思いでごらんになっていらっしゃるのか』と手紙の中で一言もおっしゃってくださいませんでした。そんなふうに風流を解さないような無粋なお方が、いくら私への思いのたけを吐露しようとも、それを受け入れることができましょうか。いいえ、受け入れられるはずがありません。私は人妻です。あなたの思いを受け入れるにはどれほどの思い切りが必要なのかお分かりのはずです。今日の雪を見ながら、憂いに満ちた自分の気持ちを慰めていた私の心をまったく思いやらないあなたの文面をみて、『ああ、この方にわが身をお任せするのはむずかしいのだろう』と思ってしまったのです。かえすがえすも残念なことです。」

その文面を思い返してみると、むろん切ない思いはいまもなお湧いてはくるが、それにしても、わが思いびとの心根の率直さとちょっとした行き違いがふたりをわけ隔ててしまったこととを思うと、言い知れぬ思いに浸るほかはない。

その方はいまではもはやこの世にいない。でも私は、いまでもその方を恋い慕っている。だから、そんな手紙のちょっとした言い回しをも、いまだに忘れがたく思っているのだ。


私は、この解釈にけっこう自信があります。それゆえ、この書き物に「『徒然草』第三十一段の真実」というタイトルを冠したのであります。かりにはずれているとしても、それほど悪くないでしょう?
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渡せなかった、綿矢りささんへのラヴ・レター (美津島明)

2015年11月04日 14時08分34秒 | 文学
渡せなかった、綿矢りささんへのラヴ・レター (美津島明)



六年ほど前のことである。私は、作家の綿矢りささんに、ラヴ・レターを送ろうとしたことがある。熱狂的な変質者としてのそれではない。一緒にお仕事をしたい、という内容のラヴ・レターである。

ひとこと断っておくと、それらの一連の行動は、私の病的な妄想の産物ではない。ある大手出版社の編集者H氏とひとつひとつ手続きを踏んで具体化していったものである。結論として、無名の物書きである私が、当時の超有名人の綿矢さんを動かすには、その仕事――インタヴュアとして、綿矢さんの太宰治観に光を当て、意外性のある鮮烈な太宰像を世に出すという仕事――に賭ける自分の熱意をお伝えするしかない、ということになった。

で、書いたのが、次に掲げる文章である。

残念なことに、H氏に送ったその文章は、彼の手元から綿矢氏ご本人に渡ることはついになかった。おそらく、彼のプロとしての勘が、綿矢氏にその手紙を送るという行動を踏み切らせなかったのではないかと思う。「この企画は、どうもダメである」と。

その仕事への未練はもはやない。編集者へのうらみ・つらみもない。しかし、まがりなりにも心を込めて書いたラヴ・レターが、惚れた相手に届かなかった、といういささかの無念さのようなものは残っている。こうして世間の目に触れるようにすることで、もしかしたら、ご本人の目に触れることもあろうかと淡い期待を抱く次第である。


***

はじめて、おたよりを差し上げます。
 
私は、美津島明と申します。今年の二月に『にゃおんのきょうふ』という評論集を純響社から上梓した者です。それが私のはじめての著作です。今年で五十歳になります。

おたよりを差し上げた経緯と趣旨についてなるべく簡潔に申し上げます。

ことしの六月に、〇×新書出版部の編集者H氏との間で、女流の作家か評論家に太宰治を語ってもらう、という企画が持ち上がりました。私には、インタビゥアの役が割り振られました。彼とは、数年来の知人ではあったのですが、具体的な仕事で交流するのは今回がはじめてです。

インタヴュイーの候補者として、『絶対音感』の最相葉月さん、斉藤美奈子さん、川上弘美さん、そして綿矢りささんの四人の名が挙がりました。ほかにも何人か名前が挙がった方もあったのですが、話し合いの結果そこまで絞りました。

では、とりあえず四人の主著を読んでみようということになりました。

正直に申しあげるならば、そのときまでに私が読んでいたのは川上弘美さんの『センセイの鞄』くらいのものでしたので、四人の表現者のイメージが確かな手触りを伴ったものとして浮かび上がってくるまでにはけっこう多くの時間を費やしました。

その結果、太宰を語らせて最も魅力があるのは、綿矢りささんではないかと私は思うに至りました。

綿谷さんの『インストール』『蹴りたい背中』『夢を与える』の三冊を上梓された年代順に読んでみて、太宰治的なものとの内的な対話の度合いということで言えば、四人の著作のなかで綿矢さんのものが、断トツに高いことにまずは着目しました。

また、綿谷さんが、自分の精神における太宰治の影響の自覚を、作品を上梓されるたびに深めていらっしゃることにも着目しました。

これは、綿谷さんが折に触れて太宰治に思いをめぐらせていることを物語っているものと思われます。

ここで、綿谷さんの内なる太宰の核心とは、作品でいえばおそらく『人間失格』の太宰ではないでしょうか。太宰が最晩年に到達した人間観の影響をおそらくは全身に浴びることで、早熟な作家として出発した綿矢さんにとても興味があります。作家太宰治が終わった地点が、綿矢さんの作家としての出発点であることに、です。それは、精神的には決して楽なことではありません。綿矢さんは、そのことをいま心底感じ始めているような気がするのですが、いかがでしょうか。

そういったことを一月ほど前にHさんにお伝えしたところ、では、今回の企画、綿矢さんにしぼりこんで話を進めましょう、ということになりました。とするならば、私としては、もう一度綿矢さんの全作品を新たな目できっちりと読み返し、合わせて、太宰治の主な作品を読み返したうえで、綿矢さんに仕事の依頼のお手紙を書きたいとHさんに申し出ました。それから約一ヶ月が経ち、いま綿矢さんにこうしてお便りをしたためている次第です。

いまあらためて感じているのは、ご自身のはじめての三人称小説の『夢を与える』で、綿矢さんが相当大胆に作家としての告白をなさっているな、ということです。高度なフィクションにおいてこそ作家の内的なリアリティが際立つというのは、良い小説の法則のようなものです。その力学を綿矢さんは本作でよく活用なさっていると思います。

いささか長くなりますが、そのことを、順を追って申し上げるのをお許しください。

綿矢さんは、高度情報化社会の暴力を肌で感じていらっしゃるのではないかと推察いたします。

ざっくりと言ってしまえば、それは、「夢を与える」存在の、マスにとっての都合の良いイメージを骨までしゃぶりつくすことによって、高度情報化社会の共同幻想が自己保持、自己更新されるオートマティックなシステムのことです。

このシステムは、「夢を与える」存在が、共同幻想の求めるものを拒否して素の個人であろうとする場合、その存在に悲劇的な末路をもたらします。その鮮烈な例として、私の脳裏にはマイケル・ジャクソンが思い浮かびます。

綿矢さんは、ご自身がそういう「夢を与える」存在です。感性の鋭いあなたが、自分を取り巻く、そういう意味での暴力に対して鈍感であるはずがありません。

ところが、やっかいなことに、素の個人であることは、芸術的な創造の欠かせぬ源泉なのです。

その難しい方程式を、綿矢さんは、次のように解こうとなさったのではないでしょうか。

作中の「夕子」というイノセントな存在は、綿矢さんのいわばフィクティシャスな分身でしょう。綿矢さんは、その彼女を芸能界という名の高度情報化社会の暴力にさらし、素の個人であろうとすることの末路をきっちりと見届けるという、小説上の思考実験をなさったのではないかと推察いたします。
それを敢行し切った綿矢さんを私は小説家として見事であると思っています。

そして、「夕子」が作中においてたどり着いた場所から、「無垢の信頼心は罪なりや。神に問う。無抵抗は罪なりや?」という『人間失格 』における葉蔵の悲痛なうめき声が聴こえてくるように感じるのは、はたして私だけでしょうか。

それは、太宰が最期にたどり着いた人間観を綿矢さんが現在の状況のとても深いところで受けとめなおしていることを意味するでしょう。

綿矢さんが、ご自身の創造の源泉をいわば捨て身で守りきることによって、そういう深い受けとめをなさったことに敬意を表します。それは、綿矢さんが、世間の強要する「綿矢幻想」と訣別なさったことをも意味するでしょう。それはとても勇気の要ることです。

近代文学は終わった、などとポストモダン系のバカ評論家たちが軽薄に口走っているようですが、彼らの近視眼には、綿矢さんの、近代文学の継承者としての深い場所など目に入るはずがありません。片腹痛いかぎりです。

いま綿矢さんは、次の作品の創作のまっただなかにいらっしゃるのでしょうか。そのなかで、太宰との意識無意識織り交ぜた対話をさらに深められていらっしゃるのではないかと推察いたします。

その部分に鮮烈な光を当てて、近代日本文芸の最良の部分をいま引き継ぐとはほんとうはどういうことなのかを心ある人々に知らしめる橋渡し役を私どもに務めさせていただければ幸いに存知ます。

よろしくご検討くださいませ。

失礼いたします。

平成二十一年八月十五日  美津島明 拝
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