美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一の、これ基本でしょ その3 喜劇舛添劇場傍観記

2016年06月28日 11時06分02秒 | 由紀草一


編集者より:当論考には、由紀草一氏の、「舛添騒動」をめぐっての個性的で鋭い人間観察が感じられます。私は、氏の知的なユーモアセンスを酷愛する者です。当騒動をめぐっての私見をいささか述べれば、あの騒動の渦中の極点で、舛添氏は、もはや悪いことをする可能性ゼロの「絶対安全知事」になることを余儀なくされました。だから都民は、その弱みを握りしめて、彼を都知事として馬車馬のごとくこき使えばいいのではないか。それが私の抱いた感想です。為政者にどのような動機があろうとも、結果として善政がもたらされれば、なんでもよろしかろう、と思うのですね。ところで、由紀氏が当論考をお書きになった日付と発表されたそれとに多少の齟齬があるとお感じになった鋭敏な読み手がいらっしゃると思います。それは、ひとえに、忙しさにかまけてアップの時期を逸した私の責任です。

***

 4月末から続いてきた舛添要一主演の喜劇が、6月15日の辞任表明によってひとまず閉幕しました(今ニュースで見たら、今日が最後の登庁日だったそうで)。第二幕があるのかどうか、今のところ不明。
今のところで明らかなのは、2か月近くの間、TVをつければ必ず報道という名の舞台中継をやっていたので、みなさんさぞかし食傷しておられるであろうこと。もう「舛」の字を見ただけで読む気をなくすかも、ですが、多少変わったことを述べるつもりですので、よろしくお付き合い願います。

 喜劇、と申しましたが、これはどういう喜劇であったのか。少しだけ、なけなしのウンチクを披歴しましょう。たいへん古典的な、わかりやすいものでした。
 例えばイタリアに、16世紀以来続いているコメディア・デラルテというのがあります。大部分が仮面をかぶった、ある類型を示す登場人物(キャラクター)が、全体としては同じようなエピソードを、即興で、手を変え品を変え道具立てを変えながら、演じるのです。
 代表的なキャラクターには次のようなものがあります。
①パンタローネ。日本でいう因業おやじ。金持ちで、ケチでスケベで、疑い深い。金の力で若い娘をモノにしようとして、機転も悪知恵も利く道化アレルッキーノ(フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインと呼ばれる)たちに妨害されるのが、最も多いパターン。
②カピターノ。英語のキャプテン。元軍人で、かつての戦場での手柄を自慢するが、それはホラ話であって、実際は臆病者。
③ドットーレ。英語のドクター。医者か学者で、難しげなことをもっともらしく言うが、中身はまるでない。
 これでだいたいわかるでしょうが、たいしたことはないのに、金や地位の力を借りて威張りくさっている輩の裏面を暴き、笑いものにするのが、コメディア・デラルテ、だけではなく喜劇の、一典型なんです。本当の悪人は出てこないですよ。それはそれで「たいしたこと」のある人物ですからね。
なぜこういう喜劇がわかりやすいのか。上記のようなキャラクーは、いつでもどこでも、見つけやすいからです。虚心に自分を反省できる人なら、自分にも多少はそういうところがあるな、と認めざるを得なくなるような、ありふれた人間的な弱点が、極端に誇張されて、人物の姿で出てくるからです。
 観客は、「俺はあれよりはマシだが、知り合いの誰それは、まあこういう奴だよな」なんて優越感を抱きつつ、笑い転げる。その知り合いの誰それから見たら、自分こそそうで、笑われている可能性は、棚に上げることができる。それは喜劇が成立するためには必須の、大事な人間の性質です。
 
 それで舛添さん。わかりやすいですなあ。全くもって、たいしたことがない。
 龍宮城スパホテル三日月に家族旅行に行って、会議をしたという名目で、政治資金から宿泊費を出した。一泊二十七万円? でしたっけ? もちろん私はそんな高いホテルに泊まったことはないし、これからもないでしょうが、舛添なら、ポケットマネーからわけなく出せたでしょうに。
 でも、できるだけ自分の金は使いたくない、と。まあそういう人、いますね、世間に。むしろ、お金持ちって、そういう人が多いかも。
 これが都議会で追及されると、その様子がTVのワイドショーで映され、取材結果が報告される。誰と会議をしたって? 出版社社長? 桝添の知人の中から探すと、それらしい人物は、去年死んでいて、今年行けたはずはない……云々で、要するにこの話は怪しい、そんな話をする桝添も怪しい、という場の雰囲気が盛り上がる。
 TV内の場、つまりスタジオには、コメンテーターとかいう道化役がいて、「呆れたね」とか「こんな人が都知事だなんて、恥ずかしいね」とか「許せない!」とか、アレルッキーノに比べたらはるかに気の利かない、誰でもできる反応をして見せるんですが、雰囲気が雰囲気のまま流れてしまわないように、アクセントをつけて、観客に笑う機会を与えるのも、ツッコミの大事な役割なんで、それはまあ果たしていたようです。
 その他、勉強会のために出したという玉子サンドの代金一万八千円の、疑惑の領収書。政治資金で買った本に「クレヨンしんちゃん」があった(息子が好きなんで、私もビデオを買いました)。家族の外食にも使ったようだ、回転寿司で……。
 慎ましいもんじゃないか、例えば前都知事の、不正受給の疑いがある金は五千万円。それに比べたら、むしろオレの清廉さが証明されたと言ってもいいぐらいだ、といっそ居直ったら、と言いたくなりますが、そんなふうにとった人はいなかった。とにかくセコい、ケチだ、小ズルい、意地汚い、という声だけが大きくなった。
 一度ついたこのイメージを払拭することは、たぶんできなかったでしょう。それにしても、舛添の打った手はまずかった。「第三者の厳しい眼」として、法曹界では有名な「マムシの善三」氏を担ぎ出し、政治資金の使い方には、「不適切なところもあったが、違法ではない」と言わせた。
 言葉以上に、この人のドットーレぶり、つまり、「お前ら、法律を知らんだろ」と言うが如き尊大な態度が反発を招き、それがそのまま舛添に返された。「確かに法は犯していないかも知れない、少なくとも確証はない。しかし、法律をギリギリのところですり抜けたとすれば、それこそ、人間性が悪い何よりの証拠だ。気持ち悪い、もう引っ込んでくれ」と。

 喜劇の効用には他に、社会的な強者を引きずり下ろす快感もあります。偉そうな、もっともらしい様子の奴だって、上記の人間的な弱点を免れているわけはない。むしろ金や権力で、邪(よこしま)とされる欲望を満たして、しかもそれを隠しているのかも知れない。いや、そうに違いない。それが暴かれさえすれば、彼らも、自分たちと同じような弱い立場にまで落ちるだろう。ニーチェが言ったルサンチマン(嫉妬、怨恨)が、ちょっとは晴れる機会を舞台上で見るのは、やっぱり楽しい。
 まして、TVというメディアのおかげで、同趣旨の「現実」を、家にいてビールを飲みながら見物できるのです。まあ、めったに見逃せませんわな。
 冗談じゃない、俺は舛添のおかげで本当に不快な思いをしたんだ、と言って怒る方、ちょっと待ってください。我々庶民には、「みっともない」と言われる程度のリスクもなしに、怒って、おまけにそれを家人や仲間と共有して盛り上がる機会は、そんなにありませんよね? そんな「機会」自体に需要があるから、TVなどのメディアはそうなりそうなニュースを多く供給するんです。皆が不愉快な思いをするだけなら、連日ワイドショーで伝えたりはしませんよ。
 舛添劇場は、「皆が同じ不快を共有する」という、なかなかに得難い娯楽を提供したんで、これだけヒットした。これは否定し難い事実ではないですか?

 もう一つ面白いのは、舛添自らが、大量のルサンチマンの所有者であったらしく見えるところです。
 九州八幡の、あまり裕福でない家庭に生まれ育ち、勉強でのし上がった。東大教養学部の(政治学)助教授になった昭和60年代頃から、TVの討論番組に、保守派の論客としてしばしば登場するようになる。
私も当時たびたび彼をブラウン管上で見ましたが、ただ一度だけ、発言に感心した覚えがあります。あれはいつ頃かなあ、田原総一朗司会の「朝まで生テレビ」だったでしょう。こんなことを言ったんです。
僕は外国で、何度も危ない目に遭ったが、そういうときはいつも金で切り抜けてきた
 「何度も」の部分は、カピターノばりのホラかも知れない。しかし、結局頼りになるのは金だ、と、その頃も今も、TVなどではなかなか言えない「本音」を言って、しかも説得力があった。金で苦労したことがない人間には、この迫力は出せないんじゃないかと、たぶん雑誌で読んでこの人の出自をある程度知っていた私は、思ったのでした。
 そのうち、東大の体質を批判して、政治家に転身しました。これまでの成功体験で自信をつけ、恵まれなかった幼少年期の補償のために、さらなる権力を求めた結果でしょう。
 それはいいんですが、これもしばしば取り上げられたように、この頃から、他の政治家の、金に対する汚さ、だらしなさを批判するようになりました。 「大臣になったんだからファーストクラスで海外というさもしい根性が気にくわない」とかね。彼自身のルサンチマンが言わせたのか、それとも、こう言えば権力者にルサンチマンを抱く庶民にウケる、と思ったのか。
 それかあらぬか、この当時舛添人気は高く、確か、何かのアンケートで、「総理にしたい人物」No.1になったこともありましたでしょう。偉そうな奴らをこき下ろす、アレルッキーノ的な魅力が、いくらかは感じられたんでしょうね。
 でも、アレルッキーノ役者が、年を取ると、パンタローネやドットーレをやるようになる、というのはよくある話のようです。現実でもそうか? 少なくとも、そうなりがちであることには、なかなか想像力が及ばない。それもまた、前に述べた「人間の性質」の一部なんでしょう。
 私としては、世界有数の大都市の首長が、ファーストクラスに乗るなんて、当たり前じゃないか、と思うんですが。こういうのは「おおらか」じゃなくて、「だらしない」と言うんでしょうかね。ま、私は千葉県民で、東京都に住民税を払っておりませんので、無責任な放言だと思われてもいいです。
 因みに、実は舛添以上だったんじゃないか、と一部で言われている石原慎太郎は、フジテレビの「プライム・ニュース」に出たとき、ファーストクラスや一流ホテルの問題について、「失礼ですが、あなたの都知事時代から始まったんじゃないか、と言う人もいます」と訊かれると、「あれは役人が全部決めるんで、俺自身が指示したことじゃない」と、舛添そっくりの答えをしてました。政治家(石原の場合は、元、ですが)になると、「そんなケチ臭いことを言うな」と一蹴するのは、石原といえどもでもできない、ということですね。私にはとてもつとまらないな、と改めて実感しました。
 それだけに、さんざんにコキおろされながら、なかなか「辞任する」と言わない彼の「打たれ強さ」には、正直、感心しました。ここはなかなかどうして、たいしたもんじゃないかな、と。どうせなら、往生際を徹底的に悪くして、不信任案が可決された時点で都議会を解散したら面白いのに、とそれこそ無責任に思っておりましたが、やっぱりこの人、日本の憲政史上に残るほどの大悪人になる器量はなかった。今の政治家には、それは期待できないことの一つなのでしょうね。

 最後に、次の都知事についてですが。
 今回を教訓にするなら、自分自身ルサンチマンが強いか、あるいは庶民のルサンチマンを利用することに長けている人は避けたほうがいいんじゃないですかね。いつも馬脚を出して、笑いもので終わってくれるとは限りませんよ。こういう人は、タイプ的には、ヒトラー型独裁者に近いように思いますんで。
 都民ではない私は、そうご忠告申し上げるだけです。より詳しくは、小浜逸郎氏の、下記のブログ記事をご覧ください。
 http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/0ced7935bbc25e77b979dc7856739432
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「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件 (兵頭新児)

2016年06月22日 14時52分19秒 | 兵頭新児


http://www.nicovideo.jp/watch/sm1680289

 まずは、上の動画を見ていただけるでしょうか。
 十五分ほどのモノですので、お忙しいようでしたら本稿を読みながらでもご覧いただけると幸いです。
 ――と言いつつも、この動画についてはさておき……。

 目下、「サブカルvsオタクの争い」というものがあったか否かに関して、ツイッター界隈で話題になっております。

町山智浩・告知用?@TomoMachi
オタク対サブカルという本来はなかった対立項を無理やりデッチ上げたのはまったくロック的感性のないオタクアミーゴスの連中ですよ


竹熊健太郎《一直線》?@kentaro666
@makotoaida サブカルの短縮語を流行らせた中森明夫氏はアイドルオタクで、『漫画ブリッコ』と言うロリコン漫画誌で「おたく」の差別用語を提唱し、オタク読者の総スカンを食らって連載を辞めた後、朝日ジャーナルの「新人類の旗手たち」に登場して「新人類」として文化人になりました。


「新人類」はアイドルや漫画・アニメ・特撮と言ったサブカルを現代思想用語でインテリ的かつオシャレに語るというスタンスでブームを起こし、実際にオタク活動を行っていた岡田斗司夫氏らはブームに乗れなかったのでひがんでいたのです。

しかし90年代になって新人類の退潮とともに岡田氏らがマスコミに躍り出た途端、中森氏らサブカルを攻撃し始めたのです。私は両方と面識がありましたから様子を間近に見ています。サブカルとオタクは同根で、全共闘の内ゲバ同様、サブカルオタク世代の内ゲバに過ぎません。


 以上のように、この話題は町山智浩さんと竹熊健太郎さんが「本来、そうした争いがなかったにも関わらず、岡田斗司夫が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった主張をしたことがきっかけだったようです(町山さんの発言にある「オタクアミーゴス」というのは95年に結成された岡田さん、唐沢俊一さん、眠田直さんの三人によるオタク芸人ユニットです)。
 しかし……一読して竹熊さんの発言ってわけがわかりませんよね。
 呆れたように、以下のような突っ込みをする人も見られました。

つまり中森明夫がオタク差別を作り出して自分らだけオシャレサブカルやろうとしてたのを岡田斗司夫がキレて攻撃して対立が深まったと。いやまあそれはそうなるわな……。

 ぼく自身、竹熊さんのファンであり、町山さんにも必ずしも悪い感情を持ってはいないのですが、それにしても本件については非道いとしか言いようがない。「サブカル」陣営の発言がそのまま、彼らの誤りの実証になっているという「自爆芸」の様相すら呈しています。
 この、「サブカル」陣営の「オタク」陣営に対するナチュラルで頑迷な「ウエメセ(上から目線)」は一体、何に端を発するものなのでしょう?

 ――いえ、しかしその前に、こうした界隈に疎い方にしてみれば、「そもそもオタクとサブカルってどう違うんだ?」といった感想を抱かれるかも知れません。まずはそれについて、簡単にお答えしてみましょう。
 いささか乱暴ですが、以下のようなカテゴライズが、一つには可能であるかと思います。

 オタク:ノンポリ
 サブカル:左派


 即ち、「サブカルvsオタクの争い」というものは、「左派vsノンポリの争い」であると換言できるのではないか……ということです。
 ――いえ、関心を持っていただきたくていささか乱暴な結論を、先に書いてしまいました。もちろんこれは極論です。以下、多少詳しくご説明して参りましょう。
 そもそもこの「サブカル」という言葉ですが、もしこれを「サブカルチャー」と呼ぶとするならば、そこには「下位文化」といった意味しかありません。しかし「サブカル」と略された言葉を使う時、そこには何とはなしに独特のニュアンスが生じます。具体的にはロック文化であったりドラッグ文化であったり、ニューエイジ、ヒッピー文化であったり。まとめてしまえば、左派的と言っていい、70年代的なカウンターカルチャーをベースにした文化が「サブカル」であると、まず考えて間違いがいないように思います。
 翻って「オタク」となるとアニメ、漫画などの「児童文化」の中から突然変異的に生まれ、近年の新しい文化であるところのゲームやネットコンテンツなどを産み出し、「萌え」に代表されるような独自の進化を遂げた文化の一群、とでもいうことになりそうです。
 つまり、「サブカル」も「オタク」も「(価値中立的な言葉としての)サブカルチャー」の一カテゴリーであり、だから竹熊さんの「内ゲバ」という表現も一面の真理ではある。しかし、それぞれが独特のニュアンスを持ち、それぞれの独自性を持っているのもまた事実である、というわけですね。
 その意味でオタクの王、「オタキング」である岡田さんを、映画評論家である町山さん、漫画編集者である竹熊さんが批判しているのは象徴的です。町山さんは明らかにサブカル陣営、竹熊さんはサブカルとオタクのボーダー上に位置している人であると言っていいように思えますから。
 とはいえ、もう一つ基準を提示するならば、サブカルは70年代的感性、オタクは80年代以降の感性をベースにした文化である、と言ってもいいかも知れません。
 町山さん、竹熊さん、岡田さんはそれぞれ62年、60年、58年と近い生まれであり、彼らの青年期である80年代に「オタク文化」が生まれ、「サブカル」との世代交代があったのだと言えます。
 さて、それにしても、先に「サブカルはウエメセだ」と書きましたが、町山さんの「岡田にはロックの素養がない」発言しかり、彼らはどうにも、自分たちこそが正しい位置にいるのだ、と揺らぎない確信を抱いているように思われます。ツイッター界隈でも「マスに流されやすい」「大衆消費型のオタク」に対し、「サブカル=『兄貴世代への憧れ』。良識的大人に反抗するアウトサイダーへの賛美。」である、「その境界に、思春期の割礼があったかどうかという、モラトリアムの問題がある」といった主張をなさっていた方がいました。この方は「まんがのレコードを捨てたエピソード」を「割礼」に喩えていて、オタクは児童文化を愛する、子供のままのヤツらだ、とおっしゃりたいようです(いえ、それはその通りなのですが)。
 一方的に自分たちの方が優れているのだと放言を続け、「しかし争いはなかった」とぬけぬけ言う傲慢さと鈍感さには、苦笑を禁じ得ません。
 彼らの姿は、ぼくには「元・いじめられっ子が都会でそれなりに成功した折にふと現れた、高校時代のいじめっ子」に見えてしまいます。彼らはぼくたちの肩をバンバン叩いて「懐かしいなあ、昔よく遊んだよなあ、ところで羽振りよさそうだな」とこちらの身なりをじろじろと値踏みします。どうもぼくたちオタクが都会で商業的成功を得たことを、噂で聞き出したご様子です。
「サブカルvsオタクの争いはなかった」論はそんな彼らの「あれは可愛がりであり指導であり、いじめの事実はなかった」発言であると言えそうです。

 さて、ここで先にご覧いただいた『愛國戰隊大日本』が意味を持ってきます。
 北の大地から攻めてきた「レッドベアー団」が洗脳五ヶ年計画で日本侵略を企むのに対し、敢然と立ち向かう五人の若者、「愛國戰隊大日本」。レッドベアーが送り出してくる「ミンスク仮面」という怪人に、大日本は変身して、或いは巨大ロボ「大日本ロボ」を繰り出して対抗します。
 要するに『ゴレンジャー』などの戦隊物のパロディーであり、そもそも本作の着想が「もし、右翼が戦隊作品を作ったらどうなるか」というところに端を発しています。
 画質の悪い映像から想像がつくかと思いますが、本作は1982年に制作されたもの。脚本は岡田さん、また特撮、デザインを担当したのは庵野秀明さん(ナレーターを務めたのも庵野さんで、実は『風立ちぬ』に先駆けての声の出演をしているのです)。制作はダイコンフィルムですが、これは『エヴァンゲリオン』を作ったGAINAXのアマチュア時代の姿なのです。
 つまり本作は、オタク界の第一人者の、若かりし頃の習作と言えるものだったわけです。いささかおふざけの過ぎるもので、あまり表には出てこない作品ですが、いずれにせよ右も左も笑い飛ばした快作には違いがありません。
 当時、このようなものが出て来た背景にはやはり、学生運動後の政治に対するニヒリズムがあったことでしょう。ですが、やはり彼らの上の世代の人物たちはこうした作品を好ましく思わないらしく、当時、ソ連SFを好む当時のロートルSFクラブ・イスカーチェリから激しく論難されたと言います*1。
 そう、当時のオタクには上の世代の生硬さに対する嫌悪感が、少なからずあったわけです。そうしたニヒリズムは、手放しで全面的に素晴らしいと言えるものではないかも知れませんが、それなりに時代の必然ではありました*2。当時のオタクたちは特撮ヒーロー作品を熱心に視聴しつつ、同時にヒーローたちの「正義」の空虚さをさかんにからかうポーズを取っていました。『大日本』は、まさにそうした当時のオタクたちのメンタリティを体現したものだったと言えます。本作と同時に制作、上映された『快傑のーてんき』が、『快傑ズバット』*3というキザでスタイリッシュなヒーロー作品のパロディをデブ男が演じたものであったこともまた、同じ文脈から解読が可能です。
 岡田さんは以前、何かの番組で以下のようなことを言っていました。

「自分にしてみれば、上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様(さま)が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ。」

 記憶に依る要約で、正確さには欠けるかも知れませんが、これはオタク文化の特徴を的確に捉えた表現のように思います。
 この意見が、「サブカル」陣営の傲慢な自意識と対になっていることは、もう言うまでもないでしょう。
 そしてまた、体制へのカウンターとして始まったはずが、極めて抑圧的高圧的な性格を持つに至った現代の反ヘイトや反原発に対するぼくたちの違和感をも、岡田さんの視点は上手く説明しているように思います。

*1 これについては今世紀に入ってまだなお、『網状言論F改』の中で、岡田さん側を批判するネタとして蒸し返している人がいました。同書を編んだのが東浩紀さんであることが象徴するように、目下「オタクのスポークスマン」をもって任ずる人々はサブカル陣営か、オタクであってもそちらのスタンスに親和的な人たちばかりです。
*2 非常にマニアックな余談ですが、この図式は当時に描かれた漫画作品、『風の戦士ダン』と近しいものを感じます。これは『美味しんぼ』で有名な漫画原作者、雁屋哲さんの書いた「日本政府が世界征服を企み、政府直属の忍者集団がそれに反旗を翻す」という作品だったのですが、作画を担当したのが当時新人であったオタク世代の漫画家、島本和彦さんだったため、随所にギャグの入った快作として仕上がってしまいました。
*3『快傑ズバット』は「日本一のヒーロー役者」の誉れも高い宮内洋さん主演の、「渡り鳥シリーズ」を材に取った変身ヒーロー作品です。『快傑のーてんき』はそのイケメン主人公を世にも格好の悪いデブが演じて見せたところに面白さがあるわけです。


 ――さて、ちょっとここで町山さん、竹熊さんの物言いに立ち返ってみたいと思います。
「岡田が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった言い分は、しかし、「サブカル」側の主観に立てば、実に率直な実感なのだと思います。
 上に述べた「世代交代論」をここに導入してみると、彼らの言い分はサブカル世代のオタク世代に対する、「よくも俺たちの事務所から独立しやがったな」とでもいったぼやきとして解釈することが可能になります。
 そう考えてみれば、オタクにとってのバイブルとも言える『機動戦士ガンダム』は「地球連邦政府」の圧政に耐え兼ねた宇宙基地(スペースコロニーと呼ばれる、宇宙の植民地)が「ジオン公国」として独立戦争を仕掛ける物語でした。それと同様、或いはイギリスとアメリカの関係同様、オタクは独立戦争を起こしただけだったのではないか。
 いえ、むろん、逆に例えばですが、実は「地球の圧政」などなかったのに「ジオン公国」のトップが「独立」の口実としてそれを捏造したのだ――といったシナリオもあり得ます*4。そうなるとサブカル陣営の主張も正当性を帯びてきますし、恐らく町山さんや竹熊さんの言い分はそういったものなのではと思いますが、しかし、上の竹熊さんの発言自体が「連邦政府の圧政はあったよなあ……」という印象を、まずいことに裏づけてしまっています。竹熊さんが言及している中森さんは、「コミケに集う気持ちの悪い若者」を見下し、蔑んで「オタク」との呼称を提唱していたのです。ここ二十年、商業性と文化的な独立性を持つことで「しょうことなしに」世間に受け容れてもらえるようになっただけで、オタクは本来、「棄民」だったのです。
 それが、『エヴァ』の文化的商業的成功を見るや、今までオタクをバカにしていたサブカルが、どやどやと入ってきて弁当を広げ出した……それを今回の彼ら自身の発言こそが、裏づけてしまっています。
 2006年にはサブカル陣営による『嫌オタク流』という本が出されました。タイトルからもわかるようにこれは『嫌韓流』に影響を受けた本で、著者たちが何の根拠もなくオタクを韓国人差別者であり、女性差別者であり、黒人差別者であり、障害者差別者であるとただひたすら罵詈雑言を並べ立てる、まさにウルトラ級のトンデモ本。同書の帯には

本書を、
「オタクこそが優生種族である」
「市場原理によってオタクはオタク以外のものを淘汰した、我々の勝利だ!」と無邪気に信じている人々へ捧げる―――。


 などと書かれているのですが、そうした主張をしているオタクなど少数派でしょうし、言っているとしてもそれはむしろ、自らの地位が低いがために一種の逆説としての主張であることが大前提でしょう。もっとも、オタク文化に完全な敗北を喫しているサブカル側の主観では、世界がこのように見えてしまうというのは、わからない話ではないのですが。
 ここには、「反ヘイト」と自称している人々こそが非常に往々にして「ヘイト」的な振る舞いに出る現象と、全く構造が立ち現れています。
 もちろん、本書についてはさすがにあまりにも病的で、サブカル陣営の代表とすることは憚られるかも知れません。しかし、本書の著者たちの名前――中原昌也、高橋ヨシキ、海猫沢めろん、更科修一郎――を並べてみるとどうでしょう。前者二名は町山さんが創刊した『映画秘宝』に非常に縁深い人々です(翻って海猫沢さんはオタク側にも親和的で、本書の中でも一応、オタクの味方というスタンスです)。町山さんが彼らのこうした言動を知らないとは、考えにくい。にもかかわらず、まるでオタク側が一方的にサブカルにケンカを売っているかのように語るのは、アンフェア極まりありません。

*4 考えると『機動戦士クロスボーン・ガンダム』はそういう図式でした。革命家側に共感的な『ガンダム』ですが、若い世代によって作られたその派生作品がオリジナルとは異なり、「被害者を称する側の被害妄想」という「自己責任史観」を取っているのは示唆的です。

 もう一つ、彼らの発言を見ていて気づくのは、彼らが異常なまでに岡田さんを過大評価している点です。この傾向は町山さん、竹熊さん*5のみならず、往々にして見られるものです。これは、安倍さんさえやっつければ外交問題もエネルギー政策も全てが驚くほど簡単にクリアできるのだと考える人々のメンタリティに、何だか近い感じがします。
 しかし……ここまで見てくると、サブカルが若者たちの支持を失った原因は、別に岡田さんのせいではなく彼らの中にこそあるのでは、ということもわかってきたのではないでしょうか。
 上に、オタクとサブカルの違いを「思春期の割礼」に求めた意見を引用しました。
 それからちょっと、連想したことがあります。
『オバケのQ太郎』の正ちゃんには、伸ちゃんという中学生のお兄さんがいます。
『ドラえもん』ののび太は一人っ子です。
 何故でしょう。
『オバQ』は60年代から70年代にかけて描かれ、『ドラえもん』は70年代に始まり80年代にブレイクした作品。現実の世界でも一人っ子が増えて行ったという状況もあったでしょうが、『オバQ』の頃には青年文化に勢いがあったからということも、理由の一つでしょう。伸ちゃんはステレオでビートルズを聴いていたのです。
 80年代には青年文化に翳りが見られ、代わって子供文化が大人を巻き込むまでの勢いを持つに至りました。
 サブカルとは、そうした流れを理解することができず、オタクを弟分だと信じ続け、SEALDsのメンバーに加えようとし続ける、し続けつつ、それが叶わない人たちであったのです。

*5 ただし、竹熊さんは個人的に岡田さんとの確執があり、彼の立場はまた、独自のものかも知れません。両者のファンであるぼくとしては、見ていて心が痛むのですが。

■付記■
 もう十年前にも『ユリイカ』で「オタクvsサブカル』特集号が編まれたそうですが、さすがに入手して読むだけの余裕がありませんでした。
 同書も「オタクvsサブカルはなかった」的な論調になっていたようですが、これの責任編集は加野瀬未友。そう、以前にも「「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち」という記事で書かせていただきましたが、以前、デマを流してぼくを攻撃してきた御仁です。「オタク史はオタク修正主義の歴史そのもの」であることがわかりますね。
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青木経済学の一側面 (美津島明)

2016年06月15日 15時57分07秒 | 経済


先月の29日(日)、小浜逸郎氏主宰の経済問題研究会に、経済学者・青木泰樹氏がいらっしゃいました。氏の主著『経済学とは何だろうか』(八千代出版)の後半部を講義していただくためです。前半部は、その2カ月ほど前に、いつものメンバーでひととおり学んでおきました。私が、レポーターとして内容をかいつまんで説明するという手筈だったのですが、その必要はありませんでした。4時間の講義の最初から最後まで、青木氏は、迫力のある熱弁ぶりで、自説の肝を分かりやすくきちんと説明してくれました。講義終了後、おのずと「闘う経済学者」という言葉が浮かんできました。氏は、日本の経済学における真のトップ・ランナーである、という印象を強く持ちました(経済学会という狭い「業界」ではいささか干され気味のようですが)。

青木氏の問題意識と学問的志向性は、おおむね次のようなものです。

《80年代のレーガノミクス・サッチャリズム以来、経済学の主流となったサプライサイドの経済学は、自然科学とくに物理学における「科学性」を追求するあまり、論理偏重・数学偏重の学問と化した。そのことによって、社会が経済学に対して求める現実説明力、現実問題解決のための処方箋の役割を放棄するに至った。にもかかわらず、サプライサイドの経済学者たちは、現実の経済政策に対して、事あるごとに容喙しようとする。それは、理論の乱用と称するよりほかはない。サプライサイドの経済学を含む、いわゆる主流派経済学が、このように現実分析に適さない以上、経済問題を解決するためには、それに替わる、その静態理論的な枠組みを超える学説なり経済思想なりが必要となる。それが、非経済的領域をも射程に入れる社会経済学である。》

このような強烈なメッセージをどうやってほかの人たちにお伝えしようかと苦慮していたところ、FB友達の渡辺純央氏の、率直でハイブローな問いかけをきっかけに、青木理論の一端を紹介することがかないました。ご紹介します(一部、加筆訂正してあります)。

***

渡辺:(前略)これは直接、と思っていたことを書きますと、私は剰余価値説を取りません。限界効用逓減説のほうが寄り、妥当だ、と考えるからですしこれでないとデフレ現象をうまく説明できない、と考えているからですね。なので、ケインズが剰余価値説を取りつつ、景気循環をどう解釈しているのかがどうも、納得がいかないでいるわけです。

美津島:どうもコメントをありがとうございます。ひとつひとつ、話を整理した方が良いような気がします。ちなみに、以下の私の議論は、『経済学とは何だろうか』の著者・青木泰樹教授から最近直接伺ったことです。10人程度の読書会で、青木先生をお招きして、当著の後半部分をレクチャーしていただいたのですね。

アダムスミスは、『国富論』で、財貨の価値について、労働価値説をとっています。つまり、財貨Aと財貨Bの等価交換はなにゆえ可能となるのかに関して、スミスは、それらを作るために投入した労働時間が等しいから可能となる、と考えたのです。つまりスミスは、客観的な価値説をとったのですね。しかしスミスは、主観的な価値論すなわち、後の効用論的な価値論も考えていました。でも、それではうまく説明できないところがあるので、労働価値説をとったそうです。それが、経済学における財貨の価値論の出発点です。

マルクスは、『資本論』において、アダムスミスの労働価値説を踏襲することによって、資本主義の自己増殖運動の核心としての剰余価値論を展開しました。つまりマルクスは、価値論の側面に即するならば、アダムスミスの直系の弟子ということになるでしょう。

一方、スミスの主観的価値論の側面を引き継いだのは、マルサス、リカード、ジョン・スチュアート・ミルなどの古典派経済学者たちでした。しかし彼らは、効用を総量で考えていたので、「主観的効用(満足度)という質的なものを量的に計測し加算することは不可能である」というベンサム的な限界に突き当たることになりました。

その限界を突破したのが、限界革命を主導したワルラス・メンガー・ジェボンズたちでした。彼らは、効用を総量ではなくて、最後の単位量(限界量)の与える効用に着目することで、ベンサム的な限界を超えたのです。彼らは、アダムスミスの「見えざる手」から市場メカニズムを抽出し、ワルラスの一般均衡論によって、個人の部分的均衡は市場全体の均衡と同時に実現されることを示し、ワルラスの弟子のパレートは、一般均衡の実現は、すなわち全体の効用が最大化された状態であることを厳密に論証してパレート最適を確立しました。

以上述べた、「市場メカニズム」と「一般均衡」と「パレート最適」が新古典派経済学の中核をなし、それが、今日にまでいたる主流派経済学に引き継がれている、というのが、経済学説史のあらましです。

ここで問題になるのは、主流派経済学の経済理論が、現実をまったく説明できない筋立てになっているということです。いいかえれば、現実を説明し、有効な経済政策を立案するうえで、主流派経済学の経済理論はまったく役に立たないし、あえてそれを利用しようとすれば「理論の乱用」に陥り、百害あって一利なしの結果を招くだけなのです。

なぜか。限界効用学派をふくむ主流派経済学の核心が「静態理論」だからです。すなわち、静態理論が想定する社会は、みながみな利己心に基づく物欲の充足のみを行動目標とする合理的同質的個人によって構成されています。そういう個人が、完全自由競争というフィールドにおけるプレイヤーとして活動している、とされるのですね。この想定は、経済理論の数学的厳密化を可能とはしますが、現実経済社会のダイナミズムを説明するには、あまりにも単純すぎる人間観に基づいている。この単純すぎる人間観がネックになって、主流派経済学の経済理論を現実説明不能なものにしている。青木先生は、そう主張なさっています(むろん、私もそれに同意します)。

主流派経済学の現実説明不能性・現実経済に対する無効性を白日のもとにさらしたのが、1930年代の世界恐慌だった、というのはあまりにも有名なお話しですね。

静態理論には、もうひとつ、致命的な弱点があります。それは、当該理論が、カール・ポパー的な科学哲学などにも災いされて、数学的厳密性を偏重するあまり、それを超えた共通概念によってのみ把握可能な分析対象(たとえば、格差の拡大とか)を事実上学問の対象として放棄してしまった結果、資本主義を全体としてつかまえようとする視点をなくしてしまったことです。

つまり静態理論には、動態理論的な視点が欠落しているのです。ここで動態理論とは、経済内部に経済を変動させる動因が存在することを認め、社会を構成する個人は、異質な存在であり、個人の行動の動機として利己心以外のものも認め、その行動目標として物欲以外のものも認め、非合理性をも認める、という現実妥当的な社会観に根差した経済理論のことです。それを経済理論として展開したのが、マルクスであり、ケインズであり、シュンペーターです。彼らが、それぞれ立場は異なりますが、いずれも、資本主義の全体を自分の経済理論の視野に入れて物を言っていることは、渡辺さんもお認めになるでしょう。

そこでケインズですが、彼が新古典派経済学に対する敬意を犠牲にし、その核心部分としての「セーの法則」と「完全雇用」の前提を否定し放棄したのは、目の前の経済問題、すなわち、高度資本主義を不可避的に襲う「豊かさの中の貧困」問題としてのデフレ大不況と取り組むためでした。いいかえれば、ケインズは、現実の経済問題を解決するために、自分の経済問題に「長期」の問題を繰り入れることを犠牲にしたのです。だから、景気循環という長期の問題が、彼の経済理論によって扱われることはなく、その課題は、後続に委ねられることになりました。また、彼は、いわゆるミクロ経済のなかに深く分け入って、限界効用論に対して自分の理論を展開することはありませんでした。むろん、剰余価値論の問題に言及することもありませんでした。

以上が、私なりの、青木先生に依拠しての交通整理です。いかがでしょうか。

渡辺: 大変立派な要約で、感服しました。

現代経済学に動学的裏付けが欠けている、という批判のあるのも事実ですし、ルーカス批判以後、数学的厳密さ…数学者や理論物理学者などから見ればチャンチャラおかしいでしょうが…を求めるあまり、机上の空論と化し、資本家や特権階級の欲望に免罪符を与えるためだけのものになってしまっている、というのも事実でしょう。
もちろん一方にはアマルティア・セン博士やスティグリッツ先生、クルーグマンのような人もいるわけですが。

それらを認めたうえで、私の問題意識はワルラス革命を受け入れたうえで、財市場と貨幣(金融)市場の間に「均衡(パレート最適)」はありえるのか?ということなんですね。
ワルラスをどう読んでも、そういうことは言ってないように思えてしかたがないし、市場均衡(パレート最適)は「あり得る」と証明したアローも、そういう理解はしていない、と、
財市場と貨幣はメタ関係で…これ、マルクスの指摘らしい…財の選好順序を決定することが、貨幣経済によって可能になった。

それを並列的に並べ、財市場を構成する無数の市場と同等に扱うことができるだろうか?それはおかしいのではないか?つまりマネタリズム(貨幣数量説)というのは奇妙だな、貨幣の本質を突き外しているのではないか?と思うわけです。だって循環しちゃうでしょう?これでは…つまりISLMがよくわからない、という話(^_^;)

青木先生がいらっしゃってたならその辺り、お訊ねしたかった、と思います。

美津島:渡辺さんが、青木先生とお会いするチャンスはめったにないことでしょうから、差し出がましいマネかもしれませんが、青木先生のお話のなかで、渡辺さんの問題意識にとって参考になりそうなところをかいつまんでご紹介します。

青木先生によれば、新古典派経済学の重鎮ワルラスの純粋経済学において、貨幣を導入する前に、一般均衡を実現する生産量や生産要素の量といった実物的要因はすでに決定されています。つまり、ワルラスの一般均衡は本質的に物々交換経済を前提としたものだというのです。だから貨幣の役割は、たかだか財貨の交換比率の貨幣的表現すなわち名目価格を決定するだけにすぎない。だから、静態理論の中心命題のひとつである「貨幣現象は実物的要因に影響しない」という「貨幣の中立性」は、ワルラスの一般均衡理論の構築方法に依存したものだというのです。

とするならば、渡辺さんの〈ワルラス革命を受け入れたうえで、財市場と貨幣(金融)市場の間に「均衡(パレート最適)」はありえるのか?〉という問題意識は、貨幣の中立性を信奉し、財市場と貨幣市場の矛盾・相克に無頓着な静態理論にとってみれば、あまりにも高級すぎるものである、ということになるのではないかと思われます。

次に貨幣数量説について。青木先生は、当学説が成り立つのは、完全雇用が実現し、「供給はそれみずからの需要を見出す」というセーの法則が当てはまる好景気のときだけであり、貨幣の一般理論とはなりえない、と言っています。だから、当学説の「貨幣量と物価水準との間に比例関係がある」とする俗耳に入りやすい理論が、完全雇用が実現していないごく普通の経済状態においても成り立つとするのは誤りである、となるでしょう。この場合、同理論を共有するケンブリッジ学派のマーシャルも、「新貨幣数量説」を提唱したフリードマンも、貨幣数量説グループに含まれます。

先生によれば、貨幣問題や国債問題をきちんと考えるうえでもっとも大切なのは、民間部門を、個人や一般企業から成る「民間非金融部門」(実体経済)と金融機関から成る「民間金融部門」(貨幣経済)とに分けることです。ちなみに、政府部門を先生は、「統合政府」部門とし、いわゆる政府と日銀とから成るとしています。

で、貨幣の分類になりますが、貨幣供給量(マネー・ストック)は、非金融部門(実体経済)が保有す現金(C1)と預金(D)の合計です。預金は、金融部門(貨幣経済)にとってはすべて負債になるので、金融部門の現金は、貨幣供給量としてカウントされません。また、ベースマネー(マネタリーベース、いわゆる真水)とは、非金融部門の保有する現金(C1)と金融部門が保有している現金(C2)の合計です。このC2は、日銀当座預金に超過準備として積まれています。

このC2の増加(いわゆる日銀の異次元緩和というやつですね)は、貨幣数量説(とリフレ派)に従うならば、物価の上昇を招くはずです。ところがそうはならない。それは実は当たり前のことです。なぜなら、C2の増加は、日銀と民間銀行とのお金と国債のやり取りにすぎないからです。言いかえれば、貨幣市場におけるお金の循環にほかならないからです。貨幣市場に新たに出回ったお金が、実体経済に流入し、名目GDPや物価に直接影響を与えるかどうかは、主に、実体経済サイドに資金需要があるかどうかにかかっている。青木先生は、そう主張しています。とても明晰なお話しなので、私は感服しました。

ちなみに、ヒックスが考案したIS-LM均衡モデルは、ケインズ経済学から、そのもっとも重要な要素である不確実性を削ぎ落としたもので、その流れを引き継ぐアメリカ・ケインジアンは、ケインズ経済学とは本質的に別物と考えたほうがよいそうです。ルーカス批判でルーカスが粉砕したのは、アメリカ・ケインジアンにほかならない、と。

なにか、ひとつでもお役に立てればと思います。
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極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)

2016年06月10日 18時37分17秒 | 由紀草一
極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)
極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)パウル・クレー「大聖堂(東方風の)」(1932)*編集者記:上の絵画は、本文を読んでいるうちに、なんとなく浮かんでき...

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消費増税延期をめぐるマスコミのデマに要注意!(美津島明)

2016年06月02日 12時30分34秒 | 経済


安倍首相の消費増税延期をめぐって、マスコミがこぞって、デマを振りまいています。決して惑わされないようにしてください。

毎日新聞6月1日 
「増税延期 株価にプラス 消費活性化には懐疑的」
http://mainichi.jp/articles/20160602/k00/00m/020/071000c

『安倍晋三首相が来年4月に予定されていた消費増税の先送りを表明したことを受け、市場では「個人消費を下支えし、株価は緩やかに上昇する」との期待が広がる。一方で「現在の消費低迷は社会保障制度の先行き懸念など将来不安が根本にあり、増税を延期しても長期的な消費活性化にはつながらない」との声もあり、評価と懸念が入り交じっている。

 2014年4月の消費増税後、個人消費の停滞が長期化するなか、市場はすでに2年程度の消費増税の先送りを織り込んでいた。

(中略)

 ただ、増税延期が株価にプラスになるとの見方は多い。大和総研の試算では、増税した場合と比較し、16年度は消費増税前の駆け込み消費が無くなるため個人消費は0.6%減少するが、17年度は1.9%上昇。同社の熊谷亮丸執行役員チーフエコノミストは「短期的に個人消費を押し上げる効果がある」と分析する。

 一方で、長期的な消費への悪影響を懸念する声もある。SMBC日興証券の末沢豪謙金融財政アナリストは「消費者の財布のひもが固いのは年金がいくらもらえるのかなど将来不安が要因。社会保障制度を持続可能にし不安を解消するため増税を先送りすべきではなかった」と指摘する。

 増税延期で財政再建が後退する懸念もあるが、国債市場への影響は限定的とみられている。日銀は現在、年間80兆円ペースで国債を購入しており、「日銀が国債を買い支えているため、短期的には影響は出ない」(関係者)との見方が多い。(後略)』


安倍首相が、消費増税を延期したのは、100%正しいことです。凍結したならもっと良かったし、5%に税率を下げたならベストでした。デフレ不況下の増税が禁じ手であることは、理論的にも、経験的にも自明のことです。

にもかかわらず、財界と大手マスコミは、消費増税延期の悪影響を喧伝してやみません。なぜか。財界は、法人税をさらに下げるための財源として消費増税を必要とするし、大手マスコミにとって財界はスポンサーなので、財界の意向には逆らえないからです。実にそれだけのことなのです。むろん大手マスコミは、財務省の増税原理主義の意向を忖度するという(コバンザメとしての重要な)役割も忘れていません

記事中に「2014年4月の消費増税後、個人消費の停滞が長期化 」しているとあるにもかかわらず、他方では、「現在の消費低迷は社会保障制度の先行き懸念など将来不安が根本にあり、増税を延期しても長期的な消費活性化にはつながらない」とも(他人の口を借りて)主張します。明らかなかく乱戦法ですね。

個人消費の低迷やアベノミクスの失敗の原因は、2014年4月の消費増税であることは、財務省の『経済財政白書』の諸資料などを見れば、誰の目にも明らかです。消費の低迷を社会保障制度の先行き懸念などの将来不安に求めるのは、緊縮財政のイデオロギーとしての(虚妄の)「ケインズ効果」理論にほかならなりません社会保障費が先細っているのは、税収の源泉としての経済成長が長期にわたって低迷しているからであり、経済成長が長期にわたって低迷している現状に対して決定的な役割を果たしたのは、1997年の消費増税です

ついでながら、「社会保障費の財源をどうするのか」という増税派からの問題提起があるようですが、それは、単年度会計主義に脳を冒された者のうわごとのようなものです。というのは、消費増税延期による消費増と積極財政によって、次年度以降GDPが持続的に成長すれば、社会保障費の財源は、税収の自然増によっておのずと生まれるからです。

財政再建は、持続的な経済成長によってこそもたらされるのです。デフレ不況下での消費増税は、単年度では多少の税収増をもたらすかもしれませんが、次年度以降、脆弱化した経済に大きなダメージを与えることによって、税収減をもたらし、結局は財政をかえって悪化させることになるのです。
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