美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)

2014年10月30日 07時50分07秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)

当ブログで、ちょっと前に大江健三郎氏の『沖縄ノート』を取り上げ批判しました。今回は、『ヒロシマ・ノート』を取り上げようと思います。

率直に言えば、大江氏の政治評論に接するとまずは理屈抜きに「虫が好かない」という思いが湧いてきます。読み手を自分のフィールドに引き込もうとする氏の手つきに、人間の弱点につけこんで読み手を黙らせようとする不健全なものを感じるからです。その場合の「人間の弱点」とは、痛めつけられた悲惨な弱者の存在を執拗に振りかざして、それに寄り添おうとする、書き手である自分の良心的であるかのような身振りを独特の粘着質の文体で見せつけられ続けると、不愉快ながらもなにやら文句が言いにくくなり陰にこもってしまうという人間の不可避的な心の傾きのことです。大江氏の政治評論は、それにつけ込むことで成り立っているように感じられるのです。だから、読後にとても嫌な気分になります。そこには、ニーチェが鋭く見抜いたような、弱者のルサンチマンが隠し持つ青白い不健全な権力欲が感じられるのです。

彼の『ヒロシマ・ノート』一冊を読み通すのにどれほどの時間を費やしてしまったことでしょうか。なかなか先に進まない読書を自分に強いている間、気持ちが乗らない読書は苦行のようなものである、という感慨が幾度も湧いてきました。本書を放り投げてしまったらどれほどスッキリするか、と思ったのも一度や二度ではありません。

″だったら、読まなきゃいいじゃないか″という声が聴こえてきます。むろん、その通りなのです。が、他方で″自分の目が黒いうちに、大江健三郎的な政治思想はすべて埋葬してしまいたい″という止み難い欲求があることもまた確かなのです(朝日新聞に対しても同じ思いを抱いています)。大江健三郎の政治言説には、戦後思想のダメなものが集約されている、というのが私なりの見立てなのです。悪口を言うには、一応彼が書いたものを読まなければなりませんものね。で、しぶしぶ読み始めてみたら、なかなか先に進まなくて難渋した、というわけなのです。あの独特の、悪文としか言いようのない癖のある文体にも閉口しましたけれど。小説で成功した文体を政治評論や社会評論にそのまま持ち込むことには大きな問題があると私は考えています。それについてもいずれ触れようと思います。

若くてナイーヴで心優しき読み手は、本書が内包する陰湿な猛毒にあてられたならひとたまりもないのではないかと思われます。そうなると、いわれのない罪悪感と過剰な放射能コンプレクスを抱え込まされて、物事をバランスよく考えることができなくなってしまうのですね。それは、実のところ倫理なるものとまったく関係のない、時間を空費し頭が悪くなるだけの馬鹿げた経験にしかなりません。そういう犠牲者をひとりでも少なくすることに、当論考がいささかながらでも貢献できたら、などと柄にもないことも考えております。一応馬齢を重ねていますから、若い人たちのことがそれなりに気にかかるのです。若者たちよ、大江氏がノーベル章を獲ったからって、変に信用しちゃだめですよ、彼は一種のカルトなんですよ。

いささか前置きが長くなったようです。では、始めます。

大江氏の、ルメイへの叙勲に対する憤りは分かるが、その理由づけには賛成できない
不満なところだらけの本書のなかで、一点だけ、素直に首肯できる箇所があります。まずは、それについて触れておきましょう。次が、その箇所です。

東京ではひとつの叙勲が行われていた。勲一等旭日大綬章をうけた米空軍参謀総長カーチス・E・ルメー大将は広島、長崎への原爆投下作戦に、現地で参画した人物である。この叙勲について政府の責任者はこう語ったとつたえられる。《私も空襲で家を焼かれたが、それはもう二〇年も前のこと。戦争中、日本の各都市を爆撃した軍人に、恩讐をこえて勲章を授与したって、大国の国民らしく、おおらかでいいじゃありませんか》
この鈍感さは、すでに道徳的荒廃である。


このように大江氏は、当時の日本政府が、カーチス・ルメイに叙勲したことに強く憤っています。私も大江氏とともに大いに憤りたいと思います。しかし憤る根拠について、私は、大江氏と大きく意見を異にします。大江氏は、いま引いた文章に続けて、次のように言っています。

広島の人間の目でそれを見れば、これはもっとも厚顔無恥な裏切りであろう。

要するに、″ルメイには、広島・長崎に原爆を投下したことに対する当事者責任があるので、叙勲などとんでもない″と大江氏は言っているのです。空爆の司令官だったルメイが、組織上の原爆投下の責任者だったことは確かです。しかし彼は、原爆の投下に一貫して反対の立場だったのです(以下の展開は、日高義樹氏『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』(PHP文庫)を踏まえたうえでのものです)。DVDにもなっている、NHKの『東京大空襲』という番組のために日高氏が彼にインタヴューしたとき、ルメイははっきりと次のように述べています。すなわち、「原爆を使わなくても、我々が日本に圧力を加えつづけていたので、無条件降伏させられることは確実だった。日本本土への上陸作戦も必要ではないと思っていた」と。ルメイは、事あるごとにそういう発言をしています。ちなみに、アイゼンハワーやマッカーサーやニミッツなどの軍の首脳も、原爆投下には反対していました。一般市民の瞬時の大量殺戮を惹起するような原爆投下を敢行しなくても、戦争は事実上ほぼ終わっていたし、日本を降伏させるのは時間の問題だと判断していたからです。戦争の現場を知る者のまっとうな認識が感じられますね。その意味で、彼らはクレイジーではなかったようです。

″だからルメイには、原爆投下の責任などまったくない″と言いたいわけではありませんよ。組織上の立場からすれば、当然ある、とすべきでしょう。しかし、それを根拠に叙勲をとんでもないこととするのはちょっと無理があると言いたいのです。当時のトルーマン大統領が、自分の権限において、自分の政治的な立場を強化するためにだけ、身を乗り出して小躍りしながら原爆投下の意思決定をしたことと比べると、ルメイの責任など消し飛んでしまうほどなのです(その詳細については、いずれ触れます)。もしも当時の日本政府が、トルーマン元大統領への叙勲をしようとしたならば、原爆の投下責任を根拠に憤るのはまったくもって正しいとしか言いようがありません(想像するだけで気分が悪くなってきますが)。

ルメイへの叙勲がとんでもないことである理由は、別にあるのです。

それをはっきりさせるために、ルメイの前任者であったヘイワード・ハンセル司令官に触れておきましょう。ハンセルは、ルメイが超低空から東京全体を焼き尽くし、数十万の市民を殺戮するという非情な爆撃を指揮したのとは対照的な指揮ぶりでした。彼は、B29で超高空から爆撃するとき、雲がかかっている場合は、市民への爆撃を避けるために、爆弾を落とさないまま爆撃機をグアム島に戻しました。爆撃部隊の首脳は爆撃の効果が上がらないことに業を煮やしてハンセルをファイヤーし、ルメイを東京爆撃の責任者にしたのです。

日本の諸都市への、ルメイの爆撃は徹底していました。原爆投下までに、日本の人口五万以上の二六都市がすべて爆撃され、一〇万トン近い爆弾や焼夷弾が落とされ、五〇万人の市民が命を落としていました。それは、広島・長崎の犠牲者の約五倍に当たります。そのなかでも特筆すべきは、一九四五年三月一〇日の東京大空襲です。同空襲において、焼夷弾をごく短い間隔で投下し、その上からガソリンを撒くという殺戮のための爆撃が敢行されました。このとき、三三四機のB29がナパーム弾を七〇〇メートルという低空から投下しました。爆撃は夜の一〇時から午前五時まで続き、東京の東半分の四一平方キロが焼け野原となり一夜で約十万人が死にました。これは、どう言い逃れをしようとも、無差別爆撃であることは間違いありませんし、正真正銘のホロコーストであるというよりほかはありません。ルメイは、この大爆撃を揺るぎない確信をもって敢行したのです。ルメイへの叙勲がとんでもないのは、不本意な原爆投下をしたからというよりも、軍事的に正当な行為であるという確信をもって東京大空襲という大量無差別殺戮を敢行したからなのです

大江氏は、どうしてそのことが視野に入らなかったのでしょうか。同書を刊行した一九六五年当時には、そういう情報が不足していたのでしょうか。ならば、その後そういうふうに訂正すればいいいだけのことですが、そういうことをしている事実は、寡聞にして知りません。

『沖縄ノート』で沖縄県民をそうしたように、同書で、原爆の悲劇的な犠牲者を祭り上げ聖別しようとする大江氏の志向性やモチベーションがあまりにも強すぎて、東京大空襲という惨事がその視野に明瞭には入らなかったのではないかと、私は考えます。

では、なぜ大江氏は、原爆の被害者を特別視し聖別し祭り上げようとするのでしょうか。それは、そうすることで、読み手を黙らせて異議申し立てを封じ込み、自己卑下教という幻想共同体への強制参入を図り、自分はその陰の司祭に成り上がろうとしているように私には感じられます。氏の、晦渋な、もって回ったような奇妙な言い回しの行間から、そういう腐臭がしてくるのです。それは、半分以上、潜在意識のなせる業ではないかとも思われます。氏の体質それ自体に、そういうひねこびた陰湿な権力志向がこびりついているということであります。

それにしても、ルメイに勲章をくれてやろうとする神経はまともではありませんね。精神病理的なものをすら感じます。つまり、こうです。耐えがたいほどの屈辱を受けた者は、屈辱を与えた当の相手に対して大げさな許しのポーズを示すことで、相手に対して精神的に優位に立ったと思いたがりますが、実は、その行為全体で、屈辱を与えた相手にその後もなお精神的に屈服していることを示しています。なぜなら、彼はほかのあらゆる振る舞いはしますが、相手に歯向かうという振る舞いだけは決してしようとしないからです。むろん、日本国民に対して確信を持って無差別大量殺戮を敢行したルメイに勲章を授けようとする日本政府の振る舞いが、「大げさな許しのポーズ」に当たります。そういう汚辱に満ちた倒錯を、日本政府はいつまで続けるつもりなのでしょうか。この倒錯心理と、大江氏の原爆観とは、実は無縁ではありません。 (つづく)
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吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

2014年10月17日 05時28分32秒 | 歴史


吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

「その2」の終わりのところで、私は「どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はなおも良きもの・あり得べきものを求めて、ときにそれを実現してしまう存在である」というものの見方がとても重要である、という意味のことを申し上げました。今回は、その意とするところを述べてみたいと思います。

吉村平吉氏が『吉原酔狂ぐらし』(三一書房)を書いたのは、一九九〇年、六九歳のときです。そのころ氏は、吉原ソープランド街のちょうど真ん中あたりに住んでいました。氏は、五〇年代末から上野、浅草、新橋の売春地帯で生活し風俗ライターとして活躍したそうですから、そのときまでに四〇年以上そういう暮らしぶりをし続けていたことになります。亡くなったのが、その一五年後の二〇〇五年三月。死後五日ほど経って知人に発見されたそうです。場所は、吉原の近くの竜泉。色事に寄り添う人生を貫き通した末のあっぱれな死に様です。同書には、蒙を啓かれ、吉原について認識をあらたにするところが少なからずありました。それらのなかでとりわけ印象深く残っているエピソードをひとつふたつ引きましょう。

ひとつめ。それは、昭和二六年の大晦日に筆者が馴染みの妓楼(ぎろう)に泊まって、そこで元旦を迎えたときのことです。敵娼(あいかた)はそれほど深く馴染んだ妓ではなかったのですが、筆者によれば「本部屋に泊めてもらえた」そうです。色街通いの熟達者がそう言うのですから、それはけっこう珍しいことなのでしょう。文脈からすれば、本部屋とは、深い馴染みだけを通す娼婦の個室のようです。

戦前においては、中見世や小見世クラスの、客と花魁とが性行為をする部屋を本部屋と呼んでいたようです。大見世クラスでは、花魁の部屋は本部屋と寝室に分かれていて、深い馴染みの客だけが本部屋に通されたそうです(以上『吉原はこんな所でございました』(福田利子)より)。吉村氏は、どうやらこちらのニュアンスで「本部屋」と言っているようですね。それにしては、吉村氏は「当時わたしは、ナカ(吉原)の中級以下の店へ軒並み片っぱしから登楼していた」と言っているのですから、そのあたり、どうなっているのでしょうね。

閑話休題。まずは、部屋のなかの様子の描写から引いてみましょう。

お定まりのベビー箪笥に茶箪笥、ただ鏡台だけは姫鏡台なんてチャチなものでなく、ちょっと立派な三面鏡が置いてあったのを覚えている。その三面鏡の台の上に、小さなお供餅が飾ってあった。ちゃんとユズリ葉まで添えてあった。

大晦日で忙しかったのでしょう。部屋の主が戻ってきたのは、年が改まっての午前二、三時。昔風に言えば、大引けの時間帯です。

お盆にお銚子を一本とおせち料理を盛った小皿と蜜柑を二コ載せたのを持っていた。それらを、布団の脇に寄せてあるテーブルの上に並べながら、「・・・・・ご免なさーい。おトウさん(経営者のオヤジ)がマメな人なんで、お正月の支度はもう全部済んでいるんだけど、やっぱりなにかとガタガタしてたもんでね。さァ、これからゆっくり二人のお年越しをしましょうよ」

女性は、三十七、八歳の大柄な年増です。吉村氏にお酌をしながら、田舎の母親に小学生の男の子を預けていること、洋裁の技術で稼ごうと上京してきたのだが思うようにいかずこの世界に入ったこと、吉原の正月は二度目であること、田舎にはときどき帰るけれどお正月とか旧正月とかはイヤだから帰らないことなどを、明るく微笑しながら語ります。

「・・・・・さァ、そろそろ寝ましょうか。あら、まだ一度も床ツケ(SEX行為)してなかったわね。ご免なさーい」

床のなかでの彼女の声が、娼婦らしくない鼻にかかったものになっているが、それは、ザワザワ、フワフワとした越年の環境のなかでの昂ぶりによるものであると筆者は言います。次は、この逸話のなかで私が一番好きな場面です。

 翌朝―――つまり、元日の朝。
「・・・・・いいお天気よ。いいお正月だわ。起きませんか」
 まだ寝たりないわたしが、ぼんやりと薄目を開けてみると、その目の上に精一杯の晴れ着姿の彼女が立っていた。大柄なだけに、訪問着のような派手な晴れ着姿が一段と映えて見えた。
「・・・・・いやァー、立派、立派。いつのまに起きたの?」
「とっくに、お内証(帳場)でおトウさんやおカアさん、お店の女たち全員そろって、お雑煮を祝ってきたのよ。お客さんにも、お内証のサービスで皆さんにお雑煮を差し上げるんですって。だから、早く起きてよ」
 彼女、晴れ着の裾をさばいて、階下から雑煮の椀を運んできてくれた。


できることなら田舎で家族とともに正月を迎えたい本心を、持ち前の明るい心の隅で静かになだめすかして、気に入ったお客と正月を快く迎えようとする女性の気立ての良さが印象的です。「精一杯の晴れ着姿の彼女」の一語で、その心映えが集約的に表現されています。過剰な表現がないぶん、かえって、彼女の気立ての良さと筆者のさりげない優しさとが読み手の心に静かにしみとおってきます。

せっかくの吉原ネタですから、もっと色っぽい話を引きましょう。

昭和二〇年代前半、吉原周辺にはふつうの家よりもモグリ売春宿の民家のほうが多いという一画が各所にあったそうです。吉原大門(おおもん)近くの居酒屋で、当時吉村氏がよく通った「石川バー」や「赤垣」の裏の花園通りへかけての一帯もそんな場所でした。その附近に、当時の一般住宅としては群を抜いて豪勢な二階家があって、そこにとびきりの売れっ子娼婦のヨネ子がいました。彼女はその家のなかの部屋を借りて自主営業しているモグリの娼婦です。あるとき、当時輪タク屋稼業をしていた吉村氏は仕事仲間に連れられて、はじめて彼女の部屋に行きました。立派な茶箪笥などの家具や調度品や燃えるようなピンクの絹地のふっくら大判の夜具を目の当たりにして、当時まだ遊び慣れていなかった筆者の胸はどうしようもなく高鳴り、昂奮してしまいました。

筆者は、それまでにも何度か「赤垣」などでヨネ子の顔を見ていました。三十がらみの中年増。美人というのではありませんが、筆者好みの細面の仇っぽい感じで、服装はいつも小ざっぱりしていました。「顔見知りのヒトのとこにくるのはテレ臭いな」などと照れ隠しにもならない照れ隠しを言ってみると、ヨネ子は「いいじゃないの。仲よくなったって」と皮肉っぽく笑ってみせます。氏によれば、そこにベテラン娼婦としてのいやらしさなどみじんも感じられませんでした。要するに吉村氏は、事を為す以前にじゅうぶんにのぼせあがり「惚れ」モードに入ってしまっているのです。「それ以上に、わたしが参ってしまったのは『いざ・・・!』ということになり、目の前にチラチラしていた鮮やかなピンクのふかふか布団に、彼女とベット・インしてからだった」の箇所の続きを引きましょう。けっこう長くなってしまうことをお許しください。

 わたしもまだ若かったが、セックスのしっとりとした情感と微妙な甘美さを堪能させられたのは、このヨネ子との夜が最初ではなかったか・・・と思うのだ。
 それだけ、彼女のカラダは素晴らしかった。体も秘所が吸いつくようにまとわりつき、わたしの体とソレに一分の隙もないくらいに密着し、それがお互いに挑発し合った。
 わたしは、すっかりのぼせ上がってしまった。カラダに惚れる・・・・・ということも、わたしははじめて知った。
 ただ、これは本筋に関係ないかもしれないが、実は彼女の秘所がほとんど無毛にちかく、よくいうパイパンなる珍しい状態であることも、このときはじめて知った。
 それ以来、わたしはヨネ子に文字どおり夢中になり、二度、三度と馴染みを重ね、肌を合わせるうちに、結婚してもいい、結婚したい・・・・・というまでに熱中した。
 (中略)
 だが、しょせんはわたしの片想いだったようで、やがて終局がやってきた。
 ある晩、ヨネ子がわざわざ「赤垣」にやってきて、一緒に飲みながら、
「・・・・・あたし、こんど結婚することになったの。今月一杯で、あそこも引き払ってしまうつもり。せっかく仲よくしてもらって、ほんとに残念だけれど・・・・・」
 と、藪から棒にいうのだった。
 突然なことで、わたしは、ショック、絶望した。
 今夜は空いているから、よかったらいらっしゃいよ・・・・・という彼女の言葉に従って、その晩は複雑な気持ちで通いなれた六畳間の人となった。
 翌朝・・・・・、
「・・・・・わるいけど、もう来ないでね」
 と、ヨネ子にいわれて送り出され、わたしはしおしおと表へ。
 わたしは、彼女の部屋のあたりをふり返ってしみじみ見上げた。


これを読めば、読み手の多くは、ヨネ子はほんとうに良い女だったのだな、とすなおに分かりますね。彼女は、ちゃんとご執心の吉村氏の気持ちを汲んで自分の立場で出来るだけの誠意を尽くしたのです。それがよく分かるからこそ、吉村氏は取り乱したりしなかったのでしょう。こうした一切について、わからんちんにどういえばいいのかなんて、私には分かりません。端的に正式な夫婦の間においても不誠実な振る舞いばかりだったりすることもあるし、また、通りすがりの男女が情を交わし合った場合でもお互い誠を尽くす場合があったしりますよ、それが人間という奇妙な生き物なのですよと言えばお分かりいただけるのかしら。そう言ったからといって、別に、ごく普通のご夫婦を愚弄するつもりはありませんよ。

もうひとつ。今度は、なんどか触れた『吉原はこんな所でございました』(福田利子)から。いま話題の慰安婦に触れた箇所があるので、引いてみます。戦線が拡大するにつれて、兵隊の数のみならず、慰安婦の数も不足してきて、飲食店に勤めていた女性、私娼だった女性、日本の支配地域の女性や韓国人女性へと対象が広がり、それでも不足して、吉原にも割り当てがくることになりました。昭和十六年のころのことだそうです。これもちょっと長くなります。

 花魁の中には、従軍慰安婦になると、年季がご破算になるので、それで応募した人もいれば、兵隊さんと行動をともにしたくて、前戦行きを希望した人もいました。あのときは必ずしも強制ではなく、自分から希望して、兵隊さんについて行きたいといった花魁が多かったんですよ。(中略)新島にも日本の軍隊が駐屯していて、そこにも慰安所がありました。吉原の花魁の何人かが新島にまわされましたので、貸座敷のご主人たちが船の出るところまで送って行き、戦争に敗けて戻るときには、三業組合の事務長(吉原のお偉いさんです――引用者注)をしていた山田勝雄さんが新島まで迎えに行ったということでした。(中略)花魁たちをみながら、「新島が戦場にならなくてよかった」と、山田さんは胸が熱くなるほど、痛切に思ったそうです。
 慰安婦を希望した花魁たちはみな、「兵隊さんと一緒に死ぬ」ということを本気で思っていたのだそうです。戦争の実情を知らなかったこともあったでしょうが、前線に行くからは、みんな、帰ってくるなんて思わなかったのですね。


前線で亡くなった慰安婦は相当な数にのぼるものと思われますが、「一般の戦死者には軍人遺族年金が支給されているのに、従軍慰安婦には名簿もないのだそうです」と福田女史は、控えめながらも強い異議申し立てをしています。もっともなことです。

花魁たちは花魁たちなりに大東亜戦争を命がけで闘っていたことが、福田女史のお話しから分かります。女史の言葉がなければ、私たちは彼女たちの「戦死」に哀悼の意を表することも、彼女たちをわが子のように慈しんだ吉原びとがいた事実を知ることも、かなわかなった。そうですね。

とりとめもなく、いろいろとエピソードを並べました。私が申し上げたいのは、これらのエピソードに登場した、心根の良い年増の娼婦や感謝の念を込めながらお客にそっと別れを告げる私娼や兵隊さんたちにつかの間の慰安を与えるために死を覚悟して戦地に赴く花魁たちの日陰に咲いたちいさな華のような心持ちのすぐそばこそが、文学の神が宿るところである、ということです。端的にいうならば、無縁仏のすぐそばにこそ文学の神は宿っている、ということです。

娼婦は、もともと中途半端で不完全な周りの人間たちから、「売女(ばいた)」と見下される、彼らからすれば不完全さの極みのような存在でしょう。そんな彼女たちが、無意識の祈りのような形で、瞬時、人間の心の掛け値なしの美しさを示すときがあります。そのすぐそばに、文学の神が宿っていたとしてなんの不思議がありましょうか。彼女たちは、そういう在り方をすることによって、人間は捨てたもんじゃないことをおのずと指し示しているのではないでしょうか。

そういう意外なところに文学の神が宿っていることに、『永遠の0』をたいした根拠もないままに侮蔑して川端文学の権威に逃げ込もうとする自称高踏派の大学教授や、安倍総理のおかげでいささかなりともスポットライトを浴びたくせに、二言目にはやれ「オレは文学者だ」とか、やれ「小林秀雄だ、三島由紀夫だ」などと大げさに触れ回り、変に肩肘張った文章ばかり書き散らしている文学スノッブは、決して気づきません(彼らから喧嘩を売られたわけではないので、実名を出すのは控えておきます)。

繰り返します。文学なしに生きられるほどに幸せならば、あるいはそれほど幸せではなくとも文学を必要とせずにちゃんと生きられるのならば、それにこしたことはないのです。だから私は、文学を必要とせずにきちんと生きている人を、文学を必要とする人よりもいささかなりとも低く観ることは決してありません。不幸の意識を特権化するのは馬鹿げていると思うからです。そういう契機が少しでもある精神の構えに接すると、私にはスノッブとしか映らないのです。

私は、彼らのような文学スノッブを批判するためにあえて奇を衒った文学観をみなさまに披露しているのではありません。私がいま述べたような、あたりまえの文学観が語られることがあまりない現状を心淋しく感じているのです。

このままで終わると、言い逃げしているようでいささか落ち着きませんから、もう少しだけ続けましょう。

私がいま申し上げたことを、文章をどう書くべきか、という角度から論じ直してみましょう。谷崎潤一郎は『文章読本』(中公文庫)のなかで、おおむねつぎのようなことを述べています。すなわち″今日のいわゆる口語文は実際の口語の通りには書かれていない。その違いは、文章語の方は西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児(あいのこ)のようなものになっており、実際の口語の方は、これまただんだん西洋臭くはなりつつあるが、まだ本来の日本語の特色を多分に帯びている、という点にある。だから自分は、文法に囚われて書くことを戒め、口でしゃべる通りに書く会話体の試みを是とする。口語文にはもはやなくて、実際の口語にかろうじて痕跡をとどめている優雅の精神やおおまかな味わいや床しみのある言い方を、少しでも口語文のなかへ取り入れるようにして、文章の品位を高めることが大切である″と。

その文脈で、谷崎は次のような、「てにをは」を省いた二つの書生言葉を取り上げます。

○僕そんなこと知らない。
○君あの本読んだことある?

これについて谷崎は、″真に嗜(たしな)みのある東京人は、日常の会話でも、割合正確に、明瞭に物を言う。東京人は江戸っ児の昔から、テニヲハを略すことはあまりしない。下町の町人や職人などがぞんざいな物言いをするときでさえ、「おらあ」(己は)とか、「わッしゃあ」(わッしは)とか「なにょー」(何を)とかいうふうにちゃんと口のなかでテニヲハを言っている″と言います。

そこで、先の二つの書生言葉を江戸の職人言葉に直すと、

○己あそんなこたあ知らねえ。
○おめぇはあの本を読んだことがあるけえ。

となる、と谷崎は言います。どちらが日本語としてまともかはいうまでもありませんね。

谷崎がここで言おうとしていることには、とても大きなものが含まれています。テニヲハをやたらと省いていきがっている田舎臭い書生とは、欧米の借り物の思想や翻訳口調を高級なものと信じて疑わない近代日本の知識人の戯画にほかなりません。そうして実は、彼らが見下している市井のひとびとが交わす言葉にこそ豊かでまともな日本語がかろうじて生きているのだ、と言っているのです。そうして、知識人が自分たちの知的優越性を示すものとして有り難がっている「西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児のようなもの」は、実は性急な近代化の産んだ不幸な文章なのであって、それは是非とも是正されなければならない、そのためには、「俗情との結託」を禁欲的に忌避するどころか、俗情に真摯に耳を傾け、そこから採るべきは採り、文章を豊かにすることが必要なのだ、と言っているのです。さらに突き詰めて言えば、谷崎文学や川端文学の中に、私たちにとっての豊かな文学や可能性があるわけではないのです。文学スノッブが嫌ってやまない目の前の現実の世間にそれは埋もれているのです。そういう決然とした思い決め抜きに、私たちが豊かな文章をものにすることはかなわない。谷崎がそう言っているように、私の耳には響きます。逆説を弄するようでいささか心苦しいのですが、そういう形でしか、私たちは伝統なるものに立ち返ることがかなわないのではなかろうか、とも思っています。

谷崎の提言と、私が先に述べた吉原文学観あるいは無縁仏文学観とが、根底のところでつながっていることは、明らかなのではなかろうかと思われます。生業をいそいそと営み、本当といささかの嘘とを取り混ぜた掛け値なしの会話を交わす名も無き市井びとは、いずれはみな無縁仏になるのですから。むろん、私もそうです。谷崎が『文章読本』を書いたのは、昭和九年ですから、いまから八〇年前のことです。彼の提言は、古びるどころか、文章語の情報化・無国籍化がはなはだしい今日、ますます重要性を帯びているのではないでしょうか。

予定よりも、随分長くなってしまいました。これで終わります。
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吉原の秘密(その2)

2014年10月12日 12時34分02秒 | 歴史


吉原の秘密(その2)

幕府はなぜ吉原の移転先として浅草観音の裏地の日本堤(にほんつつみ)を選んだのか。それについてきちんと答えるには、まず浅草の歴史に触れる必要があります。もう一度申し上げますが、ここからの議論は、おおむね竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)に依拠します。

浅草一帯は、太古の時代から高台になっていた現在の待乳山(まつちやま)、弁天山、鳥越神社付近を中心に、利根川・荒川・入間川が運んだ土砂の堆積によって陸地化が進み、古墳時代末期にはすでに人々が住んでいました。隅田川(昔は″宮古川″など色々な名でよばれていた)の河口近くで海の幸にも恵まれ、やや高台でもあったので災害からも避難しやすい土地でした。

これがどういう意味を有するのかを理解するためには、縄文海進の事実を知る必要があります。縄文海進とは、約六〇〇〇年前の縄文前期、気温はいまより高く、海面が数メートル上昇していて、海が関東の奥まで侵入していたことを指しています。つまり関東平野は、縄文時代には一面の海だったのです。その後、海は後退しますが、かつて海だったことの影響は次のような形で残ります。

天正十八年(一五九〇年)、徳川家康は、豊臣秀吉の命令で関八州に移封され江戸に入りました。そのとき家康が目にしたものは、何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景でした。

縄文海進のころとくらべれば海岸線はかなり後退し、江戸湾に流れ込む利根川の運ぶ土砂が堆積して関東平野が顔を現してはいましたが、その広大な関東は今日のような平野ではありませんでした。かつて海だった低地は水はけが悪いのです。排水ポンプのない時代、ひとたび雨が降れば水は行き場を失い一面に溢れます。さらに、当時は利根川・渡良瀬川・荒川が江戸湾に流れ込んでいたので、そこいら一帯は何日間も何ヶ月間も浸水したままの土地だったのです。つまり、当時の関東は平野ではなく湿地だった。家康は、そういう関東を目の当たりにしたのです。

そのことを踏まえたうえで、浅草に焦点をしぼりましょう。先ほど申し上げたとおり、浅草一帯は、古代から関東湿地帯のなかの小高い地形でした。その事実に着目することで、徳川幕府の治水事業の核心が分かるようになり、浅草が江戸文化の中心となった理由もおのずと明らかになります(と竹内氏は力説します)。

一面の関東湿地帯を肥沃な関東平野にするために、家康がまず着手したのは、利根川の流れを江戸湾から銚子に向ける「利根川東遷」工事でした。文禄三年(一五九四年)の会の川(あいのかわ)締切り工事を手始めに、赤堀川の開削、江戸川の開削などの河川工事が次々に着手され、家康によって関東郡代に任命された伊奈備前守忠次から忠政へ、忠政から忠治へ、その職と当事業が受け継がれ、事業が完了したのは、承応三年(一六五四年)のことでした。




江戸幕府がその次に実施すべきは、荒川の制御でした。荒川すなわち隅田川(大川とも呼ばれる)は洪水で江戸のひとびとを苦しめる反面、舟運で江戸と周辺農村とを結ぶ大切な川でもありました。だから、利根川のように流路を遠くへ移動させるわけにはいかなかったのです。

現代のように大型機械などなくて人馬に頼るほかはなかった当時、隅田川の治水工事は至難の業でした。だから、その抜本的な治水工事は三〇〇年後の昭和にまで持ち越されることになりました。江戸時代において隅田川を制御した最終的な堤防の姿は残っていますが、そこへたどり着くまでの試行錯誤の歴史的な記述は残っていません。

そこで竹村氏は、治水インフラのプロとして、理にかなった大胆な推理を展開します(吉原の話はいずれしかるべきところで出てきますので、しばらくお待ちください)。

治水の原始的かつ最も基本的な手法は「ある場所で水を溢れさせる」ことである。ある場所で洪水が溢れれば、それ以外の場所は助かる。ある特定の場所で洪水を溢れさせる手法は、時空を超えた治水の第一原則である。治水は必ずその第一の原則から始まる。江戸の治水も溢れさせるという原則から始まった。

ここで俄然、浅草の存在が光り始めます。洪水で江戸を悩ます隅田川は北西から流れてきます。その河口は江戸湾の入江が深く入り込んでいて、その入江の奥に中洲の小丘があり、その小丘の上に江戸の最古のお寺、すなわち浅草寺があります。

江戸幕府はこの浅草寺に注目した。浅草寺が1000年の歴史を持っていることは、この一帯で最も安全な場所という証拠なのだ。その浅草寺を治水の拠点とする。つまり、浅草寺の小丘から堤防を北西に延ばし、その堤防を今の三ノ輪から日暮里の高台にぶつける。この堤防で洪水を東へ誘導して隅田川の左岸で溢れさせ、隅田川の西の右岸に展開する江戸市街を守る。1620年、徳川幕府はこの堤の建設を全国の諸藩に命じた。浅草から三ノ輪の高台まで高さ3m、堤の道幅は8mという大きな堤が、80余州の大名たちによって60日余りで完成したのだ。日本中の大名たちがこの堤の建設に参加したので、この堤は「日本堤」(にほんつつみ)と呼ばれるようになった


そこへ、江戸の大半を焼き尽くした明暦三年(一六五七年)の明暦の大火がありました。それをきかっけに、江戸幕府は抜本的な都市改造に着手しました。防火機能を高めるために大胆な区画整理をし、隅田川の対岸を武家屋敷の代替地としたのです。そこで、初めて両岸を結ぶ橋、すなわち両国橋を架けました。武蔵国と下総(しもうさ)国を結ぶ橋だからそう名付けられたのです。隅田川の対岸は大雨のたびに水が溢れ、中洲が島のように点在していたので、江戸の人々はそこを「向島」と呼んでいました。

このように、隅田川の対岸を江戸に取り込んだからには、これまでのようにそこで洪水を溢れさせておくわけにはいきません。ほかのどこかで溢れさせなければならなりません。

以前から隅田川の左岸には中洲づたいに熊谷(くまがや)へ続く街道の堤があった。徳川幕府はこの街道の堤を本格的な堤防に改築することとし、墨田堤から荒川堤、熊谷堤へと一連の堤防を強化していった。日本堤とこの墨田堤・荒川堤・熊谷堤で囲む一帯で隅田川を溢れさせる。ここで洪水を溢れさせ、江戸に洪水を到達させない。現在でいう遊水池であった。

上の図は、日本堤と墨田・荒川・熊谷堤で江戸を守る遊水池システムを示しています。江戸幕府は、堤防というハードインフラの整備を行ったのです。

このように、日本堤と墨田堤とが江戸を守る生命線になりました。そこで大きな問題が浮上します。それは、築造したこれらの堤をどうやって確実に維持し管理するか、です。なぜなら、竹村氏によれば、堤防とはそれを築造する以上に維持管理することが重要な施設であるからです。維持管理というソフトウェアが伴わなければ、堤防は弱体化し崩壊する運命にあるのです。

しかしこのことは、堤防に限ったことではありません。笹子トンネル崩落事故の例を持ち出すまでもなく、築造されたインフラをきちんとメンテナンスすることの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。インフラをきちんと維持管理することには、多くの人々の命がかかっているからです。

堤防に話を戻しましょう。草花の繁茂、ミミズの発生、もぐらの穴掘り、蛇の巣作り、地震による割れ目の発生、大雨による堤防の法面(のりめん)の崩壊。このように、土堤が破堤する原因はたくさんあります。それゆえ、これらを監視するシステムをどうやって構築するかが、大きな問題として浮上したのです。当時の江戸幕府は、それをどうやって解決しようとしたのでしょうか。

竹村氏は、それを明らかにするインスピレーションを次の絵から得たそうです。それは、歌川(安藤)広重の『名所江戸百景』のひとつ「よし原日本堤」です。




この絵のなかで多くの人々がぞろぞろと歩いているのが日本堤です。そうしてこの絵の右やや上に幻の桃源郷のような雰囲気を醸し出している屋根の連なりがあります。それが、明暦の大火をきっかけに移転した新吉原です。吉原は不夜城と呼ばれるくらいですから、この大量の人波が途絶えることはありません。年がら年中、人々は吉原を目指してぞろぞろと歩いているのです。そうして堤の両側には物売り小屋が建ち並んでいます。竹内氏は、この状態は当時の江戸幕府が仕組んだものであると主張します。

この絵を見ていると、ぞろぞろ歩く客たちはまるで日本堤を踏み固めているようだ。まさに、江戸幕府の狙いはここにあった。遊廓を日本堤に移転させることで、人々の往来で日本堤を踏み固める。行き交う江戸市民の視線が、日本堤の不審な変状や出来事を発見していく。そう、江戸市民が知らず知らずのうちに河川管理者になり、日本堤を強化し、監視していたのだ。

松葉屋の女将・福田利子女史は、「吉原通いの道」について述べています。そのルートは、まず雷門を通って観音様におまいりし(女房などに対する言い訳のため)、その後右に折れると馬道(うまみち)に出る。そこを通って日本堤に出る。見返り柳から左に折れて、五十間道のくの字型の衣紋坂を通って吉原大門をくぐる。広重は、このルートをぞろぞろと歩くひとびとを描いたことになります。

竹村氏によれば、対岸の墨田堤に関しても、江戸幕府は同様の仕掛けを施したそうですが、それについてはこの際略しましょう。竹内氏はここでとても大切なことを言っています。それはいくら強調されてもされ過ぎるということはありません。

「その1」で私は次のように申し上げました。「吉原の高級花魁は江戸の精華でした。彼女たちのまわりに自然に大名や豪商が集まり、吉原は華やかな社交場になりました。絵師や俳諧師、歌舞伎役者、戯作者なども競って吉原に出入りするようになり、その活力が歌舞伎、浮世絵、狂歌、川柳などの傑作をつぎつぎと生み、吉原には馥郁たる江戸文化が咲き誇ることになりました」。そんなふうにして、吉原が華やかになればなるほどに、殷賑を極めれば極めるほどに、文化の華が咲き誇れば咲き誇るほどに、江戸のひとびとの生命を守る堤防というハードインフラがいよいよ強固になっていくのです。そうして、そういう好循環を媒介したのは、江戸幕府の懐深い知恵でした。ここには、文明と文化と政治との類まれなほどの良好な関係があります。

私は、ここに示された文化にこそ、そのあり得べき姿かたちがあると考えます。なぜならそれは、それと好循環の関係にある文明や政治とともに総体として、ごく普通に生きている民草を幸せにするものであるからです。その場合、ポイントになるのは、政治に携わる者が、エロスの充足を求めて生きている人間のありのままの姿を率直に認めて施策を講じることです。江戸時代の為政者は、「浮世」や「世間」を「社会」などという他所行きの言葉でごまかすことがなかったので、そういうことが可能だったのでしょう。

こういう言い方に対して、″お前は、そういう一見「好循環」と映るものが、実は年頃の娘の身売りを余儀なくさせる貧困の存在によって支えられていた現実を見ていない″と言い返す術があることを、私は一応知ってはいます。

それは一見正しいことを言っているかのようですが、そういうことを言って得意がったり、相手の鼻を明かした気になる手合いには、実は致命的な盲点があります。それは、″どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はなおも良きもの・あり得べきものを求めて、ときにそれを実現してしまう存在である″ということに対する感知がないことです。

それについては、次回に付論として詳しく述べましょう。

「吉原の秘密」。それは、吉原に咲いた文化の花は、為政者の懐深い知恵を媒介とし、そこに吸い寄せられるひとびとを通じて、堤防という江戸の安全の根幹に関わるインフラをより強固なものとするという驚くべき働きを有したということです。
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吉原の秘密(その1)

2014年10月10日 08時33分35秒 | 歴史


吉原の秘密(その1)

平成十年に店をたたんだ吉原の引手茶屋・松葉屋について、猿若流八世家元・猿若清三郎氏が、あるところで次のように言っています。「松葉屋がなくなるということは、ちょっとやそっと何かが無くなるということでは済まないのです。我々踊りの世界、また歌舞伎、ひいては日本の芸能は、遊郭をはずしたら物語にならない。欠かせないものなのです。多くの演目の舞台となっている場所。そういう意味において、松葉屋は失ってはいけないものだったんです。それが無くなってしまったのは、大変な損失です。遊郭にも位どりというのがあり、歴史的に言えば京都・島原のほうが古いのかもしれないけれど、吉原は、遊郭の文化を発展させた、総元締。松葉屋はその玄関です」。

吉原の高級花魁は江戸の精華でした。彼女たちのまわりに自然に大名や豪商が集まり、吉原は華やかな社交場になりました。絵師や俳諧師、歌舞伎役者、戯作者なども競って吉原に出入りするようになり、その活力が歌舞伎、浮世絵、狂歌、川柳などの傑作をつぎつぎと生み、吉原には馥郁たる江戸文化が咲き誇ることになりました。松葉屋はそういう豊かな文化を生み出した吉原の玄関の役割を歴史的に果たしてきたのでした。それゆえおのずと、その豊かな文化を体現する希な存在となりました。その松葉屋がなくなるということは、すなわち、三百余年の伝統を有するひとつの大きな文化が消えてなくなるのと同じことである、と猿若清三郎は言っているのです。そのことを、彼は心から惜しんでいるのです。

これから、吉原についてあれこれとお話しします。道草を食うことも一度ならずあるとは思いますが、最後までお付き合い願えれば幸いです。これを読み終えた後、みなさんに″たしかに、猿若清三郎の言うとおりだ″と思っていただけたなら、私がこの文章を書いた目的は果たされたことになります。私としては、そのことを通じて、文化なるもののあり得べき姿かたちがどういうものであるかがつかめたら、と欲深い目論見を持っております。さらに、挑発的なことを申し上げるならば、現代のいわゆる文学者や文化人を自称する人々の抱いている文化のイメージは致命的に間違っているという思いが、私をしてこの文章を書かしめていることを白状しておきます。私は、故小沢昭一氏や『吉原酔狂ぐらし』(ちくま文庫・絶版)を書いた故吉村平吉氏などを本当の教養人としてこよなく尊敬する者であります。そんじょそこらの自称高踏派のお坊ちゃん大学教授や成り上がりの自称文学者など足元にも及びません。

では吉原について、ごく基本的なことから話しましょう。

吉原には主に、貸座敷・引手茶屋・芸者屋の三つの業種がありました。そのなかで引手茶屋は、大見世(おおみせ)に向かうお客を迎え、芸者・幇間(ほうかん)を呼んでお客をもてなし、そのあとお客を大見世に送る仕事を受け持っていました。また貸座敷は、いわゆる遊女屋のことで、六・七人から三〇人くらいの花魁をかかえお客に色事を提供するのが仕事でした。大見世は、いちばん上の等級の貸座敷で、ほかには中見世(ちゅうみせ)・小見世(こみせ)がありました。江戸時代には、さらにその下に、お歯ぐろ溝(どぶ)のそばの河岸見世(かしみせ)がありました。お歯ぐろ溝は、遊女の逃亡を防ぐために作られたものです。

私は分かったような顔をして吉原の薀蓄をたれておりますけれど、じつはいずれも『吉原はこんな所でございました』(福田利子・ちくま文庫)というすぐれもののアンチョコからちょっと言い方を変えて引いているだけであります。そんな調子ですから、お気楽に読み進めてくださるようお願いいたします。しばらく遊郭のお客にでもなったような心づもりでいてくだされば幸いです。ちなみに福田利子女史は、冒頭に登場した松葉屋の最後の女将です。

中見世・小見世についてもちょっとひとこと。往来に面した店先に遊女が居並び、格子の内側から自分の姿を見せて客を待つ張見世(はりみせ)があったころ、吉原には、登楼する客の何倍もの素見(ひやかし)の客がありましたが、張見世がなくなった昭和初年のころも、素見の客はずいぶんいたとの由。吉原大門(おうもん)をくぐり抜け、メインストリートの仲之町(なかのちょう)通りの植木柵を眺めたあと、通りから通りへ、露地から露地へと、不夜城といわれた廓のなかを、あの見世は高いとか、この見世にはいい妓(こ)がいるとか、男たちは好き放題を言いながらぶらぶらしたのでしょう。

そんないい加減な奴どもを見世に上げてしまうのが、妓夫(ぎゆう)太郎の腕の見せどころ。「ダンナ。いい妓が待っていますよ。素通りって手はありませんぜ」とかなんとか。

見世に入ると、正面に写真場があって、ショーケースのガラスの中に、花魁の上半身を写した写真が、見世の花魁の数だけ並べてありました。そのなかから、お客は好みの花魁を選ぶようになっていました。腕の良すぎる写真師の写真は、お客とお店とのトラブルの元になったそうですよ。「写真と実物とぜんぜん違うじゃないか」というわけで。

こうやって、往時の吉原の殷賑を延々と筆で描き続けるのも(少なくとも私にとっては)けっこう楽しいのですが、この文章の意図するところは、やや別のところにあるので、いささか話を転じましょう。

話は江戸時代にさかのぼります。徳川幕府公許の遊廓として吉原が誕生したのは、元和三年(一六一七年)と伝えられています。それ以前は野原のなかに、遊女屋があちらに二軒、こちらに三軒というふうに散らばっていたそうです。茶屋の主をしていた庄司甚内は、それらを一ヶ所に集めて遊廓を作ることを思いついたのでした。それで甚内は、″遊女屋が町の中に散らばっていると、自分の分際もわきまえずに遊興にふけり、身を持ち崩す者もでてくるが、遊女屋を一ヶ所に集め、長逗留ができないことにすれば放埒ができなくなる″とか、″遊女屋を一ヶ所に集めれば、娘をさらったり、養女にするからといって貧しい親から子どもをもらい受け、大きくめかけ奉公や遊女奉公に出すなどして世渡りをしている不届き者の、そのような悪行を防ぐことができる″とか、″遊女屋は世を乱す不穏分子の隠れ家になる危険がある。遊女屋を一ヶ所に集めてそれらを公許の遊廓にすれば身分の調べもでき、怪しい人物を挙げることもできる″などと理由を並べ立てて、幕府に許可願いを出しました。

この願いが出された七年後に、幕府から、いろいろな条件をつけたうえで、許可が下りました。あまり寄り道はしたくないのですが、「いろいろな条件」のなかでひとつだけ、とても面白いのがあるのでご紹介します。それは、″太夫三人を奉行所の式日ごとに奉仕に出すこと″です。これは、当番の太夫が奉行所に出向いて、琴や三味線の演奏をしたり、お茶の給仕をつとめることです。太夫というのは、容貌が人並み優れていて、諸芸にも堪能で「百人が中を十人にすぐり、十人の中より一人えらみ出すほどならでは太夫とはいひがたし」といわれたほどの、とび抜けて優れた遊女に与えられる尊称でした。奉行所に勤めるお役人たちの、取ってつけたような渋面から、あこがれの太夫を間近に見たいという可愛らしい本音が透けて見えるようですね。おのずとほほえましい光景が浮かんできます。

そのころの大見世の高級花魁は、歌舞音曲はもちろんのこと、話術に長け、生け花、茶の湯、書道、歌道、香道などの教養があって、その品格や教養などは、一般の女性が及ぶところではなかったようです。ちなみに香道とは、日本の伝統的な芸道で、一定の作法のもとに香木を焚き、立ち上る香りを鑑賞するものです。

また大見世には、江戸時代から″初会(しょかい)″″裏を返す″″馴染み″というしきたりがありました。″初会″というのは、お客が紹介者に連れられてこられた初めての日のことで、お客は芸者衆や幇間をあげて花魁の本部屋で遊びますが、寝所にまで入ることはなくそのまま帰ります。二度目を″裏を返す″と言い、初会と同じことをしてやはりそのまま帰ります。三度目ではじめて″馴染み″となって寝所に入ります。「惚れ」の機微を大切にしたのでしょう。高級花魁は、いわゆる娼婦とはかなりイメージが違う存在のようです。奉行所のお役人たちが、太夫を高嶺の花と見て無邪気に憧れた気持ちがそれなりに分かる気がします。

むろん太夫にとっても、奉行所出仕は大変に名誉なことだったので、当番に当たった前の晩は客を辞退し、翌日のお点前(てまえ)に使うためのお茶を挽きました。ここから転じて、遊女が客をとれないでいることを「お茶を引く」というようになったそうです。太夫は太夫なりに誠を尽くしたのですね。

さて、ずいぶん回り道をしたようです。遊廓設置の許可と同時に幕府から与えられた土地は、現在の日本橋堀留一丁目あたりの、葭(よし)や葦(あし)の茂る一面の湿地帯でした(一五九〇年、徳川家康が豊臣秀吉に江戸への転封を命じられて、江戸にたどり着いたとき、江戸全体が広大な湿地帯でした)。そこに続々と江戸の遊女屋が集まり、遊女屋一七軒、揚屋(あげや。引手茶屋の前身。客が遊女を呼んで遊んだ所)二四軒の遊廓ができあがりました。そこいら一帯は、葭の繁る土地であることから、″葭原″と名付けられ、縁起をかついで″葭″を″吉″に替え″吉原″となったそうです。

ご存知のように、その後江戸の人口はどんどん増えつづけました。それでいつのまにか、吉原遊廓のある場所が江戸の中心地になっていました。このままでは、風紀上も都市計画としても不都合が多いというので、幕府の命によって、移転する計画が立てられていたところ、別名振袖火事とも呼ばれる明暦の大火がおき、市中の大半が焼け、十万人以上の命が奪われました。そこで、いくつかあった候補地から浅草観音の裏地が選ばれて、移転することになりました。明暦三年(一六五七年)のことです。この″新吉原″は、昭和三十三年(一九五八年)三月三十一日、売春防止法施行前日までの約三〇〇年間、この地で遊廓としての道を歩み続けたのです。その後の吉原が、ソープランドのメッカとしていまに続いていることは、みなさまよくご存知のことでしょう。遊廓がなくなった後の吉原は、呼び名は同じでもかつての吉原とは別物と考えたほうがどうやらよさそうです。

遊廓がなくなった後のソープランドだらけの吉原で、冒頭に登場した松葉屋は、ずっと遊廓あっての松葉屋だったわけですから、経営がとてもむずかしくなりました。花魁道中、花魁ショウを企画したりして(ぜひ拝見したかったものです)、江戸初期から続く吉原文化を今日に伝え、魅力的な文化スポットとしての吉原を演出しようとして、できるだけのことはしたのですが、押し寄せる時流には勝てませんでした。基本的には、世間の無理解の壁を乗り超えることができなかったのでしょう。世間は、花魁道中や花魁ショウをいかがわしいものとして好奇の目で見たでしょうから。

話を戻しましょう。ここで注目したいのは、幕府はなぜ移転先として浅草観音の裏地の日本堤(にほんつつみ)を選んだのか、です。ここからの議論は、おおむね竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける』に依拠します。

この疑問についてきちんと答えるために、私たちは、浅草の歴史について一通り押さえておく必要があります。そうすることで、「吉原の秘密」ににじり寄って行きたいと思っています。

「その1」を終えるにあたって、ひとつだけ申し上げておきたいことがあります。それは、吉原の花魁たちの身だしなみについてです。松葉屋の福田利子女史によれば、花魁たちはみな、お客にゆだねる我が身を常に清潔に保つためにまめに入浴するので、体臭がなくなってしまうそうです。女史は、そのことを当然のこととしてごく普通に言っています。私は、花魁たちに体臭がないという事実と女史の平静な語り口とに不意打ちを喰らったような衝撃を受けました。彼女たちは、体臭がなくなるほどに身を清潔に保つことで、無意識のうちに、心の清潔を保とうとしているのです。その自然体のけなげな心根に、私は日本女性のつつましさの原風景を見る思いがします。
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