美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎・由起草一対談動画【 いじめは青春? 】

2021年10月27日 20時09分08秒 | 戦後思想
最高水準の教育評論を展開できるお二人の、深い洞察力に裏付けられたイジメ談義です。

お互いの美質をよく知る者同士の絶妙の掛け合いは、見ものです。

また、深刻な話題を、ユーモアを交えて語る力量もたいしたものです。

こういうことを語り合わせたら、右に出る組み合わせはほかにないのではないでしょうか。

私自身がもやもやと感じていたことに鮮明な光を当てて言っていただけたような印象です。

多岐にわたるおふたりの話の核心を取り出せば、次のようになるでしょうか。

〈反権力言説の最大の弱点は、自分自身は醜い権力欲から限りなく遠いところにいると思い込んで、自分が権力構図を作り出している事実・現実が視野に入らないことである〉

とすれば、この問題の射程は、おふたりがおっしゃっているとおり、相当に深く遠いと申すべきでしょう。

第46回 【 いじめは青春? 】
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山村明義氏の松本智津夫論

2018年07月12日 18時21分19秒 | 戦後思想


〔編集者より〕数日前、読書会仲間のM氏から、次のようなメールをいただきました。オウム真理教教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の死刑報道にちなんでの山村明義氏のFBコメントの紹介です。山村氏は、松本智津夫の実家を一年間取材しています。それに基づく見識にはおのずからなる説得力があります。なお、読みやすさを考慮して、適宜行替え、文言の補足などをしたことをお断りしておきます。

***

M氏:昨晩のフジテレビの報道番組では、まるで松本智津夫の追悼番組の様相で、怒りがこみ上げできて、チャンネルを切り替えました。こうした番組を制作する思想の根底にあるのが、山村明義さんが指摘する、「左翼リベラル思想」だと思いました。以下、紹介します。


〈松本死刑囚の死刑が執行されたことから述懐されること〉
――山村明義(作家)さんのfacebook投稿より
○その1〔7月5日(木)〕  
本日発動される米国の対中経済制裁と中国の報復制裁といういま喫緊の課題である国際情勢の内幕を記そうと思っていたが、同日、麻原彰晃こと、松本智津夫の死刑が執行されたというニュースが入ったので、二回に分けてそのことについて書くことにしたい。

 時は村山富市政権下の96年3月、私は米中が対立していた「台湾危機」の取材で、中国のミサイルが上空を飛び交う台湾の金門島から帰国し、以前から熊本県の波野村や松本サリン事件など数多くの事件で注目していたオウム真理教事件の取材に本格的に入った。私自身、ジャーナリストとしてまだ30代半ばの油が乗り切っていた頃で、「自分はどんな取材でも誰よりも早く、正確に本質を突く記事が書ける」と自負していたからである。

だが、このオウム真理教事件だけは勝手が違った。地下鉄サリン事件から警察庁長官狙撃事件と続いた凄まじい凶悪犯罪というだけでなく、戦後GHQが特権を与えた新興宗教が絡んだテロ事件であり、かつマスコミや警察、自衛隊ですら内側から食い込まれた日本国家権力の中枢をまさに破壊しようとした大事件だったからだ。

 オウム真理教事件の本質を突くためには、まず麻原の人間性を知る必要があると考えた私は、警視庁が強制捜査に入る前の山梨県上九一色村と、教団の資金源となった熊本県波野村に入り、その後同県八代市の松本智津夫の両親、兄弟ら家族たちに会うことにした。

父親の本籍を遡ると、原籍には現在の北朝鮮の記載があり、背景と素性に謎が多いのにかかわらず、リベラルメディアは誰もその取材を行っていなかったからだ。運良くあるルートから実家で家族会議が行われるという情報が入り、私ともう一人が同席できた。

その家族会議の席で飛び交っていたのは、「智津夫は死刑にした方がいい」という言葉であった。すぐ上の三男などは、「死刑にしてもらうように家族が当局(法務省)に頼みに行くべきだ」とまで語っていた。家族でさえ「死刑にした方がいい」と断言した理由は、彼ら自身が松本智津夫自身の行ってきた「業と罪の深さ」を熟知していたからである。

その後ジャーナリストとして一人だけ家族に食い込んだ私は、1年近くにわたり彼らを取材した。そのなかで、とりわけ家族内で「松本智津夫に酷似し、最も強い影響を与えた」とされる長男は、話を聞いているうちによく突如として怒り出し、「自民党政権が悪い」「大企業が悪い」などと、日本の政治や社会批判をぶちまけ、その怒りの矛先は日本の国家・社会やメディアにも向けられた。

事件の数年後に亡くなった父親や長男、三男と交わしたやり取りの記憶は、いまでも私の脳裏や身体にこびりついて離れない。彼らによれば、松本智津夫の政治思想は、完全に「左翼リベラル」で、朝鮮半島に強い愛着を持っていたという。

その一方で彼は、「親父は北朝鮮で誇りある警察官だったから(息子の松本智津夫がオウム真理教事件を起こした)」などと、どう考えても矛盾し、論理が倒錯した内容を説明していた。そのため、その裏を取ろうと、当時の警察官名簿を懸命に調べたが、父親の名前は一切出てこなかった。(以下次号)

○その2〔7月6日(金)〕
 オウム真理教事件の首謀者・松本智津夫の父親は、果たして本当に北朝鮮の警察官だったのか?もともとオウム真理教と北朝鮮とは、サリンの原料輸入を担当していた村井秀夫刺殺事件を始めとして、当時から北朝鮮の関与説が濃厚だった。

 松本家の教育思想にも取材を行った。彼らの教育方針は、あくまで「男尊女卑」や「年功序列」という当時の九州に残っていた儒教的なもので、家族で末っ子だった智津夫は、その方針に激しい憎悪とコンプレックスを併せ持っていたという。

 それでも、「麻原彰晃」の思想は、実は兄弟ではなく、父親に影響があるのではないかと疑っていた私は、松本家に何度か出入りするうちに、一度だけ家族が居なくなった隙に父親の部屋に行き、「戦時中、北朝鮮にいて何をやっていたのか?」「北朝鮮をどう思うか?」と尋ねて見たことがあった。父親は不自然な笑いを浮かべ、何も答えようとしなかった。

 私は仕方なく「智津夫を何度も殴って教育した」という教育係の長男に取材先を切り替えたが、長男は「日本は朝鮮に悪いことをした。日本人全員が土下座して謝罪すべきだ」などと、まるで朝日新聞のようなことを言い出した。私は「その考えは智津夫に教えたのか?」と聞くと、「そうだ。日本という国家は今も昔も完全に悪い。日本が悪かったことをこの俺が智津夫にも何度も教えた」と、戦後日本人の自虐史観と日本国家への批判思想を徹底的に伝授した、と語っていた。

しかし、彼らはあくまで共産主義革命思想を学習していたわけではない。どちらかというと、「反体制」「反権力」という戦後日本に跋扈した「左翼リベラル思想」であり、彼らは日本を守るのではなく、「日本を悪く言うことが正しい」と思い込んでいたのだった。「麻原彰晃」を育てた思想。それは間違いなく、「宗教」でなく、「左翼リベラル思想」であった。

1年間、松本智津夫の家族に潜入して取材した結果、私はこれから日本は、いよいよ新興宗教という戦後日本の自由主義と、個人の権利や外国の思想を極限大にまで高める「平等主義」を混ぜ合わせた「左翼リベラル思想」に悩まされることになるだろうと予測し、その思想に自ら見切りを付けた。

それから23年が経過したが、現在も日本のマスメディアはその思想背景や真相を国民に明らかにするための取材もせず、言及もしない。マスメディア自身が戦後日本の左翼リベラル思想を無批判に受け入れ、その恩恵を感じたまま、それから抜けきれないからだ。

とりわけ朝日新聞や東京新聞、TBSなどの左翼リベラルメディアは、オウム真理教事件の背景にある思想が、自らの思想と瓜二つであることがまるでわかっていない。彼らはあくまでその思想性について見て見ぬ振りをしているのだ。

すべての取材を終えたとき、私は身体も心も疲弊し切っていた。その最大の理由は、戦後日本のマスメディアには、この「戦後最大の凶悪犯罪」と呼ばれるオウム真理教事件で最も重要な鍵を握っている「思想的真相」を解き明かすのは絶対に無理だ と確信してしまったことである。
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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)(再アップ・美津島明)

2015年11月05日 02時05分54秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)
ノアの方舟大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)フェイスブックで、当論考の「その1」アップの告知をしたところ、ある方からとても興味深いコメントをいただきました...



棺桶に片足を突っ込んだような年配の連中が、大江・戦後自虐カルト思想の犠牲者であり続けたり、そのことで晩節を汚したりすることは、一向に構いません。勝手にどうぞと言うよりほかはありません。

しかしこれから先長い人生を歩んでいく若い人たちが、大江的なものに影響されることで、持ってはならない妙なやましさに災いされ、豊かさの享受を後ろめたく感じたり、中共や韓国の粗暴な言動に対して何も言えなかったり、ゆがんだ安全保障思想を抱いたりすることには、我慢がなりません。そういう精神的構えを抱くことが良心的であり知的であると勘違いするならば、目も当てられないことになってしまいます。人生が台無しになってしまうのですから。

そういう若人をひとりでもいいからなくしたい、という思いで、当論考を書きました。
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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(再アップ・美津島明)

2015年11月02日 11時27分04秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)当ブログで、ちょっと前に大江健三郎氏の『沖縄ノート』を取り上げ批判しました。今回は、『ヒロシマ・ノート』を取り上げようと思いま...



大江流の戦後自虐思想は、私の目が黒いうちに、叩き潰しておきたい最大のものです。むろん、次世代の子どもたちのために、です。『ヒロシマ・ノート』を中高生向けの推薦図書にするなんて、狂気の沙汰だと思います。
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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)

2014年11月04日 08時43分24秒 | 戦後思想

ノアの方舟

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)

フェイスブックで、当論考の「その1」アップの告知をしたところ、ある方からとても興味深いコメントをいただきました。

同じ陣営であるはずの左翼からでさえも、大江氏の政治言説は荒唐無稽過ぎて相手にされていない、というのです。世間知らずにもほどがある、絵に描いたような左翼小児病である、お花畑のおしゃべりはいい加減にしてくれ、というわけです。言われてみればさもありなんと思います。

では、そんな取るに足りない稚拙な思想的内容しか有しない大江政治言説を、いい歳をした大人が大上段に鉈(なた)を振り下ろすように批判するのはむなしいし、あまり意味がないことなのでしょうか。

自分なりに虚心に考えてみましたが、そうでもなかろう、と思われるのですね。

稚拙な政治言説を弄する大江氏は、他方で、文学者として押しも押されもしない超大物であり、超有名人であり、また、それにふさわしい文学的業績を残してきた人物でもあるのです。その場合、彼の文学外の発言は、稚拙であればあるほど、無内容であればあるほど、すなわち、人類的視野を強調したものであればあるほど、氏の文学の心酔者たちの深読みや、氏の高名をなんとはなしに有難がる権威主義者たちの誤読を誘発する、というメカニズムが生じることになるのではないでしょうか。″あの偉大なる文学者・大江健三郎の政治言説なのだから、素晴らしいものであるに違いない。一見、平凡なことを言っているようでも、実はそこに氏の深い思想や思いがこめられているはずなのだ″というわけです。そういう心的なメカニズムが働くことによって、大江・政治言説は、《権力》となります。その権力を利用しようとする不逞の輩の悪だくみは、断固阻止しなければなりません。そのためには、元を断つ必要があります。「王様は裸だ!」と言い放つ必要があるのです。そうして実は、大江氏本人が、そのような「不逞の輩」の最たるものなのではないかと、私は下司の勘ぐりをしているのですね。

ちょっと大げさにいえば、私がしているのは、そのような悪しき政治言説の不当な権力を撲滅するための、ペンによる闘いなのだ、と自分を奮い立たせておきましょう(いま妻が、私の背中に「遊んでいないでちゃんと働きなさい」という言葉の矢を放ちました。相変わらずの、時速一六〇キロ級の剛速球です。「義のために死ぬ気で遊ぶ」という太宰治の言葉をそっと噛み締める私を笑ってお見逃しください)。

大江氏の荒唐無稽な原爆本質論
氏が、原爆の本質についてどういうことを言っているのか。次をごらんください。

広島の原爆は、二十世紀最悪の洪水だった。そして広島の人々は、大洪水のさなか、ただちにかれらの人間世界を復活させるべく働きはじめた。かれらは自分たち自身を救済すべくこころみ、かれらに原爆をもたらした人々の魂をもまた救助した。現在の大洪水、凍結しているが、いつ融けて流れるかもしれない全世界的(ユニヴェルセル)な大洪水(デリュージュ)、すなわちさまざまな国家による核兵器の所有という癌におかされている二十世紀の地球の時代においては、広島の人々が救助した魂とは、すなわちわれわれ今日の人間の魂のすべてである。

正直に言いましょう。このくだりをはじめて読んだとき、私は呆気にとられました。そうして、こういう馬鹿げたまったく実感の伴わない考え方がどこをどうやったらひねり出せるのか分からなくて、大江氏の頭のなかを覗いてみたくなりました。

全世界的な規模の大洪水と言えば、私たちは『旧約聖書』のノアの方舟を思い浮かべます。唯一神ヤハウェは、人間世界が堕落と暴力に満ちていることに心を痛め、大洪水を起こして、ノアの方舟に乗り込んだ人々以外のすべての人類を滅ぼしてしまいました。人類にやり直しを求めたのですね。広島の原爆は、そういう意味での人類史的大洪水である。そう大江氏は言っているのです。つまり原爆が、堕落した人間世界に対する神罰に擬せられているのです。驕り高ぶりの極に達した人間世界は、原爆という清算によって一度は滅び、神に選ばれた「広島の人々」によって再構築されるべきである、と。

壮大なスケールの原爆イメージ、さすがは大文学者・大江健三郎だけのことはある、と言いたいところですが、みなさん、この話、どこかおかしいとは思われませんか。何かが巧妙に回避されている物言いであるような気がしませんか。

それは、当時の米国大統領トルーマンを頂点とするパワーエリートたちが生々しい権力意思によって広島・長崎への原爆投下を決定した、という厳然たる歴史的事実です。それを回避して原爆について語ろうとするので、「広島の人々」が多大な犠牲と被害から立ち直ろうとすることによって、原爆を投下したトルーマンやバーンズやグローブズやらの魂を救った、などという荒唐無稽で稚拙なことを語ってしまうのです。そう面と向かって言われたら、当のトルーマンは目が点になってしまったことでしょう。

その歪んだ原爆観の出どころ
では、大江氏はなにゆえ、そのような厳然たる歴史的事実を回避しようとしたのでしょうか。その理由は、次の三つではないかと思われます。

①反国家の立場をキープしたいから
②アメリカに対する「大袈裟な許しのポース」を示したいから
③「広島の人々」を特権化したいから

ひとつずつ説明しましょう。

まず、①の「反国家の立場をキープしたいから」について。当たり前のことですが、当時の日本はアメリカと戦争をしていました。戦闘状態にあったわけです。だから、無辜の一般国民に対するホロコーストとしての原爆投下や東京大空襲は、明白な戦争犯罪なのです。つまり、トルーマン大統領をトップにいただく当時のアメリカ国家は許されざる戦争犯罪に手を染めたのです。その意味で、日本国民は明らかにその被害者であり犠牲者なのです。それゆえ日本国民は、そのことに対して異議申し立てをする権利をそっくりそのまま保持しているのです。この分かりやすい話は、国家や国民の枠組みを前提とし、それを鮮明に打ち出すことになります。そういう事態は、反国家の立場をキープしたい大江氏としては、どうしても避けたかったのでしょう。だから、大洪水などという絵空事のメタファを持ち出したのでしょう(本当にそれを信じこんで主張したのなら、それこそ単なるバカです)。これでは、原爆投下の責任の所在があいまいになってしまいます。「魂を救う」ことが原爆の最大のテーマになるなんて、ちょっとズレすぎです。本人としては、もしかしたら俗人のレベルを凌駕しているかのような自己陶酔に浸ることができたのかもしれません。それとも、人類の苦悩を一身に背負って苦しんでいるかのようなポーズを作りたかったのでしょうか。

では大江氏は、なにゆえ反国家の立場に固執したのでしょうか。戦後の日本では、反国家・反権力のポーズをとることが知的であり良心的である証しとされてきました。おそらく大江氏は、″まわりから知的であり良心的であると見られたい″という内なるスノビズムに抗しきれなかったのではないかと推察します。大作家としての過剰な自意識がしからしめたのかもしれません。

次に、②の「アメリカに対する『大袈裟な許しのポーズ』を示したいから」について。私は、「その1」で、″耐えがたいほどの屈辱を受けた者は、屈辱を与えた当の相手に対して大げさな許しのポーズを示すことで、相手に対して精神的に優位に立ったと思いたがる″と申し上げました。大江氏の言語的身ぶりは、その倒錯心理に促されたものであるような気がします。そのことは、「広島の人々」が多大な犠牲と被害から立ち直ろうとすることによって原爆を投下したトルーマンの魂を救った、というトルーマンでさえも当惑してしまうに違いないような誇大妄想に端的に示されています。

大江氏は、自分がそのような倒錯心理に促されて言説を展開していることについて、おそらく無意識的なのではないかと思われます。なぜなら、そのことについて自覚的であるならば、同じ心理に促されてルメイに勲章をくれてやった当時の日本政府に対して憤る資格が自分にないことに当然気づいたはずであるからです。つまり、当時の日本政府と大江健三郎氏は、一見正反対の立場にあるようですが、実は被屈辱者の無自覚な倒錯心理を有する点では同じ穴のムジナなのです。

この事実が意味するところは、極めて深刻です。というのは、日本政府と大江健三郎氏が共有する倒錯心理は、決してアメリカに歯向かわないことによって担保されているという意味で、占領軍の検閲機能がその精神構造の深部に埋め込まれていることを含意するからです。占領軍による検閲は、日本が二度とアメリカに歯向かわないことを目的としています。だからその完成形は、被占領者がアメリカに歯向かう心理的な傾きを自ら禁圧するようになることと言えるでしょう。すなわち、日本政府や大江健三郎氏の振る舞いは、占領軍の検閲システムの完成形なのです。ところが大江健三郎氏は、たびたび日本政府を担う自民党政権に対する嫌悪の念を表明しています。つまり、彼としては日本政府と対立しているつもりでいるわけです。それは、支配者であるアメリカからすれば、「devide and control」 (分断統治)が日本国内でうまく機能していることの喜ばしい証となりましょう。極めて深刻、と申し上げた理由がお分かりいただけたでしょうか。

③の「『広島の人々』を特権化したいから」に話を移しましょう。これについては、「その1」でいろいろと申し上げたので、その詳細についてあらためて語るまでもないでしょう。大江氏が、弱者のルサンチマンの有する陰湿で不健全な屈折した内なる権力志向を満たすうえで、現実の国家の生々しいせめぎ合いを超越したかのような気分に浸りながら原爆を神罰としてイメージすることが極めて好都合である、ということです。「広島の人々」の観念上の黒子として、大江氏は、彼らとともに原爆という神罰を喰らった人類のさまよえる魂を救うという壮大な精神的偉業を成し遂げることになるのですから。私が絵空事を言っているのではありません。それを言っているのは大江氏であって、私はそれを祖述しているだけなのです。事実大江氏は、広島の人々を「聖者」と呼んでいます。そうして自分はそれに同伴する者である、と。

当然のことですが、いま述べた①の反国家・反権力マインドと②の被屈服者のゆがんだ倒錯心理と③の陰湿な弱者の権力志向とは、大江氏の心のなかで複雑に絡まり合っています。それらを三つの要素として取り出してみたまでです。

浅はかな人間洞察
大江氏は、以上のような荒唐無稽な原爆観を開陳したうえで、原爆投下の責任者に関して、次のような、驚くべき心理分析をしてみせます。

原爆を投下したアメリカの軍事責任者たちが、広島市民たちの自己恢復力、あるいはみずからを悲惨のうちに停滞させておかない、自立した人間の廉恥心とでもいうべきものによりかかって、原爆の災厄にたか(″たか″の二字に傍点あり――引用者注)をくくることができたのであろうことを僕はたびたび考える。しかし、もっと広く、われわれ人類一般が、このように絶望しながらもなお屈服しない被爆者たちの克己心によりかかって、自分たちの甘い良心を無傷にたもつことができたのであることも、われわれは忘れてならないであろうと思う

こういうのを、世間では寝言といいます。大江氏はここで、おおむね次のように言っているのです。すなわち、″トルーマンは、原爆の悲惨さに屈しない広島市民たちの自己恢復力に期待し、安心して広島に原爆を投下することに決めたのだ。また、人類が甘い人道主義の夢に浸っていられるのも、広島市民のおかげである″と。トルーマンは、原爆の破壊力を十分に知っていたからこそ広島に原爆を投下することに決めたのであって、投下した後、広島市民がその破壊力に屈しないことを信じていたから安心して原爆を投下したわけではありません。そんなことなどおそらく一秒も考えなかったでしょう。当時のトルーマンの心を占めていたのは、ソ連がいち早く対日参戦を宣言することによって、日本が早々と降伏してしまい、原爆の驚異的な破壊力を全世界に知らしめる機会を失ってしまうのではないかという不安でした。″そんなことでは、アメリカが戦後の世界政治でリーダーシップをとれなくなってしまうではないか。また、議会に対して、原爆製造のために二〇億ドルつぎ込んだ言い訳ができなくなるではないか″というわけです。

大江氏は、政治のリアリズムにまったくその想像の触手が伸びていません。かすりもしていません。そこには明瞭に、大江氏の人間洞察の浅はかさが示されています。それは、端的に言えば、無残というよりほかはないでしょう。しかし本人は、広島市民の崇高な精神に身を寄せた気でいるのですから、いい気なものです。氏はおそらく「文学的想像力」の意味を取り違えているのでしょう。″生々しい政治の現場で示される赤裸々な人間心理のおぞましさから目を覆い、おのれの青白い妄想をふくらませるだけふくらませることこそが文学的想像力なのである″と思い込んでいるのでしょう。そうとでも解釈しなければ、ここに示されている、人間洞察の致命的な浅はかさが説明できません。ノアの方舟をのこのこと持ち出してきたって、どうしようもないものはどうしようもないのです。

放射能への恐怖心を煽るのはよくない
大江氏は、原爆の悲惨さを強調するために、読み手の、放射能への恐怖心を煽っているとしか思えない物言いをしています。該当箇所を引きましょう。

原爆後の広島の土地には、七十五年間、草が生えることはないと予言する声のあったことが記録されている。この声の主は性急なあやまちをおかした愚かな予言者だったか? むしろ、かれこそが、もっとも率直な、限界状況の観測者だったのである。かれの予言はすぐさまくつがえされた。夏のおわりの雨はこの荒廃の土地にすぐさま新しい芽生えをうながした。しかし、より深いところで真の破壊がおこなわれていたのではないか?僕は、顕微鏡によって拡大された葉の細胞が、なんとも表現しがたい微妙なみにくさに歪んでいるオオイヌノフグリの標本をみて、傷ついた人間の肉体を見たとおなじ、なまなましく本質的な嘔吐を感じたことを思いだす。じつはいま緑に茂っている広島のすべての植物が、あのように致命的な破壊をこうむっているかもしれないではないか?

そう述べたうえで、大江氏は、原爆症が子孫に遺伝する懸念について何度も触れ、原爆と放射能の恐怖を執拗に強調します。視えない放射能についての、このような非科学的で冷静さを欠いた感情的な煽りは、百害あって一利なしの、どうしようもなく困った代物です。人騒がせにもほどがあります。

例えば、長崎大学・原爆後障害医療研究所のHPには以下の記載があります。すなわち、

①被爆による遺伝的な影響はいままでのところ証明されていない。
②100ミリシーベルト以下の被ばくについては、現在までのところ、がんになるリスクが増加することは証明されていない。
http://www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp/abdi/publicity/radioactivity_qa.html#a04

放射能や原爆症の遺伝的な影響というナーバスな問題について、このような冷静で慎重な発言こそが求められているのです。なぜなら、大江氏のような不用意な発言は、放射能への過剰な恐怖心を煽ることで、事態への合理的で冷静な対応を著しく困難にするからです。私たちは、マスコミや反原発知識人による、一般国民の放射能への恐怖心に対する無責任な煽りによって、福島原発問題や原発再稼働問題の解決が著しく困難にされてしまっている現状を目の当たりにしています。大江氏は、そういう無責任な煽りのパイオニアだったのです。五〇年前の自分の感情的で過剰な発言の後に判明した科学的知見を本書に追記などの形で盛り込んだり、それらを織り込んだ論考をあらたに発表したりすることを、大江氏がネグレクトしてしまっていることからもそう言えるのではないでしょうか。私には、大江氏がひとりの物書きとして信じられないほどの不誠実な対応をしているように映ります。

文学で成功した文体を政治言説にそのまま持ち込むことの問題点や、中国の核兵器保持に対して半ば賛意の表明をしていることの奇妙さなど、言い残したことはまだあるような気がしますが、大事なことはもう言い尽くしたような気がしますので、このあたりで筆をおこうと思います。

最後に、ふたたび若い人たちへ。このように愚劣で傲慢で無内容で百害あって一利なしの『ヒロシマノート』を読んで、「原爆の被害がこんなにひどいものだったとはまったく知らなかった自分が恥ずかしい」などと妙な反省心を起こして、バカな自己卑下の人生に足を踏み入れる愚を犯さないようにしてください。それは悪質なカルトに入信するような振る舞いなのです。反日教の先達たちを悦ばせるだけの、そういう無残な被害者をひとりでも少なくするために、大江カルト思想は、前時代の遺物として、歴史博物館に埋葬されなければなりません。その時期はいまなのです。

あなたはあなたを理屈抜きに生き生きとさせる何かにためらわずに打ち込めばいいのです。命短し、人間いずれは無縁仏になるのですから。


参考文献
・『ヒロシマノート』(大江健三郎 岩波新書)
・『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』(日高義樹 PHP文庫)
・『冷戦の起源 戦後アジアの国際環境Ⅰ』(永井陽之介 中公クラシックス)
・『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』(鳥居民 草思社)
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