美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

もうすぐ「いざなぎ景気」だとよ!(小浜逸郎)

2017年07月11日 16時53分11秒 | 小浜逸郎
小浜逸郎氏の経済評論です。6月20日、氏のブログ「ことばの闘い」にアップされた論考の転載です。実は、半月前に氏から転載依頼があったのですが、諸般の事情からアップが延び延びになってしまったのです。しかしその内容は、鮮度がほとんど落ちていないことを、編集者として保証いたします。

ところで、当論考中で言及された四人の「嘘つき経済学者」の顔写真を掲げておきます。紙面やブラウン管に彼らが登場したら「ああ、あの嘘つき経済学者か」と思っていただければ幸いです。(編集者 記)


吉川洋伊藤元重伊藤隆敏土居丈朗

***

もうすぐ「いざなぎ景気」だとよ!

驚くべきことがあるものです。

6月15日、内閣府が、景気の拡大や後退を判断する景気動向指数研究会なるものを、約2年ぶりに開きました。
座長はあの悪名高き吉川洋東大名誉教授です。

その報告によりますと、安倍政権が発足した2012年12月から今年4月までの景気拡大期間が53カ月で、バブル景気の51か月を抜き、このまま9月まで続けば昭和40年代の「いざなぎ景気」を抜いて、戦後2番目の好景気となるそうです! (産経新聞6月16日付)

なかでもビックリなのは、この研究会の記者会見で、消費増税を行った2014年でも景気が後退しなかったと発表していることです。

このいけしゃあしゃあぶりは、かの「大本営発表」も真っ青です。

また、最近の人手不足を反映した有効求人倍率の伸びを、アベノミクスの成果だと嘯いてもいます。

言うまでもなく最近の人手不足の最大の理由は、少子高齢化による生産年齢人口の急激な減少にあります。別に政府が有効な雇用対策を打ったからでも何でもありません。

景気動向指数というのは、多くの領域から多くの経済指標を集めてきてややこしい計算式を用い、先行指数、一致指数、遅行指数の三つに分けて景気一般を判断するためのものです。

しかし内閣府の説明を読んでも、どの項目を重点的に選択し、それらのうちどれを加重的に計算するのか、その中身がよくわかりません。

こういう複雑怪奇な手法を用いて景気動向を占うと、「失われた二十年」が、なんと「いざなぎ景気」に匹敵するような好景気に変身するのだそうです。
開いた口が塞がらないとはこのことです。悪い冗談はやめてほしい。

こんな指標を使わなければ御用学者先生方は、「景気判断」を下せないのか。それも実態と真逆な判断を。

筆者には、景気が好転しているように見せかけるために、その中身の部分をわざと隠しているとしか思えません。

それはそうでしょうね。かれらにとって2019年に予定された10%への消費増税は、至上命題なのでしょうから。そのためならどんな理屈もつけようという固い覚悟を決めているらしい。

安倍政権になってからも続いている(さらに悪化している)デフレ不況は、もっと単純な指標を見るだけで明らかです。

第一に実質賃金の推移
以下をごらんください。1997年あたりをピークにどの算定による給与も一貫して下がり続けていることが一目瞭然です。

http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0401.html

 (出典:労働政策研究・研修機構)

第二に、先ごろ発表された、2017年1~3月期のGDP成長率が上昇したというフェイク・ニュース

これはすでに三橋貴明氏や藤井聡氏によってそのからくりが暴かれていますが、念のためもう一度。

上昇したのは、「実質成長率」であり、それも前期比でわずか0.5%です。しかも実質成長率は、実際には積算できず、「名目成長率マイナス物価上昇率」という式から形式的に導かれるだけです。

さて名目成長率は、じつは前期比で▲0.03%でした。ところが物価上昇率のほうがそれよりはるかにマイナス度が大きく▲0.6%だったのです。そのため計算上、実質成長率がプラスになったにすぎません。

物価が下がり、賃金も下がり続けているのですから、これをデフレ不況と言わずして何といえばいいのでしょうか。

逆立ちしても「好景気」判断など下せるものではありません。

第三に、GDPの約6割を占める民間最終消費支出の2015年までの推移

http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/H28/h28/image/b1_1_05.png

このグラフを見て、14年の消費増税によって景気が後退しなかったと考える人がいたら、その人にはいい眼科医を紹介してあげましょう。

しかし、何もこうした統計資料で確かめなくとも(それは大事なことですが)、世相をつぶさに観察していれば、景気など少しも回復していないことは明らかです。

筆者は、タクシーに乗るたびに、運転手さんに「景気はどうですか」と聞くことにしています。

ここ三、四年、これまで五十回くらいは聞いてきたと思いますが、「よくなってきてますね」と答えた人は、ただの一人もいません。

反対に、「よくないですねえ」と答える人が圧倒的に多い。なかには「アベノミクスなんてデッタラメよお!」と威勢よく応じた女性運転手さんもいました。

またこの二年の間に、鶴岡市、京田辺市、白浜町、藤枝市などの地方都市を訪れましたが、どの町も閑散としていて、目抜き通りはシャッター街でした。まことに「いざなぎ景気」とはうら寂しいものであります。

さらに、筆者の住む地区にあるデパ地下のスーパーは、隣のイトーヨーカ堂などより価格が高いので、昼間は閑散としています。ところが、閉店近くになると生鮮食料品が半額になり、客がどっと押し寄せます。特売品には長蛇の列ができます。

この光景は、筆者が子どもの頃開店した「主婦の店、ダイエー」を彷彿とさせます。みんな必死で家計をやりくりしているのですね。

吉川洋氏だけでなく、伊藤元重氏、伊藤隆敏氏、土居丈朗氏など、消費増税推進を目論む御用学者たちは、何か根本的に自らの職業的使命を間違えています。庶民の生活意識や実際の経済実態と、自分たちの主張とがいかに乖離しているかということにすら気づいていない。

いったい何のために「経済学」とやらをやってきたのでしょうか。

緊縮真理教」に骨の髄までやられている財務官僚。そしてそこにゴキブリのように群がるこの人たちを、権力中枢から追放する方法を、何とかみなさんで考えましょう。 (2017年06月20日 00時55分05秒 | 経済)
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憲法改正と「橋下大臣」 (小浜逸郎)

2017年06月15日 20時45分40秒 | 小浜逸郎


以下は、小浜逸郎氏が運営しているブログ「ことばの闘い」に、6月6日アップされた氏の論考を転載したものです。氏が言う通り、橋下徹氏は「天才的なデマゴーグ」です。彼が「民間大臣」として国政に深く関わるチャンスを得たならば、その「天賦の才」が遺憾なく発揮され、日本はメチャクチャにされてしまうことでしょう。小浜氏と同様に、私もそういう事態を憂慮しています。なるべく多くの方に読んでいただきたい論考です。〔編集者 記〕

***

安倍総理は、2020年までに憲法を改正し、9条1、2項はそのままにして新たに自衛隊の存在を盛り込む考えを今年の憲法記念日に明らかにしました。

あたかもこれに呼応するかのように、5月31日、日本維新の会法律政策顧問の橋下徹氏が現職を辞しました。

両者の間には関係がないといっても、「そりゃ聞こえませぬ」ですね。

憲法改正は自民党の党是であり、悲願と言ってもよいでしょうが、これまで同党では、改正憲法草案の作成、96条(改正条規)の改正や9条2項の削除の可能性模索など、さまざまな試みがなされてきました。しかし時期尚早ということで見送られてきました。

国際環境の激変を思うとき、これはまことに残念なことです。

私事にわたりますが、筆者は改憲論者です。増補版『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫・2014年)という本の中で、自民党草案や産経新聞草案の不徹底性と冗長性を批判しつつ、主として次の二点を主張しました。

1.思想の言葉として憲法について語る場合、「改正」について喋々するのではなく、その目標を断固として自主制定憲法におくべきこと。
2.とはいえ、国内外の政治情勢に配慮せざるを得ないため、実際には9条2項(*)の削除のみで発議に打って出るべきこと。

(*)「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

つまり理想は理想として掲げ、現実には現実的に切り込む二刀流を主張したわけです。

筆者はこの考えで、1の自主制定憲法の草案を作ってみました。

ちなみにこの草案では、国防軍の設置など謳っていません。当たり前のことをいちいち憲法に書き込む必要はないからです。ただ内閣総理大臣は、その職務として「軍の最高指揮権を持つ」ことと「現に軍職であってはならない」こととが謳ってあるだけです。

なお書物にする以前の草稿段階ですが、以上の主張と草案とは、当ブログの以下のURLでご覧になれます。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f

さて今回の動きについては、次の二点について考える必要があります。いちおう両者は切り離しましょう。

1.9条をそのまま残して自衛隊の存在を新たに書き込むという安倍総理のアイデアは適切か。
2.橋下徹氏を、憲法改正を成立させるための要員として起用することは適切か。
まず第1の問題

筆者自身は、安倍第二次政権成立後間もない時点で、2項削除ならぎりぎりのところで国民的コンセンサスを得られるだろうし、アメリカも承認するだろうと踏んでいたのです。しかし、その後現在に至る騒然たる国民感情のうねりなどを見ていると、どうやらそれも怪しく、安倍総理の苦肉の策のような形をとるしかないのではないかと思うようになりました。

理屈を言えば、2項との整合性がどうの、といろいろ議論があるでしょうが、そこは文言次第でうまく切り抜けられるかもしれません。たとえば自然災害、他国侵略などとは一切書かず――

国民の生命、財産の安全を保障するために、自衛隊を置く

安倍総理のアイデアについては、公明党はすでに理解を示しています。自民党内では、何の経済知識もなく政治家としての確たる識見も持たないただの親中派・石破茂氏のような「有力者」が、ポスト安倍を狙うためだけのために、さっそく難癖をつけているようですが。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20170601/plt1706011100001-n3.htm

この種の人たちを懐柔するために、自民党憲法推進本部は、これまでの幹部会9人体制から一気に役員会21人体制に拡大し、その中に石破氏も含めるそうです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170606-00000041-mai-pol

まあ、筆者なりの理想からはずいぶんかけ離れてしまいますが、国論をいたずらに四分五裂させないためにも、この日本式政治手法は仕方がないでしょう。トランプ方式は危険。

第2の問題(以下の文章には筆者の推定が混じります)。

橋下徹氏という人は、天才的なデマゴーグです。

この人が今回、日本維新の党の顧問役をやめたのは、明らかに憲法改正に関して安倍総理に直接「協力」するためです。

もともと日本維新の会は改憲に賛成の立場ですから、その点では整合性があります。

しかし、彼は人も知るように、かなり前から安倍総理とは蜜月を送ってきました。そこには、橋下氏なりの明白な目算があります。一政党の党首として国政選挙に打って出て、多数の国会議員の一人として仕事をし、そこで力を蓄えるというのはいかにも迂遠な道です。

橋下氏は、どうすれば権力の中枢にいち早くたどり着いて自分のしたいように政治を動かすことができるか、その秘訣を初めからわきまえているのです。

あの竹中平蔵氏などを見ていて、そのやり口を学んだのかもしれません。

安倍政権は、テロ等準備罪の成立を是が非でも今国会中に果たして(それは当然必要なことですが)、9月に内閣改造を行って体制を建て直し、それから憲法改正に力を注ぐつもりでしょう。

永田町周辺では、この内閣改造の際に、橋下氏が「民間大臣」に抜擢されるのではないかともっぱら噂されているそうです。十分ありうることです。まさに橋下氏の狙い通り。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20170601/plt1706011100001-n1.htm

当の安倍総理はどう考えているのか。

もちろんその心のうちを「忖度」することはできませんが、彼がほとんど外交的軍事的な安全保障のことしか頭にないために、利用できるものは利用してやろうと思って、橋下氏を側近に近づけていることは確かでしょう。

「彼は日本の安全保障政策に関して自分と共鳴できる数少ない一人だし、住民投票の経験者だから、国民投票になった時に人心のつかみ方をよく心得ているだろうし……」

これこそ危険な一歩への踏み出しというべきです。

安倍総理は、橋下氏が大阪都構想(特別区設置構想)の賛否を問う住民投票(2015年5月)の際、どうやって大阪市民を騙したか知っているのでしょうか。

彼はまず、市が特別区群として解消されたからといって、「大坂都」なるものが、現行法規上は成立しないことを正しく伝えませんでした。

また、投票用紙には特別区を設置することの是非を問うのみで、「大阪市を廃止して」とは書かれていませんでした

また、府は2012年に負債が18.4%に達し、起債許可団体(**)に指定されており、橋下氏は、府のこの窮状を、潤沢な市の財政の一部(2000億円超)で肩代わりさせるつもりだったのに、そのことを市民に伝えませんでした。

また、「特別区」なるものが東京都の区と同じように、区民としての独自の権利を奪うものであることを伝えませんでした。

さらに、この都構想(特別区設置構想)なるものは、それを記した協定書が2014年10月に市議会、府議会でいったん否決されているにもかかわらず、その後の公明党の寝返りなどもあり、半ば無理やり住民投票に持ち込まれたものです。これでは代議制民主主義が正しく活かされたとは到底言えません。

(**)総務省の許可を得なければ新たに借金できない団体

こうした手法を平気で用いる橋下氏という人を、安倍総理は、改憲に有利だからという理由だけで重用し、「民間大臣」の座に据えようとしているのでしょうか。

多くの首都圏在住者は、あの「大阪都構想」を、しょせんは関西という一地方のこととして、高みの見物を決め込んでいたようです。しかしもし彼が「民間大臣」などになれば、今度は、国民全体にかかわる問題の帰趨を天才的デマゴーグの手にゆだねることになるのです。

橋下氏はさぞかし辣腕をふるって安倍「お坊ちゃん」総理に「協力」し、彼から称賛を勝ち得ることになるでしょう。さらに枢要な地位を手に入れるかもしれません。

心情保守派もさぞ喜ぶことでしょう。

さてそれからが問題です。

折から財務省の「緊縮真理教」のせいで、デフレからの脱却がままならず、国民の間にはルサンチマンが鬱積しています。ルサンチマンの鬱積は全体主義の土壌です。

かつて筆者は、維新が国会で勢力を飛躍的に伸ばした時、橋下氏を「プチ・プチ・ヒトラー」と称したことがあります。

維新の基本政策は当時と変わっていません。 首相公選制、国会議員削減による小さな政府、道州制の採用、憲法裁判所の新設――当時橋下氏にはまださほどの権力がなかったから見過ごされがちでしたが、社会不安が募ってきたときにこれらの政策を強大な権力者が実行すると、どういうことになるか。

はじめの二つが代議制民主主義の破壊に結びつくことは容易に見て取れます。

「道州制」とは、地方自治の尊重に見せかけて、実際には底力を持たない地方の疲弊をいっそう招き、それに乗じて一気に中央独裁に場を与えてくれるような制度です。

「憲法裁判所」とは、法令などの合憲性を判断する機関で、首相または衆議院、参議院いずれかの総議員の4分の1以上の求めで訴えを提起できるとされています。首相が文句をつけさえすればなしくずしに法令を違憲として捨て去ることも可能です。

要するにこれもまた権力集中を高めるのにたいへん都合のよい制度です。

このように、橋下氏の党綱領は、社会不安で動揺した大衆の心理を利用して、全体主義体制に持っていくのにじつに都合よくできているのです。

条件はそろってきました。「プチ」を一つぐらいとってもいい、と筆者は思っています。

幼稚で空想的な平和主義から少しでも脱するために、初めの一歩としては、安倍総理のアイデアは悪くありません。しかしそのために別に橋下氏という黒幕の力を借りる必要はないでしょう。民主的に選ばれた政権が、堂々と提起して国民に信を問えばよい。姑息な点数稼ぎに走ると後でとんでもない目に遭いかねません。筆者は、橋下氏の勝手な国政参加を断固拒否すべきだと、安倍さんご自身に向かって訴えたいと思います。
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老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その2)(小浜逸郎)

2017年04月19日 13時05分26秒 | 小浜逸郎


上のグラフの流布が、「老人運転は危険」というイメージ作りにけっこう大きな役割を果たしているようです。筆者によれば、それはマスコミの無責任な印象操作にほかならない、となります。 (編集長 記)

***
     
:まずこういう資料が出てくる。内閣府のデータ(*注3)だが、交通事故の「死者数」はここ13年間減少の一途で、平成25年では4373人、うち65歳以上の死者は2303人で、やはり減少気味だが、他の世代のほうの減少カーブのほうが圧倒的に急なので、交通事故死者全体の中で占める割合としては増加していることになる。でもこれは被害者のほうだからね。歩いている老人がはねられるというケースが多いんだろう。このことは別の資料(*注4)に当たってみると確かめられる。歩行中が1050人くらいで、約半数。自動車乗車中は600人から700人の間を推移していて横ばいだ。「乗車中」ということだから「運転中」はもっと少ないことになるよね。いずれにしても、「高齢者は交通事故に遭いやすい」ことは当然で、それは高齢者ドライバーが他人を殺める割合が高いかどうかとは直接の関係がない。でも世間では「高齢者は危ない」というイメージを抱いていて、そのことと、「高齢者ドライバーは事故を起こしやすい」という先入観とを混同しているんじゃないかな。だから報道の関心がそちらのほうに集中して、そういう事件を好んで取り上げるようになる。どうもそう思えるんだけどね。
:先入観か事実かどうか、まさにそこを調べるわけだろ。
:その通り。その前に、君が初めに挙げた五つの事故の死亡者は、全部合わせると6人になる。約一か月間の間に6人という数字は年間に換算すると72人。亡くなった方には不謹慎な言い方になって申し訳ないが、この数字は、現在の年間交通事故死者総数約4300人という数字に比べて多いと言えるだろうか。割合にするとわずか1.7%にしかならないよ。
:だけど、報道されてないのもあるかもしれないぞ。
:それはまずないだろう。いま言ったように、マスメディアはニュースヴァリューのある事件が一つでもあれば、一定期間、連鎖反応的にそれっとばかりそういう事件ばかり集中的に探し当てる。これまでいつもそうだったじゃないか。
:ふむ。まあそれは認めるとしよう。だけど、老人の免許保有者が実際にどれくらい運転しているかはわからない。身分証明書代わりに更新している割合が多いんじゃないか。
:それは確かにそうだな。しかしより若い世代だってペーパードライバーはけっこういるからな。その世代差がどれくらいかは、よほど精密な意識調査でもやらない限り割り出せないだろう。だから一応、免許保有者は実際に運転をしているという仮定のもとに考えていくしかない。で、いまのところ、我々が得ている資料から、もう少し厳密に計算してみよう。同じ年の警察庁の資料によると(*注5)、運転免許保有者の総数は約8200万人。高齢ドライバーは年々増えていて、80歳以上は平成25年時点でなんと165万人を超えている。そこで、全体と80歳以上とで、死亡事故を起こしたドライバーの割合を比較してみるよ。さっき言った通り、80歳以上で死亡事故を起こしたドライバーを年間72人と仮定する。交通事故死亡者総数は4300人台。そうすると、次の計算式が成り立つだろう。

 交通事故死亡者の、免許保有者総数に対する割合
  4300÷8200万×100≒0.0052(%)
 80歳以上の人が起こした事故での死亡者の、免許保有者数に対する割合
  72÷165万×100≒0.0044(%)。

どうかね。80歳以上のドライバーが他の世代に比べて死亡事故を起こす割合が高いわけではないことがわかるだろう。
:うーむ。仮定が入っているからそんなに厳密とは言えないな。それに死亡事故だけでは、不十分じゃないか。負傷者がたくさんいるかもしれないからな。もう少しびしっと結論づけられる資料はないのかね。
:君もなかなかしぶといな。まあいい。じゃあ、もう少し探してみよう。……あった、あった。これも同じ平成25年のものだけど、ちょっと決定的だぞ(*注6)。ていねいに読んでみてくれ。(一部語句、改行など変更)

 平成24年の65歳以上のドライバーの交通事故件数は、10万2997件。10年前の平成14年は8万3058件だから、比較すれば約1.2倍に増えている。これだけを見れば確かに「高齢者の事故は増えている」と思ってしまうだろう。しかし、65歳以上の免許保有者は平成14年に826万人だったのが、平成24年には1421万人と約1.7倍となっている。高齢者ドライバーの増加率ほど事故の件数は増えていないのだ。
 また、免許保有者のうち65歳以上の高齢者が占める割合は17%。しかし、全体の事故件数に占める高齢者ドライバーの割合は16%で、20代の21%(保有者割合は14%)、30代の19%(同20%)に比べても低いことがわかる。
 年齢層ごとの事故発生率でも比較してみよう。平成24年の統計によれば、16~24歳の事故率は1.54%であるのに対し、65歳以上は0.72%。若者より高齢者のほうが事故を起こす割合ははるかに低い。この数値は30代、40代、50代と比較して突出して高いわけでもない。
 また、事故の“種類”も重要だ。年齢別免許保有者10万人当たりの死亡事故件数を見ると、16~24歳が最も高く(8.52人)、65歳以上はそれより低い件数(6.31人)となっている。


:うーむ……。
:つまり、これから推定できることは、認知症の人は別として、高齢者は概して自分の心身の衰えをよく自覚していて、また経験も豊富なので、慎重な運転を心がけているということになる。だから、マスメディアの流すイメージを鵜呑みにして、「高齢者の免許証を取り上げろ!」などと乱暴なことを言う人が多いけど、それはナンセンスだな。俺のドライバー歴は約30年だけど、俺も若い頃のほうが事故を起こしていたよ。ここのところけっこう車を使っているが、10年ばかり無事故だ。でもたしかに自信過剰は禁物だね。また一口に高齢者といっても、65歳と75歳と85歳とでは衰え具合が全然違うだろう。そのへんのきめ細かな分析視点も大事だと思うよ。
:うーむ。マスメディアの流す情報に踊らされてはダメだということだな。俺も免許証返上や規制強化論については、少し考え直すことにしようか。

 *注1:小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』(PHP研究所)
 *注2:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
 *注3:http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h26kou_haku/gaiyo/genkyo/h1b1s1.html
 *注4:http://www.garbagenews.net/archives/2047698.html
 *注5:https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
 *注6:">http://www.news-postseven.com/archives/20131010_215628.html

(初出 2016年12月13日 00時38分09秒 | 社会評論)
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老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その1)(小浜逸郎)

2017年04月17日 14時18分55秒 | 小浜逸郎


メディアが嘘をつく、というのは周知の事実です。しかし、高齢者ドライバーは危険である、というのもその一例である、とは気づきませんでした。メディアに対する警戒の念はいくら強くても強すぎることはないようです。小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」からの転載です。(編集長 記)

***

:久しぶり。この前会った時よりだいぶ老けたな。
:何しろもうすぐ古希だからな。そういうおぬしも人のことは言えんぞ。
:そりゃそうだ。ところで君はまだ運転やってるのか。
:何だやぶからぼうに。やってるよ。仕事で必要だしドライブは好きだからな。
:いや、最近、ほら高齢者ドライバーが起こす事故が連続して起きているだろう。ここに新聞を持って来たんだが、11月12日、立川市で乗用車が歩道に乗り上げ2人死亡。10日には栃木県で乗用車がバス停に突っ込み3人死傷。19月28日には横浜市で軽トラックが小学生の列に突っ込み7人死傷。13日にも小金井市と千葉県で交通死亡事故。運転していたのはいずれも80歳以上の高齢者とある。こう続くと俺も運転するのが怖くなってくる。
:たしかに年を取ると、自分ではちゃんとしているつもりでも判断能力や運動神経がどんどん鈍ってくるからな。俺も気をつけるようにしてはいるけどね。
:しかしこの横浜の事件では、認知症の疑いがあったそうだ。認知症だったら「気をつける」なんて次元の問題じゃないだろう。
:その人はいくつだったの。
:87歳。
:87歳かあ。そんなに高齢じゃ、認知症を疑われるのも無理はないな。家族がちゃんと監視して運転をやめさせるべきだな。
:いや、一人住まいだったのかもしれない。孤独な老人が増えてるからな。それに、認知症でなければいいのかというとそうも言いきれないだろう。あと数年で俺たち団塊も75歳だぞ。こういう事件がどんどん増えるんじゃないか。
:でも地方の過疎地域なんかでは車がないと買い物にも医者にも行けない人が多いんだろう。簡単に免許返納というわけにもいかんじゃないか。
:自動運転車の早期実用化や地域の協力体制が求められるな。でもそれを待っている間にも事故は起きるだろうしな。だからどうしても規制強化が必要だと思う。
:今の道交法では、高齢者の免許に対する規制はどうなっているんだっけ。
:75歳以上の免許更新時に認知機能検査をやって、「認知症の恐れがある」とされても、交通違反がなければ免許の取り消しとはならないんだそうだ。これははなはだ不十分だな。で、一応2017年3月の改正道交法では、「恐れがある」場合には医師の診断が義務づけられて、認知症と診断されると免停か取り消しになることになってる。俺はこれでも甘いと思うよ。さっき言ったように、認知症でなくたって危ないからな。
:そうすると、君の考えでは、免許返納を制度面で強化することと……。
:うん。高齢者の自覚を促すキャンペーンをさかんにして、家族もこれに協力して自主的な免許返納のインセンティブを高める必要があると思う。俺ももうそろそろ免許証を返上しようかと思ってるよ。君も考えたほうがよさそうだぞ。自信過剰は最大の敵だ。
:なるほど。我々は都会に住んでるから、車がなくてもなんとかやって行けるしな。でも俺の場合は今のところどうしても必要だから、できるだけ慎重な運転を心がけて、もうちょっと続けることにするよ。ところでこれはけっして自信過剰で言っているんじゃなくて、免許返納制度の強化というのにはちょっと異論があるな。
:どうして? 免許を更新するときにもっと厳しいテストを課せばいいじゃないか。
:それは口で言うのは簡単だけど、膨大な免許保有者に対していちいち時間のかかる厳しいテストを課すことが今の警察の限られた交通安全対策施設や人員で可能だろうか。
:それは、ITをフルに活かした最新鋭の診断システムを導入するとか、早急に増員を考えるとかすればいいだろう。
:それだって相当時間がかかるぞ。君がさっき言っていたとおり、そういうシステムが整うのを待っている間にも事故は起こるだろう。しかも一律規制を厳しくして、テストに引っかかった過疎地の人はどうするのかね。
:……。
:じつは俺の異論というのは、今話したような問題点だけじゃなくて、もっと根本的な疑問にかかわっているんだ。昔と違って今の時代は、ふつう想像している以上に元気な高齢者がわんさかいる。また最近は車の性能がすごく進化しているから、歩いたり走ったりするのが困難な人でも精神さえしっかりしていればむしろ運転のほうが容易な場合が多い。そういう人たちの意志や行動の自由を拘束するのはあまりよくないと思う。身体障害者に対しては、条件さえ整えば健常者と同等に免許が取れるように制度が整備されてきたよね。精神はたしかだけど体にガタが来ている高齢者って、一種の身体障害者だと思うんだ。そうすると単に高齢者だからという理由で規制を厳しくするのは矛盾してないか。
:そうはいっても、その意志や行動の自由が、生命を奪うことになりかねないんだぜ。これは「個人の自由」を尊重するか、「生命の大切さ」を尊重するかという問題で、俺は無条件に「生命の大切さ」を選ぶね。だって、当の高齢者ドライバー自身の命もかかってるんだし、たとえドライバーが命も失わず怪我を負わないにしても、人を殺めてしまったら、加害者やその家族のほうも計り知れない有形無形の苦痛を背負うだろう。
:まてまて。いま君の議論を聞いていて気づいたんだが、「個人の自由」か「生命の大切さ」かというような抽象的な二項選択問題に持っていく前に、もっと冷静に考えておくべきことがある。いままで俺たちは、高齢者ドライバーの引き起こす事故が増えていることを前提に議論してきたよな。でもそれって本当なのかね。
:だって、現にこんな短期間に80歳以上のドライバーが次々に事故を起こしている事実が報道されているじゃないか。まさか君はそれを認めないわけじゃないだろう。
:個々の事故報道を疑っているわけじゃないよ。だけど、「超高齢社会・日本」というイメージが我々ほとんどの日本人の中に刷り込まれていて、それに絡んだ問題点を無意識のうちに拡大してとらえてしまう傾向が、もしかしたらありゃしないだろうか。昔からよく言うよな、「ニュースは作られる」って。これはニュースの発信者と受信者が同じ空気を醸成していて、いわばその意味では、両者は共犯者なわけだ。発信者は「87歳の高齢者ドライバーによる死亡事故がありました」と報道する。聞く方も、「えっ、それはたいへんだ。そんな高齢者に運転させるのは間違いだ」と即座に感情的に反応してしまう。そこから「規制をもっと強化しろ」という結論までは簡単な一歩だ。
:しかしごく自然に考えて、年を取れば取るほど生理的に衰えてくるから、運転の危険度も増すことは否定できないだろう。君だってそれは認めていたじゃないか。
:もちろん認めたよ。でもそれを認めることと、高齢者への運転規制を強化しろという結論を認める事との間には、まだ考える余地があると言っているんだ。俺が何でこんなことにこだわるかというと、俺たちはマスメディアの流すウソ情報にさんざん騙されてきたからだ。たとえば旧帝国軍隊は韓国女性を「従軍慰安婦」として強制連行しただとか、三十万人に上る「南京大虐殺」があっただとか、アメリカは自由・平等・民主主義という「普遍的価値」のために戦ってきただとか、ヨーロッパを一つにするEUの理想は素晴らしいだとか、自由貿易を促進するTPPは参加国の経済を飛躍的に発展させるだとか、「国の借金」が国民一人当たり八百万円だから、財政を健全化させるために消費増税はやむを得ないだとか、トランプ候補はとんでもない差別主義者で暴言王だとか……。だけどこれらはよく調べてみると全部デタラメだということがいまでははっきりしている。
:わかった、わかった。そう興奮するな。それが君の持論だということは俺も君の本(*注1)やブログ(*注2)を読んだから認めるよ。だけど高齢者ドライバーがもたらす危険性については、事実が証明しているんじゃないか。少し疑り深くなりすぎてやしないか。
:そうかもしれない。じゃ、ちょうどパソコンの前に座っているから、果たして高齢者ドライバーが起こす事故が、他の世代に比べて多いかどうか調べてみようじゃないか。
:もとより異存はないよ。(以下次号)


(初出 2016年12月10日 23時28分35秒 | 社会評論)
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日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その2)(小浜逸郎)

2017年04月15日 11時51分09秒 | 小浜逸郎


死刑に、人倫を体現した理性的国家意思を読み込むという根底的でユニークな議論が展開されています。短いにもかかわらず、大論文を読んだ後のような感触が残るのは不思議です。(編集長 記)

***

 では死刑の意義とは何か。
 普通言われるのは、国家が被害者に代わって加害者を罰して罪を償わせることという考え方です。しかしこれは完全な間違いとまでは言いませんが、不適切な捉え方です。死刑は国家による復讐の代行ではありません
 そもそも国家は共同体全体の秩序と国民の安寧を維持することをその使命とします。犯罪はこの秩序と安寧の毀損です。たとえ個別の小さな事件でも全体が毀損されたという象徴的な意味を持ちます。だからこそその回復のために国家が登場するのです。
 この秩序と安寧を維持する意志を仮に「正義」と呼ぶとすれば、死刑は、国家が、極刑という「正義」の執行によらなければかくかくのひどい毀損に対しては秩序と安寧が修復できないと判断したところに成り立ちます
 その場合、被害者およびその遺族という私的な人格の被害感情、悲しみ、憤りなどの問題は、この国家正義を執行するための最も重要な「素材」の一つにほかなりません。だからこそこれらの私的な感情的負荷が、ときには国家の判断に対して満たされないという事態(たとえば一人殺しただけでは死刑にならないなど)も起こりうるのです。
 もちろんその場合には私人は、法が許す限りで国家の判断を不当として変更を迫ることができます。そのことによって、国家正義のあり方自体が少しずつ動くことはあり得ますが、近代法治国家の大原則が揺らぐことはありません。
 つまり死刑とは、国家が自らの存続のために行なう公共精神の表現の一形態なのです。繰り返しますが、国家は被害者の感情を慰撫するため、復讐心を満足させるために死刑を行うのではない。むしろ逆に復讐の連鎖を抑止するためにこそ行うのです。極刑によってこのどうにもならない私的な絡まりの物語を一気に終わらせようとするわけです。そこにまさに近代精神(理性)の要があります。

 ところで筆者は、この公共精神の表現の一形態たる「死刑」という刑罰が存置されることを肯定します。なぜなら、人間はどんな冷酷なこと、残虐なことも、大きな規模でなしうる動物だからです。これだけのひどい秩序と安寧の毀損は、死をもって贖うしかないという理性的な判断の余地を葬ってはなりません。
 抽象的な「人権」、絶対的な「生命尊重」の感覚のみに寄りかかった現代ヨーロッパ社会(および国連)の法意識はけっして「進んでいる」のではなく、むしろ近代精神を衰弱させているというべきです。日弁連幹部の廃止論はこの衰弱した近代精神にもっぱら依存しています。
 さて日弁連の先の「宣言」では、明確な死刑廃止宣言をしていながら、それに代わる刑として「仮釈放のない終身刑を検討する」としており、その場合でも、社会復帰の可能性をなくさないために仮釈放の余地も残すべきだとしています。
 そうすると廃止をした後に「検討する」わけですから、死刑に代えるに終身刑をもってするのではなく、終身刑の規定すら採用されない可能性が大いにあります。もし終身刑の規定が採用されなければ、最高刑は「仮釈放のある無期懲役」ということになります。また終身刑でも「仮釈放の余地も残す」のでは、極刑の概念を完全に抹消することになります。
 筆者は到底これを受け入れるわけにはいきません。なぜなら、人間は神と悪魔の間の膨大な幅を生きるのであってみれば、極刑の概念を残しておくべきであるし、また懲罰の選択肢は多ければ多いほど良いからです。
 たとえばこれは筆者の個人的なアイデアにすぎませんが、死刑、仮釈放のない終身刑、仮釈放の余地を残した終身刑、無期懲役、有期最高刑懲役五十年(現行三十年)等々――刑法を、複雑多様化した現代、寿命の延びた現代に合わせて改革するなら、こういう方向で模索すべきでしょう。
 もちろん、極刑を課さなくても済むような社会づくりに向かってみんなが努力すべきであることは言うを俟ちませんが。
 (2016年12月04日)
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