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和歌のある生活

2019-04-29 09:59:55 | 短歌
 好きで古風な言葉を使った和歌を折々に詠んでいるのですが、最近ある人から短歌雑誌や新聞への投稿を勧められました。その人は特に深い考えもなく、歌を詠んでいるのなら投稿したら如何ですか、というつもりのようでしたから、そのうちにねと、当たり障りのない返事をしてしまいましたが、そのようなことをする気にはなれません。私にとって和歌は投稿して良い評価を得るための文芸ではないのです。私はめったに歌を詠みません。余程に嬉しい時、反対に悲しい時、また傷んでいる人を励ましたい時、嬉しいことがあった人を祝福したい時、美しい感動的な場面や景色を見た時、そんな時にしか詠む気にならないのです。ですから私の詠む歌の数はとても少なく、いつまでたっても歌集らしきものができません。私の葬儀に来て下さる人に、お礼として差し上げたいと思っているのですが、長生きするつもりがないので、薄っぺらな物になりそうです。

 もちろん良い歌を詠みたいという心はあります。そのために勅撰和歌集などをよく読んだり勉強します。しかしそれは良い評価を目的としたものではありません。もちろん結果として私の歌を誰かに読んでもらうことはあります。批評をお願いすることもあります。それはおまけであって目的ではありません。

 私にとって歌は心の叫びであり祈りであり、また新鮮な感動の表現ですから、良い評価を得ようとして投稿すると、何か不純な動機のように感じてしまうのです。もちろんそのような文芸活動をしている人のこととは関係ありません。自分自身のことだけですので、他の人を批判する気など、微塵もありません。そもそも現代短歌と古来の和歌とは、全く別物と思っていますから。

 私にとっては、近現代の歌人の歌は、全く参考になりません。歌そのものが目的となっているからです。生活の中から自ずから湧きだしてきた歌ならよいのですが、いわゆる「歌人」の歌には野心の臭いがして、文芸として優れているといわれても、好きになれないのです。私にとっては現代短歌の巨匠の歌より、防人の歌の法がはるかに嬉しいものですし、また感動します。昔から多くの辞世の歌が伝えられ、人の心を揺さぶりますが、それらはみな歌人の歌ではありません。

 大伴家持はたくさんの歌を詠んではいますが、歌人ではありませんでした。彼は兵部省や式部省の官僚であって、歌人という職業に就いていたわけではありません。兵部省の役人であったことから防人と縁があり、『万葉集』に多くの防人の歌が収録されたのです。歌に優れていたので、人から歌を頼まれることも多かったことでしょう。しかし歌を生活の糧にしていたわけではありません。もし今彼にあなたは歌人ですかと問えば、そうではないと答えることでしょう。

 嬉しいにつけ悲しいにつけ、生活の折々に自然に歌を詠み、人に贈り、また贈られて、歌のある生活をしたいと思っています。手紙にはよく歌を添えて送るのですが、未だに返歌を頂いたことはありません。まあそれは諦めていますが・・・・。 


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