マキペディア(発行人・牧野紀之)

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言論の自由を考える

2020年06月11日 | カ行
            言論の自由を考える

 1、朝日新聞の記事
  [朝日の付けた題は『「正しさの暴力」自分にも』でした)

 電話は鳴りっばなし。受話器を取った職員は「名前をさらすぞ」などと脅される。

 昨年8月、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の事務局には脅迫や抗議が殺到していた。慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品が反発を招いた。

 出展者の一人で演出家の高山明(50)は、職員の疲弊を知り、参加アーティストが自ら電話を受ける「Jアート・コールセンター」を立ち上げた。約30人が交代で電話を受け続けた。

 高山は長くドイツで活動してきた。国際芸術祭「ドクメンタ」では、社会性、政治性の強い作品が並ぶ。ヒトラー政権下の言論弾圧に対する反省から、「小さな声こそ社会を健全に保つために必要」との考えが社会にあるのだという。

 日本では、公金を使う芸術祭なら、多くの共感を呼ぶ作品を展示すべきだと考える人がたくさんいた。だが、公金を使うからこそ少数者の声をアーティストはかたちにしていくべきだ、と高山は考える。

 「一人ひとりが自由に声を発していい、という権利を職業として実践するのがアーティスト。自分の思ったこと、やりたいことを表現し続けることが、いまの日本社会における我々の役割だと思う」

 白分とは異なる考えの人たちに意見もぶつけ、聞いてみたい。コールセンターをつくったのには、そんな思いがあった。直接話せば、相互理解も生まれるのでは、との期待もあった。

 ただ、考えは甘かった。

 「天皇陛下についてどう思う」 「少女像を公金で展示するなんて言語道断」。電話口の声は怒りに震え、泣いているような人もいた。自分の意見を言ってはみたが、対話は成立しない。自分がいかに「通じる人」だけとコミュニケーションをしてきたかを痛感した。「これは無理だ」。とにかく聞くことにした。

 昭和天皇の肖像を扱った作品に抗議した高齢の女性がいた。
 「あなただって正月に初詣に行くでしょう。私としてはそういうもの」

 崇拝や信仰とは違う、内面を傷つけられた気持ちになったと訴えていた。「少なくとも彼女がそう感じたことに、耳を傾けるべきだと思った」

一方で、時には3時間も話していると、だんだん相手を説き伏せたくなっている自分に気がついた。「自分は正しい、自分の考えに同化させたい。そんな『正しさの暴力』のようなものを、自分だって持っているじゃないか」

 相手を同化させようという欲望は、極まれば異なる者を暴力で排除してしまおうという思想につながる。「正しさ」をいかに疑うことができるか。それがいまアートや表現が取り組むべき問題なのではないか。高山はそう感じている。

 「彼らも自分が正しいと思っている。僕も思っていたりする。永遠に平行線。でも大切なのは意見を一致させることではなく、異なる声があるということを受け入れること、それをこそ死守するという姿勢ではないか」(朝日、2020年5月20日、石田貴子)

 2、牧野の感想

 かつて一緒に勉強した仲間の立派な活躍を知るのは嬉しい事です。だからこそ、この問題に付いての私見を箇条書きにします。

 ➀ 民主的な社会では「言論の自由」は最大限保障されるべきだと思います。

 ➁ では「言論の自由」とはどういうことでしょうか。それは「間違った事を言っても罰せられない」ということです。「或る人Aの言や行動は間違っている」と他者Bが「思った」時、BはAを言論で批判するのは自由ですが、言論以外の力を使って自説をAに強要してはならない、ということです。

 なぜなら、人間には絶対的真理は分からないからであり、その自説の方が間違っているかもしれないからです。いや、たとえその「自説」が「部分的真理」であっても、もっと大きな観点から見れば、全体的真実ではないかもしれないからです。(注・部分的真理と全体的真実との異同については、近日中に書きます)

 要するに、どちらの側も、自分の考えの主張において、暴力や脅しはもちろんの事、泣き落としのような態度も避けるべきだということです。

 ➁ この観点から今回の問題を考えますと、最も残念だった事は、名古屋市長が、自説を表明したのは自由ですが、批判派に対して「言論で冷静に発言して欲しい」という注意を言わなかった点です。

 この問題を更に大きく考えますと、日本では、学校教育において討論が少なく、その練習が意識的に為されているとは言えないという事です。

 特に国語の授業では先生の解釈に対して納得出来ない生徒が異論を言うことは、かなりの頻度で、在るのではないでしょうか。では、そういう場合、先生はどのように対処するべきでしょうか。

 こういう点について、職員会議で話し合って、何らかの申し合わせをしている学校がどれだけあるでしょうか。多分、ゼロか、それに近い数字でしょう。これが問題だと、私は思うのです。

 家庭でも、学校でも、意見の違う人と話し合うのはなぜ必要か、そのためには各人はどういう事に気をつけなければならないか、といった事がほとんど話し合われていないのです。例外は、多分、私の哲学の授業だけでしょう(失笑)。

 今からでも遅くありませんから、志のある先生はこの現実を改革するように動いて欲しいと思います。

 参考項目・「議論の認識論」    

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