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言論の自由を考える(その2、民主集中制)

2020年07月19日 | カ行
  言論の自由を考える(その2、民主集中制)

 6月11日に発表しました文章「言論の自由を考える」では、主として、「言論の自由とは間違った意見でも罰せられない事だ」という点を論じました。今回は、同じ問題を、民主主義と民主集中制の異同を考える中で論じてみたいと思います。

 私見によれば、1960年までは毛沢東の言う「東風が西風を圧倒する」で、社会主義が資本主義を追い越さんばかりの勢いで発展していたと思います。しかし、50年代末から顕在化した中ソ論争もあって、その後は東西の力関係は 西側の優勢となっていったと思います。二〇世紀末の社会主義の崩壊はその必然的結果だと思いますが、その後の歴史を見ますと、必ずしも自由経済と民主制社会が広がっているとも言えません。
 その中で世界の共産党を見てみますと、旧社会主義国の共産党はどんどん独裁政権化し、資本主義国の共産党はほとんどが解党ないしそれに近い状態だと思います。「いわゆる共産党」、つまり「マルクスとエンゲルスの考えていた革命党とは大分違うが、レーニンの考えていたそれにはかなり近い政党」は日本の共産党だけではないでしょうか。従って、日本共産党を取り上げて考えます。

 私見では、その共産党を支えている理論上の三大根本原則は「理論と実践の統一」と「民主集中制」と「批判と自己批判」の三つです。

 第一原則の「理論と実践の統一」については、繰返し指摘してきましたが、その意味は事実上、「マルクス主義を口にする者は共産党に入って革命運動をしなければならない」と曲解されています。そして、共産党に入ることを強要したり、特定の運動に参加することを迫ったりする事の理論的根拠に使われています。これは完全な間違いです。

 そもそも「理論と実践の統一」とは「両者を統一しなければならない」という当為命題ではありません。そんな事なら、「言行の一致」として、昔から言われています。弁証法で言う「理論と実践の統一」とは、「両者は対立しているが、同時に一致もしている」という事実命題です。弁証法でいう「対立物の統一」というのがそういう事実命題で、これはそれの一例ですから。

 第二原則を論ずるのが今回の目的ですから、その前に第三原則の「批判と自己批判」を片付けておきますと、これはこういう定式化自体が間違っています。弁証法の基本が「対立物の統一」なら、「批判(他者批判)と自己批判の統一」と定式化しなければならないのに、「批判と自己批判」で終わっているからです。これ以上の事は、拙稿「批判と自己批判」(拙著『ヘーゲルからレーニンへ』に所収)を読んでください。

 さて、第二原則の「民主集中制」ですが、これの理解も不正確です。まず、共産党の規約をみてみます。すると、その第1章の第3条に次のように書いてあります。

 第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織原則とする。その基本は、次の通りである。
 ⑴ 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
 ⑵ 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。(以下略)
 ⑶ すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 ⑷ 党内に派閥・分派はつくらない。
 ⑸ 意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない。
以上です。

 これを考えてみます。⑶をここに入れたのが不自然ですが、その他はまあまあでしょうか。いや、まず、「全ての党員は党の方針や人事について、発言する権利を持つ。但し、まず自分の所属する支部の会議で発言し、その結果によって段々と上級機関に上げて行くのが原則であるが、場合によっては上級機関、更には幹部会や委員長に、直接、意見を言っても好い」、としておくのが、「民主主義」だと思います。こういう権利の確認をまずするべきでしょう。

 ⑴では「民主的な議論」とはどういう議論のことを言うのか、それを保証する方法はどういうものか、の規定がありません。「自由討論」では口がうまくて押しの強い人が勝つだけだ、ということを知らないのでしょうか。共産党の外では、この「自由に意見の言えるための工夫」をしている理論や団体が沢山あります。我々の「ラウンド方式」もそれらから学んだものです(拙訳『フォイエルバッハ論』鶏鳴OD選書に所収の「議論の認識論」を参照)。共産党は遅れています。

 ⑵ の「決定されたことは、みんなでその実行にあたる」を共産党は「民主集中制」の中心と考えているようです。小さなグループなどでは、民主主義の名の下にこれが当たり前の事として、理解されていると思います。しかし、大きな組織では民主主義は、「決まったことを一緒に行動しなくても好いが、それを妨害してはならない」程度に理解されていると思います。ですから、共産党が「民主集中制」として、これを言う必要があるのです。

 ⑷を飛ばして、⑸を検討しましょう。直ちに分かる事は、共産党員の一番恐れている「自己批判を強要されること」について一言も書いていない事です。共産党員と付き合っていると、彼らがいかにこの自己批判という名の土下座を恐れているかが分かります。それなのに、この点について「規約」に規定がないのです。無理論党もここに極まったと言うべきでしょうか。

 実例で説明しましょう。
 その1つは、1964年の事ですが、「労働組合の4・17ストライキを『挑発スト』と決めつけて、それに猛烈に反対し、一部では行動でそのストを妨害した事件」です。その後、共産党員は多くの所で労組の組合員から袋だたきに遭ったようです。その結果、共産党は自己批判することになりました。『日本共産党の八十年』にはこう書かれています。

──六四年春、党は、労働組合が準備していた四・一七ストライキに反対する指導上の誤りを犯しました。この年の一月、中国を訪問して毛沢東と会談し、毛沢東の「反米愛国の統一戦線」の提唱の影響を受けた一部の幹部が中心になって、このストライキをアメリカがたくらむ「挑発スト」と位置づけ、党中央の名で反対の声明を発表したのでした。この誤りは、党への信頼を深く傷つけ、国民運動の発展に深刻な影響をあたえました。四・一七ストライキは経済ストライキであり、政治的課題と正しく結合されず、民主勢力との共闘という点にも欠けていましたが、このような弱点を根拠に、経済闘争を軽視したり、否定することは大きな誤りでした。党は六四年七月の中央委員会総会と十一月の第九回党大会で、これが党の綱領路線に反する誤りであったことを明らかにし、経済闘争の位置づけを明確にしました。──

 こんな「総括」では共産党は前進しません。私の知っている党員は、「最初、上から、『あれは挑発ストだから、反対するように』という指示が下りてきた時、『この官僚め!』と怒ったが、結局、支部として指示に従うと決まった時、自己批判をさせられたが、党が今度は『あれは間違いだった』と言うことになったので、又、自己批判しなければなんないや」と言っていました。少数意見者に自己批判を強要するという「不文律」があるから、こういう悲喜劇が起きるのです。

 そもそもあの騒動では、共産党員に、組合の決定に反して、「組合で決まった事の実行を実力で阻止せよ」という指令が出ていた(と、推定せざるをえません)ことが根本の問題なのだと思います。共産党の規約には、たしか、どこかに、「大衆的組織の中で行動する時は、その組織の規約を守って行動せよ」という一句があったと思うのですが。共産党は、このように、大衆組織の中で、民主主義の規律を守らないのです。これこそ反省するべき根本問題です。

 第二の実例は、かなり前から共産党が「これには誰も反対出来ないだろう」と言わんばかりの口調で、得意になって振り回している「統一戦線の原則」とやらです。曰く「一致点で協力し、不一致点は粘り強く話し合う」です。どうです、皆さん、この「定式」のどこが間違っているか、分かりますか。実際この「原則」とやらで、何人の党員が泣きべそをかいたことでしょうか。

 どこが間違っているか分からない人は、「一致点で協力しなかったら、どういう点で協力するのか」と、考えてみてください。「一致点で協力する」という句は無意味な同語反復なのです。統一戦線の原則というものがあるとしたら、それは「どういう性質の一致点なら協力して好いか」を示すものです。しかし、そういうものはありません。レーニンがどこかで、たしか、『左翼小児病』だったと思いますが、「統一戦線の原則なんてものはない。全てはその時の事情次第だ」といった事を言っていたと思うのですが。私はこのレーニンの説に賛成です。
 ここでもう一つ不思議に思う点は、この「一致点で協力」の無意味さを指摘されて泣きべそをかいた党員が、その後、党の会議で、これを持ち出して、「反論できなかったのですが、どうしたらよいですか?」と問題提起しておらず、いつまでもそのままだという事です。規約に、「党の理論や行動に疑問を持ったり、外部からの批判に答えられなかった場合は、すぐに、支部及びそれ以上の機関に報告しなければならない。曖昧にしておくのは共産党員の態度ではない」という項目を⑹として入れるべきでしょう。
 日本共産党には、国会での活動のように立派な面もあり、だからこそそれなりの支持を集めているのですが、理論的には、皆さんが誤解しているような「理論に強い党」ではありません。無理論党と言ってもいいくらい酷いものです。

 思うに、芸術と宗教と哲学(ヘーゲルの『精神哲学』の第三篇「絶対的精神」に分類されるもの)に関しては、政治とは最も深い所では関係しますが、個々の政治行動とは関係しませんから、共産党もその他の政党も、「組織的関係」を断つべきだと思います。つまり、それらの分野の人が、「入党したい」と言ってきたら、「気持ちはありがたいが、その気持ちは自分の活動の中で表現してください」と言って、断るべきだと思います。政党の規約にそう明記しておくべきだと思います。これが常識になれば、政治との関係を利用して出世しようとか、本を売ろうなどと考えるニセモノも少なく成ると思います。

 「査問」については書き残しましたが、もういいでしょう。以上の考えが、皆さんの考えを広げ、深める事に役立てば幸いです。活発な発言を期待しています。

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