マキペディア(発行人・牧野紀之)

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佐伯さんの「キリスト受難劇」を読んで」

2021年01月01日 | カ行
  キリスト受難劇
1、元の新聞記事──佐伯順子・同志社大教授
    (朝日、2010年10月08日)
 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いオーバーアマガウという村は、十年ごとに村の人々による「キリスト受難劇」を上演することで知られる。1634年以来、ペストによる絶滅から免れたことへの感謝として続いている。今年(2010年)は5月15日から10月3日まで、計102回上演された。在外研究で滞在中の本年が上演年にあたり、ベルリンより足を運んだ。

 民衆劇といえば、日本の農村歌舞伎のような素朴なものを想像して出かけたが、舞台こそ屋外にあるものの、観客席は4720人収容で、しかも満員である。世界中から観客が訪れ、「村芝居」のイメージとはほど遠かった。

 芝居は迫力に満ちていた。キリストのエルサレム入城から、十字架上の受難、復活までを描き、人間が演じるという意味でも、イエスの人物像を表現する意味でも、文字通り等身大のイエスであった。十字架にかけられて全身から血を流すイエスの姿は、教会で目にするが、生身の人間によって再現されると、いかに残酷であるかがよくわかる。

 ロバに乗ってエルサレムに入城するキリストの姿には、既存の価値観への挑戦者としての誇りとともに、後の受難を予告するかのような哀愁が漂っていた。宗教劇が民衆の宗教理解にどれほど重要な役割を担うものであるかが実感できた。

 村の青年が演じるイエスは、新しい神の教えを説こうとする純粋さや熱意を存分に伝え、さらに、神の子という特殊な使命を負い、弟子たちにも距離を置かれ、孤独に死んでいかねばならぬ運命を目前にした恐れと苦悩を、まさに一人の人間(でありながら神の子)として説得力のある形で見せてくれた。キリストはあたかもカリスマのようであるが、実は悩みに満ちた平凡な一人の人間であったという遠藤周作文学のなかのキリスト像が納得される。間に休憩をはさんで前後3時間ずつの長丁場だったが、時間はあっという間に過ぎていった。

 日本の近代化には、キリスト教に影響を受けた知識人が大きな役割を果たしており、私がつとめる大学もキリスト教主義の大学である。特に明治以降の女子教育の発達にキリスト教が果たした役割は大きく、ミッションスクールといえば「お嬢さん学校」というイメージも定着している。
 しかし、私自身もすごしたミッション系女子校の優しく上品な雰囲気と、聖書が伝えるかくも強烈な人間の愚かさと暴力は、何と対照的であることか。キリスト教式結婚やクリスマスのような、日本におけるキリスト教の甘くやわらかいイメージは、聖書の内容をオブラートでくるんだよう。日本のキリスト教が誤りというわけではなく、本家の西洋でもキリスト教の解釈は多様であり、受難劇が伝えるキリスト像は一例にすぎない。また、かつての民衆劇は喜劇的要素が強く、教会からは涜神行為とみなされて頻繁に禁止令が出されたという(下田淳『ドイツの民衆文化』)。
 だが、愛と慈しみの教えは同時に、恐ろしい人間の性(さが)をも見せつけ、それが世界の民衆の心をひきつける力となり続けているのであろう。

2、牧野の感想
 ➀ 私は自分のブログを開くと、まず「あなたのブログへのアクティヴィティ」を確かめます。コメントがあれば開いて内容を確かめます。次いで、「アクセス解析」を見ます。その題名から、「こんな事も書いていたのか」と思うと、その記事を開いて、』読みます。そして、何か書きたくなったら、今回のように書きます。
 ➁ この記事を読んですぐにも思う事は、日本におけるミッションスクールの果たした役割とその現状でしょう。筆者の佐伯さんもそういう学校で学んだようですが、小学校、中学校、高校、大学の内のどの時をそこで過ごしたのか、従って又、自分はキリスト者なのかを述べていないのも物足りません。察するに、シンパ程度の方ではないでしょうか。
 ③ ➁とも関係しますが、日本では西洋の文化や思想や芸術をを学ぶ人は少なくありません。しかし、その「勉強」の中で「キリスト教の勉強」はどの程度の割合ないし比重を占めているでしょうか。ゼロに近いのではないでしょうか。
 英文学や仏文学や独文学の履修課程に「キリスト教概論」は入っていないと思います。これでいいのでしょうか。それどころか、ミッションスクールを出て普通の大学に来た学生でも、「高校時代にキリスト者の友人に聞いても、教えて」くれなかった」、つまり授業ではそういう事は取り上げなかった、と言うのです。
 この現実に対して、佐伯さんは教師としてはどう振る舞っているのでしょうか。これの反省の無いのがこの記事の大欠点だと思います。
 私はキリスト者ではありませんが、12月の最後の授業では、必ず、キリスト教とはどういう思想かを話します。イエス・キリストという訳語は日本語の文法に反した誤訳である(拙著『関口ドイツ文法』の1417頁を参照)ことから話しを起こし、キリスト教とユダヤ教の違いを説明します。更に、バイブル・クラスに通った時の思い出を話します。ドイツのアドベント・ツアイトの話しをし、アドベント・カレンダーの1例を見せます。そして、最後に、「1度でいいから、クリスマスに教会に行って、ミサに出る事」をすすめます。キリスト者にならなくていいから、自分と違った考えを持っている人を理解することは自分の成長に役立つと思うからです。哲学の授業でも、ドイツ語の授業でも同じです。
 ④ 最後に佐伯さんの記事に出てくる「『村芝居』のイメージからほど遠い」という表現を取り上げます。私の疑念は「AはBからほど遠い」という表現は、Aが比較対照のBと大きく違う事を言うのですが、比較対象とは比べものにならない程『悪い』場合に使うのではなかろうか」というものです。
 明鏡と国語大辞典を見てみましたが、後者の3つの用例は「海は医学部からほど遠くないのである」と「亜弥子さんは、~俗に言う箸が転ぶのを見てもおかしがる年齢のお嬢さんで結婚などとはほど遠い感じでした」と「現在、世界は~生活水準の低さから政情不安に揺れている国々が多く、平和とはほど遠い状態にある」。しかし、一般的に、「悪い方向に離れている」という条件は書いてありませんでした。佐伯さんのここの言い回しは、「村芝居などという言葉からは想像もできない」くらいにしたらどうでしょうか。

PS
12月31日から書き始めたのですが、新年になってしまいました(笑)。今年も議論をして、思索を深めつつ行動するようにしましょう。どうぞよろしく。



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1 コメント

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今年も宜しくお願いいたします。 (あいはら)
2021-01-04 20:37:48
明けましておめでとうございます。
最近『哲学の授業』をみて(読んでなんておこがましいので・・・・・・)『天タマ』との関係を気づかされ、『牧野哲学』って『生活の哲学』(永販社刊 の製本がかなり荒いのをもってますが) を拡張というか、それだけでなく、日々のまさに“生活”から 哲学を読み取ることが 重要なのだ!と痛感しています。 何か、まとまらない表現で済みません。 今年こそ進化(深化でないかもしれないので進化としました・・・・・・)させたいと新年にあたり、思いました。
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