マキペディア(発行人・牧野紀之)

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教えて下さい

2017年11月02日 | 読者へ

 今、「スーパー誤訳」という題の原稿をもっと内容のあるものにしようとしています。原案は今年の6月に発表したものです(これは私の記憶違いだったかな?)。

 その2つ目のテーマとして、マルクスの『資本論』の中の有名な「商品の呪物的性格(普通は物神的性格と訳す)」の節にあるein sinnlich uebersinnliches Dingを取り上げます。このsinnlichを形容詞と取って「感性的で超感性的な物」と誤訳するのが普通です。正しくは副詞と取って「感性的に超感性的な物」と訳すべき所です。

 皆、誤訳しているのですが、その誤訳者の1人として廣松渉も取り上げたいと思っています。何しろ「物象化」を論じている人ですから、本来なら、物象化の核心であるこの句を正しく理解していなければなりません。しかし、他の人たちと同じく誤訳しているはずです。かつて私はそれを読んだことを記憶していますし、鶏鳴学園の生徒が廣松の講演で「ここは副詞ではないですか?」と質問したら、「いや、形容詞で好い」と答えたと、私に報告してくれたことも記憶しています。

 しかし、今、私はこの廣松の誤訳の証拠(何という本の何頁にそう書いているか)を出すことが出来ません。

 そこでご教示をお願いします。廣松はこの句(ein sinnlich uebersinnliches Ding)を「感性的で超感性的な物」と訳しているか、手元の本で分かる人はそれを教えて下さい。お願いします。

2017年11月2日、牧野紀之
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4 コメント

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「物象化論の構図」? (浦 隆美)
2017-11-04 05:38:13
下記の方が「物象化論の構図」から、次のように引用をされていました。
岩波現代文庫版のpp.122-123と、該当ページもメモがあります。
(「物象化論の構図」の原本は確認していません。)

http://d.hatena.ne.jp/dojin/touch/20050418

いわゆる文化的・社会的形象は、総じて、感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在しつつも、“それ自身”の存在性格を規定してみれば、さしあたり、“超感性的・超自然的な或るもの”と呼ばれるべき相貌を呈する。(中略)マルクスの場合、「超感性的・超自然的な或るもの」が実在するという形而上学的主張を事とするわけではなく、当事者たちの日常的な意識に対してそのような相貌で“客観的・対象的に”現前するところの特異な“物象”は、実は一定の間主体的諸関係の屈折した映像であることを指摘し、…
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御礼 (牧野紀之)
2017-11-04 09:59:44
浦様。ご教示ありがとうございます。私自身もその後廣松の『資本論の哲学』を調べていますが、教えていただいたもの(今村たちの訳書と廣松の自著)も調べてみます。ここに引用されている廣松の言葉は、第一感としては、新たな疑念を呼び起こしました。「超感性的なものの実在を認めることが直ちに形而上学になる」と前提しているようです。長話になるので終わりにします。
返信する
廣松氏の誤訳箇所 (K.H.)
2017-11-12 18:20:35
牧野紀之先生へ

 初めてコメントさせて頂きます。先生の御著作や御翻訳に大変示唆を受けている者です。まずは感謝を申し上げます。ありがとうございます。なお,以前,鶏鳴双書のpdf版を購入させて頂いたこともございます。

 さて,廣松氏が「感性的で超感性的な物」と訳出をしている著作ですが,私が知っている範囲で伝えますと,以下のものになります。

『マルクス主義の地平』(勁草書房,1969年刊)
* p.221では『資本論』第1巻第1章第4節の第1段落を取り上げ,「感性的[でしかも]超感性的な事物」と,p.228では同第4節の第4段落を取り上げ,「感性的でしかも超感性的な,ないしは,社会的な事物」と訳出されています。

『資本論の哲学』(現代評論社,1974年刊)
但し,以下の該当頁は,岩波書店刊行の『廣松渉著作集 第12巻』のものです。
* p.176では「一つの感性的・超感性的な事物」と,p.193では「感性的でかつ超感性的な物」と,p.196では「感性的でしかも超感性的な事物」と,p.200では「一つの感性的でかつ超感性的な事物」と訳出されています。

『物象化論の構図』(岩波書店,1983年刊)
* p.101では「一つの感性的・超感性的な事物」と,p.171,p.280では「感性的で且つ超感性的な事物」と訳出されています。

『資本論を物象化論を視軸にして読む』(岩波書店,共著,1986年刊)
但し,以下の該当頁は,岩波書店刊行の『廣松渉著作集 第12巻』のものです。
* p.404では「感性的・超感性的な事物」と,p.409では「感性的でかつ超感性的な,乃至,社会的な事物」と訳出されています。

以上です。なお,これらは全て私が以前PDF化したものから検索を掛けて抽出したものです。必要であればファイルをお送りします。コメント欄にてお伝えください(あるいは他の方法がありますか?)。

先生が浦さんへのお礼でお書きになられているように,廣松氏は超感性的なものの実在を認めることが形而上学になると考えていると,私にも思えます。先生やマルクスが言っているような,社会的実在(先生のお言葉遣いでは,社会において実在するもの,とでもなるのでしょうか)が分かっていなかったのだと思います。

いろいろお話したいこともございますが,またコメントさせて頂くということで,今回はこれにて失礼させていただきます。

K.H.
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御礼 (牧野紀之)
2017-11-16 21:22:25
K.H.様。ご教示をありがとうございます。その後の調査と思考の結果を含めて、近いうちに、ブログ本体でお返事します。よろしく。
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