マキペディア(発行人・牧野紀之)

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スーパー誤訳

2017年12月10日 | サ行
 
 私は「スーパー誤訳」という題の文章をまとめています。この「スーパー誤訳」という語の意味は「単なる誤訳」ではなく、「その論文の核心的思想の理解と関係する重要な内容についての誤解と結びついている誤訳」ということです。取り上げているのは4つです。

 第1は、エンゲルスの論文「サルの人間化における労働の役割」の最後の方で、人間と動物との違いは結局どこにあるかを問題にするところです。これは本ブログの2016年11月25日の記事で既に取り上げました。その後も更に新たな事を考えましたが、それはいずれ発表するつもりです。

 第2はマルクスの『資本論』の「商品の呪物的性格」論の中のein sinnlich uebersinnliches Dingの訳です。これを考える中で廣松渉の誤訳を詳しく論じようとして、皆さんに「典拠」についてご教示を求めました。それを踏まえて、今回はこの誤訳を論じます。

 その前に第3のスーパー誤訳と第4のスーパー誤訳を確認しておきますと、第3はレーニンの『何を為すべきか』の次の句です。

「ところで社会主義が全世界の面前でこのように限りない屈辱をこうむり、自分を辱め、労働者大衆──我々の勝利を確保することの出来る唯一の土台であるもの──の社会主義的意識を堕落させることに対する代償は、貧弱な改良の鳴り物入りの計画案であるが、その貧弱な事と言ったら、ブルジョア諸政府からさえそれ以上のものを獲得できないほどである!」(国民文庫版、18-9頁)

これは正しくは次のように訳さなければなりません。

「~労働者大衆の社会主義的意識──我々の勝利を確保することの出来る唯一の土台であるもの──を堕落させることに対する代償は、貧弱な改良の鳴り物入りの計画案であるが、その貧弱な事と言ったら、ブルジョア諸政府からさえそれ以上のものを獲得できないほどである!」
つまり、社会主義運動の勝利の土台は「労働者大衆そのもの」か、それとも「労働者大衆の社会主義的意識」かの問題なのです。もちろん後者が正しい。
直接的にはロシア語原典の読み方の問題ですが、根本的には日本の左翼知識人の労働者大衆に対するコンプレックスの問題だと思います。
これは拙著『ヘーゲルからレーニンへ』の18-9頁で既に論じました。

第4の問題は、ヘーゲルの『大論理学』の冒頭の論文の題「Womit muss der Anfang der Wissenschaft gemacht werden?」のder Wissenschaftをどう訳すかです。これを寺沢恒信は「学は何を端初としなければならないか」と訳し、山口祐弘(まさひろ)は「学は何によって始められなければならないか」と訳しています。つまり二人共に、この句のWissenschaftを学問一般と取っていることです。これはそうではなくて、書名をWissenschaft der Logik(論理学)としたので、冒頭の文章の題の中ではこの書名を全部繰り返さないで、ただdie Wissenschaftとしただけなのです。こういう風に「2度目には一般化した語句を使う、あるいは言い換える」というのは西欧人では当たり前のことなのですが、日本人にはこの「準則」を知らない人が多く、誤訳する場合があるのです。ここはその典型例です。この点はpdf鶏鳴双書の「始原論」に書きました。又今準備しています『小論理学』の中でも出てくる度に注意しました。
そもそも先の場合では、その題で書かれている「文章」自身の内容が論理学の始原の事だけです。「学一般の始原」の事は論じていません。

以上の4つの「スーパー誤訳」を見てみますと、原典がヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの四巨頭になります。私の読書の偏りを証明しているようです。

 さて、今回のテーマである第2の誤訳についてです。そこでの廣松の間違いについてです。廣松関係に絞って、現時点での考えを書きます。まず廣松の発言を確認します。下線に注意してください。

 発言1、ところが、机が商品として登場するや否や、感性的でしかも超感性的な事物に変身する。商品としての机は、四本の脚で床の上に立っているだけでなく、他のすべての商品に対して頭で立ち、この木製の頭から──ひとりでに机が踊り出したなどという比ではない──実に奇妙な妄想をくりひろげる。(『資本論の哲学』岩波書店1974年198頁)

発言2、『初版』の表現を援用しておけば「要するに、商品の神秘主義が生ずるのは、生産者たちにとって、彼らの私的労働の社会的規定が労働生産物の社会的な自然的規定性として現象するということ、人々の社会的な生産諸関係が物どうしの、また、物と人との社会的諸関係として現象するということ、この事態からである」。
「この倒錯視のQuidproquoによって──と『再版』の文章は続く──労働生産物は、商品、つまり、感性的でかつ超感性的な事物、さらに言い換えれば、社会的な事物になる。事物が視神経に与える光の印象も、視神経そのものの主観的な刺戟としてではなく、眼の外部に在る事物の対象的な形態として現出するが、しかし、視覚の場合には、外的な対象たる一事物から、もう一つの事物たる眼へ、光が現実に投ぜられるのであって、それは物理的な事物どうしのあいだの、物理的な一関係である。しかるに、商品形態や生産物の価値関係は……労働生産物の物的な関連とは全く無関係であって、ここで人々にとって諸事物の関係という幻影的な形態をとるところのものは、唯もっぱら、人間自身の一定の社会的関係である。それゆえ、類例を挙げようとすれば、宗教的世界の夢幻境を恃(たの)なければならない。ここでは、人間の頭の生産物が、固有の生命を賦与されて、お互いどうしで、また、人間とのあいだで、一定の関係に立つ自立的な形姿にみえるわけだが、商品世界にあっては、人間の手の生産物がそういう具合に仮現する次第である」。(『資本論の哲学』204頁、『物象化論の構図』岩波現代文庫208頁)

発言3、こうして、人と人との実践的な間主体的関係が物象化された存立態、つまり、いわゆる文化的・社会的形象は、総じて、感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在しつつも、“それ自身”の存在性格を規定してみれば、さしあたり、“超感性的・超自然的な或るもの”と呼ばれるべき相貌を呈する。(中略)マルクスの場合、「超感性的・超自然的な或るもの」が実在するという形而上学的主張を事とするわけではなく、当事者たちの日常的な意識に対してそのような相貌で“客観的・対象的に”現前するところの特異な「物象」は、実は一定の間主体的諸関係の屈折した映像であることを指摘し、この「謎的な性格」の「秘密」を物象化の機制に即して解明してみせ、以って伝統的な「実念論対唯名論」の対立地平を超克する。(廣松渉『物象化論の構図』岩波現代文庫122-3頁)

感想を書きます

第1点。「ほとんど正しく」理解しているようですが、殊更難しい表現を使う悪癖に自分自身が足をすくわれているようです。せっかく「感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在し」と言ったのに、「レアリテート」などという分かりにくいカタカナを使ったので、それに注意が行ってしまい、「担われて」を深く考えませんでした。

そして、次には「さしあたり、『超感性的・超自然的な或るもの』と呼ばれるべき相貌」などとぼかした言い方をしています。「さしあたり」も「~と呼ばれるべき相貌」も「逃げ」だと思います。「超感性的な物として機能している」となぜ言えないのでしょうか。「間主体的諸関係の屈折した映像」も私のような無学者には分かりにくいです。「社会的関係の反映」で十分です。
ともかく、ein sinnlich übersinnliches Dingのsinnlichを文法的に正しく「感性的に超感性的な物」と訳した上で、「感性的に超感性的」とはどういう事かと問題を建てなくては、マルクスの「方法」の理解、いやそれ以前に、そういう問題意識すら出てこないでしょう。

これと関係するのですが、「超感性的」とは「感性を超えている」ということで、それが直ちに「形而上学的」であることを意味しません。くだんの句の正確な理解を妨げている原因の一つは、思うに、この「超感性的」という否定表現を肯定表現で言い直さなかったことでしょう。

困ったことに、マルクス自身発言2ではっきり分かりますように、それを「社会的な事物」と言い換えています。この言い換えが不適切でした。なぜなら「感性的」とか「超感性的」と言って「認識能力の種類」を問題にしてきたのに、その流れを断ち切って、いきなり「認識対象」で言い換えているからです。この点はこれまで誰も気付いていないようで、この事自体も困った事なのですが、廣松もこれに気付かずにマルクスに盲従しています。ここは、まず「超感性的」とは「感覚を超えた」、つまり「感覚では捉えることの出来ない」と言う事だと確認した上で、では何で捉えうるのかとして、「知性(思考)でのみ理解される」という肯定的表現を持ち出すべきだったのです。即ち、訳としては「感性的に知的な(思考でのみ捉えうる)ものである。なぜなら、それは生産における人間関係だからである」となります。こうすれば廣松でも誤解しなかったでしょう。

更にもう一つ別な言い方をしてみます。たしか、廣松は「事的世界観」とかいったことを問題にして、そういった題名の本も書いていたと思います。廣松以外でも「モノ」と「コト」とを対比して論するのは増えているようです。結構な事です。賛成します。しかし、それならば、このマルクスの『資本論』のein sinnlich übersinnliches Dingを「モノ」と「コト」とで捉え直してみることになぜ想到しなかったのでしょうか。廣松に代わってそれを私がやってみますと、こうなります。「商品としての机は現象としては物(モノ)だが、その本質においては事(コト)である」。こう言い換えれば、「モノであるのみならず、コトでもある」などという曲解が現象論と本質論の段階の違いを無視した暴論であることが分かるでしょう。

最後に、根本原因としては、「或るものの何であるかは、そのものの果たしている機能で決まる」という思考法則を知らなかったことです。このテーマについての私の発言は、①「悟性的認識論と理性的認識論」(『ヘーゲルの修業』に所収)、⓶「昭和元禄と哲学」(『生活のなかの哲学』に所収)、③ウェブ論文「実体と機能」(『マキペディア』2009年10月18日)、の3つです。

最後の後にもう一つ。同じ趣旨の事を許萬元が書いていますので、それを引きます。
──ヘーゲルにおいてもマルクスにおいても概念的把握(=体系的認識)の対象は「形態規定」なのである。では、「形態規定」とは一体何か? それは一言でいえば、有機的全体の体系的連関からのみうけとる関係規定のことである。したがって「形態規定」は全体の体系的連関からきりはなされてはまったく存立することはできない。あたかも身体から切断された手がもはや手として存立しえないのと同様である。これにたいして、素材または質料規定は全体的連関からきりはなされてもそれ自身として存立することのできる規定なのである。これをマルクスはしばしば「実体規定」とも呼んでいる。かくしてマルクスは次のようにいう。
「黒人は黒人である。彼はただ一定の諸関係のなかではじめて奴隷となる。紡績機械は糸を紡ぐ機械である。それはただ、一定の諸関係のなかではじめて資本となる。これらの関係からきりはなされたならば……それは決して資本ではない」。〔『賃労働と資本』第3節〕
黒人は黒人である。機械は機械である、という規定は質料規定にすぎないが、奴隷、資本という規定は特定の体系的連関からのみうけとる形態規定(=関係規定)なのである。マルクスが「資本は物ではなく関係である」〔『資本論』〕というのも、このためである。この両規定を正しく区別せずに混同するならば、ひとはけっして物神性の秘密を理解しえないばかりでなく、体系的弁証法(=総体性の弁証法)の認識にも達しえないであろう(初出は芝田進午編集『講座・マルクス主義研究入門』1〔哲学〕青木書店1975年に所収の論文「弁証法」。引用個所は124-5頁にあり。再掲は許萬元著『増補版・ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店1987年。引用個所は278頁)。

許萬元の「考察」は、常にそうであるように、ヘーゲルの言葉を「ヘーゲルの他の言葉」とか「マルクスとエンゲルスの発言」で「説明する」というやり方です。私のようにへーゲルやマル・エンの言葉を日常生活の事例や用語法で考えるのとは根本的な違いがあります。応用の利かない知識は無意味だと思います。

それはともかく、これは私の考えと完全に同じです。許萬元の言う「質料規定」は私が「実体」と言っているのに当たります。上の引用文中でもそう言われています。「形態規定」は「機能」に当たります。上の引用文では「関係」と言われています。
こういう「方法」の観点で考えますと、要するに、廣松はこういう「方法」を理解できていなかったので、いや、そもそも、多分、読んでさえいなかったので、「『実念論対唯名論』の対立地平を超克する」などと言っても、拙稿「昭和元禄と哲学」のような理解(日常生活の事例での理解)には遠く及ばなかったのです。

第2点。今回、私は廣松の『物象化論の構図』を岩波現代文庫で読んだのですが、それには熊野純彦の「解説」が付いていました。それを読んでいたら、次の文に出会いました。
──じっさい、「使用価値」であるとともに「価値」であるとされる「商品」こそが「形而上学的な詭計にみち神学的な意地悪さに充ちた、ひどく厄介なしろもの」であり、たとえばありふれた木材からつくられる、平凡な「机」すら「商品として登場するやいなや、感性的に超感性的な事物となる」ことを主張していたのは、マルクスそのひとなのである(『資本論』第一巻〔第二版〕第一篇第一章第四節「商品のフェティッシュ的性格とその秘密」)。(廣松渉『物象化論の構図』岩波現代文庫2001年354頁)──

いやあ、驚ろきました。この本は元は1983年に出たもので、文庫化が2001年1月です。従って、引用文は2000年ころのものと思われます。私(牧野)以外の人がくだんの句のsinnlichを正しく「感性的に」と訳しているのを初めて見ました。しかし、熊野にはこの訳が問題の焦点だということが分かっていないらしく、廣松が「感性的で」と誤訳していることには全然触れていません。これでは困ります。意味がありません。

 第3点。読者のみなさんから教えていただきました「証拠」を読んでいましたら、廣松は例の句を訳すときに、最初の不定冠詞を「一つの」と訳している箇所が数か所あることが分かりました。なぜこういう事が起きるのでしょうか。多分、訳に自身がないからでしょう。「この不定冠詞は普通のものと少し違うな」と「感じた」のだが、どう違うか、分からなかったので、「一つの」でごまかしたのです。日本の学者は皆、そうします。関口存男の『冠詞』第2巻(不定冠詞篇)を読んで勉強する人はいません。少なくとも私は知りません。

 この不定冠詞はどういう働きをしているか、私の理解をここに書きます。長くなりますから、関心のない方は飛ばしてください。

 これは「次に来る語句の意味を字義通りに取ってよくよく考えろよ」という注意なのです。関口はこれを「内的形容の不定冠詞」と呼んでいます。換言するならば、不定冠詞の基本的な働きは「紹介導入」ですが、それが少し強く成ったと思えばいいのです。
ここの場合のように次に来るのが形容詞句を冠せられた名詞の場合は、その形容詞句の意味が重要になります。ですから、これを「形容詞句を紹介導入する不定冠詞」と言うのです。
順序は逆に成りましたけれど、ただの名詞だけの場合を確認しておきますと、例えばヘーゲルの『哲学の百科事典』の第248節(『自然哲学』になります)への注釈にこうあります。
──aber doch wohl auch das Reich des Selbstbewusstseins ! was schon in dem Glauben anerkannt wird, dass eine Vorsehung die menschlichen Begebenheiten leite ──
訳・(自然界には永遠の法則が支配していると言って、それを自然界の精神界に対する優越性の根拠とする人がいる)が、この点でも自己意識の国〔精神世界〕も同じである。それは予見とでも言うべきものが人間の行動を導いているとするキリスト教の信仰の中にとっくの昔から承認されている事柄である。

この部分を加藤尚武は「しかし、同じことは自己意識の領域でも言える。一つの摂理が人間のさまざまな営みを導いているということは、信仰のなかですでに承認されている」(『自然哲学』岩波書店上巻28頁)と訳しています。

即ち、eine Vorsehungを加藤は「一つの摂理」と訳したのに対して、牧野は「予見とでも言うべきもの」と訳したのです。「神の摂理」は「遍在通念」ですから、時間をdie Zeitと言い、空間をder Raumというと同じで、本来はdie Vorsehungと定冠詞を冠して言います。ですから、eine Vorsehungなどと不定冠詞が冠置されると「おや、どうしたのかな?」と「感じ」ます。ここまでは好かった。そう感じた加藤は、しかしどういう事なのか分からなかったので、「一つの摂理」とごまかしたのです。こういう言葉を聞きますと、何か、「神の摂理」が二つも三つもあるみたいだなな、と揶揄したくなります。

では、関口説に従って「次の語を注意して考える」ことにします。Vorsehungは文字通りに理解しますと、Vor-(前に、前もって)-sehung、つまりsehen(見る)すること、です。つまり「予見」となるのです。文脈を考慮しますと、自然界も精神界も法則に支配されているということですから、「法則がある」⇒「因果関係で未来が予測できる」ということを言っているのです。

廣松も加藤もドイツ語は私よりはるかに出来る人です。しかし、出来ると言っても、関口に比べれば、限りなくゼロに近い水準です。日本にはせっかく関口文法というものがあるのですから、もう少し謙虚に成ればいいものを。(2017年12月10日)
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