マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

市場(いちば)

2014年08月29日 | ア行
 市場を「いちば」と読むか「しじょう」と読むかについてどういう基準があるのだろうか、という問題意識から、調べ、考えた事をまとめます。

 「新明解」に、「『しじょう』は『いちば』の字音語的表現」という説明があります。つまり「しじょう」より「いちば」の方が先だったと推定されます。常識的に考えてもそうでしょう。

 しかるに、それは「市(いち)」から「市の立つ場所」という意味で使われるようになったのでしょう。「立つ」は「始める」の意だそうです(大言海による)。実際には、以下に見ますように、「市」の中にはその場所も含意されていたようですので、市場の「場」は余計だったと思いますが、こういう重言みたいな表現は言語の常ですから、善悪を論ずる事柄ではないと思います。

 「市」の字形については、常用字解は象形文字とし、「市の立つ場所を示すために建てる標識の形」と説明しています。

 市を『漢字字源辞典』(山田勝美・進藤英幸、角川書店)で引きます。字義は「彼我の物品の公平な値段の定まる所の意」としています。市という字が「平」の意符と「止」の音符から成っているのはそのためだと説明しています。なお、参考として、「市場は起源的には、物々交換をする所であった」という説明もあります。

その上で4つの意味を挙げています。これは現在使われている意味を分類したのでしょう。第1は「多くの人が集まって品物の売買をする所(市場、魚市)」。第2は「売り買い。あきない(市価、市況)」。第3は「まち。多くの人の集まる所(市井、都市)」。第4は「地方自治体の1つ」、です。

 第1の意味と第2の意味は分けるのが難しいくらいですが、「市(いち)」の立つ場所という事から、そこで行われる行為自体を表すようになったのではなかろうか。常用字解は第1の意味と第2の意味を一緒にして「いち、うる、かう」としています。いずれにせよ、第1と第2の意味から第3の意味、更に第4の意味の出て来ることは容易に分かります。

 さて、「市場」の読み方です。

 まず、現在の語釈を、従って両者の使い分けを「明鏡」と「新明解」の記載(ほぼ同じ)からまとめますと、ほぼ次の通りです。

市場(いちば)──A・毎日または定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市。青物市場、市場町。B・小売店などが集まった、常設の共同販売施設。マーケット。

市場(しじょう)──C・売り手と買い手が集まって商品や株式の取引を行う特定の場所(明鏡)。株式や特定の商品が定期的に取引され、そこでの売買が一般取引価格を決定づける場所(新明解)。中央卸売市場。証券取引所など。D・商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語(明鏡)。需給関係から総合的にとらえた概念(新明解)。国内市場、国際市場。金融市場など。E・販路、商品の売られる範囲。

 では「しじょう」という読み方はどのようにして発生し、拡がり、優勢に成ってきたのでしょうか。以下、私の推測です。

 新明解によりますと、「しじょう」は「いちば」の字音語的表現ということですから、「いちば」を商売人がわざと音読みしたことで出来た言い方なのではなかろうか。この「或る集団が字音読みで自分たちの優越感などを味わう」という心理はよく見られることだと思います。記憶が薄れていますが、軍隊では「編上靴(あみあげぐつ)」を「へんじょうか」と言ったとか聞いたように覚えています。

 そして、特定の業界の専門用語が一般化することがあるというのも言語現象の1つの法則だと思います。これも記憶に頼ることですが、「定番」はアパレル業界か何かの業界用語だったはずです。それが他の業界でも、更に一般人にも使われ、理解されるようになったのだと思います。明鏡でも新明解でも「特定の商品番号」の意といった説明はありますが、このような経緯の説明はないようです。新明解には「衣料品を主として、食品にも言う」とあって、かすかにその変遷を示唆しています。

 最後に、漱石が「こころ」の中で「いちば」でいい所を「しじょう」と読ませている(「しじょう」の用例06)のを考えます。大言海をみますと、「しじょう」では「『いちば」と同じ』としていますが、その「いちば」では上のAからEの5つの意味の内のAとBくらいしか考えていないようです。つまりかつては特に現在で広く使われているC、D、Eは無かったのだと思います。字音読みはあったのでしょうから、後は筆者の癖か感覚の問題でしょう。

 同じ対象について「青物市場(あおものいちば)」と「青果市場(せいかしじょう)」との2つの言い方があるのは分かります。訓読みと音読みの違いです。しかし、海鮮市場(かいせんいちば)(ラジオ深夜便、2014年08月25日)というのを聞きました。

 そもそも「卸売市場」は今やほぼ完全に「しじょう」と読むようですが、これはどうなのでしょうか。私の記憶では、かつては「いちば」だったのではないでしょうか。それとも、「ニュース番組等で、しばしば築地市場の場所を指して『つきじしじょう』と呼ぶことがあるが、場所を指す場合は『しじょう』ではなく『いちば』である」(ウィキペディア)と書いてありますから、その「場所」を指す言葉を「そこで行われている活動」のことと(私が)誤解していたのでしょうか。

 結論として言いたい事は、辞書は語釈にばかり熱中しないで、こういう点を考えるのに役立つ情報も伝えてほしい、という事です。

 なお、似たような問題では、「工場」を「こうば」と読むか、「こうじょう」と読むかの問題もあります。これについては、明鏡も新明解も「『こうば』は『こうじょう』よりも規模の小さいものをいうことが多い」と説明しています。「多い」のであって、決まっているわけではないようです。

  用例

 ★ 市(いち)の用例

 01、「オークションが毎日のように行われているんですか。」「神田の古書会館でやっています。それは業者だけの市なんですけど、一般の人の所有品なども、古書店が買ったり預かったりして出します。(『ラジオ深夜便』2014年9月号。八木正自)

★ 「いちば」の用例

 01、市場(いちば)のイドラ。(イギリス経験論の祖フランシス・ベーコンは人間の認識にとっての先入見を4種あげた。洞窟のイドラ(偶像)、劇場のイドラ、市場のイドラ、種族のイドラである。市場のイドラとは「人々の交際と言語に対する過剰な信頼から起きる偏見」のことだから、「いちば」と読むべきである。)

 02、アムステルダムに住む移民の人たちの多くはイスラム教徒です。市場(いちば)の店先には彼らのための食材も並んでいます。市場(いちば)にはいろいろなお店があります。(NHKTVの番組「アムステルダム」のナレーション)

★ 「しじょう」の用例

 01、西国の豊かな物資が市場(しじょう)に溢れている(NHK「太平記」の中での足利高氏の台詞)。
 02、私たちはずっと薬草やナッツ、ベリーなど、林産物を採ってきました。これからは市場(しじょう)に出さなければと思います。市場(しじょう)に商品を提供し、利益を上げていかなければなりません。(テレビ朝日の登場人物の言葉)

 03、今の市場の要望に応えようとすると、難易度が高くなる。(朝日、2014年08月21日。秩父銘仙の機屋の言葉)
 04、「東京の市場に適合しすぎると、どこでも通用する普遍的な作品をつくれなくなるのでは」と懸念する。(朝日、2014年08月21日夕刊。演劇人の話)

 05、成長が期待できる新市場を育てる観点が必要だ。(朝日、2014年08月24日)

 06、赤い色だの藍色だの、普通市場(しじょう)に上らないような色をした小魚が~(漱石「こころ」第3部28)

 感想・「いちば」と読ませたら、「市場(いちば)に出ないような」となるのでしょう。
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