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弁証法の弁証法的理解(2014年版)

2014年07月02日 | ハ行
 お断り・かつて『労働と社会』(1971年)に発表し、その後『西洋哲学史要』(波多野精一著、牧野再話。未知谷刊、2001年)に転載しました拙稿「弁証法の弁証法的理解」は、特にその第四節に満足できなく成りましたので、そこを主にして書き換えました。他の箇所にもほんの少し手を加えました。
 これまでのものを「弁証法の弁証法的理解」(1971年版)とし、今回のをその「2014年版」とします。        

 一 ヘーゲルの問題意識

 弁証法を説く本は多い。曰く『弁証法はどういう科学か』、曰く『弁証法とはどういうものか』、曰く『弁証法十講』、などなど。私も弁証法という言葉に魅惑的な響きを感じ、関心を持った時、まず読んだのはこの種の本であった。タブラ・ラーサ(白紙)であった心は素直に読んだ。面白いと思った所もある。下らないと軽蔑した所もある。やがてそのような解説書を読まなくなった。書いてある事がどれも大同小異で、つまらなくなったからである。おかしい、と思うまでに時間は掛からなかった。どこがおかしいのか、直ぐ分かった。弁証法を説く本が弁証法的に書かれていないのである。言行の一致はここにも要求されてよい。弁証法を人に説き、大衆を啓蒙しようとするなら、その本を弁証法的に書くくらいまで弁証法をマスターしていなければならないではないか。考えてみれば当たり前の事である。しかし、この当たり前の事が実行されていない。ということは、説かれている内容そのものもどこか間違っているにちがいない。私はそう考えた。

 ヘーゲルの『小論理学』を通読した時のことは今でも忘れない。注釈や付録に出てくる分かりやすい実例以外はほとんど分からなかったが、一つだけ強く伝わってきたものがあった。必然性の追求、これである。ヘーゲルにとって一番大切だったことは対象の必然性を示すことだったのだな、と心で感じた。或る事柄をただ断定的に述べるのではなく、どうしてもそうならざるを得ない理由を展開すること、これこそ彼の追求していたものだったのだな、と肌で感じた。これと弁証法とどう結びつくのだろうか。

 私は考えた。ヘーゲルだって生まれつき弁証法家だったわけではない。その生涯の一時期に弁証法と言われる論理、そういう考え方を自分のものにしたに違いない。だとすると、彼をしてそこへと到達させた運動があったはずである。その運動とは、彼が自分の問題意識を執拗に追求した過程にほかならない。そして、その問題意識こそまさに必然性を示せということだったのではないか。これを追求した結果が、結果として、正・反・合とか、否定の否定とか、量質転化というような形を採ったのではないのか。正・反・合が先にあったのではない。だから、この結果から弁証法を理解しようとしても理解できるはずはなかったのである。長い間掛かって、自分で立てた問題にそう答えた。

 私の感じた事は、その後の研究の中で確かめられ具体化されていった。ヘーゲルは言っている。「私が自分の哲学上の努力の中でこれまで目指してきたもの、そして今なお目指しているものは、真理の科学的認識である」(1) 。ここで力点のあるのは「科学的認識」である。なぜなら、真理を捉えるその他の方法としてヘーゲルは宗教と芸術を挙げているからである。ヘーゲルにとって問題だったのは真理を捉えるか否かではない。キリスト者であったヘーゲルには、それはキリスト教と聖書の中に「宗教的な形で」既に捉えられている事であった。彼は、それを科学的に認識すること、思考によって、概念を使って捉えようと考えたのである。彼が自分の哲学を初めて積極的な形で述べた『精神現象学』は、個人の感性的な意識が哲学的な知にまで高まっていく道筋を展開したものである。その序言は「科学的認識について」という題の付いた論文になっている。そして、大著『大論理学』では「思弁的な知の本性を詳細に展開した」(2) のである。実際にヘーゲルのした仕事自身も彼の言葉を裏書きしている。
 (1) 『哲学の百科辞典』の第二版への序文。
 (2) 『法の哲学』への序文

 それではヘーゲルの言う「科学的」とはどういう意味なのだろうか。それは通常、我々が「科学的」と言う時の用法とどう関係しているのだろうか。

 二、有限な認識能力

 ヘーゲルは「或る事を知っているだけでは、それを認識していることにはならない」(1) という有名な言葉を述べている。これをまた別の言葉で、「博識はまだ学問ではない」(2) とも表現している。
 (1) 『精神現象学』への序言
 (2) 『哲学の百科辞典』の第三版への序文

 知るとはどういうことか。ヘーゲルは答える。「知るということは、或る事柄を自分の意識の前に対象として持つことであり、それを意識しているということである。そして、信じるということも全く同じである」(1) 。即ち、単に客観的だった或る事実を意識の中へと取り込んだということである。太陽が東から昇るように「見える」というのは事実である。この事実を意識した人は、この事実を「知っている」のである。しかし、だからといって、この事実を「認識している」ことにはならない。ヘーゲルの先の言葉はそういう意味である。
 (1) 『歴史における理性』の「哲学的世界史の一般的概念」

 それでは認識するとはどういうことか。ヘーゲルは答える。「認識するということは、知ることとは違って、直接的なものにすぎない教会の権威とか感情の命令とかを度外視して、知った事や信仰の内容の根拠と必然性を見抜くことである。更にまた、その内容を一層詳しい規定の中で展開することである」(1) 。即ち、或る事実を知った時、そこに留まらないでその事実の根拠と必然性を追求し始める時、なぜそうなのかと問い始める時、そこに認識が始まり、科学が始まるということである。しかし、これはまだ始まりにすぎない。科学はその始まりから更にどう進んでいくのだろうか。実にヘーゲルの真の発見は、この追求されている必然性には二種類あることに気づき、それを外的必然性と内的必然性、あるいは相対的必然性と絶対的必然性とした上で、それぞれの意義と両者の関係を明らかにした所にあるのである。
 (1) 『歴史における理性』の「哲学的世界史の一般的概念」

 外的必然性とは何か。ヘーゲルは言う。「偶然性とは外的必然性と同じである。それはそれ自身も単に外面的な事情にすぎない諸原因に帰着するような必然性のことである」(1) 。つまり、外的必然性とは偶然性のことである。世の中に原因なくして起きる事柄はない。その限りで「すべて生起したものは必然性を含んでいる」と言ってよい。しかし、外的必然性と呼ばれているものの場合には、その原因はその事柄を取り巻いている色々な事情の一つまたは幾つかである。その原因がその事柄自身の内なる本性の中にあるのではない。従ってその原因の発生する必然性はないし、従ってその結果の出てくる必然性もない。その意味でこのような必然性は原因・結果だけの必然性である。「AがあればBが起きる」という因果関係である。しかし、このレベルの必然性には、同時に「CがあればBは起きない」という別の因果律もある。従って、Aがあったとしても同時にCがあればBは起きない。つまり、Aがあるだけでは必ずしもBが起きるとは限らない。それ故、このような事柄が起きた時、それは偶然的だったとも言われるのである。即ち、外的必然性と偶然性とは同じ事なのである。
 (1) 『歴史における理性』の「哲学的世界史の一般的概念」

 この事態が起きる前にこれ(未来)を予測する時、それは可能性と呼ばれる。原因・結果関係があり、その原因がある以上、その結果の起きる可能性はある。しかし、現実はいろいろな要素から成り立っていて、その原因Aは諸要素の一つにすぎない。同時にCがあるかもしれない。その場合には、AがあってもBは起きない。ヘーゲルも「単に可能であるにすぎず、その反対物も又可能な現実が偶然的なものである」(1) と言って、可能性と偶然性との一致を認めている。その予測の際には、この原因は「根拠」とされる。或る根拠に基づいて或る予測をするのである。従ってヘーゲルは言う。何らかの根拠の示されているものは可能である、というのが根拠の思考法則である(2) 、と。即ち、根拠の立場は可能性の立場なのである。
 (1) 『大論理学』の現実性論の偶然性の節
 (2) 『小論理学』第143節への付録

 要するに、外的必然性と偶然性と可能性と根拠とは、どれもみな、同じ一つの事態を別々の角度から見たものにすぎない。Bが絶対に起きる必然性ではないから、それは相対的必然性と言うのである。ヘーゲルはこれらの立場で考える能力を「悟性」と呼んだ。それは「有限な思考」(1) とも呼ばれている。悟性にもその意義がある。有限な事物には有限な認識しかありえないし、真の無限は有限を含むものだからである。しかし、それは無限なものには無力である。それでは無限な認識能力とはどういうものなのだろうか。
 (1) 『小論理学』第28節への付録

 三、無限な認識能力

 ヘーゲルはその無限な認識能力を「理性」と呼んだ。それもやはり認識である以上は必然性を追求する。しかし、それはもはやかの外的必然性でも相対的必然性でもない。それは内的必然性であり絶対的必然性だとされている。
 内的必然性とは何か。「AがあればBが結果する」というのが外的必然性であった。それは又「Aがあっても同時にCがあればBは結果しない」ということでもあった。従って、或る事物の「内的必然性」とは、もはや、或る対象の存在を前提してその原因を探るのではない。それの存在する必然性を追求するのである。或る原因があればその対象が生まれるだろうというのではない。その対象が自分の内なる本質によって「必ず生成する」というのである。即ち「生成の必然性」である。だからこそ、それは又因果の必然性のような相対的必然性との対比では「絶対的必然性」とも言うのである。

 ヘーゲルはこの生成の必然性を示すことを「対象の存在の証明」(1) とも呼んでいる。ヘーゲルは言う。「哲学的認識にあっては概念の必然性が主要な事柄であり、〔その概念が〕結果として生成してくる歩みがその概念の証明であり演繹なのである」(2)。これは「概念の生成の証明」について述べた事だが、一般化すれば、「哲学では、証明するとは、或る対象がいかにして自己自身によって自己自身から自己の本質へと自己を作っていくかを示すことにほかならない」(3)という事になる。
(1) 『小論理学』第1節
(2) 『法の哲学』第2節への付録
(3) 『小論理学』第83節への付録

 では、それはどのようにして可能なのか。もちろん、その対象と関係した全ての事柄を見る以外にない。部分を見ただけでは、それの生成を妨げる他の要因を見落とす可能性があるからである。しかも、「全体を見る」と言っても、それを「静止した全体」としてではなく、「歴史的に発展する統体」として見なければならない。即ち、歴史的な見方であり、同時に一元論的な考え方である。二元論や多元論では或る事柄の生成の必然性は絶対に証明できない。従ってヘーゲルの弁証法はその本性そのものによって相対主義や多元論とは無縁である。世界の普遍的な相互関連を認めるのが弁証法だと誤解している人がいるが、それは弁証法の一契機にすぎない。弁証法とは何よりもまず、それらの多様な関連を貫いている「単一の」発展過程を承認するものでなければならない。だからこそヘーゲルの弁証法は「単なる物の見方」に留まることなく、「同時に世界観でもあるような方法」となったのである。

 しかし、この「生成の必然性」にも大きく分けて二種類ある。世界全体の発展と個々の物や事柄の生成とである。最初に確認したように、ヘーゲル自身の出発点であり目標であったのは「キリスト教の中に開示されている真理を科学的・学問的に認識する」ことだったから、ヘーゲルにとっては前者が究極目的だったと言える。そして実際にそれをして見せたと、少なくともヘーゲル自身はそう自己認識していた。それが『哲学の百科辞典』である。その第三部の「精神哲学」を「哲学」で終えたヘーゲルは、「哲学者という自分の生き方こそが一番高いのだ」と証明したつもりだっただろう。その自負の当否はともかく、彼は個々の事柄についても「弁証法的考察」をした。宗教哲学とか美学とか哲学史とか歴史哲学とかがその成果である。

 ヘーゲルの仕事を見て気付くことは「途中で終えた仕事がない」という事実である。実際に、何を扱ってもきちんと最後まで仕上げている。なぜだろうか。それは、弁証法的展開では結論となる達成点が基準になって出発点が決まるからである。結論が分かっていないのに始めることがない、と言うよりも、結論が分かっていなければ始められないからである。なぜなら、弁証法的展開は、前述のように、内在的展開だから、始原に立てたものの自己展開でしかないからである。

 分かりやすく循環的な発展過程で考えると、所与の植物の生長は種子から始まる。それはその後、発芽し、茎を伸ばし、開花し、最後は又結実するのだが、その生長は全て皆、その最初の種子の中に「潜在」していた「契機」の展開でしかない。それは「潜在」だから、どんなに優れた顕微鏡で種子を観察しても見えるものではない。しかし、ともかく最初の種子の中にそれらは存在していたのである。理論の弁証法的展開でも同じである。理論の展開は最初の概念の中に潜在していた契機を顕在化して行く過程でしかない。だから、始原として立てた概念が不適切ならば、おかしな展開と成り、予定していた結論には到達しない。だからこそ、ヘーゲルの概念的認識では始原をどうするかが問題になるのである。

 ヘーゲルは言う。「理性の考える証明というのは悟性の考えるそれとは全く異なったもので、それは良識の考えと一致しています。たしかに理性的な証明の場合でもその出発点は神以外のものですが、その証明が進む中で、この〔出発点とされた〕他者の方は直接的なもの、〔端的に〕存在するものではなく、むしろ媒介されたもの、定立されたものであることが示されます。それによって神は、この媒介を止揚されたものとして自己内に含み持つ真の直接的存在者、根源的なもの、自己に立脚するものと見なさなければならないことも明らかとなるのです。〔良識による神の存在証明について見ると〕「自然を見よ、すると自然は君を神へと導き、君は絶対的な究極目的を見出すだろう」と言われていますが、ここで意味されていることは、神が〔自然によって〕媒介されたものであるということではありません。我々人間だけが神以外のものから神へと歩むのであり、その時、その歩みの帰結としての神は同時に前者〔自然〕の絶対的な根拠でもあるということなのです。かくして、立場は逆転され、帰結であるものが根拠でもあり、初め根拠とされたものが帰結に引き下げられるのです。そして、これはまた理性的な証明の歩みでもあるのです」(1)
(1) 『小論理学』第36節への付録

 ということは、理論の弁証法的展開では終点が決まっているということであり、従ってその体系は完結しているということである。ヘーゲルの言葉「ミネルヴァのフクロウは夕暮れになってから飛び立つ」も、この間の事情を言ったものである。

 しかし、個人の認識が「完全に完結」し得るのだろうか。ここで考えなければならないのは、「完結」の意味である。完結といっても、「完全に完結」しているというだけではなく、「現在の条件下では完結」しているということもあるからである。実際、スポーツや芸術や技術の発展を見ても、物凄いものが現れて「これ以上のものは考えられない」と思われる事がある。しかし、やはり、やがてそれ以上のものは現れるのである。こういう事を考慮すると、弁証法の要求する「完全な完結」も正しくは「その時点での歴史的完全性」と名付けて好いものでしかあり得ない。

 ヘーゲル自身は自分の哲学を文字通りの意味で「完全」と思っていたのかもしれないが、実際には、その論理展開には無理もあれば飛躍もある。それもやはり「歴史的に完全」だったにすぎなかった。

 四、能力としての弁証法

 最後に残る問題は、我々はどうやってこういう弁証法的な思考能力を身に着けられるかの問である。そこで、最初に戻って、我々はなぜ弁証法を理解したいのだろうか、と考えてみよう。それは、もちろん、弁証法的に考える能力を身に着けたいからである。その能力を個々の問題に適用して正しく生きて行きたいからである。弁証法についての哲学史的知識を元にして教授になったり、喫茶店で談論風発したいからではない。そういう事をしたい人も多いが、それは別問題である。

 では、ヘーゲルがどうやったかを振り返ってみよう。彼は最初から弁証法を求めていたのではない。それは研究の結果として身に着いたものである。その研究の出発点は何だったか。「キリスト教の中に啓示されている真理を学問的に認識したい」という「問題意識」であった。この意識がヘーゲルを動かしたのである。

 だから、我々も自分の問題意識を追求すれば好いのである。人間はよほど異常な人でない限り、「世の中のために役立つ仕事をして、自分も幸福に成りたい」と思っている。だから、弁証法とは何かを考える前に、自分はどういう仕事をして世の中の役に立ちたいのかを考えて、そのための勉強をすれば好いのである。弁証法をまず勉強するのではなく、それを何に応用するのか、その目的の方を先に追求するのである。理論は応用のためにあるからである。

 そうすると、その勉強なり仕事なりをして行く間に様々な経験をし、色々な疑問を感ずるはずである。その時、その経験を反省し、その疑問の解決法を探るのである。こういう研究心の無い人は論外である。向上心のある人なら、そのために他の人の経験を学び、先人の著書を繙くことになるだろう。

 思うに、ヘーゲルの研究方法もこういうものだった。前述の問題意識から出発したヘーゲルは、先ず第1に、日々の生活での経験を無意識にやり過ごすのではなく、理論的に反省した。だから、ヘーゲルの著書ないし講義の抽象的な表現の間には日常生活の事例がその理論の説明として沢山引かれているのである。

 第2に、ヘーゲルは哲学史を初めとする先人の理論を研究した。しかし、その研究はあくまでも「自分の問題意識」と結びつけて考えるというものであり、多くの講壇教授のそれのような訓詁注釈ではなかった。だから、ヘーゲルの哲学史研究は「先人の理論の換骨奪胎」と言って好いほど「強引な解釈」に満ちている。これは悪い事ではなく、自分の現実的問題意識を持った人なら、必ずそう成るであろう事である。

 だから、我々もヘーゲルのように、自分のテーマを追求すれば好いのである。後は、その努力がどこまで行くかだけである。こういう大筋を確認した上で、細かい技術としての「論理的思考能力を高める練習方法」を紹介して本稿を終わりたい。それはヘーゲルのテキストを論理的に読む事である。それも「文脈を読む能力」を高める方法を自覚的に適用しながら読むのである。これ以上役立つものはない、と私は考えている。

 具体的に言うならば、原文に見出しの付いていない節や段落に「内容的な小見出し」を付けてみることである。この作業は当該の段落の核心を捉える能力を高める。「それ故に」とか「それと反対に」といった前後との論理的な関係を意味する単語が出てきたら、「何故(なにゆえ)か?」と考え、「何となぜ反対にか?」と一つ一つきちんと考えることである。譲歩の構文ならそれが内容的にどういう風に成っているかを確認することも大切である。「第1に」「第2に」等々とあったら、それらがどういう基準で並べられているかを確認することである。又、ドイツ語では「言い換え」が多いから、「この語句はどの語句の言い換えか?」と絶えず注意して読むことである。こういう努力を続けてゆくならば、いずれは自分だけの方法を見つけて行くことも出来るだろう。一流の職人で自分専用の道具を作っていない人はいない。それと同じく、「文脈を読む」にも道具が必要なのである。

 これらの練習は囲碁における詰め碁や将棋における詰め将棋に譬える事が出来るかもしれない。つまり、「部分的な能力の錬成」である。しかし、これが又結構役立つのである。そのほか、キーワードに成るような語句については自分で索引を作ることも大切である。

 一言で言うならば、受け身に読むのではなく、主体的に読むことである。これをずっと続けるのである。これを10年続ければ、何かのテーマで論文が書けるように成るはずである。研究というものは10年続ければ、論文か本が書けるものである。そこまで来たら、今度は、「体系的にまとめるとは、この場合はどういう事だろうか」と考えるのである。こうして、自分の積極的な活動の中で自己反省を続けて行けば、それは自然に弁証法的な考え方に向かって行くはずである。なぜなら、世界の事柄は皆、根本的には弁証法的な性格を持っているからである。
 (2014年6月26日)
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