行く当てのない人を無条件で受け入れる寺が、宮城県にある。事情は聞かない。何ヵ月いてもよい。曹洞宗の僧侶の眞壁太隆(まかべたいりゅう)さん(61)は「この人たちを絶対、信頼する」と許す。その言葉のすごみと温かさを感じながら、滞在者は自立に向けた準備をしている。
仙台からJR東北本線で南ヘ七つ目の槻木(つきのき)駅。そこから阿武隈川を渡った先に、木々に囲まれた行持院がある。
記者が訪れたときは30~60歳代の11人が共同生活をしていた。さまざまな理由から職や家を失った人ばかりで、女性も1人いた。生活の一切が約束される。収入のない人は無料だ。生活保護などを受けている人は実費として1日500円を負担する。
朝6時の釣り鐘の音が起床の合図。当番が用意した朝食をすませると、みんなで寺の中や庭先を掃除する。そのあと職探しや役所の手続きなどに出かけていく。
50代半ばの男性がアパートに移る準備をしていた。入居申込書を差し出された眞壁さんは、連帯保証人の「本人との関係」欄に、慣れた手つきで「知人」と書き込んだ。もしかすると家賃の滞納や失跡などの事態があるかもしれないが、「何か起こりもしないうちに心配することはありません」と淡々としている。
「到着署名簿」と書いた大学ノートがある。ここにやってきたときに、名前と出身地だけを書いてもらう。偽名かもしれない。しかし、身元を公的に証明するものを求めはしない。共同生活のルールを説明するだけで「ゆっくり考えたらいい。あとは好きにしなさい」。
50歳代の女性は過去を問われなかったことに感動し、「こんな人がいるんだ!」と思った。「あれくらいドンと構えられるとね、裏切ることはできない。だから、ここにいるあいだは、せめて自分にできる役目はきちんとやろうと思っているんです」。
ふだんはジャンパー姿で、僧侶には見えない。滞在者からは「社長」と呼ばれる。実際、僧侶であると同時に、理容店と美容院30店舗を持つ企業グループの代表なのだ。1日1度は仏さまにあいさつに来るが、寺に住んではいない。
廃屋だった民家を自費で買い取り、新寺建立を目指して修復した。困った人の受け入れは、リーマンショック後の2009年l月から始めた。運営のため、月に約20万円の持ち出しとなる。自分の小遣いは1日千円だ。
「私は布施行をさせてもらっているわけで、ここに来る人たちに感謝しています」。
幼いころ、両親と別れなければならなかった。祖父母は田畑を切り売りして、進学させてくれた。キリスト教系の高校に進んだとき、朝の礼拝ではなぜか熱心に説教に耳を傾けた。地の塩。世の光。そうした言葉が印象に残った。人の役に立て、というメッセージと受け止めた。
「いまになって分かります。あれは、おやじの小言として聞いていた。こころに空いた穴を埋めようと何かを探していたんですね」。
実社会ですぐに役立つ知識を得たいと、大学では経済学部で会計学を学んだ。35歳くらいのころ、会計事務所に勤めていたが、「何かが足りない」というむなしさや不安感を覚えた。仏教書に手を伸ばし、幅広い知識を教える東京国際仏教塾で学んだ。
そのなかで、ろうあ者などが布教の対象外とされた歴史があったことを知る。初めは自分の救いを求めていたのだが、社会的に弱い立場に置かれた人たちに目が向いていった。のちにライフワークとなる手話の勉強を始める。そのため、得度したときには48歳になっていた。
駆け込んで来る人に事情を聴かない理由を尋ねると、反対に「信頼するほかに何がありますか?」と質問された。
「みんな、赤っ恥をかきながらここに来たね。ふつうに暮らしていたときは、まさかそういう身にはならないと思っていたわけです。その方の胸の中にね、土足で踏み込むようなことはしません」。
大学時代に授業料の滞納で2度、除籍されかけた。つらい経験があるから、人の痛みが分かる。滞在者には「同情はしませんよ」「おれに難しいこと聞くな、仏さまに聞け」と言う。それは、どう生きたいのかを自問自答しなさい、結局は自分の足で歩くしかない、というメッセージなのだ。
寺を離れる人に「ここにいたことは忘れなさい」と伝える。それぞれの顔を思い出し、ふと「元気で暮らしてくれよ」と祈ることがある。ここで人生の仕切り直しをした人は、すでに70人を超えた。
(朝日、2010年09月13日。磯村健太郎)
メモ
行持院の住所は、宮城県亘理町逢隈小山字与平谷地61飢。電話は0223-32-0168
仙台からJR東北本線で南ヘ七つ目の槻木(つきのき)駅。そこから阿武隈川を渡った先に、木々に囲まれた行持院がある。
記者が訪れたときは30~60歳代の11人が共同生活をしていた。さまざまな理由から職や家を失った人ばかりで、女性も1人いた。生活の一切が約束される。収入のない人は無料だ。生活保護などを受けている人は実費として1日500円を負担する。
朝6時の釣り鐘の音が起床の合図。当番が用意した朝食をすませると、みんなで寺の中や庭先を掃除する。そのあと職探しや役所の手続きなどに出かけていく。
50代半ばの男性がアパートに移る準備をしていた。入居申込書を差し出された眞壁さんは、連帯保証人の「本人との関係」欄に、慣れた手つきで「知人」と書き込んだ。もしかすると家賃の滞納や失跡などの事態があるかもしれないが、「何か起こりもしないうちに心配することはありません」と淡々としている。
「到着署名簿」と書いた大学ノートがある。ここにやってきたときに、名前と出身地だけを書いてもらう。偽名かもしれない。しかし、身元を公的に証明するものを求めはしない。共同生活のルールを説明するだけで「ゆっくり考えたらいい。あとは好きにしなさい」。
50歳代の女性は過去を問われなかったことに感動し、「こんな人がいるんだ!」と思った。「あれくらいドンと構えられるとね、裏切ることはできない。だから、ここにいるあいだは、せめて自分にできる役目はきちんとやろうと思っているんです」。
ふだんはジャンパー姿で、僧侶には見えない。滞在者からは「社長」と呼ばれる。実際、僧侶であると同時に、理容店と美容院30店舗を持つ企業グループの代表なのだ。1日1度は仏さまにあいさつに来るが、寺に住んではいない。
廃屋だった民家を自費で買い取り、新寺建立を目指して修復した。困った人の受け入れは、リーマンショック後の2009年l月から始めた。運営のため、月に約20万円の持ち出しとなる。自分の小遣いは1日千円だ。
「私は布施行をさせてもらっているわけで、ここに来る人たちに感謝しています」。
幼いころ、両親と別れなければならなかった。祖父母は田畑を切り売りして、進学させてくれた。キリスト教系の高校に進んだとき、朝の礼拝ではなぜか熱心に説教に耳を傾けた。地の塩。世の光。そうした言葉が印象に残った。人の役に立て、というメッセージと受け止めた。
「いまになって分かります。あれは、おやじの小言として聞いていた。こころに空いた穴を埋めようと何かを探していたんですね」。
実社会ですぐに役立つ知識を得たいと、大学では経済学部で会計学を学んだ。35歳くらいのころ、会計事務所に勤めていたが、「何かが足りない」というむなしさや不安感を覚えた。仏教書に手を伸ばし、幅広い知識を教える東京国際仏教塾で学んだ。
そのなかで、ろうあ者などが布教の対象外とされた歴史があったことを知る。初めは自分の救いを求めていたのだが、社会的に弱い立場に置かれた人たちに目が向いていった。のちにライフワークとなる手話の勉強を始める。そのため、得度したときには48歳になっていた。
駆け込んで来る人に事情を聴かない理由を尋ねると、反対に「信頼するほかに何がありますか?」と質問された。
「みんな、赤っ恥をかきながらここに来たね。ふつうに暮らしていたときは、まさかそういう身にはならないと思っていたわけです。その方の胸の中にね、土足で踏み込むようなことはしません」。
大学時代に授業料の滞納で2度、除籍されかけた。つらい経験があるから、人の痛みが分かる。滞在者には「同情はしませんよ」「おれに難しいこと聞くな、仏さまに聞け」と言う。それは、どう生きたいのかを自問自答しなさい、結局は自分の足で歩くしかない、というメッセージなのだ。
寺を離れる人に「ここにいたことは忘れなさい」と伝える。それぞれの顔を思い出し、ふと「元気で暮らしてくれよ」と祈ることがある。ここで人生の仕切り直しをした人は、すでに70人を超えた。
(朝日、2010年09月13日。磯村健太郎)
メモ
行持院の住所は、宮城県亘理町逢隈小山字与平谷地61飢。電話は0223-32-0168
無事だといいですが・・。