- 松永史談会 -

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7月4日の史料調査

2018年07月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


油屋(亀山)本助が町年寄り時代に制作された「文政4(1821)年尾道町全図」・・・・この古地図はいわゆる藩・町方の権力装置及び比較的少数の家主(寺院を含む豪商)たちによって寡占状態にあった町屋群の配置図(類型的には支配図)で、その中より透かし見えてくる生活する民衆の息遣いなどごく限定的だ。
浄泉寺に葬られた播磨屋松之助生前の居宅を探すのが本日の調査のテーマの一つだったが、松之助は借地人だったのだろう、本史料には無記載だった(黄線で囲んだ区域は灰屋(橋本)吉兵衛抱の歓楽地区:新地。このあたりが播磨屋松之助の活動拠点だった可能性もあるが今のところ確証は得られていない)。また機会があったら橋本家史料の中に茶屋関係の記事の有無や播磨屋松之助の名前を探してみよう。

森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017、34頁))曰く、「 文政四年(一八二一)の『尾道町絵図』を見ると、 右の橋本町の場所に、大型の家屋が五棟東西に軒を 連ねている。おそらく遊廓の建物と思われるが、「灰 屋吉兵衛抱」とのみ表示されている。その南側は 「灰屋吉兵衛畠」とあり、その中に「芝居小屋」が 経っている。海岸沿いには二十棟ほどの家屋がある が、ほとんどすべてが「灰屋吉兵衛抱」であり、そ れらは料理茶屋や別荘として使われていたのではな いか。そして、その中のどれかが、芸長両藩の用談 場所となった「竹亭」だったと思われる」(要確認事項)。

厳島社ー尾道八幡さんの参道周辺は「新開」と呼ばれる歓楽街だった。「新開」の海側に拡がるより新しい埋め立て地=「新地」。


厳島社の背後の段差。低いところがより新しい埋め立て地(新地)、一帯は豪商灰屋(=橋本)吉兵衛抱、その一角に芝居小屋があった。幕末期長州藩兵たちが屯した料亭の「胡半」(帆影楼)や何処?


高札場の隣は「役方抱」とあるが現在の橋本家別邸「爽籟軒(そうらいけん)」の一角。
文政7年より灰屋吉兵衛抱になった地所の海辺側に「庭」が立地。


暗渠化された防地川とその上を通行する乗用車

突き当りに制札場があった。文政期には写真に写った界隈を大宮崎町と呼んだ。


尾道町の外に置かれた浄土寺・海龍寺とその門前に布置された漁師家地区:尾崎。吉和町の漁師たちは2年に一度浄土寺に太鼓祭りを奉納する。




前掲した森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017)によれば「文政4(1821)年尾道町全図」をみて当時の尾道町が
「最も所有家屋が多かったのは灰屋(橋本氏)で百十一戸、つ いで住屋(葛西氏)の六十六、島屋(島居氏)の四十八、油屋(亀山氏)と富吉屋 の四十六、伊予屋三十四、金光屋三十二、金屋の 二十四戸とつづいている。それはそのまま当時の尾 道商人の資産家順位と考えていいのだろう。驚く のは、それら上位八家の所有する家屋数は四百六戸 にのぼり、絵図に描かれた総数千二十四戸の実に四 割を占めるのだ。富の寡占状態である。そうした豪 商たちは問屋業のほかに不動産投資で持ち家を増や し、貸家にしたり、商人仲間に金融をして担保とし てとった家屋が、相手の破産などで所有権が移って「抱」物件が増加したのであろう」とし、一部町方による富の寡占化に言及。この点は正しい。同様のことは阿部藩領(少数の在方扶持人による農村経済の支配)でも言えそうだ。その場合税制面での芸備両藩における「受(請)」(請負のこと)「」制自体がそういう富の寡占化を生み出す温床になっていたわけだ。受所の典型が栄華を極めた藤江山路氏

荒神堂浜脇に「年預会所」

ニシテラ小路(尾道久保町は西国寺参道入口付近)に医者山口須的が居住。医者の家系に生まれた山口玄洞の親族だろうか。



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