<続き>
もう少しラワ族(=佤族)について検討したい・・・、と云うのは聖なる峰の被葬者としてラワ族が、一つの可能性であろうと個人的に考えているからである。その理由はメンライ王がランナー王国を建国する以前の先住民がラワ族であり、チェンマイ盆地にも環濠都市国家を築いていたことが明らかであり、タイ族の進出に因り山間部へ逃避したことによる。
(ドイ・ステープ山麓のラワ族環濠都市国家ウィアン・ジェットリン)
雲南・佤族は東経99度ー東経100度、北緯22度ー北緯24度のいわゆる阿佤山区に多くが居住する。グーグルアースで示した滄源県佤族について検討する。
(訂正・写真下方が北緯22度、上方が北緯24度)
下のスケッチは『弥生文化の源流考』に掲載されている雲南省滄源県翁丁村の集落配置である。
墓地は裏門の先に在る。若林弘子女史の調査は1989-1992年に及んでいるようだ。其の時のスケッチを示しているが、今日のグーグルアースと比較すると、集落の建物配置は多少異なっているように見える。
(出典:グーグルアース)
しかし写真のように建物は、古様を示している。この翁丁村の標高は1500m程である。裏門の先に墓地があるとのことであるが、標高はほぼ同じであろう。ここで次のグーグルアースをご覧頂きたい。
翁丁村が如何に山中に存在しているか、御理解頂けたと考える。ほぼ45度南東の河谷盆地はタイ族の集落と水田である。山中の赤茶けた処は、佤族などの少数民族の住居地である。
佤族は何故、山深い山中に追い遣られたのであろうか。そのこととタイ(泰)族が阿佤山区で勢力を張ったことと関係する。歴史を遡ると、南詔国時代に鉱物資源増産のため、泰族の20余万戸が東部から移住させられた。その人口の膨張は、南詔国の滅亡を機に当然のこととして雲南西南部の情勢を変化させた。泰族が強勢になるにつれて、雲南西南部の利権を獲得し、その地を支配するようになった。
一方、佤族が阿佤山区に居住を始めたのは元時代に遡り、当初は水利のよい高原盆地を求めて開拓したが、間もなく異族である泰族の圧迫で、佤族はさらに山深い僻地に移動することになった。
その結果として翁丁村が、山奥に存在するか御理解頂けたと考える。この佤族であれば、先に紹介したオムコイ郡メーテン村の1500mを越える山中に墳墓を設けることは可能であろう。しかし、先にみたように雲南・佤族は土葬である。オムコイやターク・メーソトの墳墓には火葬と土葬双方が存在したと云われている。してみると佤族とは異なる民族であろうか・・・佤族の可能性が高いと考えているが、埋葬方法にやや異なりがある印象である。
最後に話を混乱させて恐縮である。タイ人(族)の可能性は捨てきれていない。確かにオムコイの事例をみても、河谷盆地のタイ族が1500mもの山の尾根まで遺骨を持ち上げ埋葬するのか?・・・現地を訪れて感じる素朴な疑問である。
ところが時代は19世紀末から20世紀初頭のことである。ビルマ勢力を放逐したチェンマイ・チェットトン朝の第7代・インタウィチャヤーノン王の墓地がタイ最高峰であるドイ・インターノンの頂上に存在する。タイ最高地点と表示された看板の後方に、第7代・インタウィチャヤーノン王の遺骨を納めた祠というか墓がある。
(ドイ・インターノン山頂の墓地)
第7代王の娘でラーマ5世王に嫁いだダーラーラッサミー妃が、父である第7代王の遺骨を天国に最も近い場所に埋葬するために、自ら歩いて運んだとの伝承が残っており、現にその墓には献花が絶えないでいる。中世ではなく、19世紀末から20世紀初頭に、聖なる峰への埋葬が存在していたのである。これがタイ人埋葬説の根拠の一つであるが、それをもって中世もそうであったことにはならない。何故なら盗掘により物証がないのと、金石文(石碑等々)に何も記載がないことによる。だが第7代・インタウィチャヤーノン王の事例があるように、タイ族の可能性は捨てきれない。・・・ということで、またまた結論の無い話となった。モン(MON)族の可能性も捨てきれない。しかしながらモン(MON)族の葬送に関する情報がつかめないでいる。どうでもよい話だが、更に追及してみたい。
結論の無い長編の連載をご覧頂きありがとうございました。 <了>