世界の街角

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聖なる峰の被葬者は誰なのか?(6)

2019-03-06 07:32:02 | 北タイ陶磁

<続き>

するとここの発掘場所は何なのか、当然埋葬地なのだが、ここで大いなる疑問が沸々と浮かんできた。現在の発掘現場はこの先15kmのモン(Hmong)族集落(Ban Meo Toi)から、まだ20km以上先で車も入らない所だという。地図でみるとそこはミャンマーとの国境の山中である。なぜこんな人跡未踏のような山中に埋葬地があるのか? (ここまで御覧頂いて、各位には一つの疑問が浮かばれているはず。モン族集落(バン・クリアン)の手前1-2kmの墓地跡の発掘現場はモン(Hmong)族のものであろうとの想定であるが、そのモン(Hmong)族は北タイに南下定住するのは、ここ100年前のことで、発掘現場の墓地は彼らのものでは無い。)

タイ西部の山岳地帯、例えばターク市街地の西側から、タイ・ビルマ国境のメーソトにかけて、かつて大量の発掘陶磁が出現した。これは曰く、タイとビルマの中世交易路に沿ったもので、それらの周辺に住まう人々の集落であったろうと、思われる場所に墳墓が設けられた・・・との説が唱えられ、それに少なからず同意していたが、今回の発掘跡地は交易ルートでも何でもなく、1000mはゆうに越える高地である。先述の如くここから約35km先のミャンマー国境が現在の発掘地で、とても中世の交易路などではない。考えられるのは、雲南や北ベトナムから移動してきたタイ族の墳墓、と想定するには無理がありそうだ。ここは山の民、それがどのような民族なのか、ラワ族等のあてはあるにしても、それを特定して記述するまで絞り込めない・・・大きな謎、宿題として残った。以上の事柄を確認しながら帰途についた。麓の彼の自宅に戻ったのは午後2時20分になっていた。車のメーターで距離を正確に測定すると12km入った地点であった。

元締めの居宅へ戻り、最近の発掘の様子を写真で説明してもらった。場所の発見方法は先述の通りで、目印といえば生活痕である。つまり陶磁の破片を時間をかけて探しだし、発掘する方法である。

写真を見ると地表の穴の径は1.5m程度であるが、掘り進むにつれ内径は大きくなっている。その深さ1-1.5m程で陶磁に突き当たると云う。それらの陶磁とともに、他に何が出土したか質問すると、鉄銹でボロボロになった断片とか、骨と思われるものとのことであった。

貴石・宝石の装飾品の類などはどうか、と重ねて質問すると、それはないと言う。結局、正確な記録などはなにもなく、その先に話がすすまないことは、過去の調査報告と同様である。記憶をたどりながら説明を受けるが、前記の通り記憶のみで信憑性については、判断できない。写真は先に説明した発掘現場・7箇所の、掘削当時の写真とのことである。それによると7箇所で写真の発掘品を回収したという。

それは比較的大型の壷が3点、蓋付小壷1点にミニュチュアのような壷1点、大径の盤が4点、中径盤が3点、碗が2点に小皿が1点で、合計14点であったとのこと。当然破損した陶磁も多かったが、その詳細は覚えていないとのことである。これでは考古学上の研究は何も出来ない。現実がこれと云えばこれである。

これらの壷と盤は、写真から判別は難しい点があるが、サンカンペーンの壷と盤が確認でき、翠色に発色している盤はシーサッチャナーライで、スコータイは確認できないがどうであろうか。タノン・トンチャイ山脈の北端・オムコイでの出土陶磁は、スコータイ地域の焼物比率が低下し、ランナー陶磁の比率が増加するのがセオリーであるが、今回の写真とその説明は、セオリーに準じている。

 

<続く>