世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(11)

2019-03-11 14:39:53 | 博物館・セブ

<続き>

もう少しラワ族(=佤族)について検討したい・・・、と云うのは聖なる峰の被葬者としてラワ族が、一つの可能性であろうと個人的に考えているからである。その理由はメンライ王がランナー王国を建国する以前の先住民がラワ族であり、チェンマイ盆地にも環濠都市国家を築いていたことが明らかであり、タイ族の進出に因り山間部へ逃避したことによる。

(ドイ・ステープ山麓のラワ族環濠都市国家ウィアン・ジェットリン)

雲南・佤族は東経99度ー東経100度、北緯22度ー北緯24度のいわゆる阿佤山区に多くが居住する。グーグルアースで示した滄源県佤族について検討する。

(訂正・写真下方が北緯22度、上方が北緯24度)

下のスケッチは『弥生文化の源流考』に掲載されている雲南省滄源県翁丁村の集落配置である。

墓地は裏門の先に在る。若林弘子女史の調査は1989-1992年に及んでいるようだ。其の時のスケッチを示しているが、今日のグーグルアースと比較すると、集落の建物配置は多少異なっているように見える。

(出典:グーグルアース)

しかし写真のように建物は、古様を示している。この翁丁村の標高は1500m程である。裏門の先に墓地があるとのことであるが、標高はほぼ同じであろう。ここで次のグーグルアースをご覧頂きたい。

翁丁村が如何に山中に存在しているか、御理解頂けたと考える。ほぼ45度南東の河谷盆地はタイ族の集落と水田である。山中の赤茶けた処は、佤族などの少数民族の住居地である。

佤族は何故、山深い山中に追い遣られたのであろうか。そのこととタイ(泰)族が阿佤山区で勢力を張ったことと関係する。歴史を遡ると、南詔国時代に鉱物資源増産のため、泰族の20余万戸が東部から移住させられた。その人口の膨張は、南詔国の滅亡を機に当然のこととして雲南西南部の情勢を変化させた。泰族が強勢になるにつれて、雲南西南部の利権を獲得し、その地を支配するようになった。

一方、佤族が阿佤山区に居住を始めたのは元時代に遡り、当初は水利のよい高原盆地を求めて開拓したが、間もなく異族である泰族の圧迫で、佤族はさらに山深い僻地に移動することになった。

その結果として翁丁村が、山奥に存在するか御理解頂けたと考える。この佤族であれば、先に紹介したオムコイ郡メーテン村の1500mを越える山中に墳墓を設けることは可能であろう。しかし、先にみたように雲南・佤族は土葬である。オムコイやターク・メーソトの墳墓には火葬と土葬双方が存在したと云われている。してみると佤族とは異なる民族であろうか・・・佤族の可能性が高いと考えているが、埋葬方法にやや異なりがある印象である。

最後に話を混乱させて恐縮である。タイ人(族)の可能性は捨てきれていない。確かにオムコイの事例をみても、河谷盆地のタイ族が1500mもの山の尾根まで遺骨を持ち上げ埋葬するのか?・・・現地を訪れて感じる素朴な疑問である。

ところが時代は19世紀末から20世紀初頭のことである。ビルマ勢力を放逐したチェンマイ・チェットトン朝の第7代・インタウィチャヤーノン王の墓地がタイ最高峰であるドイ・インターノンの頂上に存在する。タイ最高地点と表示された看板の後方に、第7代・インタウィチャヤーノン王の遺骨を納めた祠というか墓がある。

(ドイ・インターノン山頂の墓地)

第7代王の娘でラーマ5世王に嫁いだダーラーラッサミー妃が、父である第7代王の遺骨を天国に最も近い場所に埋葬するために、自ら歩いて運んだとの伝承が残っており、現にその墓には献花が絶えないでいる。中世ではなく、19世紀末から20世紀初頭に、聖なる峰への埋葬が存在していたのである。これがタイ人埋葬説の根拠の一つであるが、それをもって中世もそうであったことにはならない。何故なら盗掘により物証がないのと、金石文(石碑等々)に何も記載がないことによる。だが第7代・インタウィチャヤーノン王の事例があるように、タイ族の可能性は捨てきれない・・・ということで、またまた結論の無い話となった。モン(MON)族の可能性も捨てきれない。しかしながらモン(MON)族の葬送に関する情報がつかめないでいる。どうでもよい話だが、更に追及してみたい。

結論の無い長編の連載をご覧頂きありがとうございました。    <了>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(10)

2019-03-11 07:13:35 | 北タイ陶磁

<続き>

〇ラワ族(佤族)

タイ人が西南下する前の先住民は、ラワ族(ルワ族とも云い、北タイではワー:ว้าと呼び、雲南では佤と云う)であった。北タイ北端に後世チェンセーン王国と呼ばれるグンヤーン王国がラワ・チャンカラートなるラワ族の部族長によって建国され、その系統が700年間統治することになる。その17代目がメンライ王と云われている(つまり、メンライ王の系統はラワ族とタイ族の血が混交しているものと思われる)。

ラワ族はインドシナ半島北部山岳地帯にいるオーストロアジア語族で、紀元前後にミャンマーのマルタバン湾岸からサルウィン川(怒江)を遡り、チベット系民族と混ざった後、3-5世紀頃にチェンマイ盆地に進出した。サルウィン川を遡上すると、中国名怒江となりその源流はチベット高原に行きつく。標高5000mにも達する高地であり、この民族がタノン・トンチャイ山脈やオムコイの峰に墳墓を築く下地はありそうだ。しかし、それをもって墳墓の被葬者はラワ族と即断するには無理がある。ラワ族の葬送儀礼はどのようになっているであろうか。

メーホンソン県の南部にメラノーイという小さな町があり、そこから東へ20kmほどの山の尾根筋に、ラワ族集落が存在する。チェンマイからそこまでは、あまりにも遠く行く機会がない(メラノーイの東約20kmの山中に、バン・メーラエというラワ族集落が存在する。周囲は山また山で、棚田をつくり自給自足の生活を行っている。集落は山の頂で標高1000mほどである)。

そこで文献を検索するが、これという文献がヒットしない。キーワードを変更し繰り返し検索すると、鳥越憲三郎氏・若林弘子女史共著の『弥生文化の源流考』に行きついた。雲南省孟連県海東村・倭族の葬送儀礼が記されている。以下、要点を紹介する。

“正常死の場合、遺体は居間の左側に、頭を男女にかかわらず奥に向けて安置する。そして木棺に遺体を納める。棺の長さは約2.5m。納棺の時バサイ(葬儀信仰の役職者)は棺の底に布を敷き、死者には新しい衣服を着せ、肩から麻袋を掛け、口に家族の数だけ銀貨を少し削って入れる。それは冥土での財産のためである。そして木の皮を水に浸し、絞った水を遺体の頭にかけて清める。納棺が終わると、決められた埋葬の日取りに葬送が執り行われる。

葬送当日、少なくとも犬三匹のほか水牛一頭を犠牲にする。出棺に先立ち、バサイは部屋に安置された死者の霊に食べ物を供え、それを自分でも少し食べる。部屋から棺を出すとき、戸主や老人以外は、奥部屋と庇部屋の間の壁を一部壊して出す。戸主である女性や老人は壁全体を壊し、バサイたちは梯子を経ないで死者の頭を先にして出す。これは死者の霊が戻れないようにするため、日常の通路でない方法をとるためである。野辺送りの先頭はバサイが務め、行列が裏門の奥の墓地につくと、男性全員の手で墓穴が掘られる。埋葬前にバサイによってもう一度、死者に食べ物が供えられ、バサイたちも少し食べ、村人たちも少し食べる。最後の食い分かれの儀礼である。

それが終わると、死者の頭は村落の方向に向けられ、棺が墓穴に降ろされる。棺の上には板か筵を置き土を掛け、最後にバサイたちが土を掛けて、上を平らにして埋納が終わる。その後墓の回りに竹垣をめぐらす。その竹垣には、棺に入れなかった故人の編み笠などの遺品が掛けられる。佤族の墓はいくつも見たが、必ず竹垣に笠が掛けられている。“・・・とある。

更に“事故などで亡くなった非業の死の場合は、とくに村外での死は凶とされ、遺体は村内に運ばれることなく、そのまま墓地に運ばれる。しかも納棺するまで死体は担がず下げて運ばれ、墓に埋納するときも棺は蓋をしないで埋められる。三、四日以内に葬らなければならない。非業の死は鬼に化したと考えられ、その禍を避けるためである。その墓は、正常死と異なり別の場所で、その人が死んだ方角の村の外に埋められる。”

以上をまとめると正常死の場合は、集落の奥の墓地に土葬される。異常死の場合も土葬であるが、それは墓域とは別の場所に埋葬される。尚、正常死の場合の墓地には竹垣が巡らされている。また集落の標高は1250m前後である。

<続く>