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聖なる峰の被葬者は誰なのか?(2)

2019-03-01 07:27:57 | 北タイ陶磁

<続き>

関千里氏の論述が続く

タイ族には、古来からサイヤサートと呼ばれる土俗信仰がある。それはインド由来の自然を超越した神への世界観を基盤にしたもので、もろもろの霊崇拝、吉凶の占いなどに基いた神秘性を帯びた信仰であるが、それに準じたアニミズム的な葬送を山上の墳墓に埋葬する以前から行っていたと考えられる。

 

雲南の南詔王国や大理王国にも火葬による埋葬例があることから、タイ族の祖先はもともと火葬を行っていたか、またはその影響下にあったとも考えられる。南詔や大理、そして上ビルマ、ピュー族の火葬の慣習を受け継いでいたビルマ族と、もともと火葬を行っていたクメール貴族の影響もあったはずである

タイ平原に躍り出たタイ族にとって、先進国に囲まれた東西の文化的恩恵は多様であり多大であったと思われる。その風習を受け継ぎ土葬、火葬によって墳墓の世界を出現させたのではないか。

シーサッチャナーライ古窯の発掘で、下層部の窯址から炻器の大壺群が出土している。それは骨灰を残らず砂とともに納める大壺ではなかったか。また中世にビルマ族とクメール族の王たちが権力を傾けて建造した神殿や霊廟寺院も、火葬墓としての例である。

とすると12世紀から13世紀にかけて、ビルマ族とクメール族との狭間にあって、タイ族も火葬であった可能性が濃厚である。それがパガン、アンコール両大国の没落と共に14世紀、下ビルマのペグー王国の興隆で、インド起源の天体宇宙観と仏教の輪廻思想の影響を受け、土葬が多くとり行われようになったと思われる。それはタイ族社会に施釉陶器が出現し、急増する時期と微妙に合致する。“

そして、それをまとめるような形で以下のように著述されている。

“ある時期にタイ族は墓の創設と副葬品に急速に目覚めた。それはおそらく先住民族の権力構造社会から、数の力学で13世紀前半、インドシナ半島の中央部に安定基盤を築いたタイ族が、近隣の民族文化に触発された現われであり、山上部に葬る風習は15世紀末まで続けられたのではないか。”

・・・以上が関千里氏の著述の抜粋である。結論を断言するには、墳墓跡が盗掘ばかりで、考古学の体系にそった発掘ではないことにより、被葬者の民族を特定するなり、推測するに足る資料が非常に少ないことによる。上に紹介したように、少ない資料と関氏の豊富な情報を総合し、『タノン・トンチャイ山中の墳墓はタイ族のものだとして、12世紀から13世紀にかけては火葬であり、14世紀以降土葬が行われるようになり、それは15世紀末まで続いた』と推論付けておられる。その推論が妥当かどうかを検証するには、あまりにも情報がすくない。

<続く>