とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「語り手」と「視点」(日本の近代小説の成立過程の考察 日本語文法の視点からのヒント)

2019-08-04 06:33:36 | 国語
 語り手について考えている。安藤宏氏の『「私」をつくる』を読んで日本の近代小説の文体の発明には語り手の主体をどう入れるかが大きな問題となっていたことを学んだ。今回別の本からおもしろい視点を得ることができた。言語学者の庵功雄氏の『新しい日本語学入門』という本である。
 その本の中の§9「ボイス⑵」の「3.視点とは」という章に次のような記述がある。長くなるが引用する。
 
 ⑴ 猫がハムスターに追いかけいる。
 ⑵ ハムスターが猫に追いかけられている。
 
 ⑴は猫の飼い主の発話としてふさわしく、⑵はハムスターの飼い主の発話としてふさわしいわけですが、それは猫の飼い主にとっては「猫」のほうが「ハムスター」よりも身近であり、ハムスターの飼い主にとってはその逆だからです。この「身近である」ということをその名詞句に「視点がある」と言います。これは、事態の構成メンバーの中に身近なものが存在する場合の立場(視点)から事態を見る方がその逆よりも自然であるからです。
 この例では言語以外の知識によって視点の位置が決まりましたが、そうした文脈に依存することなく視点の位置が決まる場合があります。それは例えば出来事を構成する2つのメンバーが1人称(「私」または「我々」)と3人称である場合です。この場合、「私」自身は私にとって最も身近なものですから、出来事の中に「私」が存在すれば視点は必ずそこにある、言い換えれば、「私」からしか出来事を見ることはできないのです。

「視点」に敏感な日本語
 上で「視点」という概念について触れました。後述するように、視点は授受動詞の選択に大きな影響を与えますが、その他にも次のような現象がみられます。

⑶ a  僕は花子に電話をかけた。
  b*花子は僕に電話をかけた。(Hanako called me)
 c  花子は僕に電話をかけてきた。

 aが文法的であるのに対し、bは非文法的で、これらに対応する内容を表現するにはcのように話し手への接近を表す「てくる」をつけなければなりません。これらはこれらの動詞が「主語より」の視点しかとれないという視点制約を持つためです。この場合bに対応する英語の表現は文法的であることに注意してください。このように日本語は「視点」ということにかなり敏感な言語なのです。

 おもしろい指摘です。日本語は主語がないという意見もあります。少なくとも主語の意識の低い言語です。それに対して視点の意識は英語よりも高いのです。この言語の特性の違いが明治の「近代小説」の成立に大きな障害となったというのは十分推測されます。果たしてどういう障害であったのか。これは考察しがいのあるテーマです。考えてみたいと思います。
コメント
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