まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

仕事の友 (その5)・余滴ファイル

2010-02-06 17:40:52 | お仕事のオキテ
以前にせっかく作った文書ファイルを消去してしまってはいけないという話を書きました。
今回はさらにそれの進化形です。
みんながふだん書くレポートぐらいではどうだかわかりませんが、
一般的な文系の論文 (10,000字~20,000字くらい?) や、
卒論 (だいたい40,000字以上でしょうか) などのように、
ある程度長い文章を書くときって、
執筆にけっこう時間がかかりますし、
そのあいだに何度も、章立ての変更や文章の書き直しをすると思います。
そんな中で、せっかく書いたけれどけっきょく使えなくて、
ごっそり削除しなきゃいけないことってないですか?
卒論指導を受けていて、指導教員の先生が、
「この章 (節、段落) は前後のつながり悪いから要らないんじゃない?」
なんてあっさり言ってきたりして。

文章書くのって、書いてみないとわからないことがたくさんありますから、
すべてが最初から計算通りに、必要なことを必要なだけ書いて書き終わる、
なんていうことはまずありません。
頭の中にあるもやもやとしたものをとにかく文章化してみて、
書けたものを読んでみて初めて、ああこれは必要だった、
これはちょっと論点がずれていた、とかが判明するわけです。
ただし、必要がなかった部分というのは、
今書いているその論文の中のその文脈の中では必要なかった、というだけの話で、
それ自体はあなたの頭の中にあったことですから、
あなたが書きたいことではあるわけです。
とはいえ、残念ながらこの論文では使えないわけですから削除しなくてはなりません。

さて、そんなとき皆さんはどうしているでしょうか?
Delete ボタンを押し続けてダーッと消していきますか?
それが一番もったいないやり方です。
そういうときはマウスで範囲指定して、「切り取り」 するようにいたしましょう。
万一気が変わったときは、すぐであれば 「元に戻す」 ことができますから。
最初のやり方でも 「元に戻す」 ことはできるのですが、
「元に戻す」 のは回数制限がありますから、
1字ずつ消してしまうと、字数分だけ回数カウントされ、
字数によってはすべての文字を復元できない可能性があります。
「切り取り」 であれば、全体の切り取りが1回とカウントされますから安心です。
しかし、私のオススメはもっと別の方法です。

それが 「余滴ファイル」 を作るというやり方です。
例えば、「規定的判断力の自由」 という論文を書いていて、
なにか削除しなきゃいけない部分が出てきたら、
先の方法で、範囲指定して 「切り取り」 したあと、
すぐに新しいファイルを開いて、そこに切り取った文章を 「貼り付け」、
そのファイルに 「規定的判断力の自由(余滴)」 というような名前をつけて保存するのです。
その後も削除しなきゃいけない部分が出てくるたびに、
その余滴ファイルに貼り付けて保存していきます。
つまり、せっかく思いついて文章化もしたけれど、その論文では使えなくなったものを、
そのまま闇に葬り去ってしまわないできっちり取っておく、という方法です。
今の文脈では使えなかったけれど、構想はまた変わるかもしれないので、
そのときに必要になってくるかもしれませんし、
たとえこの論文ではもう出番はなくとも、別の論文を書くときに使えるかもしれません。

そう考えると余滴ファイルはアイディアの宝庫なわけで、
これを保存しておかずに、削除部分を切り取ったあとそのまま上書き保存して、
どんどん先に書き進めていってしまうというのは、
なんともったいないことだろうと思います。
私の座右の銘 「書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと」 というのは、
紙ベースの頃の言い方であって、
パソコン文書作成の時代はこう言い換えなければいけないのかもしれません。
「書いて、さらに保存しなければ何も起こらなかったも同じこと」

ちなみに 「余滴」 という言葉は、
高名なカント研究者である高峯一愚先生の著書のタイトル
『断思断想 カント研究余滴』 で初めて知りました。
高峯先生は長年カントを研究してきて、
『カント純粋理性批判入門』、『カント実践理性批判解説』、『カント判断力批判注釈』
といった本格的な研究書を出版されてきたわけですが、
その御自分のメインストリームにはまらなかった、
そのつどいろいろな場で発表してきた小論を集めた論文集を 「余滴」 と名づけられたのです。
この 「余滴」 という言葉のイメージが気に入って、使わせてもらっています。
私の場合、余滴はいいからその前にまずメインの仕事をとっとと形にしろよ、
という意地悪な声が聞こえてくる気がしますが、
まあいずれの御時にか、余滴ファイルの中から私の主著が、
むくむくっと生じてくることを期待しましょう。

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2 コメント

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雪はき (きさらぎ)
2010-02-12 16:57:21
書き留めなければ何も起こらなかったのと同じこと、という教えに従って・・・

今朝、道路向かいで工事をしているおっちゃんやお兄さんたちが駐車場の雪はきを手伝ってくれた。
最初一人のおっちゃんが手伝い始め、いつの間にか3人~4人と手伝いにきた。
おかげで今朝の雪はさっさと片付いた。
ふと見るとお隣のレストランのお兄さんが一人で雪はきをしている。
こちらは他人様のお手伝いでさっさと片付いたものだからなんだか申し訳なく、私もお手伝いのお返しをすることに決めた。
と私がちょっと逡巡している間に、工事のおっちゃんたちはもうさっさと手伝っていた。

よそ様のお手伝いをするのは、その心があってもかなりの勇気がいる、と私は思う。
手伝いの必要性を見て取れても、必要な手伝いが出来るかどうかは、たとえ身近な人相手でも難しい。
こちらの都合でやれるだけの手伝いでは、かえって迷惑になることのほうが多いだろう。
やり方なりスピードなり完成度なり、相手の満足するレベルで出来るならいいけれど、
勝手も知らず慣れなければなおさら、不満不愉快を感じさせるような手伝いになってしまう。
好意から出た行為の芽であっても、勝手に生える雑草のごとく嫌われる種になることがあるように思える。
などと思い巡らす私はちっとも動けない。

そんなふうに難しいと思えることを、おっちゃんはすんなりやってみせてくれた。
おっちゃんは私が出社するなり今朝も「車を置かせてください」と言いにきた。
私はにっこり承諾すると、大慌てでばたばた雪はきを始めた。
するとおっちゃんがとことこやってきて、
「車で雪を踏みつけてしまっては目も当てられないだろう」と声をかけてきたので、
「はい、だからさっさと片付けようと思って」などと私はついうっかり本音を吐いてしまった。
するとおっちゃんは「ここ、掃いてやるよ」と雪はきを始めてくれた。
「雪はきうまいねぇ」などと褒めてくれたり、つられてお隣の雪はきへ進出すると「疲れないか」などと気遣ってくれたり。
「車置かせてもらってなんにもお礼できないから、また雪降ったら手伝ってやるよ」
などと好意を押し付けるどころか感謝の言葉を最後に言ってくれた。

なんて清々しい人だろうと、心に沁みた。
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人助け (まさおさま)
2010-02-13 03:35:54
いい話ですね。
人のブログのコメント欄に書き込むのではもったいないぐらい、いい話です。
お店の宣伝も兼ねて、自分でブログとかやったらいいのでは?
書き留めなければ何も起こらなかったも同じことですよ。

人助けは難しいというのは同感です。
ぼくも相手の気持ちを深読みしすぎてしまって、
さっと何かをしてあげるということができないほうです。
ぼくの場合は電車で席を譲るという程度のことですが。
さっとやってもらったときの有り難い気持ちを忘れないようにしないといけないですね。
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