![]() | 実存から実存者へ筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
written @ TAKAMATSU 2006 01.01
『実存から実存者へ』(完)
レヴィナスは、人生について実存主義的な視点から、
『「ああ、明日もまた生きねばならぬのか」、無限の今日に内包された明日。不死性の恐怖、実存のドラマの永続性、その重荷を永遠に引き受けなければならないという定め。』(133頁)
というように述べている。
ここでは述べられてはいないが、人生というのは、永続性、無限の今日というとりもちに内包された明日という形で訪れるという特性の中にまた同じく、明日にでも終わってしまうかも知れず、今この瞬間にも終わってしまうかもしれないという一種の恐怖を内包している。
それゆえ、これまで述べてきたように、自我の悲劇性というのは、そのものの持つ悲劇性に加えて時間というものによるアンガージュマン(拘束)により時間性によるアンヴィバレントであり、二重性を持った悲劇にも襲われることとなるのである。
レヴィナスは、このことに関して〈私〉と時間(192頁)で、
『〈私〉は、同一的な許しを得ていないもの-単なる化身、なれの果て-として次の瞬間に入り、新しいだけでその新しさがいっこうに〈私〉を自己への繫縛からは開放しはしない、そんな経験をするというのではなく、〔瞬間と瞬間との〕空虚な間隔の中で〈私〉が死ぬことが新たな誕生の条件となるのであって、〈私〉に開かれる〈他所〉がたんたる「転地」ではなく、「自己の内とは違うところ」でありながら、かといって〈私〉は非人称の境地にも永遠の境地にも落ち込むことのない、そういうことなのである。時間は任意の〈私〉の前に列をなす瞬間の継起ではなく、現在と等価のほかならぬ〈私〉が現在において表明する現在のための希望、その希望に対する答えなのである。』
というように述べている。
これは、彼が希望について、
「希望を抱くとはしたがって、償いえないものの償いを希望すること、したがって、〈現在〉のために希望することである」(191頁)、「未来とは、何よりもまず現在の復活なのではないだろうか」(192頁)と述べていることつながる。
わかりやすい例でいうなら、宝くじの例がいいだろう。
当たると期待し、当たることを疑わず、大金をはたいて宝くじを買う。抽選日の翌日に新聞を見る。当たっていない事に対して絶望する。
過去の答えが、未来で、過去に希望を抱いたことの結果が帰ってくるのが未来であり、現在である。
そんな賭けの連続が人生である。
ならば、とはいわないが希望を持ってそれながらも、絶望をする。
そしてまた希望を持って、結果に忍従をする。
そうやって強くなっていくのが人生なのかもしれない。