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論証=事例、引用。

実存主義の形態 :松山情報発見庫#345

2005-12-03 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存主義とは何か

人文書院

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サルトル自身
「実存主義に対する批判」(35項)として、
実存主義がこの文章が1945年に書かれた時点で、

「実存主義においてはあらゆる解決の道がとざされているか、地上における行動は全面的に不可能と考えねばならず、それゆえに、実存主義は人々を絶望的静寂主義へと誘うものであり、究極においては一種の静観哲学に帰着する」(同)

であるとか、

「人間の低劣さを強調し、いたるところに醜悪なもの、曖昧なもの、粘液的なものを指摘し、明瞭ないくつかの美しさ、人間の本性が持つ明るい面をおろそかにしている」(同)

という批判があるというように感じているようだ。
これは、この書物の冒頭で、「1945年の実存主義」という題名で海老坂武氏が、論じている中で、当時の実存主義のイメージをその「実存主義」という語源の、

「パリのサンジェルマン・デ・プレ界隈にたむろしている若者で、彼らはこの界隈にある安ホテルに転々と渡り歩いている。ホテル代は踏み倒すのでついに泊まるホテルがなくなるが、するとバーやキャバレにいって夜を明かし、トイレに落書きを書きなぐる。男は髪の毛をもじゃもじゃにしているか、前額にはらっと長髪を垂らせている。ワイシャツは夏も冬もおへそのところまで開いている。女は髪の毛が長く肩までかかっていて、お化粧はまったくしていない。そしてポケットにはいつもネズミを飼っている。女も男も好みの色は黒で、いつも黒い服、黒いシャツを来ている・・・」(2-3項)

と述べ、サルトル自身、

「料金をふみたおすことこそなかったが、サンジェルマン・デ・プレでホテル住まいをし、朝から晩までこの界隈にあるル・フロールで仕事をし、時には周囲に若者を集めて議論をする、といった生活をして」(6項)

おり、「サンジェルマン・デ・プレの法王」(同)ともいわれていたようである。
加えて、彼の『嘔吐』のなかにて、ロカンタンという形でその実存主義的な青年像を提示している。(これは、人生の孤独,孤独と実存、嘔吐の概念を参照のこと)
先の海老坂氏も、

「人間に本せいはなく、あらかじめ定められた本質はない、人間は偶然的に、不条理に、無償に実存する、そうであるがゆえに、人間は自由であり、主体性を確保できる・・・・・・実存を自由の根拠にするこのような視点は、『嘔吐』のなかにないわけではないが、これが強く押し出されたのは、『存在と無』と『実存主義とは何か』においてである。」(12項)

というように、サルトル自身、ただそこにある異様で不気味な「静観哲学」として、その人間の存在をとらえていたのであろう。(もちろん本人はそのことを認めてはいないが)
これまでも幾度か述べてきたように、そのような「静観」的な実存への呪縛からの開放がサルトルの戦争経験などを経て、

「人間はまず存在するのであり、そうして後ははじめてあれかこれかで在る、ということに他ならない。一言で言えば、人間は自分自身の本質を自分で作り出さなければならない。世界の中に身を投じ、世界の中で苦しみ、戦いながら、人間は少しずつ自分を定義するのである。そして定義は、常に開かれたものとして留まる。この一戸の人間が何者で在るかは、彼の死に至るまではいささかも言えないし、人類の何たるかは、人類の消滅まで言うことができない。(中略)実存主義とは、人間に永遠不変の本性を与えることを拒みつつ、人間の諸問題に取り組もうとするある種のやり方という以外の何物でもない。」(141項)

というように、世界との関わり、もしくは、アンガージュマンという概念の生成という中での実存という概念に発展させていったといえる。ここにいたり、ようやく、これまでわたしが表現してきた実存主義の二形態ということについて「静観哲学的実存主義」「アンガージュマン的実存主義」ともいうべき二つの実存主義の形態への命名が可能となったのである。


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