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対自-即自の動性(認識,超越) :松山情報発見庫#346

2005-12-04 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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前回『存在と無』について論じた満月としての人間存在においては、その人間存在における対自存在と即自存在の関係性ということを主に論じた。
今回は、この第2部対自存在から第3部対他存在への橋渡しともなる認識と超越ということについて細かに論じていきたいと思う。
タイトルの対自-即自の動性についてであるが、簡単にいえば、その二つの概念の作用の仕方ということだが、ダイナミズムとも言い換えられることができると思う。
ダイナミズム、この文脈で言い換えれば、対自-即自の倫理的営みということもできよう。

さて、対自存在と即自存在を先の文脈で、満月と弦月という関係性で指摘したように、弦月としての対自存在はまず内的な否定を引き起こす。それは満月であろうという所作である。(ここまでは前回述べたこと)
つまり、自分は満月ではない、満月を想定するという点において、二つは非連続である。満月という実存を地上より想定するヒトのような存在として弦月が捉えられているといえる。

「非連続な二つの要素のあいだの分離は、一つの空虚であり、一つの『無いもの』rienであるが、しかしそれは、実感された『無いもの』であり、いいかえれば、即自的な『無いもの』である。この実体化された『無いもの』は、かかるものとして、絶縁的な一つの厚みである。それは、現前の直接性を破壊する。なぜなら、それは、『無いもの』としてのかぎりにおいて、何ものかになっているからである。即自に対する対自の現前は、連続性という関係によっても非連続性によっても言いあらわされないのであった、それは単なる『否定された同一性』である。」(327項)

ここでの議論をわかりやすく言い換えるのであれば、対自というのは、在るがままの自分(即自)であろうとするが、それには、「純粋な反省」(302項)が必要で、「純粋な反省」とは対自自体を実在性において把握しようとする試みということである。これとは反対に、以前、ニーチェの議論で述べたことではあるが、一般的に多い形としての反省が「不純な反省」(299項)とサルトルが名づけるものであり、「自己でありながら他者であろうとして、失敗に終わった対自の努力」(同)というものである。

一段落前で、「非連続な二つの要素のあいだの分離は、一つの空虚」と指摘されたものは、いわば対自と即自をつなぐ「内的な否定」(321項)「存在のきずな」(322項)であり、サルトルが、

「二つの存在の間で一方の存在(対自)について否定されるところの他方の存在(即自)が、その不在そのものによって一方の存在(対自)をその本質の核心において性質づける」(321-322項)

と意味づけるものであり、再び、満月の例を借りるならば、
そうではない「背景」からくっきりとその即自というものを浮かび上がらせることが「超越的な規定」(329項)であり、俗な言葉に言い変えながら、(私=宗田が)規定を続けるなら、自分というどこかからあると何ゆえか知らされている「私」という感覚を感じ取り、それに接近を試みようとするのが、この「超越」ということであり、「ただ単に、存在をそこに存するようにさせる(=認識)」(328項)をより鮮明にすることと言える。
コメント (1)
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