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論拠・主張

論証=事例、引用。

サルトルと世界、空間 :松山情報発見庫#347

2005-12-05 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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驚くべきこととはいわないが、一見アンガージュマンなどの概念を戦争経験によりはぐくみ、他者との関係性の中で見出したサルトルにおいての、世界観が世界-内-存在的な意味の一つ前として、いわば実存としての世界というのを言い表した空間論というのがこの『存在と無』の中で繰り広げられている。

「空間は、なんらの関係も持たない諸存在の間のひとつの動く関係である。空間は諸即自の独立が、《全》即自への現前であるようなひとつの存在に対して、即自相互間の独立として、開示されるかぎりにおいて、かかる諸即自の独立である。空間とは、諸存在が、関係を世界にもたらす存在のまえにいかなる関係も持たぬものとして顕示される時の、唯一のしかたである。(中略)空間は世界ではない。むしろそれは、世界がつねに外的な多数性に分解しうるかぎりにおいて、全体としてとらえられた世界の不安定性である。空間は、背景でもなければ形態でもない。むしろそれは、背景がつねに諸形態に分解しうるかぎりにおける背景の理想性である。空間は連続でもなければ非連続でもない。むしろそれは、連続から非連続へのたえざる移行である。空間の存在は、対自が、存在をそこに存するようにさせるときに、存在に対して何ものも附け加えない、ということの証拠である。空間は総合の理想性である。その意味で、空間は、それがその起源を世界から引き出すかぎりにおいて、全体であると同時に、それが『このもの』たちの急激な繁殖に終わるかぎりにおいて、何ものでもないものである。空間は、具体的な直感によってはとらえられない。なぜなら、それは、存在するのではなくて、たえず空間化されるのだからである。」(336-337項)

これは、いわば『嘔吐』のなかにおけるロカンタンと他の登場人物の関係性を表している仕方でのいわば実存する、もしくは現前する世界での中での無関係性的関係というしかたでの、即自的存在どうしがただ動く世界で静的な関係性を示す現われとして人間存在が現れるしかたである。
卑近な言葉でその状態を表そうと試みるならば、殺伐の極みとでもいうべき状態ということができる。
このような状態から一歩進んだ状態としてその関係性を表すことができるのが、

「存在は、私に逆らって、私のまわりにいたるところにある。存在は私の上に重くのしかかる。存在は私をとりかこむ。そして、私はたえず存在から存在へと指し向けられる。」(392項)

というような、指し向けられる対自-意識とでもいうべき状態にその即自を引き渡す。これがさらに発展し、ハイデガーからその着想を得た「世界-内-存在」的な状態へとその即自を指し向けることとなる。
それは、

「たゆみなく、《何かの役に立つ》可能性すらなしに、道具から道具へと指し向けられ、反省的な循環により以外に何のよりどころももたないことである。(中略)われわれが世界から出発して他人を考えるときに、われわれは、それだけでは、道具複合の無限指向から脱がれ出ることがないであろう、という意味である。
 かくして、対自が自己へ向かってのその飛躍と相関的に、拒否として自己自身の欠如であるかぎりにおいて、存在は、世界という背景の上に、対自に対して、『事物-道具』として開示され、世界は道具性という指示的複合の無差別な背景として出現する。」(363-364項)

というような、いわばマルクス的なとでもいうべき(いまの私の知識では、これがハイデガーにおいていかに示されているかということは判断しかねる)「世界-内-存在」とでもいうべき視点に到達することとなるのである。これはまた、アダム・スミスのいう分業への可能性ということも示唆しているようにも思える。
ここでいう「道具性」「何かの役に立つ」等は、世界のただ中、もしくは状況のただ中において自らの役割を対自的に反省を通して把握することでその状況の中にアンガジェ(拘束、約束)していくということであるからである。
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