本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

夢のニート : 松山情報発見庫#365

2005-12-23 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー

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かなり、長くなってしまうが、議論がもりあがればと思うところもあってすべて引用しますね、

「『ニート』を生むのは、絵に描いた餅を求め続ける『自己実現病』である(小見出し)
 我々の診療所の外来にやってくる思春期の患者のほとんどは、ひきこもったり、家庭内暴力を振るったりと、境界性人格障害または、自己愛性人格障害と診断されるような若者たちである。そんな彼らには共通するところがある。
 みな同じように、自己実現ができていない、アイデンティティが見つからない、という苦悩をもっているのである。
 誤解しないでいただきたいが、彼らはこれからどんな勉強がしたいのか、自分は将来どういった人間になりたいのか、その場合は、どのような職業に就くべきなのか、ということについては何らかの願望、または意志を想っている。
 しかし、それらすべてにおいて、とうに挫折してしまっているのである。
 ただ、学校にも行かず仕事もしないでぶらぶらしているので、『いったい何がやりたいのか』と尋ねられると、『別に』という返事をするしかないのである。我々もしくは親御さんたちは、彼らに面と向かって、その『別に』のもう一歩先に踏み込まねばならない。
 たとえばこんな問いを投げかけてみる。
『もしここにドラえもんか、あるいはハクション大魔王がいて、あらゆる希望をかねてくれるとすれば、君はいったい何になりたい?』
 典型的な答えは二つ。ひとつは『芸能人になりたい』『音楽がやりたい』というもの。こちらは華やかな芸能界を目指すものである。もうひとつは『F1レーサーになりたい』というもの。こちらはスポーツ界全般で、男性に多い回答である。要するに、どちらもスター願望である。
 私は、この二つの返答以外あまり聞いたことがない。かつてのように『博士や大臣になりたい』という人はいない。いるのかもしれないが、そんな彼らが外来に来るとすれば、博士か大臣になろうと努力してそこで燃え尽きてしまい、思春期挫折症候群になってからだろう。燃えついたその人に『何になりたいか』と尋ねれば、『別に』と答えるはずだ。あるいは『芸能人になりたい』と答える可能性もある。若者は、芸能界のことを、地道な努力なしに才能だけで渡っていける世界だと考えているケースが多いからである。
 しかし、なぜ若者は自分に才能があると思い込むのだろうか。才能の幻想に取り付かれているというのは、自己愛性人格障害の診断基準のひとつなのである。
 そこで頭を抱えざるを得ないのは、最近やたらと若者に『夢を諦めるな、夢を追いつづけろ』と『自己実現』を説くカウンセラーや精神科医が追いことである。いや、カウンセラーに限らず、テレビ番組の全体が、才能の幻想、成功の幻想に溺れているといっていい。」(44-45頁)

というのが、見てみて欲しい部分だ。
「本当の自分」「あるべき自分」「夢」というのをあらかじめ想定してしまうことの自己実現病、ようするにこんなことが小田氏はいいたいのだろう。
自己実現できなかったらそれを人格障害といってしまうのは少し残酷すぎる気もする。
今の若者を客体化するのもどうやら間違っていると思う。
もし仮に日本人の精神史というのが策定されるなら、いまはおそらく過渡期に位置づけされるのであろう。
「自分探し期」とでもいうといいのだろうか。
本来は、自分というものがこうありたいと思っていても、社会の中での自分に耽溺してしまい、「こうありたい自分」は「こうありたかった自分」へと後退していき、ある日気づくとそれが、今の自分になっていたり、かけ離れていたりというのが自然であったのだろう。
それが、思考に自己実現という新たな隙間(概念)が中途半端に入り込んでしまったがゆえに「こうありたい自分」というものが過去の日本人に比べて濃密に取り付くようになってしまった。(cf.存在論的区別)
それゆえ、本来的でないにせよ、社会の中では本来的であるとされる状態に耽溺できずに、「自分」の呪縛にとらわれてしまうということになるのだ。

ここで、先の両親とのコミュニケーションのことへと議論は戻るわけだが、コミュニケーションとは、受けつつ発するということである。つまり、受けつつ発するということのバランスが取れていないゆえにコミュニケーションが発達しにくくなる。
受けるだけになったしまったり、発するだけになってしまったり・・・
受けたものを「こうありたい自分」に付与して膨張させたり、削除させたり、そんなことを無意識、もしくは顕在意識でおこなう、そのことにより、過去の日本人は「自分」を忘れることができたのであろう。
もっと正確にいうなら、そんなこと考える必要がなかったということだろうが・・・
小田氏が引用文の中で述べているように、アイデンティティー=自己同一性というのも、当たらし概念ゆえにいまの日本人の精神になじんでいないといえる。
なじんでいないゆえに、考えてしまう人にとっては、同一であらないといけないという考えを生むことになる。
考えない人にとっては縁遠い話ではあろうが・・・
つまり、自分が必要と思ってしまうという思考の新鮮さゆえの落とし穴にはまってしまうということだ。
本来なら、というか、これまでの日本でなら、忍従することで、もしくは忘れることで自分というものはその場的に発生していた、もしくは振り返ってみれば発見されていた。

つまり、自分というもの、もしくは、夢というものをあらかじめ想定するというのは、あまりに新鮮なゆえにいまの日本人の若者を苦しめてしまうわけだ。
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