がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

続・Supplement(補遺)3

2007年08月19日 | Weblog
2007年05月11日記載

頂いたコメントについて言及する。頂いたコメントは以下のとおり。

「子供が同じような難しい病気にかかっています。親子ともどもそれぞれに厳しい現実にたちむかっているつもりです。しかし、一部の方から、恨みをかっているからとか、お払いをしたほうがいいとか、途方にくれるようなj助言を受ける事があります。悪意を持って言っておられるのではないとは思うのですが、その言葉を聞くたび、涙がこぼれます。その反面、本当にそうであって、病気が治る確実な方法があるのなら、何でもしたい、たとえ悪魔に自分の身を売ってもいいとも思ってしまいます。この厳しい現実にあって、どういうお気持ちをもたれたのでしょうか。どうやって理性を保たれたのでしょうか。お教えいただけませんでしょうか。」



コメントを求められているので、思う所を率直に記したいと思うが、内容は厳しいものと受け取られるかもしれない。

ご自身でも認識されているように現実は厳しいものである。その認識を貫徹する以外に理性を保つ方法はないと考える。

それでは「現実」とは何であろうか。私にとって「現実」とは私が認識した客観的事実、および、客観的事実と同視できるだけの確からしさを持つと認識できたものである。

その考え方からすると、私はこれまでに恨みによって病気になった人を見たこともないし、その事を示すデータを見たこともないので、恨みをかっているから病気になったとは全く考えない。一笑に付して終わりである。

同じく、御祓いをして病気が治ったという人を見たことはないし、そのようなデータを見たこともないので、全く気にしない。

御祓いをして病気が治ったという人を500人くらい目にしたら、「御祓いでも治るのかな?」と少し考えてみる。自分の目で見たこと、耳で聞いたことを大切にするべきである。

次に気にかかる点についてコメントするが、「その反面、本当にそうであって、病気が治る確実な方法があるのなら、何でもしたい、たとえ悪魔に自分の身を売ってもいいとも思ってしまいます。」の部分が気にかかる。

どのように気にかかるかというと、厳しい現実と心情とが混在しているように感じられる点である。

「病気が治る確実な方法があるのなら」とあるが、端的に言えば、そのような方法はない。「同じような難しい病気」とあるので、相当厳しい病気なのだろう。そのような病気に、確実に治る方法はない。一定割合の生存率があるのが現実である。その現実を見つめなければならない。

「たとえ悪魔に自分の身を売ってもいいとも思ってしまいます。」という表現にもまた心情が深く混ざりこんでしまっているように見える。「悪魔」なるものを私は見たことがない。何か信仰を持っていれば「悪魔」なるものも存在することになるのであろうが、私には信仰がないので「悪魔」は存在しない。

「身を売る」というのは、現実には何をどのようにすることなのか。私には具体的なものが思い浮かばない。(お子さんが腎臓や肝臓が悪くて、ご自身が腎臓や肝臓を提供したいのであれば話は別だが、多分そういうことではないのであろう。)



難しい病気になると、気持ちが弱くなって何かにすがりたくなるという心情は理解できなくもない。しかし、心情によって病気を治すことは出来ない。現実に行われる治療によって初めて治る可能性が生じる。そのことを深く認識しなければならない。心情と事実認識を峻別することが必要である。それが出来ないと、怪しげな宗教にからめ取られ、かえって治る可能性の芽を摘んでしまうことになる。置かれている立場からは難しいことかもしれないが、心情と事実認識を峻別することが、唯一お子さんの病気を治す方法だと認識し、覚悟を決めて欲しい。


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