がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

竹田圭吾氏のブログ記事のご紹介

2012年01月20日 | Weblog
2012年01月10日 23時00分06秒

ちょっと前の記事ですが、ご紹介させてもらいます。





http://keigotakeda.typepad.com/





「2011/05/14



シンプルに考えれば脱原発なう


福島原発の事故は「科学技術の挫折」だとあるメディアが書いた。違う、これは「人間の過信」だとツイッターでつぶやいた。脱原発が説得力をもつ理由もそこにあると、個人的に思う。






そもそも、科学や技術そのものは無色透明で政治的な志向もない。核分裂反応を爆弾に応用したのも、発電に活用したのも人間の勝手である。人殺しやイデオロギー対立の脅し合いに使われようが、大事故が起きたらとてつもない健康被害が生じるのを承知でタービンを回すのに使われようが、原子力技術の知ったことではない。






しかも東京電力の事故は電源喪失による冷却機能消失という、原子力発電においてコアとなる技術とは無縁のところで起きた。これが原子炉そのもののトラブルであれば、技術的な対処をして維持していくのもやむを得ないかな…くらいに思ったかもしれない。そうではなく、運転席の床に放置していた空き缶がペダルにはさまって車のブレーキがきかなくなるようなことになった。車からすれば「アホかお前」という話である。






つまり今回の事故で明らかになったのは、原子力や原子力発電の技術そのものに致命的な欠陥があるかどうかではない。原子力発電所を作ったり管理していた人間が、それらを扱うにはあまりにも愚かだったということだ。平時用電源と非常用電源を同じ場所に置いていたり、鉄塔が倒れて外部電源をつなげなくなる事態を想定していなかった「電力会社の技術者」や、それをチェックもせず放置していた「安全委員会」や「安全・保安院」を信用できるはずもない。






「人間すべてが原発をコントロールできない」とは言えないだろう。よその国ではもっと科学技術に対して慎み深く、ワーストシナリオを想定しながら安全管理を行うシステムのもとで運用されているかもしれない。今の時点で、福島の事故が世界中の原発そのものの安全性を普遍的に否定したと考える理由はない。






しかし、事故から導かれるのは「少なくとも日本はダメ」ということだ。いま日本にある五十数基の原発(炉)は、福島と同じ自民党政権のエネルギー政策のもとでつくられ、福島と同じ国の安全管理体制のもとでコントロールされてきた。東電で起きたあまりにも稚拙なエラーが、原発をもつ他の日本の電力会社では絶対に起きないという保証はない。






自民党の一部の議員などの「原発維持派」は、事故の根本原因は電源喪失であり、原子炉自体は地震できちんと止まったのだから大丈夫、という考え方に見える。しかし原発を人間が介在しない全自動制御にできない以上、それはむしろ逆に――電源すらコントロールできなかったのだから、日本人には原発を扱う資格がない、と考えるほうが論理的に思える。






脱原発が説得力をもつもう一つの論拠は、福島県および近隣の県と市町村が被っている目がくらむような損失だ。内閣参与が口を滑らせたように、第一原発から20~30キロ圏内は短くても今後数十年、事故の状況によってはそれ以上、立ち入ることすらできなくなるだろう。






中長期的な健康被害、とくに子供への被曝の恐れ。心理的な不安による消費地での買い控えも含めれば、莫大な額に上る農産物、畜産物、水産物の被害。家と仕事を奪われ、コミュニティーはおろか家族さえ解体されかねない避難地域の住民。対象区域からは外れても、不確かな情報しか与えられず、被曝に怯え、屋外に出ることもはばかられる人々。






人体に対する放射線被害の問題だけであれば、脱原発は今の時点ではそれほど説得力をもたないと思う。被曝が大きな問題であるのは確かだが、具体的にどの程度の影響があるかは専門家の間でも意見が分かれ、今回の被害対象において実証されるまでの期間も長い。しかし社会的、経済的損失については、その事実が福島や近隣地域においてすでに可視化され顕在化している。






とりわけ「半永久避難」については、事の重大性を認識していないとおぼしき政治家のいることが信じがたい。こうした事故によって土地や家屋の所有権・使用権を強制的に停止し、財産権なども部分的に失わせるような事態というのは、おそらく法律でほとんど想定されていない。民主主義を自称する先進国家で「棄民」とも言える状況が生まれようとしている。






先日、九州から飛行機で東京に戻る途中、空の上から中部電力の浜岡原発を眺める機会があった。その光景を、内陸5キロまで津波が押し寄せた南三陸町の映像とイメージでだぶらせてみた。発電所と海の間には津波除けの砂丘があり、防波壁の高さや強度を改良する方向のようだが、それで安全を担保することはできるのか。






一点の疑いもなく「大丈夫」とは言えないのであれば、御前崎市の人々が何と言おうと、他の地域でも、「原発の存在」そのものに立ち戻ってリスクを軽減ないし排除していくのが政治の義務ではないか。風力や太陽光や地熱が頼りない、それらで十分に代替するには時間とコストと技術を要するというのはその通りと思うが、福島県などの原発被災地域で起きていることは、どのリスクとどの不便さをそれぞれどこまで許容するかという問いを浮かび上がらせている。






震災が起きる前から原発の危険性を訴えていた人々は「偉い」のかと言われると、それはわからない。電力会社と安全管理体制が内包する「ヒューマンエラーが起きるべくして起きる体質」と、深刻なアクシデントが起きた場合にどれだけの社会的・経済的損失をもたらすかが今のように見えていなかった段階では、CO2削減策や資源効率を考えれば原発は合理性をもっていた。






それに目がくらんだのが情けないと言われればそうかもしれないが、リスクが顕在化されていない状況で、便益との複層的なトレードオフを社会が無視するのはむずかしい。逆に言えば、今の状況でリターンとロスト、リターンとコストを単純に比べれば、脱原発という解が自然に出てくるのではないかと思うのだが。」



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。