2011年10月13日 23時26分45秒
頂いたコメントに返答します。頂いたコメントは以下の通りです。(私がどうして石原慎太郎を嫌いなのか、どれだけ嫌いなのかを確認するための記事で(笑)、コメントをくださったねむさんを批判する意図はありません。返答が長くなりそうだったので記事にしたまでです。また、一部だけを切り取るのはよくないと考えたため、最初のコメントからのやり取りを掲載しています。)
ねむさんからのコメント1
「なぜ、「推定無罪」という原則が有るのか、勉強して欲しいですね。
たぶん、海外の授業のように「立場を数分ごとに変えながら互いに真逆の主張をする」といった、「ディベート」の授業を受けていないから中立的な物の見方ができないのだと思います。古い人だから……。
よくも悪くも信念のある人だから、無難ばかり求める「顔の無い」総理や官僚より、個人的には好きなんですけどね。
村上春樹さんの爪の垢を煎じて飲ませたいですね。」
私の返答コメント
「「良くも悪くも」と言っていいのか、難しいですね。石原の信念だったら無い方がいいと個人的には思います。
価値相対主義が民主主義の原則ではありますが、彼の考えは許容できる範囲を越えていると思います。
石原の言論を許容することは、欧米でナチスドイツを擁護する言論を許容するようなもので、欧米ではあり得ない言論が、日本ではまかり通っている、という風に私の目には映ります。
消費税率より何より、許容される言論の基準を欧米並みにと願うばかりです。」
ねむさんからのコメント2
「石原氏の、「新・堕落論~我欲と天罰」というのが震災後(7/20)に出ていますが、なかなか興味深い著書ですよ。
うわ~~~極端な右だ~~~と、苦笑しながら読んでいますが(小出助教の本と一緒に置いているから、夜中に喧嘩していそうですw)。
でも、
---以下引用(133頁)
日本人のDNAとしての自己主張の欠落は、今日では民族的な美徳どころか、己を損なう体質でしかありはしない。同じ日本人同士だから、以心伝心とか阿吽の呼吸などですむなどということは虚妄でしかない。まして相手が外国、あるいは外国人なら執拗なくらい自己主張をしないと蹴落とされるだけです。(中略)ヨットレースの判定でもレースの後の審判会議で、声高に相手を非難しこちらの行為の正当性を主張しないと馬鹿を見る。侃々諤々言い合った後判定が下れば、互いに握手してウィスキーをトスして、「じゃあ明日また海の上でな」と別れる。それが常道です。
世の中を乱す治安も悪しき風俗の問題もすべて人間の欲望の露呈したものでしかありはしません。そしてその背景には人間の価値観を正しも歪めもする教育の問題や、さらにそれを規制する政治の在り方もあります。それらは複合的、重層的にからみあって現実の社会現象となって現れてきますが、もしそれらの現実に不安不満を感じるなら、まずその現実を直視することから始めないと何を改修することも出来はしません。
---
こんな、鋭い考察も混じる本です。
うなずく部分はうなずき、首を振るべき部分は否定し、彼の主張と向き合ってみて欲しいと思います(^_^)
主張の見えない野田総理のほうが不気味です。
なあなあの再稼働、ほとぼりが醒めるまでの脱原発依存。
そして公務員制度改革なき増税。
脱原発・改革して欲しいです。
携帯からで、手がつってきました……(^_^;)
長いコメントすみません(>_<)」
以下が、彼の文面を読んでの私の感想です。
彼は物書きで、年齢を重ねていますので、それなりのことを書こうと思えば書けるのでしょう。しかし、私は、書面(紙面)にしたものよりも、話した時の方に彼の本音を見て取ります。
彼は、2000年11月30日、衆院憲法調査委員会に参考人として出席し、押し付けられた憲法は即刻改憲すべきであり、そのためには、衆参両議院それぞれにおいて、過半数をもって憲法廃止の決議をすればよく、憲法96条に定める手続を踏む必要はないと述べました。
ここで見られる彼の精神性は、自分の認めないものは要らない、どんな手段を使っても排除するという幼稚な暴力性です。
著書では「侃々諤々言い合った後判定が下れば、互いに握手してウィスキーをトスして、「じゃあ明日また海の上でな」と別れる。それが常道です」などと、爽やかなスポーツマンを気取っていますが、実際の言動は全く違います。
憲法という最高法規ですら自分の意に沿わないものであれば、ルールを無視してでも変えてしまおうという「テロリスト」です。クーデターを企図する青年将校風情と言っても良いでしょう。
また、彼は、2010年12月3日、都健全育成条例制定に関連しこう述べています。「テレビなんかにも同性愛者が平気で出てるでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」
ここには、彼の危険な思想の一端が表れています。彼はどうやら同性愛者が好きではないらしく、自分が嫌いだという理由で公的に・法的に同性愛者を排除しようとしています。自分の好き嫌いで誰かを公的に・法的に排除して良いとする考え方は立憲民主主義国家では到底認められるものではありません。ここに彼の差別的な精神性が見て取れます。
さらに、1998年9月18日、府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後に、彼はこう述べています。
「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。
絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって……。しかし、こういうことやってやっているのは日本だけでしょうな。
人から見たらすばらしいという人もいるし、おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。 ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする。」
この発言から私は、彼が「誰それには生きている価値があり、誰それには生きている価値はない」と決めることが出来ると考えている驕慢な人格態度を見て取ります。
人間に「「誰それには生きている価値があり、誰それには生きている価値はない」と決めることは出来ません。決めてはいけません。彼は神にでもなったつもりでしょうか。
まだまだいくつも彼の問題ある発言はありますが、彼の人間性は上記の発言だけでも十分に把握出来ます。
著書の中では「人間の価値観を正しも歪めもする教育の問題」についても書いているようですが、彼に教育の問題を語る資格がないことは(少なくとも私にとっては)自明です。
以上の通り、私は石原から、隠そうにも隠せない差別臭を感じ吐き気がするので、著作は遠慮させてもらいたいと思います。
頂いたコメントに返答します。頂いたコメントは以下の通りです。(私がどうして石原慎太郎を嫌いなのか、どれだけ嫌いなのかを確認するための記事で(笑)、コメントをくださったねむさんを批判する意図はありません。返答が長くなりそうだったので記事にしたまでです。また、一部だけを切り取るのはよくないと考えたため、最初のコメントからのやり取りを掲載しています。)
ねむさんからのコメント1
「なぜ、「推定無罪」という原則が有るのか、勉強して欲しいですね。
たぶん、海外の授業のように「立場を数分ごとに変えながら互いに真逆の主張をする」といった、「ディベート」の授業を受けていないから中立的な物の見方ができないのだと思います。古い人だから……。
よくも悪くも信念のある人だから、無難ばかり求める「顔の無い」総理や官僚より、個人的には好きなんですけどね。
村上春樹さんの爪の垢を煎じて飲ませたいですね。」
私の返答コメント
「「良くも悪くも」と言っていいのか、難しいですね。石原の信念だったら無い方がいいと個人的には思います。
価値相対主義が民主主義の原則ではありますが、彼の考えは許容できる範囲を越えていると思います。
石原の言論を許容することは、欧米でナチスドイツを擁護する言論を許容するようなもので、欧米ではあり得ない言論が、日本ではまかり通っている、という風に私の目には映ります。
消費税率より何より、許容される言論の基準を欧米並みにと願うばかりです。」
ねむさんからのコメント2
「石原氏の、「新・堕落論~我欲と天罰」というのが震災後(7/20)に出ていますが、なかなか興味深い著書ですよ。
うわ~~~極端な右だ~~~と、苦笑しながら読んでいますが(小出助教の本と一緒に置いているから、夜中に喧嘩していそうですw)。
でも、
---以下引用(133頁)
日本人のDNAとしての自己主張の欠落は、今日では民族的な美徳どころか、己を損なう体質でしかありはしない。同じ日本人同士だから、以心伝心とか阿吽の呼吸などですむなどということは虚妄でしかない。まして相手が外国、あるいは外国人なら執拗なくらい自己主張をしないと蹴落とされるだけです。(中略)ヨットレースの判定でもレースの後の審判会議で、声高に相手を非難しこちらの行為の正当性を主張しないと馬鹿を見る。侃々諤々言い合った後判定が下れば、互いに握手してウィスキーをトスして、「じゃあ明日また海の上でな」と別れる。それが常道です。
世の中を乱す治安も悪しき風俗の問題もすべて人間の欲望の露呈したものでしかありはしません。そしてその背景には人間の価値観を正しも歪めもする教育の問題や、さらにそれを規制する政治の在り方もあります。それらは複合的、重層的にからみあって現実の社会現象となって現れてきますが、もしそれらの現実に不安不満を感じるなら、まずその現実を直視することから始めないと何を改修することも出来はしません。
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こんな、鋭い考察も混じる本です。
うなずく部分はうなずき、首を振るべき部分は否定し、彼の主張と向き合ってみて欲しいと思います(^_^)
主張の見えない野田総理のほうが不気味です。
なあなあの再稼働、ほとぼりが醒めるまでの脱原発依存。
そして公務員制度改革なき増税。
脱原発・改革して欲しいです。
携帯からで、手がつってきました……(^_^;)
長いコメントすみません(>_<)」
以下が、彼の文面を読んでの私の感想です。
彼は物書きで、年齢を重ねていますので、それなりのことを書こうと思えば書けるのでしょう。しかし、私は、書面(紙面)にしたものよりも、話した時の方に彼の本音を見て取ります。
彼は、2000年11月30日、衆院憲法調査委員会に参考人として出席し、押し付けられた憲法は即刻改憲すべきであり、そのためには、衆参両議院それぞれにおいて、過半数をもって憲法廃止の決議をすればよく、憲法96条に定める手続を踏む必要はないと述べました。
ここで見られる彼の精神性は、自分の認めないものは要らない、どんな手段を使っても排除するという幼稚な暴力性です。
著書では「侃々諤々言い合った後判定が下れば、互いに握手してウィスキーをトスして、「じゃあ明日また海の上でな」と別れる。それが常道です」などと、爽やかなスポーツマンを気取っていますが、実際の言動は全く違います。
憲法という最高法規ですら自分の意に沿わないものであれば、ルールを無視してでも変えてしまおうという「テロリスト」です。クーデターを企図する青年将校風情と言っても良いでしょう。
また、彼は、2010年12月3日、都健全育成条例制定に関連しこう述べています。「テレビなんかにも同性愛者が平気で出てるでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」
ここには、彼の危険な思想の一端が表れています。彼はどうやら同性愛者が好きではないらしく、自分が嫌いだという理由で公的に・法的に同性愛者を排除しようとしています。自分の好き嫌いで誰かを公的に・法的に排除して良いとする考え方は立憲民主主義国家では到底認められるものではありません。ここに彼の差別的な精神性が見て取れます。
さらに、1998年9月18日、府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後に、彼はこう述べています。
「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。
絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって……。しかし、こういうことやってやっているのは日本だけでしょうな。
人から見たらすばらしいという人もいるし、おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。 ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする。」
この発言から私は、彼が「誰それには生きている価値があり、誰それには生きている価値はない」と決めることが出来ると考えている驕慢な人格態度を見て取ります。
人間に「「誰それには生きている価値があり、誰それには生きている価値はない」と決めることは出来ません。決めてはいけません。彼は神にでもなったつもりでしょうか。
まだまだいくつも彼の問題ある発言はありますが、彼の人間性は上記の発言だけでも十分に把握出来ます。
著書の中では「人間の価値観を正しも歪めもする教育の問題」についても書いているようですが、彼に教育の問題を語る資格がないことは(少なくとも私にとっては)自明です。
以上の通り、私は石原から、隠そうにも隠せない差別臭を感じ吐き気がするので、著作は遠慮させてもらいたいと思います。