がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

最高裁判所裁判官の国民審査、9人全員信任

2009年09月01日 | Weblog
2009年08月31日 16時14分38秒記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090831-OYT1T00891.htm



「総務省は31日、衆院選と同時に実施された最高裁判所裁判官の国民審査の結果を発表した。



 審査対象となった裁判官9人はいずれも、罷免を求める投票が有効投票の半数を超えなかったため、信任された。

 有効投票のうち、罷免を求める投票の割合が最も高かったのは涌井紀夫氏(裁判官出身)の7・73%、最も低かったのは宮川光治氏(弁護士出身)の6・00%だった。投票率は66・82%(男66・95%、女66・69%)で、前回を1・33ポイント上回った。

(2009年8月31日13時44分 読売新聞)」

「信任」はおかしいでしょ、表現として。「信任」はしてないから。
「罷免されず」とか「罷免を可とされず」でしょ、書くなら。(最高裁判決もそう言ってるでしょ。)


「信任」て言いたいなら、「信任」する裁判官には「○」を付けて、「判断不能」の場合には「無印」にして、「不信任」なら「×」を付けるっていう方式に改めなきゃ。


判決文を書いたこともないのが最高裁判事としてふんぞりかえってるかと思うと残念だね。


追記:昭和27年2月20日 最高裁判所大法廷判決

「主    文
     本件上告を棄却する。
     上告費用は上告人の負担とする。
         
理    由
 上告代理人松永芳市、同横田隼雄、同大塚春富、同蓬田武、同高橋正義、同長野国助、同前野順一、同
青山新太郎、同三野昌治、同佐々木吉長、同阿比留兼吉、同柴田武、同佐竹晴記の上告理由は、末尾に添
えた別紙記載のとおりである。
 
 上告理由第一、第二点について。
 
 最高裁判所裁判官任命に関する国民審査の制度はその実質において所謂解職の制度と見ることが出来る。それ故本来ならば罷免を可とする投票が有権者の総数の過半数に達した場合に罷免されるものとしてもよかつたのである。それを憲法は投票数の過半数とした処が他の解職の制度と異るけれどもそのため解職の制度でないものとする趣旨と解することは出来ない。只罷免を可とする投票数との比較の標準を投票の総数に採つただけのことであつて、根本の性質はどこ迄も解職の制度である。このことは憲法第七九条三項の規定にあらわれている、同条第二項の字句だけを見ると一見そうでない様にも見えるけれども、これを第三項の字句と照し会せて見ると、国民が罷免すべきか否かを決定する趣旨であつて、所論の様に任命そのものを完成させるか否かを審査するものでないこと明瞭である。この趣旨は一回審査投票をした後更に十年を経て再び審査をすることに見ても明であろう、一回の投票によつて完成された任命を再び完成させるなどということは考えられない。論旨では期限満了後の再任であるというけれども、期限がきれた後の再任ならば再び天皇又は内閣の任命行為がなければならない、国民の投票だけで任命することは出来ない、最高裁判所裁判官は天皇又は内閣が任命すること憲法第六条及び第七九条の明定する処だからである。なお論旨では憲法第七八条の規定を云為するけれども、第七九条の罷免は裁判官弾劾法の規定する事由がなくても、国民が裁判官の人格識見能力等各種の方面について審査し、罷免しなければならないと思うときは罷免の投票をするのであつて、第七八条とは異るものである。しかのみならず一つ事項を別の人により、又別の方法によつて二重に審査することも少しも差支ないことであるから、第七九条の存するが故に第七八条は解職の制度でないということは出来ない。最高裁判所裁判官国民審査法(以下単に法と書く)は右の趣旨に従つて出来たものであつて、憲法の趣旨に合し、少しも違憲の処はない。かくの如く解職の制度であるから、積極的に罷免を可とするものと、そうでないものとの二つに分かれるのであつて、前者が後者より多数であるか否かを知らんとするものである。論旨にいう様な罷免する方がいいか悪いかわからない者は、積極的に「罷免を可とするもの」に属しないこと勿論だから、そういう者の投票は前記後者の方に入るのが当然である。それ故法が連記投票にして、特に罷免すべきものと思う裁判官にだけX印をつけ、それ以外の裁判官については何も記さずに投票させ、X印のないものを「罷免を可としない投票」(この用語は正確でない、前記の様に「積極的に罷免する意思を有する者でない」という消極的のものであつて、「罷免しないことを可とする」という積
極的の意味を持つものではない、――以下仮りに白票と名つける)の数に算えたのは前記の趣旨に従つたものであり、憲法の規定する国民審査制度の趣旨に合するものである。罷免する方がいいか悪いかわからない者は、積極的に「罷免を可とする」という意思を持たないこと勿論だから、かかる者の投票に対し「罷免を可とするものではない」との効果を発生せしめることは、何等意思に反する効果を発生せしめるものではない、解職制度の精神からいえば寧ろ意思に合する効果を生ぜしめるものといつて差支ないのである。それ故論旨のいう様に思想の自由や良心の自由を制限するものでないこと勿論である。
 最高裁判所の長たる裁判官は内閣の指名により天皇が、他の裁判官は内閣が任命するのであつて、その任命行為によつて任命は完了するのである。このことは憲法第六条及び第七九条の明に規定する処であり、此等の規定は単純明瞭で何等の制限も条件もない。所論の様に、国民の投票ある迄は任命は完了せず、投票によつて初めて完了するのだという様な趣旨はこれを窺うべき何等の字句も存在しない。それ故裁判官は内閣が全責任を以て適当の人物を選任して、指名又は任命すべきものであるが、若し内閣が不適当な人物を選任した場合には、国民がその審査権によつて罷免をするのである。この場合においても、飽く迄罷免であつて選任行為自体に関係するものではない。国民が裁判官の任命を審査するということは右の如き意味でいうのである。それ故何等かの理由で罷免をしようと思う者が罷免の投票をするので、特に右の様な理由を持たない者は総て(罷免した方がいいか悪いかわからない者でも)内閣が全責任を以てする選定に信頼して前記白票を投ずればいいのであり、又そうすべきものなのである。(若しそうでなく、わからない者が総て棄権する様なことになると、極く少数の者の偏見或は個人的憎悪等による罷免投票によつて適当な裁判官が罷免されるに至る虞があり、国家最高機関の一である最高裁判所が極めて少数者の意思によつて容易に破壊される危険が多分に存するのである)、これが国民審査制度の本質である。それ故所論の様に法が連記の制度を採つたため、二三名の裁判官だけにX印の投票をしようと思う者が、他の裁判官については当然白票を投ずるの止むなきに至つたとしても、それは寧ろ前に書いた様な国民審査の制度の精神に合し、憲法の趣旨に適するものである、決して憲法の保障する自由を不当に侵害するなどというべきものではない。総ての投票制度において、棄権はなるべく避けなければならないものであるが、殊に裁判官国民審査の制度は前記の様な次第で棄権を出来るだけ少なくする必要があるのである。そして普通の選挙制度においては、投票者が何人を選出すべきかを決するのであるから、誰を選んでいいかわからない者は良心的に棄権せざるを得なくなるということも考えられるのであるが、裁判官国民審査の場合は、投票者が直接裁判官を選ぶのではなく、内閣がこれを選定するのであり、国民は只或る裁判官が罷免されなければならないと思う場合にその裁判官に罷免の投票をするだけで、その他については内閣の選定に任かす建前であるから、通常の選挙の場合における所謂良心的棄権という様なことも考慮しないでいいわけである。又投票紙に「棄権」という文字を書いてもそれは余事記入にならず、有効の投票と解すべきものであることの論があるけれども現行法の下では無理と思う。原判決は措辞において多少異る処があるけれども、結局本判決と同趣旨に出たもので正当であり論旨は理由なきに帰する。
 
 第三点について。
 
 裁判官の取扱つた事件に関する裁判上の意見を具体的に表示せず、ただ事件名のみを記載しても、毫も国民審査法施行令第二六条の条件に反するものではない。原判決は結局右と同旨に出でたものであるから、何等所論の違法はなく、論旨は理由がない。
 よつて民訴第四〇一条、第九五条、第八九条により主文のとおり判決する。
 この判決は裁判官全員一致の意見によるものである。
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎
            裁判官    沢   田   竹 治 郎
            裁判官    井   上       登
            裁判官    栗   山       茂
            裁判官    眞   野       毅
            裁判官    小   谷   勝   重
            裁判官    島           保
            裁判官    斎   藤   悠   輔
            裁判官    藤   田   八   郎
            裁判官    岩   松   三   郎
            裁判官    谷   村   唯 一 郎