英語を「話す」の正答率が12.4%だったとか:
この芳しくない小6と中3のテストの結果の件をテレビと新聞が報じていたが、私が見れば余りにも当然のことであるのだ。それは、もう20年以上も指摘し続けてきたことで「これまでの英語の教え方をしていれば、児童や生徒たちの理解度が低くなるのは当たり前であり、教育法を変えるしか改善の手段はない」という批判の通りだからである。何処をどのように改善すべきかを繰り返して述べてきたので、ここでは細目には触れないでおく。
20年以上もアメリカの会社で対日輸出を担当し、多くの大手需要家と商社の方々に接してきたので、我が国の英語教育で育てられてくれば、どのような英語力というか“I know how to express myself in English.”の力を備えておられるか、いないかは十分に承知していた。そんな難しいことを言わなくても「会話の能力を付けるために英語を教えていない」のが教育方針である以上、12.4%は止むを得ない結果だっただろうということ。
もう10年以上も前のことだが、中教審だったかが「小学校の3年の未だ頭が柔軟な頃から英語を教えよう」と唱えだした頃のことで、ある会合で同席された元小学校の教諭だった女性が「良いことでドキドキするが、どうやって児童たちに英語を教えたら良いのかが解らないだろう」と言われたので愕然となった。英語を専攻されたのでもない小学校の先生に英語まで担当させるのならば暴挙だと思った。
かく申す私だって家庭教師で中学生を教えた成功経験はあったが、小学生にまで教えるなどとは考えたこともなかった。それだけではない。そういう宜しいとは評価できない課程を経た児童が中学に上がっても通用するような英語の理解力が備わっているとは考え難いのだ。
中学(旧制)、高校、大学時代の経験からも言えることで、取引先の方々からは正調乃至は正確なアメリカ式か英連邦式の発音をキチンと出来る日本人の先生かnative speakerから仕込まれていないので、外国人離れしたローマ字式の発音しか聞いてこなかったので、アクセントも不正確で抑揚も付かない英語しか発音できなくなっていたと解った。換言すれば「正確なnative speakerのような発音に耳が慣れていない」のである。
それに「単語重視」で英文法、英文解釈、英作文、英会話と一体でしかない英語をバラバラに分解して教えているので、言うなれば「それぞれの学科のようにされた項目の間に有機的な繋がりがなくなってしまうのだ。それだけではなく、実際にnative speakerたちの中に入れば日常的に使われる「口語体」と「慣用句」(そこにswearwordも含めても良いか)を教えていないので、読解力も聞き取りの能力も育っていないのだ。
中には学校の勉強で優秀な成績だっただろうと思わせる、堂々たる文章で流暢に話された方にも何人もお目にかかっていた。だが、その表現力は我々が“school English”と密かに揶揄していた堅苦しい文語調の英語なのだった。どういう意味かと言えば「実際にnative speakerたちが日常的に使っている言葉が殆ど出てこない難しい文章のこと」なのである。即ち、「英語学の表現としては優れていても、実用的ではないこと」を指しているのだ。
私個人の経験を振り返れば、昭和20年(終戦の年になった1945年)に中学1年生で最初に敵性語の英語を教えて頂けた先生は、信じられないことに、今で言うアメリカ人と日本人のハーフで、正しいアメリカ語の発音を教えられたのだった。換言すれば出発の時点でアメリカ語に耳が慣れるようになったのだ。そういう幸運が後々にまで非常に有り難いことに役に立ったのだった。
それでは最初にnative speakerに教えて貰えば良いかと言って、そうとはならないのが英語の厄介なところだ。それは大別してKing’s English系とアメリカン・イングリッシュ系になるからだ。その我が国で尊敬されていると思いたくなる英連邦系でもLondon Cockneyのような正調ではない格が低い発音もあるし、オーストラリアとニュージーランドにもアメリカとは大いに異なる独特の発音があるのだ。
アメリカでも東西の海岸地区では発音や言葉遣いが変わるし、南部には独特の発音があって、アメリカ人同士でも正確に聞き取れないことすらあるのだ。私は西海岸の英語こそが正調だと思っている。ここで強調したいことは「教師として採用したいnative speakerがこれらのどの発音をしているのかを、採用する側が解っているのか」という問題。どの発音であれば採用は控えた方が良いと聞き分けるだけの英語慣れが出来ているのかという問題だ。
ほんの入り口であるはずの発音でもこれだけの条件があるのだ。そこを無事通過できても、単語と文法重視のような従来通りの教え方を続けていれば、何ら改善にはならないだろうと断言する。長々と述べてきたので焦点が絞れていないかもしれない。要点は小学校から教え始めることを可及的速やかに廃止して、中学では私が主張するような能力を備えた教師に総入れ替えしたら良いということ。
だが、これを達成するのは「百年河清を俟つ」に等しいだろう。何れにしても、英語教育には改革が必要だろう。以前から指摘していることで「野には遺賢が幾らでもおられる」のである、教職課程の単位など取っていない。