あの日から78年も経っていたのだ:
昭和20年即ち1945年に中学(5年制だった)に入学し、駐在する退役軍人の教官から軍事教練も受けたし、私は受けなかったが何かというと鉄拳制裁が下される時代だった。警戒警報の発令と同時に授業が中止され帰宅するか、校庭の隅に設けられた防空壕に退避するようなことの繰り返しだった。農村動員や海岸に行って防風林の松の木の根を掘って、戦闘機の燃料になると聞かされた松根油の材料を集める作業もした。
本土決戦になった時に備えて「竹槍」での訓練を見た記憶もある。大本営発表では毎日のように「戦況は我が国に有利に展開している」と聞かされていた。方々にB29が飛来して焼夷弾を雨あられと降らして、当時の表現である「我が国を焦土と化していた」のだった。藤沢市鵠沼に病弱の私の転地療養と疎開かねて短期的と思って引っ越していたところ、4月13日の大空襲で小石川区の家も家財も失っていた。
勝つのだと聞かされ、それを信じていた中学1年制の子供でも、「物量作戦」と非難し「鬼畜米英」と蔑んでいたアメリカに、本当に勝てるのかとやや不安に陥っていた。そして、8月が15日になる何日か前に、何故か私のような子供にも「日本が負けるのだ」と聞こえてきていたし、やがて天皇陛下の玉音放送があるとも知らされてきた。何となくその意味に察しが付いたが「まさか」の思いは消えなかった。
15日は学校も休みだった(と記憶する)。今でもハッキリと覚えている快晴の日だった。やがて玉音放送が始まった。天皇陛下のお声とは甲高いのだなと思いながら聞いていた。内容が「戦争に負けることにした」という意味だと解釈できた。そう理解できた瞬間に一種の放心状態になり「残念だ」とか「悔しい」のような感覚はなく、ただ何も考えることが出来ずに「これで終わったのだ」と、安心したような捉え方だけ残った。
「終わったのだ」と思って鮮やかに晴れた空を見上げると、南の方角になる海岸の方からは、あの「バリバリ」と聞こえる、もう慣れてしまっていた艦載機の機銃掃射の音が聞こえたのだった。「おかしいな。もう終わったはずなのに、アメリカ軍は未だ撃ってくるとは」と思わずにはいられなかった。あの晴れ渡った空の色は未だに忘れられないのだ、機銃掃射の音と共に。
あの頃の我々の世代のような経験をした年齢層の人々がどれ程生存され、記憶されておられるか知らない。だが、現実には戦争が終わってから、我々は戦時中とは違う苦難の時代に入っていったのだった。本稿はその戦後の経験を語る場ではない。同時に、あれから78年も経ってしまった現在に「あの頃のことを語ろうなどいう気はない」のである。
21世紀の現在に至って、最も気に入らないことは「あの頃の日本国民の戦争に勝とうという必死の思いの意気込みと苦難を知る訳もないとしか思えない人たちが、訳知り顔で『戦争は云々』などと戦争をしたことを反省して見せている姿勢」なのだ。「貴方方はあの頃のことを伝聞で知っただけでしょう。経験もしなかったことを語る時には、十分に配慮すべきではないのでは」と言いたくなるのだ。
貴方たちは「竹槍でアメリカ兵と戦おうという訓練をして、聖戦をやり抜こうという経験があるのですか」とか「豆から油を絞った残り滓を食べたことがあったのですか」とか「一升瓶に玄米を入れて棒で突いて、白米にしようとしたことがあるのですか」とか「お米は切符制で配給されたことを知っているのですか」などと問いかけたい衝動に駆られるのだ。
あれから78年、90歳に達することが出来たことを、誰に感謝すべきか解らないが、遙かなる道を歩いて来たものだと深い感慨に耽っている。私は我々が戦った相手であるアメリカの会社に転身したのだった。その1972年8月からは51年が過ぎていたのだった。